体を拭いてやり、着替えさせたところで子どもは今度こそ安心したのか、ぐっすりと寝入ってしまった。しばらく目覚めそうにもない子どもを処置室の寝台に寝かせ、医者に事の顛末を説明し終える頃には西日が長く影を伸ばし始めていた。
「なんて惨いことを……死なずに済んで本当によかった」
先程までひどい発作に襲われていた男は、いまだ時折咳をするも落ち着いた様子で寝台に半身を起こして話を聞いていた。
彼は人の痛みや苦しみを我がことのように受け止める質なのだろう。今も己が痛みを感じたかのような顔をして俯きがちに唇を噛んでいる。純粋な黒より焦茶に近い色の髪の間から、長い睫毛に縁取られた青みがかる濡羽色の瞳が覗いていた。
「幸い怪我も、今のところ熱もありませんから、恐らく大丈夫でしょう」
池沢と名乗った医者が彼を宥めるように言う。まだ若いこの医者は、聞くところによると藤倉の十歳ほど年上らしいが、とてもそうは見えなかった。頑固な老医師が切り盛りする寂れた診療所なのではないかと勝手に想像していたのだが、ここは数年前に彼の師であった人物が亡くなってからずっと、彼一人でやっている医院だという。
「それで、あの子はどうしましょうか。……考えたのですが、きちんと決まるまでは私のところで面倒をみるというのはどうでしょう」
考えこむ様子を見せていた男がふと口を開く。
「何を言ってるんだ。お前さん、胸を病んでいるんだろう」
「まさか。……お恥ずかしながら、元よりあまり身体が丈夫ではないだけです」
昨日も急な気候の変化のせいで夜通し咳が止まず、いつまでも治まりそうにないのでやむなく医者にかかったのだという。うつり病は持っていませんから安心なさってください、そう言って男は弱く笑んだ。
「とはいえその身体で朝から晩まで育ち盛りの子どもの面倒をみるのは無理があるだろう。他を探した方がいいんじゃないか」
「子どもの世話をするのには慣れていますから御心配なく。これでも教師をしているのですよ」
「教師? ……なるほど、それで池沢医師はお前さんを先生と呼ぶのか」
心配しているのは世話に慣れているかどうかではないと言おうとしていたのだが、目の前の華奢で碌に仕事もできなそうな男が教師であるという衝撃が勝って、思わず素直に驚きを口にしていた。
「肺病みと誤解されるほど貧弱に見えるようですから、驚かれるのも無理ないかもしれませんね」
「悪かった、許してくれ」
涼やかに受け流したようでいて、実はそれなりに根に持っていたらしい。人並みの暮らしを送ることさえやっとの虚弱な身体でありながらも、瞳からは確かな意志の強さを感じさせる。人好きのする穏やかな笑みばかりが得意そうな優男に見えて、中々に辛辣で皮肉的な物言いもできる彼に、藤倉は純粋な興味を抱き始めていた。
「それじゃあ乗りかかった船だ、俺もこの子の引き取り手を探すのを手伝おう」
男はぱっと顔を上げると、きっぱりとかぶりを振って、
「滅相もない、通りかかっただけの貴方がそこまでする必要はありません」
「気にするな。元々あてもなくふらふら彷徨ってるだけの暇な旅人だ」
そもそもこの町を訪れたのも全くの偶然であるし、これも何かの縁であろう。手伝わせてくれないかとなおも食い下がると、男は黙り込んだ。
彼は目を伏せ、緩く組んだ指先を見つめている。何かを考えているときの癖なのだろう。細く長い指先が重ねられ、離れて、また重なる。
「……本当に、いいのですか」
迷いの残る視線が向けられる。承諾の代わりに、藤倉はひとつ大きく頷いた。
「ああ。短い間だろうが、よろしく頼む」
そうと決まれば早速宿を探さねばならない。どこかなるべく安く長く滞在できるところはないかと尋ねると、
「それならば、この町に滞在している間は私の家をご自由にお使いください。せめてものお礼です」
そこらの安宿程度のもてなしさえできませんが、と申し訳なさそうに付け足した男の提案を、なぜか一番に喜んだのは池沢だった。
「それはいいね。弟くんのいない昼間に彼がいてくれるのならば安心だ」
「池沢先生っ、どうしてそういうことを言うんですかっ」
余計なことを言わないでください、と懇願気味に訴えた男を綺麗さっぱり無視して、池沢は言葉を続ける。
「いつかのように突然貧血を起こして動けなくなるようなことがあっても、頑健そうな彼ならここまで易々抱えてこられそうですしね」
最早言い返す言葉もなく悔しげに黙り込んだ男は、これ以上あれこれと並べ立てられてはかなわないとでも言いたげに、寝台の横の小卓に畳まれた羽織を乱暴に掴むと立ち上がった。
「もう具合はよろしいんですか」
もう少し休んでいかれたらどうですか。気遣う声に、大丈夫ですと男は笑う。
「今日のところはどうか、この子を宜しくお願いいたします」
「変わった様子がなければ、明日の往診ついでにそちらまで連れていきます。先生こそ、今日はお大事になさってくださいよ」
またぶり返すようなら躊躇わず呼んでください。池沢は医者の目をして言う。
「年端もいかぬ子どもと同じ扱いをしないでください……」
どうやら池沢には頭が上がらないらしい男を面白く見ているうちに、そういえばまだ名を訊いていなかったな、とふと気がついた。
「先生と呼べる分つい訊き忘れていたんだが、お前さん名はなんというんだい。俺は藤倉柳三という。見ての通りの根無し草でね」
尋ねると、彼もそのことはすっかり失念していたらしい。
「ああすみません、最初に申し上げるべきことでしたね。私は――」
その名をこれから幾度となく呼ぶことになろうとは想像していなかった。ただ涼やかで綺麗な音の響きが彼の繊細な印象にぴったりだな、と思っただけだった。
出会いも別れも等しく軽い日々。そんな旅暮らしの終わりを心のどこかでずっと探していた。終わらせてくれる何かを、無意識に彼に見出していたのかもしれない。
「家に案内しますから、ついてきてくださいね」
これまで予想もしなかった方へと未来が動き出していることに、藤倉はまだ気づいていなかった。
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