愚者のカデンツァ

藤村羅甸

小説

33,898文字

私の文学のテーマである「依存」をコミカルに書いてみました。アル中の妻とチンピラの夫を中心とする家族の群像劇です。よろしければお読み下さい。

秒針の音さえ聞こえてきそうな静寂が、キッチンの空間を支配している。キッチンはどこにでもあるノーマルな印象だ。どこか昭和の香りのする花柄のテーブルクロス、茶渋の付着したマグカップ、醤油瓶。シンクの上には鍋に入ったカレーが食欲をそそる香りを放っている。壁には色褪せた沖縄のポスターとカレンダーが画鋲で張り付けてあり、硝子戸の向こうは夕暮れだ。四月だというのに西日が結構強い。棚の上のデジタル時計は十七時十五分を指している。遠くで車の走る音がする。そして、やや奇異なのは二人の男女が押し黙ってテーブルを挟んで対座していることだ。さらに奇異な事といえば女が泥酔している事、目の前にはサントリー角の瓶がどん、と置かれている事だろうか。男は低い声で言った。
「で、何で飲むねん」
「そんな低い声で話したら、私怖い」
勇人の問いには応えずに、加奈はか細い声で抗議した。
「ええ?ごめん」
勇人の容貌は中肉中背の凡庸な印象だ。黒の単調なシャツに、ストレートのジーンズ。髪型も凡庸なセンター分け、三十と言う年齢の割には腹が少し出ている。目は細く、鼻も低い。対して同い年の加奈は華奢で、黒髪のボブカット。白い肌がアルコールによってほんのりと紅く染められている。だらしなくクジラ柄のパジャマを着ている。胸元のボタンが外れているので、胸元がちらちら見える。
「そやけど」
勇人は咳払いをしてから言った。
「普通、飲んで行かんやろ?バイトの面接に」
堂々巡りの会話に半ばうんざりしながら、軽く頭を掻く。
「そやかて」
「そやかてやない」
加奈はさらにムッとして、口を真一文字に引き締めた。
「いくら緊張するからって、酒飲んで面接行くってありえんやろ。そんなん、行かん方がええやん。あのスーパーの店主、絶対漏らすに決まっとる。これで近所のええ笑いもんや」
同じ言葉の繰り返しに勇人はどっと徒労感を覚える。もう会話をしても無駄だと思った。加奈はついに無言になり、目に涙をためている。このやり取りを三十分にわたって背中で聞いている祖父の善三は、孫である加奈のどうしようもなさ、その夫である勇人の冷淡さに憤りを感じている。しかし、気の弱い善三はキッチンの隣の部屋で座椅子にもたれて項垂れているだけだ。
「もうええ。カレーでも食おう」
勇人は怠そうに立ち上がり、自分が作ったカレーの入った鍋を温めだした。ピーッという加熱のはじまったことを知らせる音が耳障りだ。さらに即席のご飯をレンジで温める。勇人は後ろを向いたまま窓を見やり、入ってくる強い西日に目を細めた。
「おじいちゃんも食べよ」
勇人は声をかけるが、善三は力なく首を横に振るだけだった。勇人にしても体面ばかり気にしている自分をいくらか恥じてはいるのだ。彼もただ冷淡でわからず屋ではないのだった。
「ごめん、勇ちゃん。スーパーのバイトとはいえ、緊張して逃げたくなって」
それには答えずに、出来上がったご飯を皿に盛りカレーをかける。勇人は無言でそれをテーブルの上に置くが、加奈は一口二口食べるだけで、相変わらずサントリー角を水道水で割ったものを舐めている。見かねた勇人が、
「もうちょっと食べな。このままじゃほんまのアル中になって、身体やられるで」
確かに、このペースで飲むのはかなり身体に悪そうだ。このままではアル中になってしまうかも知れない。以前はややふっくらしていた加奈だが、最近は華奢というよりは痩せぎすとなり、澱んだ目をしている。
「私なんか」
おらん方がいいんや、と続けようとして言葉を飲み込んだ。そう言えばますます勇人の眉間に皺がよるからだ。しかし、勇人のスナック通いは腹立たしいのだった。タイミング悪く、微かにスマホが振動した。同伴かなんか知らんけど、そんなんやろ。どうせ騙されとるんや。俄かに加奈は怒気を孕んだ声で、
「勇ちゃんかて、いいかげんにして」
「え、これは職場からや」
実際職場からだったのだが、勇人はやや狼狽した。今度は勇人が逆襲される形となった。
「嘘や」
「嘘やない」
不毛な水掛け論が始まり、カレーそっちのけで議論が始まった。二人は気を遣って小声で話すのだが、善三は露骨に耳を塞いだ。
「寂しいから私は飲みたくもない酒に頼るんや」
「いや、俺かて毎日おもろないし」
「でも、毎月どんだけ遣ってるかわかってる?」
「わかっとる」
「いや、わかってない」
このままだと破滅に陥る事だけはお互いわかっているのだが・・・・・・この雰囲気に耐えられなくなった善三は、よろよろと立ち上がり、禿げ頭にハンチングを乗せて、散歩に行くと告げた。二人は善三などほとんど眼中になかったが、勇人はかろうじて善三の背中に気をつけてと言った。

 

チチ、と鳥の鳴く声がする。今朝もキッチンのテーブルに突っ伏して加奈は寝息を立てている。エアコンは点けっぱなし、カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。勇人は二階でまだ寝ているようだ。脱ぎ散らかしてあったカーディガンを拾って、そっと善三はその背中にけた。サントリー角の瓶が半分になっているのを見て、小さくため息をついた。わしはもう嫌じゃ、と小声で呟いた。「妻の小百合が亡くなって、勇人君が同居することになった三年前は、あの二人も生き生きしとった。絶望的になっているわしを一人にしておけない、と随分温かい言葉をかけてくれた。あの子らも悪い人間ではないんや。なのに、なんで・・・・・・どこでどう、歯車が違うてしまったんや」昨夜何も食べてないので、勝手にカレーの残りを食べて、茶を啜る。朝からカレーというのも変だが、すでにどうでもいい。溜息をまた一つ。突っ伏したままの加奈を起こさぬように気をつけながら、がさがさと心療内科で貰った薬を袋から取り出して飲む。そして、戸締りをチェックして、早々にデイケアに出掛けて行った。

通っている心療内科にデイケアがあるのを知って、善三は週に三回ほど顔を出すようになった。デイケアの内容といっても他愛のないものだ。室内でゲートボールをしたり、カラオケをやったり、時にはスタッフが悩み事を聞いてくれる。病院までは電車で二駅、さらに徒歩一分。とあるビルの一階に篠田診療所はある。最近できたばかりの病院で、入り口のドアを開けるとすぐ受付と小綺麗な待合室だ。薄いグリーンのソファが幾つか並べてあり、数人の外来患者が雑誌を読んだり、スマホを見たり思い思いのことをしている。その外来を抜けると奥に小さなデイルームがある。入り口は解放してあり、一礼して善三は中に入る。室内には黒字にピンクのラインの入ったトレーニングウェア姿の女性スタッフと、六十代くらいの白髪の男性が、長椅子に腰かけ何か話をしている。女性スタッフは話を聞きながら、熱心に内容を紙に書き込んでいる。善三に気がつくと女性スタッフは、愛嬌のある笑みを作って、「あら、善三さん。おはよう」と挨拶をする。善三も軽く挨拶を返して微笑む。善三は空いているテーブル席に腰かけると所在無げにしているのだが、明らかに家よりデイケアの方が安心するのだった。デイケア室は二十畳くらいの簡素な部屋に椅子とテーブルが並べられただけのものであり、壁には利用者の描いた稚拙な絵が飾られている。デイケアの開始時刻まで三十分ある。だが今日は、人のまばらな今のうちに、是非とも担当のスタッフに話を聞いてもらいたのだ。善三は女性スタッフに声をかける。
「今日は渡辺さん来とるかの」
渡辺さんとは善三の担当スタッフである。二十代の女性であるが熱意のこもった対応で、善三はすっかり心を許している。
「もうすぐ来ますよ。ああ、来た来た」
トレーニングウェアの女性スタッフは、渡辺さーん、と入り口に向かって声をかける。セミロングの髪を揺らし、渡辺渚沙は外来からパタパタとスリッパの音をさせてデイケア室に戻ってきた。肉づきが良く丸顔で、いかにも人の好い印象だこれ以上ないほどの笑みでもって一同に朝の挨拶をする。無理やり履いている印象のあるパツパツのスキニーデニムに、大きめのボーダーTシャツという格好だ。やや明るい髪の色は昔の名残であろうか。実は元暴走族である。
「おはよう渚沙ちゃん」
緩み切った目で善三は挨拶を返す。周囲の失笑を知ってはいるが、善三は渚沙に相手をしてもらっている時だけが生きがいなのだ。善三は善三なりにデイケアにはお洒落をしてやってくる。グレーのスラックスにストライプのシャツ姿だが、スラックスには自分で念入りにアイロンをかけている。一応自分では紳士のつもりなのだ。挨拶もそこそこに善三は溜まりに溜まった思いをぶちまけはじめた。
「そうなんですか。相変わらずお酒飲んでるの?」
加奈のことだ。渚沙は眉を八の字にして気の毒そうに尋ねる。善三はそうなんじゃ、とため息をつく。
「まったく困ったもんじゃ。あの子はもともと引っ込み思案やったが、曲がったことの嫌いな芯のしっかりした子供やった。いや、わかっとる。あの子の母親であるわしの娘が悪い。あんな訳の分からん男と一緒になって・・・・・・わしはもっと反対すればよかった。わしの堕落した娘があの子をあんな風にしたんや」
「それは、善三さんのせいやないやない」
渚沙は善三のかさかさに渇いた手を握ってひたすら慰める。ヤンキーという種族は意外と優しかったりする。
「いや、すべてはわしが悪い」
「そんことないって」
「いいや、すべてわしの責任なんや」
渚沙はやや辟易としながらも、声を震わせる善三を気の毒に思った。善三はついにひっくひっくとしゃくり上げはじめた。
「きっと善三さんもお孫さんも真面目過ぎるんですよ」
渚沙のその言葉は善三の堪えていたものを決壊させるに十分だった。ひーん、という奇怪な声とともに善三は号泣し始めた。渚沙は子供をあやすようにその情けない背中をさすった。
「わ、わしは・・・・・・」
意味不明なことを口走りながらも、接近する渚沙のふわっとした香りに欲情しかけている。善三は涙や鼻水を垂らしてますます号泣し続け、デイケア室内の人々はぎょっとしてこちらに注目している。
「何も悪くない。善三さんは悪くない」
「いや、わ、わしの罪が・・・・・・」
いよいよ獣じみた声で泣き喚く。が、渚沙の香りはますます善三の鼻孔を刺激する。なんだか陶然として、訳が分からなくなった胸の中でとくん、と何かが弾けた。一際獣じみた咆哮を放った後、
「渚沙ちゃん!」
善三は渚沙に抱きついていた。
「ちょっと、善三さん」
「わああああ」
渚沙は顔を引きつらせて押し退けようとするが、老人の力は結構強かった。渚沙の名を呼び続けながら善三はセクハラ行為を続行した。どさくさにまぎれ胸に顔を押し当て、尻を触る。デイケア室の人々は呆れかえっている。これによく似たことは度々あったのだが、今日はちょっと度が過ぎていると皆が感じていた。
「ちょっと、ご主人」
「ええ加減にして下さい」
そんな罵声も善三の耳にはまるで届いていない。渚沙は自分のシャツが鼻水や涎で汚れるのを心底気持ち悪いと思いながら、この悪質な行為にひたすら耐えたのだった。

 

善三が渚沙の尻を触っている頃に、加奈の妹である麻衣子が玄関のチャイムを押した。一回鳴らしただけでは当然出てこない。三回目を鳴らしたとき、玄関の摺りガラスによろけながら歩く加奈のシルエットが映った。
「うわ、酒くっさ」
それが挨拶だった。確かにドアを開けて出てきた加奈は尋常でなく酒臭かった。
「ちょっと、お姉ちゃんその格好。もう十時なんやから」
上がるで、とパジャマ姿の加奈を押し退ける形でスニーカーを脱ぎ、麻衣子はずかずかと姉夫婦の家に上がり込んだ。廊下の床をみしみしと鳴らせて、キッチンへ入るといよいよアルコールの匂いがひどい。眩暈がしそうな麻衣子だった。
「これ、合格通知。ポストに入っとった」
「え?」
麻衣子はテーブルの上にポンと封筒を投げた。どうみても履歴書が返送されてきたものにしか見えない薄っぺらな封筒だ。例の面接の結果だろう。加奈も封筒を取り上げることはしなかった。麻衣子はグレーのパーカーを脱いで椅子の背にかけた。匂いも耐え難いが自転車でやって来たのでやや暑い。窓を少し開けて風を入れた。ジーンズにTシャツ姿の麻衣子は、血色がよくやせ細った姉とは正反対の健康的な印象だ。やや吊り上がった目元は亡き母親に似て、気の強さを表している。やがて、加奈も地味なギャザースカートとシャツに着替えてきた。加奈は何だか挙動不審で申し訳なさそうな顔をしている。勝気な妹に怯えているようでもある。
「それでや。私が来たんはこんなしょうもない面接のことやない」
麻衣子は自ら淹れた緑茶を啜りながら持参してきた豆大福を頬張る。テーブルの向こう、気の利かない加奈はぽかんとして虚ろな目を中空に漂わせている。
「聞いてる?」
「あ、はい」
麻衣子は愚鈍な姉に愛想が尽きたという感じでテーブルに肘をついた。せっかく買ってきた豆大福に加奈が手を付けない事にも腹が立っている。
「私が怒ってるのはや。あんたら馬鹿夫婦がおじいちゃんの年金をむしり取ってることや。おじいちゃん、国鉄でどんな思いして働いてきたと思う?民営化でほんま大変やったんやから。そんなおじいちゃんのお金をようもあんた」
加奈は不服に思い口を挟んだ。
「むしり取ってるって人聞きが悪い。ちょっと小遣い貰っとるだけやのに」
最後の方は声が小さいため麻衣子には聞き取れなかった。
「言い訳するな!」
「はい・・・・・・」
麻衣子は顎で豆大福を食べるように指示した。
「一口でも食べえな。せっかく並んで買うてきたんや」
だが、加奈は下を向いたまま小さくなっているだけだ。麻衣子は憤懣やるかたなしと言った感じで、
「おじいちゃんもおじいちゃんや。あんたらが堕落したのは本人のせいやのに、妙な罪悪感に囚われて気色悪いわ。勝手にドラマを作ってはまり込んで悦に入ってるんや。ほんとに、おじいちゃんもはき違えてる」
加奈は口をとがらせて、何か言おうとした。
「なんか言いたいなら、はっきり言いな」
加奈はか細い声で抗議をし出した。
「堕落って。勇ちゃんはパートやけど働いてるし。私も少しやけど貯金あるし。そのうち私だって仕事見つけて・・・・・・」
「誰がお姉ちゃんみたいなアル中雇うんや?まず、酒やめるんが先やろ」
加奈は言い返す言葉が見つからずに黙ってしまった。
「とにかく」
麻衣子は深くため息をついて、豆大福に手を伸ばし一口齧った。
「私もお姉ちゃんのこといじめに来たわけやない。ほんまにこのままやと廃人なるで。私はこれでも心配で毎晩寝られへんのや。私たちのお父さんのせいにするのは簡単や。そやけど・・・・・・私たちのお父さんもろくでもない人間やったけど・・・・・・弱い弱い人やった。ほんとにもう、なんでこうも皆弱いんや。私の方が百倍強い」
麻衣子は声を詰まらせた。加奈は麻衣子が豆大福をのどに詰まらせないか気がかりだったが、
「麻衣ちゃんかて、そんな強い人間ちゃうよ」
この言葉はちょっと効いた。虚を突かれたようだった麻衣子は、やおら激しく泣き始めた。加奈にしても何も考えてないわけではなかった。もともとは加奈の方が学校の成績もよく、不良になりかけていた麻衣子をかばったり、諭したりもしていたのだ。いつからこの姉妹の関係は逆転したのか。そして、善三にも言えない勇人のスナック通いのことは相談できずにしまった加奈だった。加奈はふと豆大福に手を伸ばしてみた。思いの外美味しかった。加奈は二つ余っている豆大福をラップでくるみ、タッパに入れてシンクの上に置くために立ち上がった。それから、妙な気を遣って、二階への階段をトントンと上がり、自分の部屋にこもるのだった。そして、打ち捨ててある古いウォークマンにヘッドフォンを差し込み、ブラームスの協奏曲を聞いた。何にも侵されたくない自分の世界。酩酊しながらクラシック音楽に陶酔する時だけが、加奈がほっと息をつける時だった。階下で麻衣子の呼ぶ声がする。聞きたくない。どうかわたしを放っておいて、静かに終わらせて。それだけを願う加奈だった。

 

篠田心療内科のある桂駅のバスロータリーの付近には、飲食店や薬局などが立ち並び少し賑やかな印象だ。人々は俯きながらそれぞれの方向に、せかせかと歩を進めている。仕事を終えた勇人はそんな人々に紛れて、善三の待つミスタードーナツへと急いだ。ある魂胆があって、デイケアを終えた善三を迎えに来たのだった。ああ、みんなそれぞれに人生があり、事情があるのだ。苦しんでいるのは俺だけやない、そんなことを考えていると、件のミスタードーナツのガラス越しに背を丸めてストローでオレンジジュースを啜っている善三の姿を見つけた。自動ドアが開いて店内に入ると、勇人は善三に愛想よく手で合図をした。
「わしにはわかっとるよ。あんた、口は悪いが本当は優しい人間じゃ。影で加奈を支えてくれとる。ありがとうな。こうして迎えに来てくれるのも感謝しとるよ」
その言葉に勇人は大きな違和感を持ったのだが、あえて何も言わなかった。善三の向かいの椅子に座った勇人は、コーヒーにシュガーをさらさらと入れた。はあ、俺はこの爺さんのことが嫌いではない。どこか自分に似ているのだ。
「ん、どうした。口数が少ないな」
「そうですか?」
善三と勇人はわりとよく話す。これは周囲の人間に奇異な感じを与えた。テーブルの上にはしおりを挟んだ墨東奇譚の文庫本が置かれている。善三の趣味である。本などあまり読まない勇人ではあったが、善三の趣味を好ましく思っている。
「あ、今朝はすみませんね。僕もかっとしてしまって」
「いやいや、仕方ない。どうにもならんよ、あいつは」
「僕が至らぬ夫なんです。本当に情けないです」
「いや、十分尽くしてくれとるよ」
そう言いながら善三は、はああ、と露骨にため息をついた。
「そういえばデイケアどうですか。気分転換にはなるでしょう」
「いやいや」
善三は首を振って、なぜか口の端を緩ませた。それはどういう意味なのかは勇人にはわからなかったが、
「やっぱり家にずっといるよりいいですよ。善三さんテレビもあまり見ないし」
「うん。そうかも知れん。あんたも仕事はどうや」
「わりと順調ですよ」
勇人は四条のドラッグストアで販売の仕事をしていた。
「これは、言いにくいが・・・・・・大丈夫か」
探るように善三は言った。勇人はドラッグストアに勤めてまだ三か月。これから先給料も大して上がることは期待されなかった。はっきり言って三人は善三の年金を当てにして暮らしている。情けないことこの上ない。今日もそろそろ金の無心を言ってくる頃だろうと善三は思っていたが、妙な気を遣って先手を打ってみた。毎月毎月金をくれという方も心苦しかろうと思ったのである。もっとも善三が金を渡すのは贖罪のつもりなのだ。善三は罰したかった。今は亡き娘を、そして彼女の父親である自らを。なにか間違っている、自分でも薄々感じるのだが、今日もいくらかの金を勇人に手渡した。勇人は神妙にそれを受け取った。勇人も金をもらっていることに情けなさと後ろめたさを感じないわけではなかった。だが、この金があればちょっとした余裕になり、実にありがたいのであった。

その夜に勇人は善三からせしめた金を握りしめて西院にいた。とあるビルの二階にあるスナック「モリエール」のカウンター席で安物のワインを舐めていた。白を基調とした小ぎれいな店内にはマキシプリーストが緩やかに流れている。カウンター以外にテーブル席が二つほど並べられた狭いその店は、西院のごちゃごちゃした雰囲気と異なり明るい感じのする店だ。カウンターの向こうの沙耶が勇人に話しかける。
「三か月前にふらっと勇ちゃんが入って来たとき、もっと怖い印象やった。一見普通の人なんやけど、目を細めてタバコ吸ってるときに、ああ、この人たぶん怖い人やなって直感した。笑ったら可愛いんやけど、目がどっか笑ってないっていうか」
沙耶は最近流行のアッシュというのだろうか、派手に髪を染めている。が、荒んだ感じでなく垢抜けた印象だ。瓜実顔でやや目が吊り上がり、民族っぽいチュニックを纏っている。それにデニムをロールアップしてハイカットのスニーカーを履いている。やや小柄な彼女にその格好は似合っていた。
「ふふ、そんなことないで。それは当たってない」
勇人は口元を緩めながら、グラスに残ったワインを飲み干す。
「沙耶ちゃんこそ、最初会った時は気の強そうな女やなって。そういえば、今日も練習か?」
沙耶はパンクバンドをやっており、西院の音楽スタジオをよく利用している。沙耶はドラムス担当だ。
「うん、そう。ど下手なバンドやけどね」
パンクバンドをやっているくらいだから、それなりの面はあるのかも知れない。だが、勇人はマドラーで氷を掻きまわす沙耶の細い手首の傷跡を気にしている。
「一回ライヴ観てみたいな」
「それはぜひ」
と、入り口ドアが開いて、数人のサラリーマン風の男二人がどやどやと入ってきた。一人はネクタイを緩めジャケットを肩に掛けている。もう一人は阪神タイガースのタオルを鉢巻のように頭に巻いている。すでに出来上がっているようだ。
「いらっしゃーい」
ママの凛が二人組に小さく手を振る。沙耶も倣って小さくお辞儀をした。
「いや、また負けよったわ。あかんわ、もうダメ虎は」
タイガースの鉢巻がそう言いながらスツールに腰かけ、おしぼりでごしごしと顔を拭く。どうでもいいが、声がでかい。この手合いが勇人は大嫌いだった。
「ごめんね、うるさいのが来たわ」
沙耶はそう言いながらも猫のような声で、二人組の方に小走りで寄って行った。なんだが馬鹿騒ぎをしている二人組と、それを聞いて笑い転げる沙耶と凛を横目に、勇人は幾分疎外感を感じながら飲む形となった。
やがて凛が「ごめんなさいね」と言いながら、勇人の隣のスツールに腰かけた。凜はラメの入ったベージュのニットワンピースに、ゴールドのブレスレット。長い黒髪をアップにしている。香水の匂いが鼻孔をくすぐる。身体のラインが強調されるワンピースは一昔前の時代を感じさせる。聞くところによると来年三十五になるらしい。
「で、奥さんは相変わらずなわけね」
凜はじっと覗き込むように相手の目を見て話す癖がある。それに対して勇人は人と目を合わせるのが苦手だ。
「そうなんすよ」
勇人はため息をついた。
「あいつは気の毒な女なんです。けど、もうあいつのお守りはしんどくってね」
「確かにね」
「僕かて、きついんですわ。仕事終わってから家のことして。で、落ち着いたと思ったら、あいつがぐだぐだ言うんです。近所の目が気になるとか、薬が合わないとかよくわからんことを一時間ぐらい。でも、もう話し聞くのもやめました」
「別れるの?」
「いや、わかりません」
そうやなあ、と凜は腕を組み考えた。
「でも、勇人さんのせいやないと思うよ」
「そうかも知れません」
一方、二人組は野球の話から会社の愚痴へ話がシフトしてきている。なにやら上司の悪口を盛んに言っている。相変わらずでかい声だ。凜はそちらをちらっと見た。沙耶と目が合って、沙耶もこちらの話に加わってきた。
「でも勇ちゃん、仕事終わってから家事もしてって、私やったら絶対できんわ。それだけでも十分優しいと思うけど?」
沙耶は口をとがらせて言った。それに対し勇人はかぶりを振った。
「いや、自分に優しいだけだよ」
沙耶はぽかんとした顔で意味が分からない感じだった。勇人はその夜、ボトル一本開けて、フラフラになりドアに顔面をぶつけて帰っていった。ドアが閉まると凜はおもむろにライターで煙草に火を点けて沙耶の顔を見るともなしに言った。
「馬鹿な人ね」

 

勇人の住む地区は大きな家が多い。勇人の家はそれらの家に挟まれて申し訳なさそうに存在している。ひたすらみすぼらしく、陰気な家だ。扉を開けようとするとするっと開いた。鍵がかかってないのだ。不用心な。文句を言ってやろうと思って靴を脱ぎ捨てて、ずかずかとキッチンへの廊下を歩く。
「おい、玄関開いとるやないか」
それに対する答えはなかった。案の定、加奈は酔いつぶれてテーブルに突っ伏している。勇人はうんざりした。勇人はサントリー角のボトルに蓋をして、テーブルの上に乱雑に置かれた食器をシンクへ運ぶ。それから冷蔵庫から豆乳のパックを出してコップに注ぎ一気飲みした。豆乳を飲み干すと、シンクの上に置いた皿をカチャカチャという音を立てながら洗い始めた。その音に気がついたのか、加奈がう、うーん、と掠れた声を出した。
「起きたか?風邪ひくで。それに不用心やろ」
勇人は洗い物をしながら言ったが、その問いに答えはなかった。洗い物を終えると、やかんに水を入れてその中にお茶のパックを放り込み、コンロに乗せてピッと過熱のボタンを押した。過熱します、と耳障りな機械の声が。そして、振り向くと加奈は顔を上げて虚ろな目をぼんやりこちらに向けていた。
「起きたんか?今日は何か少しでも食べたか」
相変わらず質問に返答はなし。加奈は目が覚めてから意識がはっきりするのに時間を要するのだ。ぼんやりと勇人を見ながら、ぱちぱちと瞬きをする。勇人の方でも答えが返ってくるのを期待しているわけでもなかった。お茶が湧くと勇人はインスタントコーヒーを二人分作って、一つは加奈の前に置いた。
「こんな穢れたもん」
「・・・・・・」
勇人は手に持ったコーヒーを落としそうになった。
「どこ行ってたん?」
意識がはっきりして、真っすぐにこちらを見ている加奈の目は怒りに溢れていた。勇人は思わず目を逸らして、また始まろうとしている修羅場に対して身構えた。

「なんで私がお酒飲むか知っとるん?」
「なんでって・・・・・・」
現実を見たないからやろ、という言葉を勇人は飲み込んだ。朝と同じようにテーブルを挟んで口論をしている。朝から晩まで、口を開けば口論となってしまう。加奈は低い小さな声で着実に勇人を追い詰める。
「寂しいからやんか。何でそんなこともわからんの」
「これ以上どうせえって言うんや?」
「心の問題や」
「そんなこと言うなら、俺の気持ちも知っとるやろ」
「勇ちゃんは、なんていうかベクトルがちゃうねん」
「・・・・・・」
分の悪い勇人は強気になれない。加奈はピンポイントで痛いところを突いてくる。
「家事とかしてくれるのは有難いけど。私はそんなこと望んでない」
「でも、俺に出来るっていうたら」
「もういい」
加奈は黙ってしまい、勇人も次の言葉を発することができないでいる。重い沈黙がキッチンを支配した。しかし、勇人はかねてから考えていたことを提案してみようと思った。
「俺な、思うんやけど」
勇人はテーブルの上でマグカップを玩びながら、ぼそり、と言った。
「お前、今度じいちゃんと一緒に病院行ってこいよ。ええ先生やって言う噂や。もうそれしかないわ」
多少の勇気をもってこの提案をした勇人だったが、加奈があっさり肯いたのには意外な気がした。
「ほんまにか」
「私かて馬鹿やないよ。薄々それしかないと思ってた」
「ほんなら、早速行ったらどうや。じいちゃん、明日もデイケアのはずや」
勇人はさっと立ち上がって、隣の部屋の善三を呼びに行こうとした。すると、するすると障子が開いて、パジャマ姿の善三がこちらの部屋へ入ってきた。
「おじいちゃん、あのな」
「言わんでもええ。会話丸聞こえじゃ」
善三は冷蔵庫を開けボトルの麦茶を取り出しコップに注いだ。それを持って善三も加奈と勇人の対座しているテーブルに着いた。
「加奈ちゃん」
善三は麦茶を一口啜りながら話しはじめた。
「わしもそれがええと思う。明日加奈ちゃんもついてきなさい。たぶん薬くれるやろうけど、することと言えばその薬を服用するだけや。もうええんや。ある程度流れに任せるようにせんとな」
昼間のセクハラ行為と打って変わって、諭すようなことを述べる善三だった。
「おじいちゃん、ありがとう。ずっとおじいちゃんにも辛い思いさせてしまって」
加奈は目に一杯涙をためていた。善三は目を細めて言う。
「お前は、よう頑張った。よう頑張った」
その夜はしばし、なごやかな雰囲気を取り戻した。とりあえず、病院へ行きさえすれば何か事態は好転するに違いない。そう信じようということで三人は一致し、束の間の安眠を貪ることになった。

 

翌日の早朝、篠田診療所の待合室のソファに、勇人、善三、加奈の三人が、横に並んで腰かけている。それはちょっと奇異な印象の図であった。勇人ははじめて来る心療内科が珍しく、常にきょろきょろしている。
「なんや、心療内科っていっても、普通の病院と変わらんな」
確かにそうである。一見どこにでもある、ありふれた病院の光景だ。善三は目をつむって居眠りをしているのか起きているのかわからない。加奈はやや硬い表情で、口を真一文字に引き締めていたが、内心は比較的穏やかな気持ちでいた。加奈は挙動不審気味の勇人を見て言った。
「勇ちゃん落ち着いてよ、別に取って食われやしないから」
やっぱりいざという時、落ち着いているのは女なのだろうか。加奈は足を組み替え、地味なロングスカートの裾を直したりしている。ニ三人の看護士が行ったり来たり、忙しそうにしている。カウンターの中では受付の四十代くらいの女性が、パソコンに向かってカタカタと忙しなく指を動かしている。やがて、加奈の名が呼ばれた。

篠田医師は年齢が五十歳くらい。カジュアルなストライプのシャツを着て、リラックスした印象だ。中肉中背、短めの頭髪は白髪が目立ち、くせ毛があるがきちんと整えられている。その篠田医師の前で加奈は畏まって診察が始められるのを待っている。篠田医師は何か忙しなく紙を捲ったり読んだりしている。せかせかして落ち着きのない印象だ。
「すみませんね。お待たせしました。私、院長の篠田です。えっと、お酒がやめられないということですね」
篠田医師は人の好さ気な顔を加奈の方に向けた。小綺麗な応接間を思わせる診察室で、当たり障りのない会話から始まった診察であったが、徐々に会話のキャッチボールが失われ、加奈が一人で喋っている形となった。そこへ善三が割って入った。
「まあまあ、加奈も馬鹿とちゃうんです。少しは客観的に見ているところもあるんです。孫は所謂、機能不全家族のもとに育ちました。それが根本にあります。父親は絵にかいたような駄目男で。その癖女にはだらしなく暴力をふるう時もありました。挙句、母親は事故死、父親は蒸発しました。恐らく大きな欠落感が心の中にあるんでしょうな。それは誰にも埋められない。その欠落感は本人が埋めるしかない。誰かのせいにするのは卑怯なんです。父親のせいですらありません。加奈自身が何とかしないと・・・・・・」
自分ではなかなかいいことを言ったつもりの善三であったが、篠田医師は手で遮るようにして言った。
「聞いているとなかなかお孫さんのことを良く見てらっしゃる。ですが、ちょっと厳しすぎやしませんか?」
今度は勇人が口を挟んだ。
「確かに、厳しいところはあります。が、本人は現実で何もできてないところに葛藤があるんでしょうね」
加奈は皆黙っていて、と言わんばかりの視線を二人に送った。わかったようなことを言われるのは不愉快なのだ。再び加奈は話し出した。またもや加奈の独壇場となり、時々勇人や善三が合の手を入れるたびに、加奈はムッとして反論した。そうこうするうちに三十分はあっという間に過ぎ、診察は一つの結論を期待された。最後に加奈もちょっといいことを言った。
「で、私思ったんです。私の家は何だか危険な関係を作り出しているような気がするんです。それから逃れなくては」
「それにはどうしたらいいと思われますか?」
「それには、バイトからでも仕事を始めて・・・・・・」
「確かに仕事をして家と物理的距離を置くことは有効です。でもそれなら仕事じゃなくてもいいじゃありませんか。図書館に行くとかウィンドウショッピングをするとか何でもいいと思いますよ」
「それじゃあ駄目なんです」
加奈は一瞬、篠田医師に不信感を持った。わかってない、と叫びたかった。そこで善三が口を挟んだ。
「あのー、わしは思ったんじゃが・・・・・・一つ習い事をしてはどうじゃろう?」
「習い事?」
唐突な発言に、一同はやや呆れて善三を見た。
「習い事でもすれば、少しはアルコールや家から物理的に離れることにならんやろか」
勇人は顎を手で触りながら考える風にして、
「ふむ、習い事ね。なんか違う気もするけど・・・・・・一つの案かも知れませんね。冗談から駒かも知れない。おい、一つやってみるか?」
加奈は意外な展開に当惑しながら、
「そんな急に言われても」
「でもなんか、好きなことに没頭するのはいいことかも知れんぞ。お前、クラシック音楽好きやんか」
「強いて言えば趣味やけど・・・・・・」
加奈は昔からクラシック音楽が好きで、クラシック音楽を聴いている時だけが慰安なのだった。勇人は篠田医師に意見を求めた。
「先生どうでしょうか。唐突ですが一つの案だと思うんです」
篠田医師はいいと思いますよ、と即答した。
「とにかく、他のことをしてみる、考えてみるということはとてもいいことなんです。ところでクラシックはどんなのが好きなんですか?」
加奈は話題が違う方向に行っているなとは思ったが、
「えー。普通です。モーツアルトとか・・・・・・ワーグナーとかマーラーも聞きますけど」
「ほう。私はバロック音楽が好きでね。テレマンとかいいですよ。バッハももちろんいいですが」
「最近、福田進一さんのバッハがいいなって。少しギターも聞いています。朴葵姫さんとかも可愛いなって思っています」
それを聞いた勇人は膝を叩いて、
「それや!ギターや」
一同は勇人を見た。
「お前、ギターやったらどうや。家に古いギターがあったやろう。確か物置に眠っとるはずや」
「うん・・・・・・」
「それしかないわ。たまには直感を信じるもんや」
そんな安易なという気もするが、場の空気は次第に習い事、それもギターを習うという方向に流れてほぼ決まってしまった。篠田医師は微笑みながら言った。
「音楽やギターの話になったら、皆さんの顔が生き生きしてきました。いい兆しかも知れませんね。とにかくネガティブなことばかり見つめていては視野が狭くなって、まともな判断ができなくなる。意外なことをしてみるのも手です。では、診察には月一回来て下さい。様子見ていきましょう」
加奈はよくわからない診察結果で腑に落ちない気もするが、ギターを習うということに楽しみを見出しているのであった。

 

と、いうことで、早速勇人が家から電車で十分ほどの音楽スクールに受講を申し込んだ。週一で加奈はギターをぶら下げて、そのスクールに通うことになったのだ。月に八千円はちと高い。それに加えて弦の交換、ケースやチューナーなどの備品を買いそろえると結構な額になった。これでギター本体も買うとなったら、この話は実現しなかったろう。ギターは勇人が十年前に思いつきで購入したのだが、ほとんど弾くことなく、物置の中に眠っていた。勇人が汚れをタオルで拭いて落とし、youtubeを参考に弦を張り替えて加奈に渡す頃には、なかなか味のあるギターとなった。
「勇ちゃんありがとう。どうなるかわからんけど、私やってみる」
ギターはヤマハのナイロン弦ギター、すなわちガットギターである。ポピュラー音楽というよりも、クラシック音楽やボサノヴァなどで多く使われる種類のものだ。これを華麗に弾きこなせれば、かなりかっこいいと思われる。早速加奈はギターを抱えてポロン、ポロン、と弾いてみた。何をどう押さえて弾けばいいのか皆目わからない。だがこの音色は好きであった。それを見て勇人が言った。
「おお、なんか様になっとるで」
「そうかなあ」
まんざらでもない加奈だったが、あれから朴葵姫の演奏をyoutubeで見まくっていた。ギターが上手くなりたいというよりも、愛おし気にギターを奏でる彼女がアイドルのような存在となり、彼女のようになりたいと感じるのだった。その素晴らしさを勇人や善三に語って聞かせて煩いほどだった。
「なんか、家が明るくなったな。これもじいちゃんの発案のおかげや」
善三は照れた様子で、
「そうじゃろうか。何だかあの時ピンと気てな。直観を信じるということは意外と重要なことでもあるからな」
加奈はギターを抱えながら、久しぶりに笑った。
「なんも押さえんと弾いたらEマイナーやね」
左手は押弦せずにアルペジオの真似事のような事をやってみた。意外にきれいに響いた。
「おお!」
一同は驚嘆した。
「なんや、合わせて歌いとうなるな」
「歌ってよ」
勇人はハミングしてみた。善三は感心しながら
「二人は音楽の才能があるのかも知れんな。どうじゃ、一緒にスクールに通ってみては」
「おじいちゃん、いい案やけどそれじゃあ意味がないよ」
それはそうだ、と一同は笑った。久しぶりに和やかな雰囲気に包まれてその夜は更けていったのだった。

悪魔は厳粛な顔をしているとは限らない。時に軽薄な様子をしてそこらへんに腰かけているのかも知れない。その青年と加奈はいとも簡単に妙な関係となってしまった。イオンモール桂川にある音楽スクールの第一日目、狭いスタジオで加奈は講師である中田と丸椅子に座り、ギターを抱えたまま雑談をしていた。中田は六十代と思われる男性だ。頭が禿げ上がって、どことなくジョン・スコフィールドに似ている。
「しかし、あれですな。週一で通われるということは、かなり本気でやりたいんでしょう。頼もしいお嬢さんですな」
加奈はかぶりを振ってみせた。
「いえいえ、私なんて何の才能もありません。生きていても仕方ないんです」
「?」
ついつい暗いことを口走ってしまう加奈だったが、普通にギターに関心を持ったというふりをしていた。
「あ、すみません。何でもありません。私、朴葵姫が好きなんです。先生はご存知ですか」
中田講師は知っていると答えた。
「最近の人はそれほど知りませんが・・・・・・私の中では何といっても福田進一です。クラシックギターはある独特な素養が必要なんです。彼の場合正しく天才ですな。神がかっとります」
「福田進一さんもいいですね。どこがどう天才的なのかは今の私にはわかりませんが、スクールに通って行くうちに解るようになるものでしょうか」
「もちろん。耳も良くなっていきますよ」
中田講師は愉快そうに微笑んだ。その時、スタジオのドアがガチャリと開いて、ギターケースを持った一人の青年が中に入ってきた。
「こんにちは・・・・・・」
前髪の長い痩せぎすの貧相な青年である。チエックシャツを膝の出たオリーブ色のチノパンに合わせ、何故か金の細いネックレスをしている。何だか暗いオーラを放っているが、口元は奇妙な笑みを湛えている。
「おお、藤堂君。今日は遅かったじゃないか」
「はあ」
藤堂は暗い目をちらっと加奈の方に向けた。反射的に加奈は目を逸らした。
「紹介するよ。私の教室の生徒で藤堂君だ。本日の生徒はあなたたちお二人です」
明朗な中田講師とは対称的に陰鬱な藤堂は、長身の身体をやや前傾させ加奈の顔を覗き込んだ。暗い深海の生き物が無理やり作ったような笑みを湛えている。加奈は気持ち悪さに背筋がぞわぞわした。
「ども」
「え、ええっと。よろしくです」
挙動不審な加奈だったが、こうして第一回目の授業は始まっていった。

中田講師の授業はごくごく基礎的なことを教え終わったら、すぐ曲にあたっていくという形を取っていた。
「とにかくスケールやコードを押さえる練習ばかりではつまらんでしょう。大体半数の人がFコードを押さえられずに脱落していきます。それは勿体ない。その辺りを私は講師として模索しながら進めているんです」
第一回目の授業で加奈はチューニングの仕方、省略コードの押さえ方を学んだ。省略コードとは中田講師独自のもので、例えばFコードならいきなり全部の弦をセーハせずに、一弦から三絃だけを押さえるというものだった。
「はい、これだけでも和音になるんです。きれいに音を鳴らすことを心がけて下さい」
加奈はしばし没頭した。最初は当然ながらうまくいかなかった。音がビリついたり、出なかったりして苛ついたが、講義の終わりごろには何とかきれいな音で鳴らすことができるようになった。もともと凝り性なところがあり、没頭しやすいタイプではあったのだ。だが、さすがに指が痛くなって、ふと顔を上げると隣で藤堂が一つのパッセージだけを繰り返し練習していた。俯いてギターに取り組む姿はある種異様だった。観察していると癖はあるが結構速いパッセージを弾いている。感心していると、ちら、と目が合ってしまった。慌てて目を逸らすと、藤堂の方も目を伏せて練習に戻った。一回目の授業はあっという間に終わりに近づいた。
「では、終わる前に藤堂君に一曲披露してもらいましょう」
中田講師に指示されると藤堂は頷いて、たどたどしくはあるがロマンスを弾き始めた。確かにお世辞にも上手いとは言えないのだが、独特な癖がある。ややせっかちな癖が妙に加奈の耳に残り、その音色はどこかひたむきさを感じさせた。なんとかロマンスを最後まで弾き通した藤堂は軽く一礼した。中田講師は拍手をしたので、加奈もそれに倣った。
「藤堂君はここへ通い始めて三週間なんですよ。三週間でここまで弾けるのは大したものです」
「えっ、三週間!」
頓狂な声を加奈は発してしまった。
「あ、すみません。吃驚したものですから。ロマンスって初心者向けのようで結構難しいんですよね」
「その通りです。彼には何らかの才能があるんでしょうな」
藤堂はいやいや、と顔を横に振った。
「僕なんて大したことありませんよ。幼少のころ少しやってたのもあるし・・・・・・」
そう言って口許を緩めた。加奈はこの表情が彼なりの笑い顔なのだと気がついた。卑屈なようでいて、どこか不敵な感じのする妙な男だと感じた。恐る恐る加奈は話しかけてみた。
「でも、やっぱりすごいですよ。根気もあるんでしょうね」
それには答えずに、藤堂は曖昧に笑った。中田講師が代わりに、
「もちろん。クラシックギターはとても根気が要ります。が、彼には何かそれ以上のものを感じてならないんです。彼は経済学部の学生ですが、本式に音楽教育を受けてほしいものですな」
ここまで褒め称えられる藤堂は何なのだろう。加奈にはわからなかった。が、恐らく芸術家タイプで天才肌なのかもしれない。そう思うといっそう彼がミステリアスに思え、さっきまで気味の悪かった笑い方が、彼の非凡さを表しているような気がしてきたのだった。
「もしかしたら、すごい存在になるかもしれませんよ。私、そんな気がします」
「ありがとう」
万事控えめな藤堂は小さく頭を下げた。それから藤堂と中田講師は何やら難しいクラシックの話をし始めた。それを聞いていると藤堂はギターだけでなくクラシック全般に造詣が深い事が窺われた。加奈は話が合いそうなだけでなく、言葉の選び方に独特な知性すら感じるこの男を興味深く思った。今まで出会ったことのないタイプ・・・・・・気になる、すごく気になる。

 

馬鹿は死ななくては治らない。加奈は次の授業を楽しみにして帰り、家でギターのおさらいをした。ギターに触れる時間が増えるのだから、自然上達する。ギターに限らず楽器というものは上手くなれば上手くなるほど面白くなるものだ。一週間で加奈は簡単なコードを押さえてアルペジオができるようになった。勇人と善三は加奈の表情が生き生きとしてきたのに驚いた。そうして、心から加奈がギター講座に通ってよかったと思うのだった。次の授業のあと加奈は藤堂と喫茶店に寄ってラインを交換した。こうなるとドミノ倒しである。加奈はうしろめたい気持ちはありながらも、抗うことができなかった。一方の藤堂はめっきりギターの腕を上げトレモロ奏法の真似事をするようになった。そして四回目の授業で「亡き女王のためのパヴァーヌ」を披露した。加奈のリクエストに応えてのことだが、加奈が一番好きな曲でもあった。
「すごい。藤堂さん・・・・・・」
藤堂の奏でる旋律に陶然として聞き惚れる加奈だった。その旋律は加奈の心の一番深いところに触れ、加奈は時間が止まったような錯覚を受けた。藤堂がこの小曲を弾き終わったとき、加奈は涙を流しているのに気がついた。状況はのっぴきならぬものとなってきた。

 

「わしはもう生きているのが嫌じゃ」
善三は落胆しきった様子で、ぽつりぽつりと渚沙に事の顛末を語って聞かせた。
「わしがあんな発案さえしなければ。安易な直観を信じたばかりに・・・・・・わしの家は崩壊じゃ。勇人君にも合わせる顔がない。もう、あいつは何をやっとるんや」
朝の篠田診療所ではデイケアのはじまるのを待つ数人の利用者が、テーブルに肘をつき思い思いのことをしている。スタッフは何やらバタバタしているが、それとてさほど切迫した感じではない。このデイケアはほのぼのとし、時がゆっくりゆっくりと流れている。が、善三が陣取っている隅っこの席にだけは不穏な澱んだ空気が漂っていた。先日のセクハラ被害に内心腹を立てていた渚沙であったが、善三の今にも消え入りそうな落胆ぶりに尋常でないものを感じて、さっきから真剣に善三の話を聞いているのだった。
「そうやけど、善三さん。それは気の迷いかも知れないよ。加奈さんもいろいろある方だからそういうこともあると思います。すぐ熱も醒めますよ」
「いいや。わしは加奈をどうあっても許さん。その軽薄な若い男も同様じゃ」
「善三さんの気持ちは良くわかるけど、そこまで加奈さんは追い込まれてたんじゃないでしょうか。一概に加奈さんばかりを責めることは間違いな気がします」
善三はふと顔を上げ、
「そうやろか。薄々はそう思っていたんじゃが・・・・・・なら、やっぱりわしのせいじゃ。やっぱりわしが悪い」
「いいえ。それにその藤堂さん?だっけ。何だか宗教関係者なんでしょう。そういう人って巧みに人の弱みを掴んで、つけ込むのが本当にうまいんだから」
「そう、そうじゃ。それが一番心配なんじゃ」
加奈の話によると藤堂は何らかの宗教団体に属している。そのことで加奈を問い詰めても、言うことがおかしいのだった。神を信じるとか、果ては宇宙のことを論じだしたりする。藤堂に感化されていることは間違いない。
「今に家の金を持ち出し、宗教団体につぎ込むに決まっとる。それだけやない、そのうち凶暴な事件を起こして世の中に大迷惑をかけるんじゃ。そうなったら・・・・・・そうなったらわしはもう生きていけん」
その飛躍はどうか、と思われるが、善三は肩を震わせて嗚咽し始めた。
「善三さん、泣いては駄目。今は加奈さんを助けなきゃ」
「いや、もう手遅れじゃ」
「そんなことないって」
「だから、今は泣いてちゃ駄目。善三さん、後ろ向きにならないで」
「いや、わ、わしの罪が・・・・・・」
「罪なんかない」
「いや、もうあかん」
「善三さんしっかりして」
と言いながらも、またしても渚沙の香水の匂いにむらむらしてきている善三だった。不毛なやり取りをしているうちに、案の定、ひーんというひときわ高い咆哮を発して善三の理性は決壊した。その瞬間に昔の血が蘇った渚沙はついにキレた。
「甘えてんじゃねえよ!」
渚沙は善三を突き飛ばし一喝した。突如豹変した渚沙に善三は驚くと同時に、椅子から転げ落ち、すっかり委縮してしまうのだった。
「訳の分からん罪を背負って一人悦に入ってんじゃねえよ。今はそんなことに浸ってる場合やないやろ?一刻も早く救い出さなあかんやろ?」
「は、はいっ」
鬼の形相で睨みつける渚沙に恐れをなし、凝固した善三はろくに返答ができない。蛇に睨まれた蛙と同様である。蛇は執拗に善三に罵声を浴びせ追い詰める。
「腰抜かしてんじゃねえよ。ジジィ。そんな情けない奴見とったらイライラすんねや。え、こら。今自分はどうしたらいいんや?こんなところにおってもしゃあないやろ?」
「え、はい。あ、あの・・・・・・」
「お前の腐れ切ったカスの孫は何処におるんや」
「え、た、たぶん。家です。と、思います」
「ちゃんと把握しとけや!」
渚沙はひっくり返った善三の胸ぐらを掴み締め上げた。
「殺すぞ、ジジィ」
「ひっ、人殺し」
「早よ、探しにいけよ!何をモタモタしとんねん」
「はいっ。わかりました」
依然と続く渚沙の罵倒のシャワーを背に浴びながら、善三は這う這うの体でデイケア室から逃げ出すのだった。

 

同じ頃、窒息しそうな空気の中で麻衣子と加奈はキッチンのテーブルを挟んで対座している。もはや麻衣子は姉を詰問し、叱責する気も起らない。怒り心頭で加奈のところにやって来た麻衣子だったが、堂々巡りの会話が四時間。今は姉の出方を窺っている。加奈のアルコール摂取量は少し減ったが、何だか怪しげなスピリチュアル本を乱読するようになった。藤堂の影響であることは間違いない。何のことはないヤドカリが殻を替えるように、依存の対象が変わっただけである。麻衣子が藤堂と別れよと言う。すると加奈は怪しげな精神論でかわしていくのだった。二人は疲れ切っていた。それでも重い沈黙に耐えかねたように加奈は少しずつ話を続ける。
「麻衣ちゃん。私、これでも狂ってるわけやないよ」
麻衣子は黙って聞いている。もはや会話をする気力がないのだ。
「麻衣ちゃんだけやなくて、みんな私があっちの世界へ行ったとでも思ってる。そうやない。これでも私、うすうす自分が間違ってる気がしてるんや」
「だったら、なんで」
麻衣子はうんざりしきっていた。
「上手く言えへんけど。藤堂さんに出会ってはじめて自分が生きてるっていうか、自分の身体に熱い血が流れてる気がして・・・・・・今までの私はやり場のない焦りやらなんやら持て余して辛かった。たとえあの人が屑でもペテン師でもいいんや」
「私にはようわからん」
「私の説明が下手なんやと思う」
麻衣子は深くため息をついた。
「一つ言えるのは、お姉ちゃんちっとも楽しそうでない。藤堂さんといることでむしろ苦しんでる。なんだかドラッグで蝕まれた人みたいや」
加奈は寂しげに微笑んで話し続ける。
「ふふ。麻衣ちゃんの方が上手いこと言う。その通りかも知れん」
「わかってるんやったら、何で。さっきから何回も繰り返してる」
「だから、理屈やないんや」
加奈もうすうす藤堂のインチキさに気づいている。いや、気づいているような気がしているだけかも知れない。だが、藤堂との逢瀬は限りなく甘味なのであった。その危険な果実を齧るたびに、自分の心は蝕まれていく。わかってはいる。わかっているのだが感情が追いつかないのだ。加奈はもはや大っぴらに藤堂との逢瀬を繰り返している。勇人はそれに対し沈黙し、善三はひたすらオロオロし逃避を試みるのだった。
「ごめん。私はみんなの期待には応えられない。どんなにつらくても欲しいものがあるんや」
「わからん。わからんよ、お姉ちゃん」
麻衣子はテーブルに顔を伏せて泣いた。その夜に加奈は失踪した。

すごすごと帰宅してきた善三は、その夜自室にこもり己の不甲斐なさを一晩省みた。そして朝が来る頃には少し気持ちも上向き、加奈を藤堂から救い出さねばならん、と決意を新たにするのであった。が、それも束の間。朝起きると加奈はいない。時間が経つにつれて事態を把握していった。善三は眉間をカチ割られ、失意の海で溺れるのであった。
「わしはもう嫌じゃ。何で神はこんなにもわしらをいじめるんや?」
「おじいちゃん、その発想はあきません」
善三はキッチンの加奈の席に腰かけ項垂れている。その背中を勇人は労わるように擦るのであった。
「勇人君、よしてくれ。わしにはもうそんなにしてもらう資格がない。君にも申し訳なくてな」
「だから、その発想あきませんって。おじいちゃんは悪うない。悪いのは僕なんです。」
「いや、わしが悪い」
「そんなことないです」
善三はひっくひっくとしゃくり上げる。
「考えてみれば当然かもしれません。こういうことになるなら、僕は身を投げ出してあいつに詫びればよかった」
勇人は髪をくしゃくしゃに掻きむしり項垂れた。
「だけど、それも白々しくって」
自らがこんな不毛な罪の意識に囚われ、後生大事にそれを抱きしめていることこそが白々しいのだが。二人は同時に深く深くため息をついた。と、その時玄関のチャイムが鳴った。二人はハッとしてどたどたと玄関の方へ走り寄った。しかし、現れたのは加奈ではなく妹だった。

まずは勇人に対して姉の行動を深く詫びた麻衣子だったが、落胆しきって肩を落とす二人の男に苛立ちを隠せなかった。
「だけど・・・・・・そんな状態じゃ加奈が帰って来ても、またすぐ出ていきますよ」
物憂い目を二人は麻衣子に向けたが、またそれぞれが黙って下を向いてしまう。どうして、こいつらはこうなんやろう。キレそうになるのを必死でこらえながら、
「まあ、強引に連れ戻しても駄目かも知れへんですけど。でも、相手がよりによって怪しげな宗教者って危険やないですか」
「それじゃあ、どうしたらいいんじゃ」
自分で考えろよ、と麻衣子は怒鳴りたかった。ああ、イライラする。この二人を見ていると亡き父親と重なるのであった。
「はあ、しかしこれって誘拐にならんやろか。捜索願い出した方がいいんやろか」
そう言いながら、善三が麻衣子に茶も出してないことに気がつき、立ち上がって冷蔵庫を開けた。
「無理です。誘拐にはならんと思います。お姉ちゃんが勝手に転がり込んだだけです。これ見て下さい」
麻衣子はスマホをジーンズのポケットから取り出し画面を勇人に見せた。不気味に笑う深海魚のような男と加奈が楽し気に笑う写真だった。
「これは?」
「その藤堂って男のツイッターです」
「一回だけお姉ちゃんからメールが来たんです。もう家には帰らんけど、今後の人生はこのツイッターで確認してくれって」
「んな、アホな・・・・・・」
勇人は自分のスマホで藤堂のツイッターを開いてみた。子細に眺めてみると、一日に二十件以上のツイートをしている。ちょっとした依存症のようにも見受けられる。そして、唖然とするのはその常軌を逸したツイートの内容だ。神や宇宙のことを論じているのだが、勇人の目からしてもそれは軽薄さが漂い、胡散臭いことこの上なかった。他にはしんどいだの意味もなくイライラするといったネガティヴツイート、所謂「クソリプ」に対し噛みついて炎上まがいのことになっている個所も見られた。
「こいつが藤堂か。しかし、こんな馬鹿な男に何で魅かれるねん。絶対あいつはどうかしとる」
勇人は苦々しい顔をして、スマホをテーブルに置いた。二人のこれまでのやり場のない苛立ちや怒りは、次第にこのふざけきった藤堂という男に向けられた。どうにかしてこの藤堂という男をとっちめてやりたいという衝動が生まれてきた。
「おのれ、藤堂。わしはこの軽薄な男を絶対に許さん」
善三は拳を固めて身を震わせた。麻衣子はそれを制するように、
「ちょっと待って。今はほっとくのがいいと思うけどな。私たちが余計な事したらますます事態がややこしくなってしまう。お姉ちゃん、メールも今日から全然返さへんし」
「そんな悠長な。このまま指をくわえて見とるだけか」
腕を組み麻衣子はしばし黙考した。すると、勇人がおもむろに立ち上がり、
「よし。俺が動かなあかん時やろ。話つけるしかない」
だが何処でどうやって?音楽学校に問い合わせたところ、守秘義務があるので藤堂の連絡先や住所は教えられないとのことだった。加奈はこちらからのメールやラインには一切返信をしない。手掛かりはこのツイッターだけである。

「しかし、探しに行くって言うてもどこをどう探したらいいんや。ああ、それにしても何でこんなにイオンモールは子供が多いんや?まったくイライラする」そんなことをブツブツ言いながら善三はスクールのあるイオンモール桂川の中をぐるぐると歩き回った。走ってきた子供とぶつかりそうになる度に子供の親から舌打ちされる。ガヤガヤした人ごみの中、やみくもに歩いても藤堂が見つかるわけもなく、次第に疲労して憔悴してくる善三だった。自分とは縁のない若者向けの洋服の店、雑貨店、行き交う幸福そうな人々の顔を見ていると善三は孤独に陥り、何だか自分が危ない人のように感じてきた。「まったく。イオンモールは苦手じゃ」そう独り言を言いながら、至る所に設置してある椅子に腰かけた。
座りながら走り回る子供たちを見ていると、自然と今は亡き娘や加奈の小さい頃が思い起こされて、善三は泣きたくなった。
一方で勇人は昼休憩に熱心にスマホを眺めている。藤堂の過去のツイートを遡って行動範囲を割り出し、何とか捕まえようという算段だ。音楽教室で待ち伏せするか、と思ったが、向こうも危険を察知したのだろう、加奈が失踪した日以来音楽教室には出ていないようだ。闇雲に歩き回って探してもまず見つかりっこない。やはり、こうしてツイッターを監視しながら、藤堂の出没する場所を虎視眈々と狙うのが賢いやり方だ。現在勇人は藤堂のアカウントをフォローして、スマホには藤堂が馬鹿なツイートをするたびにお知らせが来る設定にしてある。早速、スマホが振動する。すかさずチェックしたが「疲れた~」とかいう意味のないツイートだった。さらに数分後には「すげー、イライラする」「Yの野郎、しがない工場長の癖しやがって」みたいなネガティヴツイートが続投された。憎しみのためにスマホを持つ手が震えたが、ひとつ情報を得た。藤堂は恐らく工場でバイトしているのだ。しかし、こう馬鹿なツイートばかり見ていると勇人はおちょくられている気がしてきた。もしかしたら藤堂は確信犯でこうして勇人がツイッターをチェックしているのを知っている可能性もある。それにしても天性の人をイライラさせる才能を持っているようだ。勇人は一連のネガティヴツイートにいいねをつけて少し復讐した気になった。さて、ドラッグストアの仕事が終わってスマホをチェックすると藤堂のツイートが五件あった。その最後のツイートに「仕事終わる。銀の卵なう」なる文言を見つけた。とうとう見つけた。この辺で銀の卵というたこ焼き屋は長岡天神か洛西口にあったはず。洛西口は音楽教室のある桂川イオンの最寄り駅・・・・・・勇人はすかさず善三に電話をかけていた。
「おじいちゃん、桂川イオンや。もうすぐ来るぞ。俺も今から行くから」

 

恐らく藤堂は楽器店に来るだろう。ファッションには縁のなさそうな藤堂がファッション店に出没することは考えにくい。フードコートやマクドナルドなんかには立ち寄るかも知れない。が、とにかく三階だ。善三はイオンシネマの前に陣取って直立し、上りエスカレーターの降り口付近を睥睨している。しかし、ただ突っ立ってエスカレーターを登ってくる人を睨みつけているだけでは危ない人のようだ。だがそんなことは構ってはいられない。善三は鼻息荒く仁王立ちして腕を組み、過ぎゆく人々を睨みつけては不審がられるのだった。五分が過ぎ、十分が過ぎ、現れない藤堂に対する善三の強気も持続していると、少々疲れてきた。しかし、今に藤堂がぬけぬけと現れたなら、まずこの拳で殴らねば気が済まない。気を引き締め再び過ぎゆく人を老若男女問わず睥睨して立ち続ける。が、ついに警備員に声をかけられた。
「もしもし。ご気分が悪いのですか?」
「おぬし」
「は?」
「黙って立ち去れ」
「はあ」
首を傾げながら警備員は突っ立っている。と、その時視界の隅に黒いシルエットが映る。背中を丸めて、うら寂しいオーラを発しながら、俯きながら歩いている男がいる。奴だ。藤堂らしき人物がとぼとぼ歩いているではないか。反射的に善三は警備員を押し退け藤堂の後を小走りで追った。後ろで警備員が何か喚いているが、そんなこと知ったことではない。善三は藤堂に追いつき、そのよれよれのシャツの襟首を掴んだ。
「君、待ちなさい!」
「ええ?」
藤堂は体勢を崩したが、あまり驚いている風でもなかった。まるで、ここで呼び止められることを察知していたかのようである。
「加奈の家族の者や。ちょっと来てもらおう」
藤堂は乱れたシャツを直しながら不審な顔をしていたが、その顔はだんだん不敵な笑いに変貌した。
「わかりました」
その笑いに善三は屈辱を感じて拳を力いっぱい握りしめた。わなわなと震えながらも虚勢を張って、善三は着いてこい、と顎で示した。

善三はイオン一階のブックカフェへ藤堂を連行して、まず、加奈の安否を確認した。ブックカフェは客がまばらであった。
「元気ですよ?」
藤堂は不思議そうな顔をして余裕のある態度を装っているが、少し目が泳いでいる。些か緊張し、相手の出方を窺っているようでもあった。善三はこの男の何もかもが気に入らなかった。藤堂の話によると加奈は藤堂のマンションでゴロゴロしているだけの毎日らしい。
「率直に言おう。加奈から手を引いてくれ」
「何故です?」
「何故って・・・・・・加奈は人妻じゃ」
藤堂は手を組んで顎を乗せると、
「僕たちの先生、松方様はそんなこと気にしませんよ?僕らの会は、そんな既成のモラルや常識から自由であろうというのが始まりなんです」
憤懣やるかたない善三は、
「な、何がモラルだ。幼稚なことを言うな」
「松方様を侮辱するのは許しませんよ」
藤堂は目を細めた。善三は足が震え出した。
「ええい。とにかく、加奈を返せ」
「返すも何も。彼女は自分の意思でいるんです」
「・・・・・・」
藤堂にかわされて、文字通りにぐうの音も出ない善三だった。相手が一枚上手のようだ。しばし黙考した後、善三は咳払いをして出方を変えた。
「君には良心がないのか」
「どういう意味です」
「人の妻を寝取りやがって」
「下品なこと言わないでください。そんなことはしてません」
「嘘をつけ」
「嘘ではありません。第一、僕らの会では性行為は一切禁じられていますから」
これは善三には意外な気がした。
「本当か?」
「ええ」
それも疑わしかったが、目の前の男に得体の知れない不気味さを感じ、善三は押し黙ってしまった。さらに出方を考えているうちにまたもや沈黙が続いた。
「ま、そんな程度の発想しかできないんですね。子が子なら親も親というわけだ。じゃ、時間も勿体ないので僕はこれで」
藤堂は小馬鹿にする態度を取り、早々に話を切り上げようとした、善三はムッとして、
「何だと。ちょっと待ちなさい、話は終わっとらん」
「親子そろって馬鹿だというんです。僕に話すことはもうない」
「親子じゃない。孫だ」
「どっちでもいい」
藤堂は適当に話を切り上げようとした。善三は歯ぎしりをして、悔しさにほとんど泣いていた。
「き、貴様許さんぞ」
「いや、もうマジで話すことないんで」
藤堂は露骨に欠伸をして時計を見た。
「あっ、もう十五分も経ってる。こんな馬鹿なおっさんと育ちの悪い娘に関わって時間を浪費しちゃった。あーあ、もう行かなきゃあ」
善三は血液が逆流するほどの怒りを覚えた。わなわなと震え明らかに目の前の男に対して殺意を持った。善三は低い声で唸り出したかと思うと、突如、ひーん、というけたたましい咆哮を発し、それは店内に響き渡った。怒りの衝動で訳が分からず前後不覚になった善三は、やおら立ち上がり、震えるその手で傍に飾ってあった花瓶を鷲掴みにして頭上に振り上げた。
「ひいっ」
藤堂は思わず両手で頭を防御したのだったが・・・・・・その花瓶は藤堂の頭部に振り下ろされる事はなかった。善三の怒りの衝動はなぜか本人に向けられず、目の前のガラステーブルに向けられた。花瓶は垂直にガラステーブルに振り下ろされ、猛烈な衝撃音とともに花瓶は折れ、ガラステーブルは粉砕されたのだった。何だかよくわからない展開に呆然自失となった善三は肩で息をしながら、ただ立ちつくしていた。

 

突如として店内は騒然となった。善三の前で力が抜けたようになった藤堂は、動くことができないでいる。客は一人、また一人と会計へと向かった。と、たちまち騒ぎを聞きつけた巨漢の店長が飛んできた。人相の悪い男で頭髪をオールバックにしている。店長は粉々になったガラステーブルを見て逆上した。店長はその太い腕で藤堂の首根っこを掴んで引き上げた。
「何すんねん、こら」
店長はガラステーブルを粉砕したのが藤堂だと勘違いしているようだ。
「い、いえ、僕は何も」
「はあ?」
「ば、僕はただ傍観していたんで」
店長は意味が分からないという感じで、その細い目をなおさら細くして藤堂の顔間近で睨みつけた。
「お前以外誰の仕業や。歴然としとるやろが」
藤堂は善三の方を指差して弁解しようとするが、上手く説明することができないでいる。
「僕じゃないっ。こ、この爺さんが・・・・・・」
店長は首をねじって、善三の方をじろりと見た。震え上がった善三であったが、勇気を振り絞り、持てる力をすべて声帯に集中して、気がつけば叫んでいた。
「人のせいにすな!」
何だかよくわからないが、店長はがたがた震えている善三を見て、藤堂の方に向き直った。
「こんな爺さんにガラステーブル壊す力があるか?そうや、この爺さんの言う通りや。人のせいにしやがって」
店長はすっかり藤堂の仕業だと決めつけているようだ。藤堂はみっともないまでに狼狽している。
「ちょ、ちょっと待って」
「うるさい!」
店長の重い一撃が藤堂の腹にめり込んだ。
「ぐうっ」
藤堂は呼吸ができない。苦悶の表情を浮かべながら、数歩よろめいて別のテーブルにぶつかり、足を滑らせ派手に転倒した。その背中に店長は連続してキックを浴びせる。見かねた数人の若いスタッフが、怒り狂う店長にタックルした。
「店長、やめてください」
「離せ」
スタッフ達と店長がもみ合いとなり、店内は再び騒然となった。客は怯えながらこの騒ぎを遠巻きに見つめている。その隙に藤堂はよろよろと出口の方へ向かった。逃げる気だ。
「待て」
善三が呼び止めるが、藤堂はすでに小走りでブックカフェを出たところだ。必死で逃げる藤堂。と、藤堂の視界に閃光が走った。それと同時に鈍い痛みを首に感じた。再び呼吸困難に陥り、訳が分からないでいる藤堂は悶絶してひっくり返った。駆けつけた勇人のラリアットがしたたか藤堂の首に食い込んだのであった。
「待たせたな、藤堂」

勇人のヤ〇ザスイッチがオンになった。ドスのきいた声は藤堂を震え上がらせた。
「なめとんか、お前。人の心をおもちゃにしやがって」
藤堂はまだ呼吸が上手くできない。依然として苦しそうにしながら目を白黒させている。
「あ、あなたは、誰です」
「夫じゃ!」
藤堂はすっかり縮こまってしまった。
「人の女に手え出しやがって。お前みたいな小物は家でオナニーしとけ」
「いや、僕らの会では、精神性が重要であって・・・・・・」
「は?」
「だから松方様が・・・・・・ぐうっ」
藤堂の腹に勇人の蹴りがしたたかに食い込んだ。
「ふざけんなよ・・・・・・」
「ひいいい」
「殺されたくなかったら、二度と妻に近づくな!」
再び勇人の蹴りが藤堂の腹に食い込む。藤堂は海老のように丸くなって、悶絶しながら胃液を吐いた。あとはもう、勇人と追ってきた店長に殴る蹴るの暴行を受け、されるがままの藤堂であった。騒ぎを聞いて駆けつけた警備員に勇人が肩を掴まれるまでの間ではあったが。入り口の方からバタバタと数人の警備員が駆け寄ってくる。
「畜生、離せ」
阿修羅のごとく怒り狂う勇人であったが、たちまち警備員に組み伏せられてしまった。それを遠巻きに見ている善三はがたがたと恐怖に震えながら、立ちつくすだけだ。
「終わった。わしの家族はもう終わりじゃ」
ひっくひっくとしゃくり上げている善三の肩にも冷酷な警備員の手がかけられた。善三の耳には世界の終わりを知らせる鐘の音がありありと聞こえるのだった。

 

留置所の中で勇人は膝を抱えて文字通り灰色の日々を過ごした。取り調べには自尊心を砕かれ、一人で眠る夜には不安のあまり体が震えた。善三はどうなったろう。加奈はどこでどうしているだろう。留置所内ではスマホも使えない。次第に不安は勇人の心を蝕んでいき、その表情は病的になり犯罪者の空気を纏うようになっていった。もうどうにでもなりやがれ、と項垂れる日々だった。二日経って車で運ばれ別の部屋に入れられた。車の中で、ああ、俺はどうなっちまうんだろうと呟く。弁護士立てる金なんかないし、情状酌量の余地もありそうにない。傷害事件の知識などまったくない勇人は焦燥感と恥辱の入り混じった気持ちを持て余し、ただ留置所の壁を見つめるだけの毎日だった。ここにいること自体で頭がおかしくなってしまう。三日が経ち、四日目に光は差し込んできた。留置所の格子を開けるガチャガチャという音で午睡から醒めると、唐突に釈放だと告げられた。狐につままれたような気持ちで久しぶりに娑婆の空気を吸ったわけだが、事件は不起訴処分、ということだった。返却されたスマホでまず善三に電話をかけた。五回コール音が続き、案外元気そうな善三名の声が聞こえてきた。
「ラッキー、わしも不起訴処分じゃ」

事件から十日後、深夜の「モリエール」にて勇人は一人、カウンターの隅でワインを舐めている。静かな夜だ。沙耶はいつになく優しげな様子で勇人に杯を注ぐ。
「お勤めご苦労様」
「ありがとう」
失笑しながら勇人は答えるのだった。
「本当に吃驚したわ。さすがに私も留置所には入ったことないけど。結局何日いたの?」
「四日間」
「だけど・・・・・・変な話ね。急に不起訴処分なんて」
「そうだね」
四日が経って勇人は突然釈放された。もう前科がつくことは免れないと観念していたのだったが。乱闘事件のあとすぐに駆けつけた警官に取り押さえられ、勇人たちは器物損壊、傷害の現行犯で連行された。だが、絶望の中膝を抱えているとガチャリと扉は開けられた。善三に至っては弁償金を払うことだけとなって放免となった。
「最初は藤堂の属している団体のせいやと思とった。警察沙汰にしたくない何かがあるのか。あるいは宗教上のことちゃうかって。でも何のことはない、実のところ、あの騒動が就職に響くとイヤなんやろうね。どこまで小物なんやって話や。俺はそう見とる。それにあいつの団体って単に大学の研究会やし」
「でもその藤堂って人から手紙が来たんでしょう?」
「そうなんだよ」
釈放されて家にたどり着くと勇人宛てにぶ厚い封筒が投函されていた。差出人を見ると藤堂からだった。早速開封して読んでみると、何やら自らの信仰についてワープロで長々と書いてあるのだった。何だか分かりづらい文章で最初は何が書いてあるかわからなかったが、腰を据えて子細に読んでみると、藤堂が加奈や善三を侮辱したことを深く反省し恥じているということを言いたいようだった。最初は鼻白む思いで読んでいた勇人だったが、独りよがりなところもあるものの、不思議とこの文面には真摯なものも感じられた。
「沙耶ちゃんはどう思う?」
「うーん、どうやろ。その手紙を実際に読んでないから何とも言えんけど」
「まあ、藤堂が言うには自分の宗教上の迷いがあのような行為につながったと言うんだよ。それで、俺に殴られたことにより、目が覚めたらしくて。これは神が遣わした啓示であってとか、後はヨブ記がなんたらとか長々しく書いてあったな」
「ふうーん」
「でも本音は就職に影響するのが嫌やからやと思うけどな」
「そうかも知れんけど。ちょっとした謎やね」
「そうやね」
勇人も沙耶もしばらく考え込んでしまった。
「でも・・・・・・信じてあげたら?実際藤堂さんって人は真面目な人なんやと思う」
「真面目?」
「うん。私はそこまで物事を考え詰めるなんてできない。飽きちゃって」
「ふむ」
「そう、勇ちゃんの周りにいる人はみんな真面目なんやと思う。勇ちゃんだってけっこう真面目なんちゃうかな」
「それは買い被り過ぎや」
勇人が低い声で笑うと、沙耶もつられて笑った。一方、加奈は事件後、心の整理のために長岡京市にある精神病院に短期入院することになった。そこで本格的なカウンセリングや断酒のためのリハビリといった治療について医師の判断を待っている所だ。
「奥さんは元気なのかしらね」
「うん。まあ良い方向に向かってる」
「明日行くんだよね、病院まで」
「まあね」
勇人はぐっとワインを飲み干すと、
「ちょっと緊張するんやけどね」
「大丈夫よ」
「そうかなあ」
沙耶はおもむろにiPhoneを取り出すと、コンポの方に向け操作した。スピーカーからはゴッド・セイヴ・ザ・クイーンが大音量で流れ出した。ジョニーロットンのだみ声が店内に響き渡る。ちょっとだけ勇人は体の芯が熱くなってきた。
「まあ、ベタやけどこれでも聴いて元気出して。凜ママの留守の間だけやけど」
「ありがとう。沙耶ちゃん」

 

翌日、勇人と善三、そして麻衣子は長岡京市にあるN病院の長い渡り廊下を歩いている。
「あいつこんなところに閉じ込められてるんか?気の毒に」
勇人は独り言のように言った。
「でも、篠田先生の紹介してくれた先生、悪くなかったですよ。とても丁寧にお姉ちゃんのこと診てました」
「そうなんですか。でもこんなところにおいておけん。すぐにでも連れて帰りますよ」
「でも、先生の許可を得ないと・・・・・・」
そんな事を話しながら、一行は入院病棟の扉をくぐってうす暗い通路を通り、「デイルーム」というところに来た。入院患者がテレビを見たり、コーヒーを飲んだり思い思いのことをする場所だ。庭に面したガラス窓から光がさして意外と明るい印象だ。何故かヘッドギアをしている人や、壁に向かって痙攣している人がいる。緩やかに歪んだ空間だった。入院患者たちは闖入者である勇人たちにただぼんやりと注目している。一人の男性患者が善三の被っているハンチングをひったくっていった。「こら、返せ」と善三はむきになって追いかける。たちまち師長と思しき女性に叱責されると、男性患者はすごすごと帽子を返してきた。師長は意外と若い。三十代と思われる。その師長は勇人たちに近づいて一礼してきた。勇人たちはそれぞれぎこちなく挨拶を返した。
「こんにちは。私、師長の谷山です。お話は聞いています。加奈ちゃん昨日からそわそわしてお待ちかねですよ」
「はあ。妻がお世話になっています。で、妻はどこに?」
師長の谷山はにこにこしながら、
「え?そこにいますよ」
勇人の脇のテーブルにクジラ柄のパジャマを着た女がいた。あまりに周囲に溶け込んでいたのでわからなかった。くすくす笑いながらプラスチックの湯のみで加奈がお茶を飲んでいた。驚いた勇人を加奈は見上げた。
「あ、加奈」
いくらかぱさついた髪をしていたが、その目は狂っても、濁ってもいなかった。二人の視線が合った。最初は不思議そうな顔をしていた加奈だったがだんだん温かな表情となってきた。数秒の沈黙のあと口を開いたのは加奈だった。
「遅いよ、勇ちゃん」
「うん。久しぶりやな」

一同は加奈を囲む形となった。勇人だけが何故か加奈の向かいに座った。久しぶりの夫婦の再会だったが会話は弾まないのであった。お互い言いたいことはいろいろあるに違いなかった。しかし、ふっと二人は黙り込んでしまうのだった。
「お姉ちゃん、まだ勇人さんに謝ってないやろ。まず謝らな」
麻衣子は目に涙をいっぱいにしながら言った。それでも怒っているのではなかった。笑みを湛えている姉を見て安堵しているのだ。麻衣子はそっと姉の手を取った。おどけた仕草をしながら善三も、
「そうじゃ、わしにも謝らんか」
そいうのが精いっぱいで次第にしゃくり上げる善三だった。くるりと背を向けると小走りでデイルームの窓の方へ行ったかと思うと、ガラス窓に額を擦りつけて、ひーんと声を上げて泣き出した。
「もう、おじいちゃんはうるさいなあ」
麻衣子はそう言ってくすくすと笑った。それにつられて加奈も笑った。仕方がないなあという感じで、麻衣子は泣いている善三の方へ走り寄った。
勇人と加奈が二人きりになると急に静かになった。お互い出方を窺っているような感じだったが、おもむろに加奈は決意したような表情で何やら緑色の字が載っている紙をパジャマの胸ポケットから取り出し、すっと勇人の前に置いた。離婚届だった。すでに自分の欄には記入していた。
「ほう」
勇人は腕を組んでその紙を見つめたのだった。数分の沈黙のあと加奈が口を開いた。
「今まで本当にごめん。勇ちゃんのことを束縛してばっかりで。自分のことばっかりで・・・・・・何ていったらいいかわからへんけど。私が馬鹿やった」
笑みを湛えながらも、加奈の頬には一筋の涙が伝った。勇人は無言だった。
「自由になったらいいよ。私らなんか夫婦ちゃうやん。形だけの夫婦や」
加奈は俯いた。それには答えずに、勇人は見慣れないその紙をそっと手に取ってしげしげと眺めた。
「ふーん。離婚届ってこんな紙やったんやな。はじめて見たわ。しっかし、下手な字やな」
実際その下手な文字は哀れさを誘うものだった。勇人は再び腕を組んで椅子の背もたれに身を任せた。
「しかし、俺は形式が大事やと思うけど?」
「私にはようわからん」
「俺は何でも形から入るんでな」
加奈は勇人の言うことがよくわからなかった。
「加奈の方こそ俺のこと愛想つかしたんとちゃうか」
「いいえ」
加奈は即答した。
「ふむ。それと、藤堂のことはもういいのか?」
こくんと、加奈は頷いた。まだ心の整理がつかないが、加奈の中では一つの結論ができていた。
「一口には語れないけど、あれは執着やったと思う。何だか靄が消えるように今はすっきりしてる。あの事件の知らせを聞いた時にはむしろほっとしたの。なんだか悪い夢を見ていたみたいで・・・・・・勇ちゃんや皆には本当に申し訳なかったと思ってる。傷つけたと思う。だけど私は本当に寂しかった」
勇人は厳粛な様子で話の続きを待った。
「それで、藤堂さんのマンションに転がり込んだのだけど・・・・・・私がいても彼の内面には入り込む余地はなかった。私が話しかけても上の空で何だか難しそうな宗教について語ったり、考え事してたりで。これじゃあ、すべてを捨ててきた甲斐がない。微かに私は死ぬことを考え始めてた。そんな矢先にあの事件が起こって・・・・・・」
それ以上言うなと勇人は手で遮った。
「本当に、俺の方こそなんて言っていいか」
膝に置いた両の拳を勇人はぐっと握りしめた。加奈は手で涙をぬぐいながら、
「でも、もういいの。お互い違う道を歩みましょう」
勇人は深く息を吐いて首を横に振った。そして断固とした口調で言った。
「断るっ」
手に持っていた離婚届をゆっくりと引き裂いた勇人だった。加奈はあっと叫びそうになった。
「勇ちゃん、なんで?」
加奈は目を丸くした。
「もうちょっと頑張らへんかなと思って」
「勇ちゃん」
加奈は俯いて涙の雫をポタポタとテーブルに落として嗚咽した。勇人は足を組み替えテーブルに肘をつき、デイルームの窓に目を向けて差し込む陽光に目を細めた。

「こら、返せ」
再び善三が帽子を患者に奪われ、デイルームを右往左往している。麻衣子も同様に帽子を奪った患者を捕まえようとして走り回る。ほとんど患者たちと同化している善三と麻衣子だった。患者たちは帽子を巧みにパスして回す。それを追いかける善三と麻衣子。ここでは患者たちの方が一枚上手なようだ。善三は本気になって追いかけるが翻弄されるばかり。案の定、善三は置いてあったバケツに足を引っかけ派手に転倒した。転倒に気づいた看護士が駆け寄り助け起こすも、患者たちは追い打ちをかけるように嘲笑を浴びせて、善三たちを挑発するのだった。善三は悔しくてたまらず、またもやひーんと泣き出してしまう始末。麻衣子はすでに追いかけるのをやめてこの滑稽な状況に肩をすくめた。勇人と加奈はそんな様子を見ながら、
「うちの家族って、丸ごとここへ入院したらええかもね」
泣きやんだ加奈が目を擦りながらいうと、そうかも知れん、と勇人は低い声で答え、ふっと笑った。案外それはいい考えかも知れなかった。
「勇ちゃん。お願いがあるの」
加奈は俯きながら言った。
「何?」
「帰ったら抱いて下さい」

 

タクシーは滑るように九号線を走る。山の中を抜け洛西の方から見下ろす風景は加奈を安堵させた。この坂を下り千代原口を左に曲がれば我が家も近い。タクシーの窓ガラスから七月の日差しが容赦なく加奈の顔に照り付ける。加奈は手をかざして日光を遮った。
「勇ちゃん、もう夏やね」
「ああ」
前部座席の勇人が答える。タクシーは交差点に差し掛かる。馴染んだ景色が次々と目に入ってくる。そして後ろに流れていく。
「ああ、ちょっと怖いな」
加奈はぐっと両手を顔の前で組んで握りしめた。勇人はシートに背を預けたまま、
「なんも怖い事あらへん。じいちゃんも麻衣ちゃんも待っとるで」
二か月の入院とリハビリを経てようやく退院となった加奈は、迎えに来た勇人とタクシーに乗っているわけだが、加奈としては不安も大きいのであった。今後は自宅療養をしながら酒も完全に断つことを目指さなければならない。
「お前が入院しとる間に梅雨も明けたし。これからなんかええこともあるわ」
そう言っているうちにタクシーは家の前に到着した。勇人は料金を払って、素早く車から降りると、加奈の手を取って降りるのを手伝った。
「こんなん、してくれたことなかったのに。梅雨がもう一回戻ってくるわ」
勇人はそれにふふ、と答えただけだった。それでも加奈にしてみれば、こんな仄かな思いやりが嬉しいのだった。タクシーが去っていくと、二人は玄関の前に立った。
「ええから、家に入ろう。ピンポン押して」
だが、加奈はなぜか逡巡している。インターホンを押すのが怖いのだ。
「ピンポン押したらええんや。お前の家なんやから」
「でも・・・・・・迷惑じゃない?」
加奈は下を向いて小石を蹴っている。
「ほら、手伝うから」
勇人は加奈の固まった手を取り、インターホンを押すのを手伝った。そっとインターホンのスイッチを押すと、扉の向こうには善三と麻衣子と思しきどたどたという足音が近づいてくる。加奈はびくっとして後ずさった。
「私、家族の一員やろか。ドキドキする」
「そうに決まってるやん」
「間違いなく?」
「ああ」
勇人は加奈の背中を軽く叩いた。やがて扉はガラガラと乱暴に開けられ、破顔した善三と麻衣子が迎えた。
「おかえり、馬鹿姉ちゃん」
善三に至っては興奮のあまり玄関先で転倒しそうになりながらも、
「よう帰ってきた。よう帰ってきた」
そう繰り返しているうちに、またもや号泣してしまう。加奈もその場で嗚咽を止められなくなり、
「た、ただいま・・・・・・」
それだけを言うのがやっとだった。

皆は玄関先でしばし加奈の帰りを喜んだ。勇人は加奈の肩にポンと手を置いて家に入るように促した。加奈は涙に濡れた目を擦りながら玄関の敷居を潜った。久し振りの我が家は相変わらず薄暗く、それでいて懐かしい香りがした。一足先に上がり廊下を渡ってキッチンのドアを開けると、さすがに過去の記憶が蘇り少し眩暈がした。だが、加奈は負けられない、と思った。弱いままではいられないと思った。加奈は家に帰ったらまずしようと決めていたことがあるのだ。加奈はぐっと奥歯を噛みしめた。酒も完全にやめる。でも、それよりも、何よりも負けられないのは亡き父と母の存在だった。彼らは褪せた小さな写真の中からずっと加奈を見つめていたのだった。彼らがとても若い頃、二人が寄り添う姿の写真がキッチンの壁に画鋲で貼られていた。加奈はそれをそっと壁から外し、戸棚の引き出しの中に入れた。これでいい。これでいいんだ。背後では皆が騒ぎながらどたどたとキッチンへ入ってくるところのようだ。これから私は始まる、きっと上手くいく。そう誓って加奈は振り向くのだった。

「終」

2021年11月21日公開

© 2021 藤村羅甸

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"愚者のカデンツァ"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る