永遠のように思えた地獄から先生は奇跡的に抜け出した。
先生がようやく自力で身を起こせるようになるまで、それから二週間近くかかった。吐き気は治まり容体はかろうじて安定したものの、衰弱がひどく一日のほとんどを眠るようにして過ごす先生は日増しに透き通っていくようだった。
「起きているか」
藤倉の声に、先生は薄く目を開けた。濡羽色の瞳に西日が色を差して、睫毛に絡んだ光の粒が宵星のように瞬いた。
「何か飲むか」
先生はふるふると首を横に振る。目で指し示した机には、まだほとんど中身の減っていない吸い飲みがぽつんと寂しげに置かれていた。
窓を少し開けると薄い生地のカーテンがさらさらと揺れて、夏の終わりらしく湿った匂いが入ってくる。それは無機質な部屋の息苦しさを少しだけ溶かしてくれた。
「ふじくら、さん」
「悪い、少し換気しようと思ったんだが、寒かったか」
すぐ閉める、と引手に伸ばした腕を遮るように、先生は藤倉の着物の袖を掴んだ。
「いいえ、そうではなく、て……あの、かずひ、こ、は、……ッけほ、ケホっ………」
言葉の端はほとんど声にならずに吐息のような儚い咳に消えた。先生がひゅう、とか細く息を吸う度に、痩せた胸からは柔らかな潮のさざめきが零れた。
「一彦は大丈夫だ。次の日に熱を出したくらいで、今はもうすっかり元気だよ」
よかった、と先生は呟いて、伏せた目を僅かに緩ませた。抜けるように白い頬に少しだけ赤みがさす。
「ええ、と……あれから、どれくらい……?」
「あの日からちょうど三週間が経つ」
「もう、そんなに……」
「お前さんが眠ってる間に暑さは随分遠ざかったよ。ほら、夕焼けが日増しに澄んだ色になっていく」
カーテンを払うと、先生は枕に頭を預けたまま窓の方へ少し首を傾けた。
「ああ、本当に……綺麗ですね」
先生の前髪の先が淡い飴色に輝くのを、半ば夢心地に見つめていた。
「顔色が悪い……あまり、休んでいないんでしょう」
夕闇色に染められた瞳が藤倉を射抜いた。三週間も死の淵を彷徨ったというのに人の心配をしている場合か、と軽口のひとつでも返してやろうかと思ったが、なぜか言葉が出なかった。憂う瞳を直視できずに、窓の外を見ているふりをした。
「私は貴方を、深く傷つけたのですね」
その言葉は重く、深く、息苦しかった。そんなことはない、案じはしたが必ず戻ってくると信じていた、お前さんが気に病むことじゃない――普段ならば簡単に言える言葉が胸につかえて出てこなかった。ただ中途半端に開けた口が無様に震えるのを、やけに生々しく感じていた。
「貴方にそんな顔をさせてしまった」
ふと窓に映る自分の顔に目がいった。連日の看病に気疲れて目の下に隈を作った、生気のない男がそこにはいた。
「藤倉さん」
呼ばう声に宿る、抗いようのない何かに肩を引かれて藤倉は顔を上げる。この声に、いつも自分は負けてしまうのだ。
「あの日、あの暗雨の中で貴方の声を聞いた瞬間、とても嬉しかったんです……貴方が来てくれたことが、まだ傍にいてくれるのだということが、たまらなく嬉しかった」
伏せた睫毛に夕日の光を纏わせながら、先生はぽつぽつと語った。一言ずつに想いを乗せてそっと手のひらから飛ばすように、胸の内に押し殺し続けた感情を開くように言葉を紡いだ。
「それからずっと痛くて、苦しくて寒くて、何度も目が覚めては途切れて――切れ切れの暗闇の中で、私はずっと誰かの姿を探していた。その人は姿は見えなかった。でも、名を呼んでくれたんです。その声がとても温かくて、懐かしいような悲しいような、そんな気持ちの中で揺蕩うように、私は安心してまた目を閉じて……」
先生は想いを噛み締めるように目を閉じた。今にも光に溶けてしまいそうな儚い笑みは、喩えようもなく美しかった。
「頼むから、そんな顔しないでくれ」
これ以上透き通ってしまったら、先生はもう二度と手の届かないところへ行ってしまう気がした。
「私は、貴方を引き留めてしまった」
どこにも行かせまいと伸ばした手を、先生は両手で包み込むように受けた。冷たい指先が、藤倉の手の甲に巻かれた白い包帯の上を慈しむように撫でる。細い指が触れる度に、包帯の下の先生につけられた傷跡はじわりと淡い熱を帯びた。
「決して引き留めないようにしようと思っていました。これまで何度もやってきたように自分の気持ちに蓋をして、忘れてしまえばいいと――でもできなかった。私は夢の中で何度も貴方の名を呼んでしまった。呼び返されることに期待してしまった。目が覚めてもまだ貴方が傍にいてくれることを、嬉しく思ってしまった」
ぱたぱたと包帯に涙が落ちる。溢れる涙を拭おうともせず、先生は藤倉の手を握ったまま懺悔するように頭を垂れた。
「藤倉さん、どうか……どうか、私の名を、呼んではくれませんか」
藤倉は涙に濡れゆく自身の手をじっと見た。落ちた一粒一粒に夕の橙が煌いて、さながら宝石箱のようだった。
震える白い指先にそっと自分の指を絡ませる。微かに感じた鼓動は己のものか、それとも。
「……平野。平野、啓司。お前さんが望むなら、何度だって呼んでやる」
口に出してからようやく、これまでこんな風に名前を呼んだことはなかったかもしれないと気がついた。
ひらの、けいし。初めてその名を聞いたときから、綺麗な響きが彼の繊細な雰囲気にぴったりだと思っていた。しかし町の者は皆彼を先生と呼ぶばかりで、藤倉もそれに倣って呼ぶうちにすっかり慣れてしまい、名前では呼ばなかった。
いや、きっと呼ばないようにしていたのだ。そこまで踏み込んではいけないという無意識が、名を呼ばせないようにしていたのだ。
「ああ……あのとき暗闇の中で私を呼んでくれたのは、やっぱり藤倉さんだったのですね」
藤倉の目の前で透明な涙を流し続ける青年は、もう先生ではなかった。平野啓司という一人の、傷つきやすい心を内側に隠して笑う、自分より六つ年下の青年でしかなかった。
教師という仮面を取り去ってしまった彼はとても脆かった。その脆さと透明さに惹かれていたのだと、ようやく気がついた。
「藤倉、柳三さん。どうかこれからも、ここに居てはくれませんか」
日の落ちた、瑠璃色に染まる宵の空に一番星が輝き始める。
世界からただひとつ切り取られたような白い病室の真ん中で、藤倉は平野をそっと抱き寄せた。
「お前さんが望むのなら、いつまでも」
目を閉じても、もうあの雨音は聞こえてこなかった。代わりに耳に届いたのは確かな拍動だった。
ああ、これをずっと探していたのだな、と藤倉は思った。
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