藤倉達がやっとのことで戻ったとき、麓には行きの倍くらいの人が集まっていた。
軒先に吊るされたいくつもの提灯が赤々と眩く辺りを照らし、その下で地図を広げた男達が声高に話をしている。
後に悪鬼のようだったと言われたボロボロの藤倉とその背に担がれた存在を認めた瞬間、その場は俄にお祭り状態と化した。鐘楼の下にいた者がごぉん、ごぉんと立て続けに鐘を鳴らし始める。町まで伝えてくる、と夜の山道を駆け下りていく数名の背中が見えた。
「藤倉さん!」
鐘楼のすぐ横の建物から飛び出してきたのは池沢だった。
「早く中へ!」
そこは本堂裏にある立派な庫裏とは違い粗末な僧房で、主にまだ幼い小僧達が寝泊まりするためのものらしかった。あたりを濡らすのも構わず入ると、狭い畳敷きの部屋は暑いくらいに暖められていた。見ると奥の布団には一彦が寝かされている。
部屋の真ん中に先生を横たえると、畳の上はすぐさま泥汚れで散々な様相になってしまった。とにもかくにもと濡れた着物を脱がし、露わになった白い肌を一目見て、藤倉は思わず呻いた。そこには大小様々な傷やあざができていた。特に手足にざっくりと走る切り傷は痛々しく、暗い中ではわからなかった惨状に目を背けそうになる。
体を拭いている間に、池沢は胸に聴診器をあてる。二箇所、三箇所と細かく位置を変える度にその顔は険しくなっていく。
「……まずいな」
低体温から不整脈を起こしている。このままだと心臓が止まる。池沢の言葉に思わず嘘だろ、と呆然とした声が漏れた。
「熱い湯で温めた手拭い、湯湯婆、とにかく体を温められれば何でもいい。ありったけ持ってこい!」
普段は穏和な池沢が語気を荒らげる様子にはただならぬものがあった。部屋はすぐさまお湯を沸かす音や慌ただしく出入りする足音で溢れかえり、池沢は固く絞られた手拭いやら湯湯婆やらを取っ替え引っ換えに手足の付け根や胸元にあてがっていった。
「う……ぁ」
「先生! 聞こえますか!」
不意に先生が呻き声をあげた。電流が走ったかのようにびくりと体を震わせたかと思うと、力なく投げ出されたままだった手が畳を掻いた。
「い……ぅあ…………ッぐ、ぅ…ああ、あ……いた、っい………!」
「どうした、どこが痛い」
「かハッ、こふっけふッ………っぐ、ぁ」
弱い空咳がいくつもこぼれ落ちる。温められて急激に循環した血流が心臓に負担をかけ、不整脈を悪化させているのだ。
びくり、ぎくりと全身が跳ねる。あまりの苦痛に理性が飛んでいる。目を見開きぼろぼろと涙を零すのをただ見ていることしかできなかった藤倉は、がりがりと畳を引っ掻く指先に血が滲んでいることに気がつき、咄嗟にその手をとった。
「っ……?!」
がり、と手の甲に突き刺さる痛みに瞠目する。冷えきって弱った体の一体どこにまだそんな力が残されていたのかと驚くほどに、先生は容赦なく藤倉の手を握り込んだ。
「っあ、あ゛ッ……カはっこふッ、痛い、いた、い………ッ――!」
池沢の聴診器をばしりと払いのけ、胸元を思い切り掻き毟ろうとした先生の動きががくりと止まる。激痛のあまりに気を飛ばしたのだ。瞬間呼吸も止まったが、すぐにぜろり、と不吉な喘鳴が戻る。
「――ッひュ、かはっげほっ……ひ、ひッ………っ゛あ、 ぅ」
呼吸苦に喘ぐ唇がはくはくと震える度に、胸の奥からは痰の絡んだ重低音の喘鳴が溢れてくる。
「くそ、喘鳴がひどすぎて心音がまともに聞き取れない」
池沢が吸入器を探して往診鞄をひっくり返している間、藤倉は呼吸苦に喘ぐ痩せた背を擦り続けていた。擦っても叩いても、呼吸の通る気配もない。窒息寸前の苦しみに、先生はぼろぼろと涙を流しながら痙攣するように身をよじった。慌てて上体を支え起こしてやると、ひどい喘鳴混じりの呼気が僅かだけ吐き出される。
池沢が吸入器を先生の口元にあてがう。しかし呼吸量があまりに少ないせいで薬はほとんど吸い込まれず、胸を抉るような喘鳴は一向に止まなかった。
「藤倉さん、今の姿勢のままで右腕を先生の胸の下、肋骨を感じる辺りにぴったりつけるように回して、左手は自分の右手首を外側から掴んで、」
池沢は吸入を諦め、膝の間にぐったりとした先生を抱えたままで背を擦る藤倉に指示をする。
「そう、それで大丈夫です。いいですか、私が指示をしたら両手を思い切り後ろに引いてください。胸を締め付けるように」
意図もわからぬまま頷くと、池沢は再び先生の口元に吸入器をあてがい、もう片方の手を胸の真ん中にあてた。ヒぅ、ひぅゥと今にも止まりそうな呼吸を繰り返す胸元の動きに池沢は集中している。細い肩を跳ね上げかろうじて息を吸い込み、その胸がほんの少し持ち上がったかな、と思った瞬間、
「今です!」
池沢の叫びに、藤倉は両腕に力をこめた。右腕の下で、圧迫された薄い胸がぎしりと軋む。
「っ゛アぁあ……ッ!」
気道が狭窄していてほとんど声は漏れなかったが、それは絶叫のようであった。
「力を抜かないで!」反射的に腕の力を緩めてしまった藤倉に池沢は叫ぶ。
「息をなるべく吐ききらないと吸入ができないんです」
「しかし、折れそうだ、」
「折れても構いません。とにかく、少しでも薬を吸わせないと窒息します」
いいですか、もう一度いきますよ。その声に先生はびくりと肩を震わせ、もう一度苦痛を味わうのは嫌だと弱々しく身をよじって抵抗した。
呼吸を見て、池沢が合図をする。折れんばかりに押さえつけた腕の下で肋骨がみしりと音を立てる。激痛に上げる声なき叫びとともにかは、と肺から無理矢理に空気が押し出され、吐ききったときを見計らって腕の力を抜く。ひぅう、と吸入器から薬の入った酸素を僅かに吸い込む音がする。
地獄のような行為を何度か繰り返すも、先生の呼吸はほとんど回復しなかった。
「どうして効かない……!?」
吸入を止め、再び聴診器を手にした池沢の顔は血の気をすっかり失っている。
「おい、しっかりしろ! 寝るな!」
先生ががくりと意識を失う。慌てて肩を揺するも反応はなく、ただしゅうしゅうと異常な呼吸の音ばかりが響く。
「発作止めが効かないとすると……もしや肺をやっているのか、」
藤倉の必死の呼びかけにようやく開いた瞳は最早焦点が合っていなかった。眠りに落ちる寸前のようにぐらぐらと頭が揺れている。体力の限界だった。次に意識を失ったら最後、目覚めるだけの力はない。
「藤倉さん、先生をそのまま支えていてください」
「今度は何をする気だ」
「これ以上体力を削る前に、痛みを減らす薬を打ちます。できることなら使いたくはなかったが、もうこれしかない」
池沢は鞄の奥から黒い革製のケースを取り出すと蓋を開けた。薄い内布に包まれていたのは西洋製の注射器と小さなガラス瓶で、ふたつとも中には透明な液体が半分ほど入っている。
池沢は慎重に注射器を手に取り、先生の左腕に打った。中身を全て注入し終えると、ガラス瓶の中身を移し替えてもう一度。一度目で目に見えて呼吸の落ち着いてきた先生は、二度目でふわりと意識を手放した。激痛に気を飛ばすのではなく、穏やかな眠りだ。
ぐったりとした先生の体を肩に凭れさせたまま、藤倉はしばらく呆然と座り込んでいた。張り詰めていた緊張の糸が切れたせいか、右手にズキズキとした痛みを感じる。見ると手の甲には先生の爪跡がくっきりと残っていて、血が指先まで滴っていた。
「眠らせたからもう安心、というわけじゃないんだろ」
怠さの滲む声で独り言のように呟くと、池沢は散らかった道具を集める手を止めた。
「眠らせたのは、これから肺の炎症を抑える薬を使うからです。これは相当に副作用がきつい。覚醒していてはとても耐えられません」
池沢は押し黙った。やがてぽつりと、もしかしたら目を覚まさないかもしれません、と消え入りそうな声で告げた。
戸をガタガタと揺らしていた風の音はいつの間にか遠くなっていた。降り続いていた雨の終わりは近いようだった。
「手、洗ってきてください。消毒と処置をしますから」
先生をまっさらな布団に寝かせると、池沢は言った。
外の水場へ行くと、辺りは夏らしい濃い草の匂いで満ちていた。雨上がりの気配に、隠れていた虫が鳴き始めている。冷たい水で手を洗い流すと、あちこちの傷が沁みて痛んだ。その痛みにああ自分は今生きているのだな、と感じた。
呼吸の音と、池沢が包帯を巻く微かな衣擦れの音だけが聞こえる。藤倉の手当てが終わると、池沢は状況を報告してきます、とだけ言い残して部屋を出た。
布団の端から覗く先生の腕にも白い包帯が巻かれていた。日に焼けた藤倉の手に包帯はよく目立ったが、透けるほどに白い先生の腕にそれは違和感なく存在していた。
「見ろよ。お揃いだ」
藤倉は包帯の巻かれた自身の手を軽く振ってみせた。
先生は答えない。ただ昏々と眠り続けていた。細い手指をそっと握る。滅茶苦茶な力で爪を立てたその手が握り返すことはなかった。
「なあ、先生。俺は、」
白い包帯に一粒の涙が落ちた。
「お前さんに何をしてやれる?」
先生は答えない。
"四 空蝉・水中花"へのコメント 0件