七 冬蝶の夢

薄暮教室(第8話)

篠乃崎碧海

小説

7,444文字

手の届かないものを数えて暮らすことに慣れてしまった。慣れたと、思い込みたかった。

「ここは、こうです。……もう少し筆を立てて、そう、ゆっくり」

 あちらこちらに墨の飛んだ書き方手本を睨むように見ながら一心に筆を動かす少年。その正面に座った先生は、少年の集中力が切れそうになる度に短い言葉で指導していた。

「先生、これでいい?」

「よくできました。片付けが終わったら、手を洗って少し待っていてくださいね」

 得意満面で書きあがった紙を見せた少年は、ありがとうございました、と大きな声で言うが早いか、自分の道具をまとめると次に順番を待っていた隣の少女と席を交代した。

 普段ならば先生が子ども達の机を回って指導しているのだが、今日は若干足を引きずっているのに気がついたのだろう、誰が言い出すでもなく自然と先生の机に子ども達が集まるようになっていた。まだ年端もいかない子ども達だが、意外ときちんとものを見ているのだなと感心する。

 次に先生の前に座った少女は思ったように書けないのか、時折手を止めては考え込んでいた。先生はそんな少女の小さな手を覆うように、上から自分の手を重ねる。

「うわ、先生の手ぇ冷たいね」

「文子さんの手は温かいですね。手が温かい人は心も温かいと言われるんですよ」

 自身の手が墨で汚れるのも構わず、少女の奔放な筆先を軽く導くように先生は手を動かす。感触を忘れないうちにと真似をして同じ文字を重ねて書く少女を横目に、先生僕にもそれやって! と羨ましがった他の子ども達が続々と集まってきていた。

「順番に、今日は一回ずつですよ」

 子ども達はめいめいに自分の書き方手本を手に机を囲んで、順番が来ると先生に手を添えてもらい、書きあがった文字を見てはしゃいで笑う。始めは手本の通りの文字を書いていたのだが、誰かが自分の名前を書きたいと言い出した後からは皆それに倣って名前を書くようになり、最終的には全員分が揃った。

 文子、正雄、一郎、千代子、一彦、加代……十二人の名前の紙が机に並べられて、少し開けた窓からの風にそよいでいる。手洗い場の方からは子ども達の楽しげな笑い声が響いてきていた。

 机の端には何も書かれていない余り紙が数枚置かれたままになっていた。それを見て、藤倉はふと思いついた。

「これでよし、と」

 子ども達の名前の横に先生の名を記した紙が並んだ。ささやかな悪戯に、藤倉は思わず笑みを浮かべた。

 

 さっきまで書きものをしていた机を繋げて、子ども達はおやつを食べている。

「先生は食べないの?」

 おまんじゅうなくなっちゃうよ、と声をかける少年に、先生は柔らかな笑みを返す。

「私はいりませんよ。っけほ……、みなさんで、どうぞ」

 先生は少し離れたところで座椅子に座って本に目を落としていた。……という素振りを見せているだけで、本当は少し身体が辛いのだろう。

 最近は日没前、気温が下がり始める頃にはいつもこの調子だ。軽い頭痛でもするのか、時折怠そうに目元をおさえている。

「無理するなよ」

 子ども達に聞こえないよう側まで寄って控えめに声をかけると、先生は疲れた目をして緩く笑った。

――っけほ、けほン……せほ、せホ……ん、っエほ……

 座椅子にゆったりと預けていた背がほんの少し前かがみになる。ン、ン、と軽い咳払いを繰り返すと、胸の奥に絡まるザラついた異音が僅かに聞こえた。

「少し、失礼します」

 先生はふらりと立ち上がると、廊下へと姿を消した。閉じた障子の向こうから、噎せたように断続的に咳き込む音が聞こえる。先生の体調が思わしくないのに気がついた子ども達が、心配そうに廊下の方へ首を伸ばして様子を見にいこうかそわそわと相談し始めた。

「ちょいと厠に行っただけだから、気にしなくていい」

 様子が気になるのは藤倉も同じだったが、子ども達に追って来られる方が彼は困るだろう。

「先生は身体があまり丈夫でないから無理させてはいけないよって、お母さんが言ってたんだ」

 ちび達がはしゃぐの、僕がもっとうまく止められたらよかったんだけれど。今日いる中では一番の年長の少年、一郎がそろそろと藤倉の側まで来ると、小さな声で言う。

「大丈夫だ。先生も楽しんでいたし、気にかけていてくれていることはちゃんと伝わっていたよ」

 一郎はしっかり者だ。家では二人の妹の兄であるし、この教室でもみんなの良き兄でいてくれる。次の春には中学校に上がることが決まっている彼は、自分がここに通わなくなってからのことを案じているようだった。

「一郎は、少し先生に似ているところがあるな」

「本当? ……あのね、僕、大人になったら先生みたいになりたいって、思ってるんだ」

 先生にはまだ言わないで、中学校に上がったら自分で言うつもりだから。少し自信なさげな様子で語る一郎に、ああ、わかった言わないでおくよ、と藤倉は笑った。

「一郎は先生に似てしっかり者で、周りをよく見ている。……少し一人で頑張りすぎるところも似ているかもな。焦らなくていい、いつも良い兄や年長者でいる必要はないんだ。まあ元々の年上気質ってもんはそう言われたところで中々すぐに心を許せるわけではないんだろうが……誰かが必ず傍にいてくれたりそっと力を貸してくれたりする、それだけは覚えておいてほしい」

 藤倉の言葉に、一郎はかしこまった態度で大きく頷いた。ほら、そういうところさ、もっと気楽にやっていいんだよ――将来が楽しみな少年の頭を藤倉はわしわしと撫でてやった。

「少し外を見てきましたが、雪がちらつき始めていました。ひどくならないうちに今日は早く帰りましょう」

 廊下へ続く障子がすいと開いて、先生が戻ってくる。やはり少し顔色が悪い。これ以上の無理はできないと、早めに子ども達を家に帰すことにしたのだろう。

 おやつを食べ終わった子ども達は素直に先生の言葉に従って帰り仕度を始めた。先生今日はそこでいいよ、足痛いでしょ――子ども達はぱたぱたと足早に玄関に向かう。

「先生さようなら、また明日! 風邪ひかないでくださいね」

「わあっ雪だ! 先生、積もったら一緒にかまくら作ろう!」

「さようなら、また明日。濡れた地面は滑りやすいですから、足元に気をつけて帰るのですよ」

 止められたというのに、先生はいつものように玄関先まで見送りに出た。ちらつく雪にはしゃぐ子ども達に手を振り返しながら、もう片方の手は足を庇うために柱についているのが痛々しかった。

 

「……さて、と。心配をおかけしてすみませんでした。子ども達に勘づかれないように面倒を見ていてくれたのでしょう」

 北風の吹き込む戸をきっちりと閉め、先生は疲れの滲む声で言った。

「聡い子には気づかれていたようだがな。もう少し、あの子らを頼ってもいいんじゃないかい」

 あの子らは見た目よりもずっと大人だし、今更少しくらい弱いところを見せたって落胆させたり信頼を失うことはないって、わかっているだろう。藤倉の言葉に、先生はゆったりと笑うとええ、わかっています、と答えた。

「あの子達はみな賢い。賢くて、優しい子ども達です。感受性豊かで、色々なものに触れる度に真綿が水を吸うように自分のものにしていく……だからこそ、この年頃に見たもの感じたものの記憶は生涯彼等の記憶の深いところ、それぞれの存在の根幹となっていくところに刻まれて、消えることはないと思うのです」

 玄関の隅に落ちていた、誰かが作ったらしい小さな折り鶴を拾い上げた先生は、皺になった羽を指先でそっと払うと傍の棚の上に置いた。

「私が、私という存在があの子達に何を刻み込むのか……最近そんなことをよく考えるのです。教師としてこうあるべき、こうした姿を見せるべきと思い描くものに、私はなることができない。それなのにこうして今も教え導く立場にあっていいものだろうか、と」

 先生は緩く組んだ両の手をじっと見つめていた。しばらくそうしてから、祈るように握り合わせた。それは神に祈るのではなく、もっと小さな、目に見えないささやかな何かに祈りを込めているように見えた。

「私は、教師という仕事が好きです。今はまだ、かろうじて自分が教師であることを許せるだけの行動が、思考ができていると感じているから……。でもいつの日か、自分がもう教師として失格であると判断することさえもできなくなったら、いいえ、判断しているのにその心を無理矢理捩じ込めて気づかないふりをするようになったなら、そのときには、どうか……」

 続く言葉はなかった。ふいに目眩を起こしたかのように上体をふらつかせると、先生はとさりと軽い音をたてて壁に凭れかかった。噎せたように軽く咳き込み、それはすぐにごんごんと重い咳に変わる。危なっかしい体を支えようと歩み寄り腕を掴むと、大した抵抗もなくこちらに身を預けてきた。

「ッ……すみませ、ゲほッゴホ、やはり少し、今日は儘ならな……よう、で」

 口元をおさえる指先は体温を失って冷たく白く、俯きがちに繰り返す呼吸は常より浅い。辛そうに伏せられた瞼は血管が透けそうなほど薄く見えた。

「貧血か」

 動けるか、と聞くと先生は弱く頷いた。抱え起こすと、寒い、と小さく呟く。着物越しの体温に異常は感じないが、寒いと言うのなら少し熱があるのかもしれない。

「…ッゼホ……っ! ゼっン、ごほ………ッは、ハ、ぜほ、ぜ……っ゛ゥえ」

 ぜいぜいと咳き込む背がびくりと震えた。足が止まり、口元を覆う手に筋が浮かぶ。

「ッ゛、う」

 俯いていて表情は伺えないが、何かを堪えようとしているのはわかった。落ち着くまで座っていた方がいいかと尋ねようとしたが、ふいに支えた腕を跳ねのけられる。

「ちょっと、っ……みませ、」

 ひどく切羽詰まった様子だった。痛むであろう足を庇うことも忘れてふらふらと壁伝いに廊下の奥へと向かうのを見て、貧血からくる吐き気に襲われているのだとようやく気がつく。

「おい、」

 引き止める間もなく先生は厠に駆け込むと戸を閉めた。後にはひどく咳き込む音だけが残された。

 

 

「…ッげほ、ゲぇホ…ぅ゛え、ッ……ゲホ、ゲホンぜぉッゲホゲホッッ゛えぉッぐ、ゼェッっう、ェふ…っ、っは、はぁっはぁ、は――ッ、ハ――ッ…」

 狭い空間にひとりきりになるや否や、先生は崩れるようにしゃがみこむと、胸に刺さる重い咳に溺れた。咳とともに波のような気分の悪さと嘔吐感が背筋を走る。これまではひどく咳いても吐くことはあまりなかったのだが、夏の一件以来吐き癖がついてしまったのか、少しでも立て続けに咳き込むと嘔吐くようになってしまっていた。

 外から藤倉が呼びかけているのは聞こえていたが、返事をする余裕はなかった。

 なんとか呼吸を整え、大丈夫です、の一言だけでも発しようとしたが、吸い込んだ酸素は肺の奥底を不快にザラつかせ、呼吸も許さない烈しい咳となって吐き出されただけだった。

「ゼおッゼホぜぉッ、ぜぉェえ゛っ、ゼぉッ、ゴォンゴンゴンゴッ…っぐ、うぇ、ぇ…ぉ゛え゛ぇ…ッ――」

 胸を引き裂かんばかりの咳に気分の悪さも相まって、限界は思っていたよりも早かった。突然逆流してきた強い不快感と質量を持った熱に、胸元をきつくおさえていた手を口元にやる暇もなく胃の腑が裏返り、激しく嘔吐した。

 鳩尾を刺すようだったむかつきは幾分か楽にはなったが、意思とは関係なく繰り返される荒い呼吸が、吐いたばかりの胸に響いてぎりぎりと痛む。目の前の景色が歪んで見えるのは、ぼろぼろと止めどなく落ちる涙のせいか、それともいまだ消えぬ浮遊感のせいか。

 耳の奥でどくどくと早鐘を打つ鼓動が煩い。外で藤倉が何か言っているのは聞こえていたが、内容は思考の外を滑り落ちるばかりだった。視覚にも聴覚にもひどく雑音が混ざっている。喉が熱い、血の味がする、息を吸う度に胸の奥が突き刺されるように痛む、どこもかしこも寒い――しゃがみこんだ姿勢から一歩たりとも動けない。顔を上げるだけでもその場に崩れるであろうことは自分が一番よくわかっていた。

「そのまま体を倒せ。ほら、支えてるから大丈夫だ、力を抜け」

 ふと、背の中心に手のひらの熱が灯る。ああ、声を出せなくても彼は来てくれるのか――優しい温度に、引きずられるように体勢が崩れていく。

「悪いが少し辛抱しろよ」

 背の温度が移動して、ふわりと体が浮く感覚がした。立ち眩みのようなそれに倒れる、と目をきつく閉じたが、衝撃は訪れない。抱え上げられたのだと気づいた頃には、藤倉はもう淀みない足取りで奥の和室へと向かっていた。

 胸に残った咳の残滓が呼吸に絡んでごぼごぼと音をたてている。軽く咳払いをすると、熱を孕んだ喉の奥で血の味がした。

「下ろすぞ」

 耳元で声がして、次にはひやりと冷たい畳を感じた。藤倉の介添えになすがままに身を横たえると、痺れるような頭の不快感が少し和らぐ。

「今水を取ってくるから、待ってろ」

 ぼやける視界に、廊下へと戻っていく藤倉の足が見えた。

「っごほ、ヵはっ……」

 湿っぽく喉に絡みつく異物を懐紙に喀き出すと、それは水に薄めた桜色をしていた。

 少し咳き込みすぎた。喉を切るほど咳いては明日は声が出ないかもしれない、掠れた声ではまた子ども達に不安な顔をさせてしまう――

 藤倉に言った言葉が浮かぶ。『気づかないふりをするようになったなら、そのときには、どうか……』どうか止めてくれと、これ以上は無理だときっぱり諦めさせてくれと、そう言いかけていた。最後まで言わなくてよかった。あと少しで、藤倉に残酷な決断を背負わせるところだった。

 かつて東京で教師をしていたときは、自分で終わらせることができなかった。毎晩下宿でひとりきり、肺腑をズタズタに裂くような咳と喘鳴に窒息しかけながらも、まだ大丈夫、まだ終わるわけにはいかないと闇雲に足掻いていた。

 

《それ以上はもう、無理だ。自分でわかっているだろう。死んでしまうよ。

 君にここの教師は務まらない。君はとても優秀だった。だから本当はこんなこと言いたくない、けれど君がこのまま身体に釣り合わない無理を重ねて死ぬのを見るのはもっと嫌なんだ。だからいいかい、何度だって言おう。君はもう、ここの教師でいてはいけないんだよ――》

 

 あの日、東京の喧騒が窓の外に遠く聞こえる病室で、私は自分が下せなかった決断を一番させてはいけない人にさせてしまった。誰よりも世話になった人に自らが負うべき役目を押し付けてしまった。

 生まれ育ったこの町に戻ってきて再び教師になると決めたとき、私は心に誓った。自分の教師たる最後を決めるのは他の誰であってもいけない、それだけが、これからの自分に残された唯一の自由であり義務であると。

 目を閉じると、瞼の奥が熱っぽく鈍く痛んだ。

 日に日に儘ならないことが増えていく。二度目の終わりは自分が思うよりもずっと近くに迫っているのかもしれない。そしてきっと、三度目は来ないだろう。

 手の中の汚れた懐紙をぐしゃりと握りつぶした。零れ落ちる涙が頬を伝う感覚が妙に可笑しくて、掠れた笑い声が口をついて出た。

 他人事のように、自分はもうどこか壊れているのかもしれないと思った。

2021年4月6日公開

作品集『薄暮教室』第8話 (全17話)

© 2021 篠乃崎碧海

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