escape

藤村羅甸

小説

6,392文字

エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」というタイトルより着想を得ました。尚、その本を読んだことはありません。私としてはちょっと上手い短編を書いたつもりになっています。よろしければお読み下さい。

そうやって人のことを馬鹿にしていればいいのだ、きっと松方様が助けてくれる。こんなに弱い私を、息子を放っておくわけがない。ああ、どうして誰も彼も私をいじめるのだろう。こんなことばかりあってたまるものか・・・・・・

暮れかけた空の下を足早に歩く。カタン、カタン、と遠くで列車の音がする。一刻も早く家に帰りたい、とにかく静かなところへ。駅からの見慣れた道はいくらか私を安堵させる。数人の子供が玄関先できゃっきゃと遊んでいる。その横を険しい顔で通り過ると、子供が笑いかけるが私は黙殺した。途端に後ろでわあわあ泣く声が聞こえる。非難する声が背に突き刺さるようだが知ったことか、よその家の子供など知ったことか。可愛いのは自分の子だけだ。ああ、松方様、松方様・・・・・・

あの担任教師だけは許せない。義雄をさんざんコケにして。ちょっと成績が落ちただけではないか。確かにこのままでは望む大学へは行けないかも知れない。でも、まだ時間はあるのだし挽回すればいい。すべては私が義雄の誕生日に買ってやった悪魔楽器のせいだ。あんなものを買い与えるのではなかった。義雄はあの悪魔憑きの楽器に魂を奪われてしまった。まだ間に合う、きっと間に合う、東京などに行かせてなるものか、コックの見習いなどに絶対させない。あの人ったら、なぜ義雄や京子にもっときっぱりした態度をとらないのだろう。なぜいつも曖昧に笑っているだけなのだろう。

家が近づくにつれて不穏な轟音が聞こえてくる。義雄がエレキギターを狂ったようにかき鳴らしているのだ。ああ、あんなに大音量で・・・・・・町中のいい迷惑だ、恥さらしだ。今日こそはこっぴどく叱ってやる。お前は騙されているのだよ、ちょっとした気の迷いよね、そう言っておくれ。玄関のドアを乱暴にこじ開け、だだだ、と二階へ駆け上り、義雄の部屋のドアをドンドンと連打する。

「義雄、義雄!いい加減にしなさい」

「うるせーな、ババア」

私はその場にへたり込んでしまった。義雄はこんな子ではなかった、こんな下品な口をきく子ではなかった。忌まわしきはあの悪魔楽器だ。助けなければ、可哀そうな息子を助けなければ。しかし私に何ができるだろう、近頃は口を開けば口論となってしまう。暖かい家庭は悪魔楽器の轟音が引き裂いてしまった。ああ、あの楽器さえ買い与えなければ。うずくまっているとガチャリとドアが開いた。

「ちょっと、母さん。そんなところにおったら練習がでけへんのやけど」

私は義雄、と絶叫しながら息子の足にしがみついた。

「わわ、ちょっと母さん。最近おかしいで。俺は将来に向けて切磋琢磨しとるだけやないか。邪魔せんといてくれる?」

見上げると訝し気な息子の視線とぶつかる。

「義雄、その髪の色は?」

「これか?かっこええやろ」

義雄は水色に染めた髪を逆立てていた。これが私の息子、ああ・・・・・・

「母さんこそなんや、へんな数珠いっぱいぶら下げて。おばはんくさい格好と全然マッチしとらんで。とにかく俺は東京の奴らに勝たなあかんのやから。さ、練習、練習。母さんは下行って早よ飯作ってきて」

悔し涙が次から次へと流れてきた。私は拳を作って床を思いきり叩いた。

「義雄ちゃん、あんまり親を馬鹿にすると許さないからね」

「どう許さへんねん」

ああ、義雄は不良になってしまった。目の前が真っ暗となり、世界が崩れだす音を私は聞いた。世界が滅んでも何としてもこの子だけは、この子だけは助けなければ。大学に入れなければ。かくなる上はこの悪魔楽器を粉砕する。命と引き換えにでも壊してやる。非力な私だけど松方様がきっと力を与えて下さるに違いない。私は目をむき出して、きええ、と奇声を発しながら悪魔楽器に挑みかかった。滅茶苦茶に悪魔楽器目がけ数珠を振り下ろす。

「ふざけんな、ババア。やめっろって」

義雄と私は揉み合う形となった。だが非力な私は忽ち息子に突き飛ばされ、壁にしたたか後頭部を打ちつけた。

「あ、ちょっと。大丈夫?」

義雄は狼狽しているようだ。駆け寄りたい衝動もあるが、言いたいことを言った手前逡巡している。そうよ、本当は優しい子なのよ。私は呻きながら松方様の言葉を繰り返した。

「母さん、打ちどころ悪かった?変な呪文やめてよ。気持ち悪いやんか」

「何を言うの、これは松方様のありがたーいお言葉なの。これを唱えるだけで私たち家族は救われるのよ」

「は?松方ってあんたの愛人か」

打ちつけた後頭部が痛み、朦朧とする中で俄かに胸に冷水を浴びた。愛人だなんてそんな言葉をどこで覚えたのかしら。いいえ、それよりも早く誤解を解かなければ。

「そんな汚い言葉はやめなさい」

「あほか、もう町中の噂じゃ!おかげで俺らがどんだけ迷惑しとるか知っとるんか?俺はもうこんな家は嫌じゃ」

誓って松方様とそんな関係ではない。確かに誤解されるような行為はあった。だけどあれは儀式であり宗教的な深い意義があってのこと。松方様だってそう仰ったわ。違うのよ、私は騙されてなんかいない。松方様がそんな卑劣漢であるはずがない、そんなことがあってたまるものですか。気が付くと義雄はギターを肩からぶら下げたまま両の手を握りしめ嗚咽していた。

「義雄ちゃん」

「うるさい!」

義雄は乱暴にギターを放り投げ、階段を駆け下りて外へ飛び出していった。投げ捨てられたギターは耳障りなノイズを撒き散らしている。玄関の扉が激しく閉まる音がする。それは私の運命が閉じられた音に違いなかった。

 

 

 

陽は沈んでsex pistolsのTシャツだけでは少し肌寒い。せわしなく頭上を蝙蝠が飛び交う。俺は落胆しきって公園のベンチに座る。畜生、なぜ俺の家だけがこんなんなんや。母親は怪しげな宗教にハマり、姉貴は夜の街へ。この俺も道を踏み外しかかっているのはわかってる。バンドで食えるなんて阿呆な俺でも真剣に考えてるわけやない。しかし腹が立つのは親父だ。こんな俺たちを遠巻きに見て軽蔑してるんや。殴ってやりたいが力ではあいつに勝てへん。せいぜい俺の家が凋落するのに加担してやるだけや、デストロイ・・・・・・

突然毛根に激痛を感じた。サラリーマン風の男が髪を激しく引っ張っているのだ。やめろ、セットした髪が大なしやんけ。よし、誰か知らんがええ度胸や、そこ動くなよ。

「誰じゃ、こら・・・・・・え、親父?」

「やあ、義雄ちゃん。水色の変な動物がおるから駆逐しようと思ったんやがな。お前の頭やったんか」

声は柔らかいが、むくつけき大男である父親が頭髪をホールドし俺は動けない。畜生、離せ。俺はじたばたして父親を罵った。

「離せ、この野郎」

「なんて粗野な口をきくんだ。父さん、そんな言葉を教えた覚えはないぞ」

頭髪を掴む手とは反対の手で父親は俺の腕を後ろに締め上げた。俺は悲鳴を上げた。

「ご、ごめんなさい。は、離して」

父親は一分ほど俺がもだえ苦しむのを楽しんだのち解放した。俺は地面に転がりながら恥辱にわななき悔し涙が頬を伝った。

「泣くな、息子よ。そんなんじやパンクスと言えんぞ~?」

父親はなんだか気持ち悪い口調で、今度は俺の背後に回った。くそう、まだ痛い目にあわせる気か。すると父親は俺の横腹に指を這わせ細かく振動させた。今度は俺をくすぐり始めやがった。その指は確実に俺のウィークポイントをとらえて離さない。

「ちょっとやめてよ。やめてください。やめろ、馬鹿野郎」

俺はひぃひぃ言って転げまわるが父親は執拗にくすぐり続ける。この変態親父め、いい加減にしろ。父親はたっぷり十分以上俺をいじめて解放した。転げ回り泥だらけとなった俺は、滑稽とも悲惨ともつかない姿を恥じて、ただただ父親を憎んだ。凌辱だ、虐待だ。やがて父親は地面に突っ伏して泣いている俺の襟首を掴んで立たせ家に向かった。

「この人格破綻者め」

「おや、なんだか難しい言葉を知っとるな。ほら、しっかり歩け」

父親はすっと俺の背中を指で撫で上げ、俺は悍ましさに戦慄した。

 

 

 

玄関を開けると、私は息子の背に軽く膝蹴りをして息子の転倒しかけるのを楽しんだ。むろんこんな仕打ちは残忍だと思う。一家が狂ってしまっても当たり前だ。私が家族を狂気に追いやったのだ。靴を脱ぎながら、息子は私を睨みつけている。こんな目を向けられるために家族を作ったのではない。だが、私にはどうしても息子の泥を払ってやることはできない。

妻は狂ったような声を上げ息子にしがみついている。ああ、煩い。なんでこういちいち声が大きいのだ。ヒステリックなのだ。私はすたすたと廊下を渡り、洗面所でワイシャツを脱ぎ捨てて軽く顔を洗った。キッチンには夕食が用意されラップがかけてある。私は冷蔵庫から勝手に発泡酒を取り出し、プッシュっと開栓した。飲みながら用意された刺身をつまみ、テレビをつけるが二十秒で消す。隣室では相変わらず狂態が演じられている。やがてどたどたという足音とともに息子がキッチンに入ってきた。

「父さん、俺は出ていく。もうこんな家は金輪際嫌じゃ」

息子は押し殺したような声で言った。

「ほう、東京に出てコックの見習いになって、プロのギタリストを目指すんか?なんか頭悪いのう」

「煩い!俺はただ自由になりたいんや。この異常な空間から自由になりたいだけや」

激高した息子は殴り掛らんばかりである。

「じゃあ聞くがな、自由とはなんや。父さんが納得いく答えを出したら三十万やる」

「は?自由、自由ったら・・・・・・」

「我々は自由という名の刑に処せられているという言葉もあるぞ。ん?お前にはわからんかな。自由という概念は難解なものだ。お前は自由になりたいと言う。だがしかし将来きっと自由に倦み疲れ、お前は自由から逃走する。きっとこの家におめおめと帰ってきて、つまらん女と結婚して愚劣な人生だったと呻吟し終わるのだ。お前はきっとこの家に帰ってくることになるんや」

私は下らない議論を息子に吹っ掛け、当惑させた。混乱した息子はぎりぎりと歯ぎしりをしながら私に抗う言葉を持たないことを呪った。我が息子ながら滑稽だ。

「じゃあ、一つだけ聞く。なんで父さんは母さんと結婚したんや」

息子はやっとそれだけを言った。

「ふん、生意気言うな。そうやな、言ってみれば形式の中に自分を追いやってみる実験やな。結婚制度なんてものは不可能かつ愚劣なもんや」

私はもういいと言った風に手で息子を追い払う仕草をした。

「男って馬鹿ね」

その様子を見ていた姉の京子が嘲るように言った。

 

 

 

本当にこの家の人間はうすら馬鹿ばっかりや。母さんは東京からこの家に嫁いで馴染めず、子供を溺愛して結局裏切られ、妙な宗教に走った。義雄は煩い楽器や音楽にのめり込むことで言わば逃避している。この私も私を求める男によってしか自己を確認できない弱虫や。父さんは何を考えているのか分からんけど、大したこと考えとらん。表向きは成功した人間でも毎日悲しい思いをしてる。冷淡なふりをしても幼稚さが透けて見えるわ、阿呆くさ。この家の人間はみんな弱虫や、逃げてばっかりや。私だけがそのことをわかってるだけちょっとはましや。

「やあ、京子。おかえり」

「ふん」

私は冷淡さを装ったが、この家に来ると駄目だ。悲しくなってしまう。それとは裏腹の私の態度に、父さんの語調はすぐに険しくなる。

「何しに来た」

「ちょっと荷物取りに来ただけやんか」

言い捨てて私はどんどんと二階へ上がる。一応私の部屋は残されている。高校を辞めて夜の街に飛び出すまでは、ここで父さんに勉強を教えてもらった。処分されずに残されている参考書の類。なぜ捨てずにおいてあるんやろう。あの変な言葉さえ聞こえ出さなければ、こんなに逸脱することはなかった。私はこれでも馬鹿やない。私を慈しんだ父さんの目にはもう憎しみしか宿らんのやろか。荷物なんか取りに帰ってきたんやない。ただもう何もかもが嫌で嫌で。寂しくって、虚しくって。ここへ来たら少しでも暖かみが残ってる気がして、フラフラ来てしもたんや。ああ、馬鹿やった、来るんやなかった。ごめんなさい、私が悪いんや。もうここへは帰ってこん。

平然さを装って階段をトントンと降りると、奥の部屋で母さんが呪文唱えとる。母さんの何だかべったりしたとこ嫌いやったけど、母さんだって言わば被害者や。そうやけど、そうやけど、背中丸うして小さくなってる卑屈な母さん見とると、むらむらと残忍な気持ちになるんや。私は階段を降りて部屋に入り、そっと母さんの背後に歩み寄り、その頭を後ろから静かに蹴った。振り返った母さんは私の知ってる母さんではなかった。その目を見た時私は戦慄した。狂人やった。

「京子ちゃん、あ、あなた・・・・・・」

母さんの目は次第に憎悪に変わりだし、突然狂ったように私を罵りだした。取っ組み合いとなり、髪を引っ張り合って、嚙みつき合った。仏壇が倒れ、線香の灰が散らばった。母さんは私をこの売女めと何度も罵った。酷いよ、母さん。私は母さんの首にかかった数珠を無我夢中で掴み引っ張った。気が付くと思いきり首を絞めていた。数珠はやがてバチンと切れて、無数の玉がそこら中に転がっていった。母さんはゼエゼエ言いながら、地獄だ、地獄だと喚いた。私が呆然として肩で息をしていると、

「姉ちゃん、こんな奴ら殺して犯罪者になる価値ないで」

数カ月ぶりに口をきく義雄が後ろから声をかけた。

「こんな家に帰ってくることない。姉ちゃんなら賢いから一人で生きていけるよ。あとのことはいいから早く行けよ。どんなところでもこの家よりはましや」

義雄とは中学の途中からほとんど口をきくことがなかった。私の幻聴が始まってから、すっかり家の中では沈黙するようになったのだ。なんでこんな水色の髪になったのか、ボロボロで泥まみれの革ジャン着とるんかわからへんけど。いつからか何を考えてるのか、すっかりわからんようになったけど・・・・・・

「義雄!」

「早よ行けや」

私は家を飛び出した。もう帰ってくることもないやろ。後ろで誰か呼ぶ声がしたようだったけど振り返らなかった。言いたかったこともあるけど。私は涙の流れるままカンカンとヒールを鳴らして夜の街に溶け込んでいった。

 

 

 

私の人生って何なのだろう。なぜこの家族はバラバラに。いったい何が悪かったんだろう。松方様がインチキな詐欺師だってことぐらい承知している。私は騙されてなんかいない。そんな振りをしていただけ。私は仰向けになったまま虚空を見つめた。ああ、それにしても暑い。喉が渇いた。数回ゴホンゴホンと咳込むが、あの人は無関心だ。こんな状況なのだから少しぐらい気遣って優しくしてくれてもいいのに、様子を見に来てくれてもいいのに。私はただそれだけを望んでいるのに。私はよろよろと立ち上がり、散らばった灰や数珠の玉を手で掻き集めた。嫌だ嫌だ、部屋はカオス状態だ。私は秩序が好きで、整っているのが好きなのだ。ふと鏡を覗いてみる。やつれてはいるが満更でもない。まだまだ私は若いのだ。なんとなくにっと笑ってみた。そう、ここまで来たら笑うしかない。笑いしか出てこない。せっかく見合いして築いた家族だけどここまで来たらもう駄目ね。あの子たちには本当にすまないと思う。私も狂人だけど、あの人も静かに狂っている。そう、あの人が悪いのよ。だけど可哀そうな人・・・・・・妻としての私の役目は静かにあの人の人生を終わらせてやること。できるだけ痛みや苦しみのないように。そう、それしかないわ。私はキッチンへフラフラと向かい、シンクに投げ出してあった刺身包丁を握った。これで一突き。いや、首を狙わなければ。ごめんね、孝雄さん。少し痛いけど我慢よ、私も後からすぐ逝きますから。さあ、逃げましょう。

2020年12月22日公開 (初出 https://note.com/hippopotamomus/n/n9c3eb7c6d752

© 2020 藤村羅甸

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