花を刺す

大木芙沙子

小説

5,685文字

二〇二〇年の四月に書いたものです。
いつか状況がよくなって、あんなこともあったねと言えるようになってから公開しようと思っていたのですが、やっぱり公開することにしました。

僕たちが住む町に外出制限が出されてから五日が経った。妻がいらだっているのがわかる。

六日目。健康のために、政府からは一日三十分程度の日光浴が推奨されている。ベランダのない我が家では、日光浴をするために一人ずつ窓枠に腰かけなくてはならない。妻は日光浴の間じゅう、スマートフォンをいじっている。ときどき通りを見下ろしては憂鬱そうに眉間にしわを寄せている。

七日目。買い物から帰ると妻が僕の古い洋服を切っていた。それどうするのと訊いたら、刺繍をするの、と鋏を動かしながら言った。この服もう着ないでしょ、はじめはそのまま刺繍をしようと思ったんだけど、大きすぎて針を動かすのに邪魔だから、切ってまずは練習台にすることにしたの。そう、と僕は言いながら、何枚かの気に入っている洋服をクローゼットからこっそり抜いた。

十日目。相変わらず自宅で過ごしている。生活必需品の買い物と犬の散歩以外は全面的に禁止されていて、しかも買い物や散歩は複数名で行ってはいけないことになっている。窓から見下ろしても通りにはひと気がない。たまに歩いている人がいても、二人以上いる場合にはきっちり間隔をあけている。向かいのアパートの窓から猫が顔を出している。猫は毎日この時間になると通りをのぞきこんでいる。彼女(あるいは彼)のその日課が、外出禁止令が出る以前からのものなのか、それとも以後の習慣なのかはわからない。彼女(あるいは彼)はいつも僕のほうはちらとも見ずに、うつろな目で誰もいない石畳を見つめている。

何て名前だろうね、僕はソファの妻に向かって言ってみる。あの猫、向かいの窓にいつもいる。妻は手元から目を上げず、かわいそうにね、と言う。うつ病なのよ、あの猫。切り刻まれた僕のシャツには、赤や青や黄色の糸で、さまざまな花が刺されている。

十四日目。妻の刺繍作品はソファ横のローテーブルから溢れ、今や床にまで散乱している。ガーベラ、カーネーション、ユリ、バラ、カスミソウ、デルフィニウム、ゼラニウム、マム、リシアンサス、アルストロメリア……。

妻の仕事は花屋だった。こんな状況だから、今は当然休業している。政府が一定額の補償をしてくれるらしいから、生活面での心配はとりあえず今のところはないのだけれど、根が怠惰にできている僕と違って、妻は仕事がとにかく好きなタイプの人間だった。こんな状況になるまでは、毎日朝の四時には起きて店の車を走らせて、市場から届いたばかりの花を町のあちこちへ配達していた。さまざまな花が町じゅうのレストランのテーブルや、店先や、窓辺に飾られた。それが終わると店にかえって、注文を受けた花束を次から次へと手際よく作った。花束はどれも客の好みや要望にあわせ、色を選び大きさをあわせ花言葉の意味までを考慮されたすばらしい出来のものだった。妻の作りだす花束は、いつでもこの町の誰かの特別な日や、特別ではない日々を彩るために必要なものだった。つい一ヶ月前までは。

僕は妻のために、NETFLIXで見ることのできる映画やドラマの情報や、部屋の中でできる簡単な体操のやり方なんかを検索しては、妻にどうかなと提案した。最初のうちは、おもしろそう、いいわね、ありがとう、やってみる、と言っていた妻だったけれど、だんだん生返事ばかりになって、やがて僕のネタも尽きた。そのうえ、状況は悪くなる一方だった。報道される言葉や数字によって喚起されるかなしみややるせなさが、日ごと僕らの心の奥底に積もっていった。医者でも政治家でもない僕らにできることは何もなかった。ただ家に閉じこもり、明日が今日よりすこしでも良くなりますようにと祈ることしかできなかった。ほんの数週間前までの世界とは、もう何もかもが変わってしまったのだと否が応でも思い知らされた。僕だってもちろんわかっていたのだ。妻がいらだっている理由は、この七十平米のアパートメントの一室に閉じ込められていることではない。

FaceTimeの画面越しに、同じく自由のない友人や両親と会話をしながら、どうかなりそうよ、と冗談めかして妻はよく言っていた。そんな妻を横目で見ながら僕は、ほんとうに妻がどうかなってしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。テレビのニュースの音を聞きながら、刺繍針を動かす手を止めずに妻はしばしば涙を落とした。嗚咽も声も漏らさずに、まるで九月の雨みたいにぽつぽつ涙をこぼすのだった。僕はそのつどソファへ行って、妻の肩を抱いたけど、妻は何にも言わなかった。表情一つ変えなかった。刺繍枠の中、かつては僕のシャツだった、今はただの正方形の布地の上で、ユリの花弁が妻の涙を吸い込んだ。

二十日目。近所に住むミチが、ワンチャンをつれて僕らの家を訪ねてきた。
「ひさしぶり」玄関先でマスクをしたままミチは言った。僕は除菌用のアルコールスプレーを渡しながら、「ひさしぶりだね」と言った。妻が奥から出てきて、ハグをするようなジェスチャーをする。「会えてうれしい」。ミチもそれに倣って、「私もよ」と同じ動作をしてみせる。その間じゅう、ワンチャンは大人しくミチの足元でお座りをして、潤んだ黒目でこちらを見上げている。吐息は荒く、抑えきれない興奮や期待に尻尾をばたつかせている。

八歳のダックスフンドのワンチャンを散歩させてみるかという提案はミチがしてくれた。「ワンと一緒なら、堂々と公園まで歩いて行けるよ」。たしかに今の僕らにとって、スーパーマーケットへつづく道以外の場所を歩けるのはたいそう魅力的だった。

ミチがこの町にきてからもう五年になる。彼女は夫であるジャンと二人、町でブラッスリーをやっている。ワンチャンをはじめて紹介されたとき、僕は思わず笑って、「中国人みたいな名前だね」と素直な感想を口にした。言ってから、差別的な言葉に聞こえたかもしれないとはっとした。でもどうしてそれが差別的な言い方に聞こえかねないんだろう、とも同時に思った。

ミチは笑って首を振った。「日本語で犬のことを、ワンチャンって呼んだりするの」と言った。
「そうなんだ」と僕は言った。そのときも今日のように、ワンチャンは賢そうな目で僕を見上げながら、短い尻尾を左右にあわただしく振っていた。「かわいいね」僕は言った。「僕の友人に、ワンっていう中国出身の男の子がいるんだ。彼はとても賢くて優しい。それに餃子を作るのがすごくうまいんだ。ワンチャン、いい名前だね」

嘘だった。僕には中国人の友人が何人かいたけれど、ワンやチャンという名前の友人はいなかった。でも僕が中国人に対して好感を持っているのは本当だった。僕はたぶん、ミチにそういうアピールを暗にしたかったんだと思う。実際、僕の中国人の友人たちはみな優秀で、手際が良く、料理がうまかった。ミチはただ笑っていた。自分の愚かさとこざかしさが恥ずかしかった。もうずいぶん前のことだけれど、僕はワンチャンを見るたびに、あの日のミチの笑顔を思い出す。

玄関でワンチャンにいったん水を飲ませてから、「さて」とミチは言う。「どっちが行く?」

犬の散歩も一人で行かなくてはならない。とりあえず今日は妻が行き、明後日は僕が行かせてもらうことにした。ワンチャンの短い足に、二人分の散歩を課すのは申し訳なかった。それでなくても僕らの家へ寄り道することで、いつもより歩かせているというのに。

妻はワンチャンのリードをミチから受け取り、「行ってくるね」と言った。心なしか、声が晴れやかになっていることに僕は安堵する。

玄関先で除菌用アルコールスプレーを洋服に吹きかけ、そのまま洗面所で手洗いうがいをすませてから、ようやくミチはソファに座る。「これだけやっても心配」マスクを外さないままミチは言う。「私が帰ったらここも拭いたほうがいいわ」

僕は紅茶を淹れてミチに出す。ソファと向かい合うように、折り畳みの椅子に腰かける。床やテーブルに散乱した布きれの山を見て、「すごい」とミチは言った。「これ全部シルヴィが?」シルヴィというのは妻の名前だ。「そう」と僕は答える。「家にいる間はずっと針をチクチクやってる」

「やることがあるのはいいことね」ミチは言った。そして床に落ちていた布切れのひとつを手に取って見た。「さすが上手、本物の花みたい」

「はじめは違うやつも刺していたみたいなんだけど、ティーカップとかウサギとかね、でもいつのまにか花だけになったよ。おかげでうちはこの通り、お花畑ってわけ」

僕が言うと、ミチは「シルヴィは花屋だもの」と言った。それから「仕事はどう?」と僕に訊く。

「ぼちぼち」僕は答える。「ブラッスリーの再開は先になりそうだね」

「仕方ないよ。それに、大変さで言ったらシルヴィの店だって大変でしょう。花屋はブラッスリーよりも再開が早いかもね、再開しても買い手がなくちゃ意味がないだろうけど……」ミチはマスクをあごにずらしてから紅茶を飲み、そしてもう一度「仕方ないけどね」と言う。

たしかに営業再開は花屋もブラッスリーも、もうすこし先になるだろう。今はスーパーやドラッグストア、そしておそらくその次が花屋や雑貨屋、それからパティスリー、最後がブラッスリーやカッフェでの店内飲食になるはずだ。職業に貴賎や優劣はないはずなのに、優先順位はこんなときいとも簡単に決定される。

「ミチの故郷はどうなの?お母さんやお父さんは、たしかお店をやってるんじゃなかったっけ?」僕が訊くと、ミチは表情を曇らせた。

「大変みたい。こっちよりも感染者数はすくないし、外出制限もないみたいだけど、それでも営業はしちゃいけない雰囲気みたいで、そのうえ補償がほとんどないから」ミチは小さく首を振った。「あんまり続くようならお店をたたむことも考えているみたい。もう歳だし、いい機会かもしれないって。これがいい機会だとは、私には全然思えないけど」

ミチの実家はオフィス街にある食堂だった。焼いた肉や魚のメインが一品と、野菜が一品、それに米とミソスープの「いわゆる“定食スタイル”のランチを提供する店」だと以前ミチから聞いていた。

「仕方ないけどね」と言うミチに、僕はただ首を振ることしかできなかった。

「もし私が今より百年早い時代に生きていて、あの国にいて、そして同じ状況だったら、議会に火炎瓶でも投げ込んでやっていたかもしれないけど」ミチはそう言ってすこし笑った。「でもそんなことしたってだめね。わかってる。最近は政府のホームページからご意見のメールを毎日ちまちま送っているの。こんなことしたところで、状況が良くなるとはとても思えないけど、それでもこんなことくらいしかできないから」

僕は手元にあったケースからティッシュペーパーを二枚引き出してミチに渡した。「ありがとう」と言ってミチはそれを受け取り、目じりを拭う。そしておどけた表情で、その紙をひらひらさせて見せた。「これも飛沫感染になるのかしら」

妻は小一時間で帰って来た。「早かったね」と僕は言った。

「そう?」妻の顔がマスクの下でほころんでいるのがわかった。ワンチャンはまだ元気があり余っているようで、三人の顔を順繰りに見ながらせわしなく尻尾を振っていた。

じゃあまた明後日に、と言ってミチが帰ると妻はソファでいつものように刺繍をはじめた。黙々と、青い布地(かつて僕の夏用シャツの背中部分だった布地だ)に、白い糸で花びらを刺す。

「どこまで行ってたの?」僕が訊くと、「川よ」と答えた。「川沿いをずっと歩いてきたの。天気がよくて気持ちよかった。犬の散歩をしている人と、二回すれちがった。ビーグルとラブラドールレトリバー。ビーグルとすれ違うとき、ワンチャンは近寄りたそうにしていたけど、わたしも相手もリードをぎゅっと握って、笑顔だけ交わしてやりすごした。ラブラドールレトリバーのとき、ワンチャンはわたしのほうをうかがうみたいな顔をした。相手の犬も、こっちを見てから飼い主の顔を覗きこんでいた。犬って賢いのね」

妻は言い、僕は窓を開けて外を見た。いい天気だった。川へ向かう途中に植えられた、アーモンドの花はもう落ちていただろうか。去年は見事に咲いていたあの薄紅色の花を、今年はそういえば見ていない。向かいの窓辺では今日も猫がどろんとした眼で道を見下ろしている。

突然、強い風が吹きこんできた。

僕は驚いてとっさに両腕を顔の前にあげた。窓が鳴り、カーテンが見たこともない激しさで踊った。妻が小さな悲鳴を上げる。とっさに振り向くと、吹き込んできた風が部屋中を吹き荒れていた。風はまるで生きているかのような動きで部屋中を旋回し、床やテーブルにあった布きれを舞い上げる。僕はソファへ行き、妻を抱き寄せた。妻は両手で口元を覆い、大きく目を見開いたままその旋風つむじかぜを見ていた。しばらくすると舞い上がった布切れから、何かが剥がれて風の中を舞いだした。よく見ると、それは刺繍された花だった。僕たちが見ている前で、赤や黄色や橙色の糸で刺されていた花が、次々と布から剥がれていく。花はまるで蝶のように旋風の中を飛んでいた。花が剥がれた布は、旋風の渦から外れて床へ放り出されていく。

やがてすべての布から花が剥がれると、旋風は窓から外へと飛び出した。僕らはその後を追い、窓から身を乗り出す。旋風は石畳へ降り、それからふたたび上空へと舞い上がってきた。色とりどりの花が窓の向こうを飛びまわる。向かいの猫が身を乗り出しているのが見えた。しゃがれた声で鳴きながら、何度も空を引っ掻いている。通りに面した窓が次々と開き、人々が一斉に顔を出し、同じように舞い上がる花を見ていた。ある人は大声で感嘆の言葉を叫び、ある人は拍手をし、ある人はぽかんと口を開いていた。花はしばらく僕らの頭上高くで舞うと、そのまま通りを吹き抜けていった。花の飛んでいった先のほうで、人々の歓声や、興奮した犬の鳴き声が聞こえた。僕らは抱き合ったまま、その熱狂をただ遠くに聞いていた。部屋の中には、たくさんの無地の布きれが散乱したままになっていた。

(2020年4月某日)

2020年12月15日公開

© 2020 大木芙沙子

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