六月の雨は朝からビニールを叩いている。ハウスの中は白く煙って、通路の先が見えない。高設ベッドの苺はもう仕舞いで、残っているのは親指の先ほどの実ばかりだ。小さい実は酸っぱいと皆言うけれど、正しくない。小さいまま赤くなった実は、酸っぱさの奥に、季節の最後の甘さを畳んで隠している。市場に出せないだけだ。私はそれを摘んで、ジャムにして、待っている。
作業日誌は青い表紙の大学ノートで、祖父の代から数えて十四冊目になる。天気と気温と収穫量の欄しかない。だから人間のことは、収穫量の隣に書く。
四月六日、晴れ、最低気温七度、収穫三十一キロ。一人目が来た。
五年前のページだ。
農業求人のサイトに、祖父が死んだ年から同じ文面を出している。住み込み可、未経験可、給料は安い、山しかない。期間はいつでも、いつまででも。応募してくるのは、決まって大都会の男の人だ。電話の最後に、いつから行けばいいですかと訊かれる。いつでもいいのよ、と答える。この文面と、この返事で来る人を、私は採る。面接はしない。
一人目は三十四歳で、池袋でウェブの広告を作っていた。軽かった。軽トラの荷台にひょいと乗るし、ヘタ取りの手が速いし、ラジオの歌を一日で覚えた。苺はヘタの側から食べた。先端がいちばん甘いから、最後に甘いのが来るように食べるのだと言った。そういう人だった。二年目から重くなった。六次産業化。ブランド化。単価。ECサイト。このままじゃもったいないよ。夜、スマホの光を顔に当てて、彼はよその産地の成功例を読み上げた。もったいない、の意味が、私には最後まで分からなかった。うちにあるのは天気と労働で、それは減らないし、増やすものでもない。夢なら、夢を見る人が都会で見ればいい。ここに持ってこられても、干す場所がない。
ハウスの裏手から山へ、梅と無花果の果実園が続いている。祖父が植えたきり、誰も増やしていない。売るほどは穫れない。
三年目の八月、一人目は果実園のいちばん奥の、梅の木の下で倒れていた。草刈機のエンジンはかかったままだった。救急車は農道で二回切り返して、二回目で脱輪しかけた。心臓だった、と後で聞いた。骨は埼玉の実家が持って帰った。私物はコンテナ二箱だった。取りに来た妹さんが玄関で泣いた。私は泣かなかった。妹さんは、一度だけ私を睨んだ。
八月二十日、晴れ、三十五度、収穫なし。一人目が死んだ。
二人目は梅田から来た。二十九歳。最初の月から、畝の間で自分を撮りはじめた。農業男子、というのをやっていたらしい。フォロワーが三千人を超えたあたりで、彼は苺を先端から食べるようになった。いちばん甘いところを最初に、カメラの前で。一年半いて、二月の雪の日に、東京の会社に決まったからと出て行った。農業のDXをやる会社だと言った。荷物は、来たときより少なかった。
二月九日、雪、収穫十二キロ。二人目が死んだ。
日誌には嘘を書かない決まりだ。だから、そう書いた。
十四冊目は、あと十数ページで終わる。十五冊目は、まだ買っていない。
祖父が死んだ日の欄は、私が書いた。十月二日、曇り、収穫なし。祖父が死んだ。帳簿は、書き手の死だけは自分で書けない。いちばん近くにいる手に、その一行を譲る。求人の文面に書かなかった仕事は、それだけだ。
三人目のあなたは、この春に来た。三十一歳、恵比寿。まだ軽い。苺は丸ごと口に入れて、ヘタだけあとから指でつまんで出す。器用なのか不精なのか、まだ分からない。
昨日、ジャム用の実のヘタを取りながら、あなたは一人目と二人目の話を聞いた。私が話した。梅の木。切り返した救急車。雪の日の、少ない荷物。話し終わると、あなたはヘタの汁で黒くなった自分の指を見ていた。
「そういう話を、楽しそうにするんだね」
ハウスの横を夏の風が通って、ビニールが一度だけ膨らんだ。楽しそうに聞こえたのなら、たぶん、楽しいのだと思う。死んだ人の話をしているあいだだけ、その人はもう一度うちで働く。風と同じで、どこも傷つけずに通っていく。
夜、あなたは缶ビールを一口で三分の一減らしてから訊いた。
「俺じゃなきゃだめってこと、あるの」
私は蚊取り線香の向きを直してから答えた。
「ない」
「……はっきり言うね」
「あなたがいなくなったら、私は別のあなたを見つけるだけ」
あなたは笑おうとして、頬が途中で止まった。缶を置いた。置いてから、長いこと何も言わなかった。網戸の外で、雨がまた強くなった。特別にした人は、いなくなると穴になる。あなたが特別でなければ、穴は開かない。私はそういうやり方でしか、待つことを続けられない。口では言わなかった。言うと、慰めの形になってしまう。
代わりに、日誌の付け方を教えた。天気、気温、収穫量。人間のことは、収穫量の隣に。あなたは黙って前のページを繰っていった。二人目が死んだ、の行で、指が一度止まった。何も訊かなかった。次のページを繰る音がした。
今日は終日、雨だった。収穫はない。夕方、雨がいちばん細かくなった時間に、私は上がり框に長靴を二足並べた。
「果実園の奥まで、おいで」
傘は一本で、半分ずつ濡れた。梅の木の下で立ち止まると、青い実の匂いがした。ここで、と言いかけて、やめた。この、と言った。
「この?」
この――。
続きは出てこなかった。虚空とか、呼吸とか、そういう言葉は、口に出すと、日誌に書けない嘘になる。黙っていたら、あなたが屈んで、私に接吻をした。雨より柔らかかった。この世で私が知っているどんな柔らかいものより、柔らかかった。一人目のときも、そう思った。二人目のときも、たぶん。
家に戻って、濡れた前髪のまま日誌を開く。六月十九日、雨、終日、収穫なし。
その隣の欄は、空けてある。
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