ナルキッソスの水辺

猫が眠る

小説

17,729文字

ナルキッソスはギリシア神話の中でも著名だが、その話についてはいくつかの説がある。盲目の予言者テイレシアースは占って「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」と予言した。

私は店で買ったジャケットをそのまま着ると、店の鏡に映った自分の顔を眺めていた。それは初秋の頃のことだった。夏服が肌寒くなってきて服を新調したのだ。店の姿見で服の状態を確かめるふりをしながら、顔が映ったのを少し上目遣いで眺めていたのだ。十分間もそうしていただろうか。待ちかねた店員が、

「よくお似合いですよ」と言った。

店員は客には必ずそう言うものだ。こちらだって分かっているのだから失敬なりに、はっきりと「おかえりください」と言えばいいのに、と思ったが、しぶしぶ姿見から離れて、店を出て家路についた。外は寒々しく落ち葉が舞い、私は服を新調してよかったと改めて思った。

家に帰ると妻がいて、顔を合わせるなり開口一番こう言った、「あらあなた、口元にソースがついていますよ」。

確かに私は服屋に寄る前に、洋食屋でナポリタンを食べた。しかし、服屋で十分も鏡を見ていたのに何故気づかなかったのだろうと訝しがった。

妻は懐からハンケチを取り出して、

「どれ、拭いてあげますよ」と言って、私の口元を拭った。私はされるがままになっていた。

そののち、私は自分の書斎に戻ると、畳に腰をおろして、机の上にある鏡に自分の顔を映してみた。確かに、ない。今度ばかりは口元に何もついていなかった。

私の部屋には姿見を合わせて鏡が十三四ある。正確に数えたことはない。

この間引っ越してきたばかりの新居なのだが───妻と同居するために───知人を呼ぶたびに鏡の多さを笑われる。

「そんなに自分の顔が見たいか」

私は決まってこう答える。

「見たい。穴が開くほど見たい」

私と妻が共に暮らし始めてから半年ほどになるが、私がそうして鏡に見入っていると、

「とことん才の無い顔ね。一瞥するだけで厭き々々だわ」などと妻は失敬なことを言う。

今日洋食屋で食べたナポリタンはうまかった。よっぽどがっついて食べていたのだろう。ただし、それを食しているときも私は手鏡の中を見つめていたのだが───そこまで考えて私は思いついた───手鏡を見るのに夢中でナポリタンがはねたのに気が付かなかったのに違いない。それはあり得ることだ。

私は鏡を見るときに私の唇を見ているのではない。耳を見ているのでもない。鼻を見ているのでもない。指を───私は鏡の中にいる私が私であるかどうか訝しがって、それで十分も二十分も飽かずに見ているのだ。恐らくそうであろうと思う。

下目を使って、鏡を見ることは可能であろうか、確かめてみたくなり、私は目を伏せてから、鏡に向かい、しばらくそうしてから、瞬時に目を鏡へ向けた。目を見開いた私が映っていただけであった。肌に先ほど妻に拭われた時の温もりが残っていた。

扉がコンコンと鳴って、

「あなた、入りますよ」と言って書斎に妻が入ってきた。

「またこんな風に服を着っぱなしで───せっかく新調したのに服に皺が寄ってしまうでしょう。ほら御脱ぎくださいな」

私は妻が私の襟に手をかけるのに任せ服を脱ぐ。妻はそれをハンガーにかける。

私は妻を如才のない人間だと思っている。

けだし、視覚に靄がかかっている部分があって、その一部分だけが見えないようにできているらしい。そうでなくては私のような仕事もしていないできそこないと結婚するはずなどないのである。

妻の名は「素御(すみあ)」と云った。外国人のようだが正当な日本人である。

妻は大変な時計狂いであった。私の部屋に十三四の鏡があるのと同様に、妻の部屋には十数個もの置時計や掛け時計があるのであった。部屋に入ると───と云って私が妻の部屋に入ることはほとんどないが───その十数個もの時計の秒針が、一斉に音をたてるので私は狂いそうになる。したがって相当の用事がなければ私は妻の部屋には入らない。数回入ったのみである。置時計や掛け時計は数千円のものもあれば、数万円もするような時計もある。その高価な時計は、専門外なので私にはよくわからないが───と云って私の専門分野など一つもありはしないのだが───どうも一からすべての部品が手作業でできているらしい。内部は歯車から何もかもが剥き出しである。歯車は木製でできていて、秒針から何もかもが木である。

それらの時計の秒針が絶えず───十数個分で一秒を割り算した時間ごとに鳴るのである。常日頃から、妻がどうして発狂しないのか私は訝しく思っている。

妻と私が出会ったのは、同じくして通っていた絵画教室であった。絵画教室と云っても先生がいるわけでもなく同人会のようなものだった。私も下手なりに書いていたのだが、彼女の描く絵は上手い下手を超えて───つまり───かなり、抽象的だった。その同人会での毎回の集会では、一つのテーマに沿って各人が自由に絵を描くと云うものだったが───例えば「美人画」と云うテーマがあった。彼女がそこで描いたのは薄紫色の長方形であった。

「素御さん、さすがにそれは違うんじゃない?」と同人会のメンバーに言われても、

「私には見えるのよ、こう見える」と言うばかりであった。

こう云う訳であるから、私が彼女に持った第一印象は自我の強い女性と云うものであった。しかしながら、一旦絵を離れると、態度は物腰もやさしくなり、冷静で、さぞ家事などもそつなくこなすだろうと云う第二のイメージが現れた。

今年で私も妻も三十であった。

妻は肌が滑らかな狐色をしており、切れ長の眼を持っていた。ただ、瞳が大きく、見つめられると心の奥底まで覗き込まれるかのようであった。

「そのジャケットいくらしたの?」

私はわざと桁をずらして答えた。

「うん、七千五百円ほどだよ」

例にもれず、黒く大きな瞳に追いやられた眼の白い部分が光った。

「嘘おっしゃい。もう一度聞くわよ。いくら?」

「うん、二万五千円だ」

「なんでそうあなたは嘘ばかりつくの」

「見栄だ」

「そんな意地汚い見栄など御捨てなさいな」

妻はそれきりぷいと後ろを向いて書斎を出て行ってしまった。私は椅子にもたれかかり考えをめぐらした。

 

私はやはり鏡を見ていた。

鏡には私の青暗い顔が映っている。暗く陰鬱な性が顔から滲み出ている。そこへ来て私は私と思われる像をじっと見つめている。

その日は応募した絵の展覧会の発表が返ってくる日だった。私も妻もその展覧会に絵を応募した。書斎の扉を開けると妻が玄関で今か、今か、と郵便を待ち続けていた。

私が十数分鏡を見ていたのを辞めて居間に戻ったときも窓から郵便受けのほうを窺っていた。

「そんなにすぐは来やしないよ」と私は声をかけたが、妻はどこ吹く風でひたすら郵便受けのほうを眺めている。

私はそんな妻をしばらく観察していたが、しだいに飽いてきて、書斎に戻って布団に入って寝てしまった。

「通った!通った!」

鏡を見ながら、眠りの中で見た夢を思い返してみる。

確か、好景気の時代に私は生きていて、ビルジング群を横目に煙草をふかしながら歩いていた。ふとビルジングのガラスに映った自分の姿を見ると私は狸だった。狸が煙草を片手に持って二足歩行でビルジング群を歩いているのである。すると唐突に眼前にあったビルジングが途中で折れて巨大な音を立てて倒れてきた。私はそれに押しつぶされて絶命した。絶命した先には何もなかった。真っ暗闇だった。

私がそんな回想をしていると、ノックもなく妻が部屋に入ってきた。妻は歓喜の笑みを浮かべて、

「通った。通ったわ。私の絵が認められたのよ!」と言った。莞爾とした笑みを浮かべたままである。私は渋面をしてこう答えた。

「それはよかったね。それで僕のは?」

妻は笑みを浮かべたまま、

「次があるわよ。次が。耕ちゃんには才能があるもの」

「常々才覚がない顔をしているとお前に言われ続けてきた俺がかい?やめだ、やめだ」

私はすくっと立ち上がって戸を乱暴に開けて外に出て行った。

外に出たはいいもののどこも行く宛がなかったので、とりあえず葉山のところに行くことにした。

葉山は学生時代の同級生である。顔から身体つきまでひょろ長く、顔は西洋人の混じった顔をしている。蓋し、そのことは本人には言わないでおいてある。会ったそのときにその顔つきを彼が気にかけていることを私は瞬時に悟ったからである。

葉山とはひょんなことから知り合った。私も葉山も文科だったのだが、ある日、入学して間もないころ、授業がいつもと異なる教室であることを知らずに二人だけ教室を間違えて入ってきたのである。ほぼ同時のことだった。

「君、文科かい」私が尋ねた。

「そうだが、どうも教室を間違えたようだね」と葉山は答えた。

「一緒だ。今日の授業はもう出なくていい。飯でも食いにいこう」

これが私と葉山の出会いだった。葉山は私に負けず劣らず読書家だった。私は葉山の実家に行ったこともあるし、祖父母の家にも行ったこともある。

その祖母は葉山の文に依ると先日亡くなったそうである。葉山は大変ショックを受けていたようであった。私はその見舞いも兼ねて葉山の家に行くことにした。行李に柿を入れていった。

葉山は今は独り暮らしである。葉山が独り暮らしを始めてからは家に行ったことはない。葉山の家の住所は知っていた。私の家からは列車で峠を一つ越えたところにある。

列車を二つ三つ乗り継いで葉山の家の最寄りに向かった。連絡もしていないから、葉山はいるか分からない。

私は手鏡を眺めながら、列車の時間を過ごした。

本を読んだりすれば有意義な時間の使い方になるのだろうが、私はあいにく本を読むだけの集中力を持ち合わせていなかったから、しかたなく手鏡を眺めていたのである。

葉山の家の最寄りについたら、住所を頼りに葉山の家へ向かった。私の家もそうだが、葉山の家は借家である。家賃は安いがどうも大家がうるさいらしい。以前「来てもいいがうるさい音はたてるなよ」と文をよこしたことがあった。

葉山の家に着くと呼び鈴を鳴らした。はたして葉山が玄関から顔を覗かせた。

「なんだい、藪から棒に」

「いや、むしゃくしゃしたからやってきた」

「むしゃくしゃしたから俺のうちへ来ると云うのはどうなんだ」

私は弁解した。

「むしゃくしゃしたと云うのは半分で、もう半分は君の見舞いに来たんだ、ほら───」

「祖母のことか」

「まあそうだ」

私は玄関で行李から柿を取って手渡した。

「こんなものいいのに───まあ入れや」

葉山の家に入ると、部屋中にポンチ画がたくさんあったので驚いた。

「こんなんで驚いていたらいけないぜ」

「まだあるのか」

「まだまだある」葉山は答えた。

棚の奥をゴソゴソしていたかと思うと、大量のポンチ画を持ってきた。

「どうだ好いだろう」

「そりゃ、好い」

葉山は一枚の絵を取り出して言った。

「俺はこれが好きなんだ」

その絵には上半身裸体の十五六の少女が膝を抱えて座っていた。下半身には毛布がかかっている。それよりも目についたのは、上半身が栄養失調のように痩せこけて骨が浮き出ていたことだ。描かれた部屋は薄暗く、少女の肌は灰色がかった青で描かれていた。

「これはいささかアドレッセンスな趣味だが、まあ好い方だろう」と私は応えた。

その他にも葉山は様々なポンチ画を持ち出してきては、二人で批評しあった。私は大変愉快だった。

最後に葉山は「遠方から来てくれた礼にこいつをやろう」と言って、最初に見せた痩せぎすの裸体の少女の絵を私に手渡した。

「君はアドレッセンスと言うが、これが精一杯の礼だ。それに実際のところ君も気に入っていたんだろう」

「まあ、好い方だ」と私は答えた。

私は葉山からそのポンチ画をもらうと、行李に大事にしまって、「ありがとな」と言って帰路についた。

帰りの列車では上機嫌であった。時々葉山にもらったポンチ画を取り出して眺めては、またしまった。ポンチ画を見た後は必ず手鏡を取り出して己の顔を眺めた。

上機嫌で家の前に着くと、玄関の傍らに猫がいるのを見つけた。私は猫に嫌われているから、触れない。代わりに、

「素御!」と妻を呼んだ。

妻が出てきて、「おかえりなさい。あら、なんでしょう」と訊く。「おめざ!」と私は叫んだ。

「何を言っているの、あなた」と妻が言う。

「そうじゃない、そこに猫がいるんだ。太った三毛猫だよ。誰かに餌付けでもされているのだろう。お前、猫が好きだろう。触れよ」

「猫なんてどこにもいないじゃないの」

さっきいた猫は確かにどこにもいなかった。

「俺のおめざ!で、きっと逃げちまったんだな」

私はせせら笑いながら言った。

「まったくどこまでいっても、あなたは私の癌ね」

予行演習してきたような滑らかな口ぶりであった。

「なんだと!俺が癌だと!とぼけるな!」

私は管を巻くようにしてまくしたてた。

「俺が癌だったら、お前は良性腫瘍とでも言うのかい、え?腫瘍は腫瘍でも脈を速めるだけのいいものだとでも?俺は癌だ、ただな癌は癌でも爆発する癌だぞ!じわじわお前をむしばむなんてことはしない、大爆発だ。身体を内臓から木っ端微塵にしてやるんだ。分かったら、はいと答えろ!はい、と!はい!」

妻は唇の間から白い歯をのぞかせると、

「あなたも面白いところがあるのね」と言った。

「はい!」俺は怒鳴った。

「じゃあ、御うちに入りましょう」

 

私たちは早めの夕食をすますと、互いに各々の部屋に入り、創作活動に勤しんだ。何故あんなに秒針のなり続ける部屋にいて狂わないのか謎だった。否、若しかしたら妻はもうすでに狂っているのかも知れない。

私は創作───絵を描くときはレコードをかけるのが常だ。ラヴェルが編曲しカラヤンが指揮したムソルグスキーの『展覧会の絵』を聴きながら絵を描いていた。絵を描くとき以外は鏡を見るのに熱中しているから、秒針の音は気にならないのだ。

今日も『展覧会の絵』を聴きながら絵を描こうとした。今回の主題は「西洋の館」だった。私は西洋の館がどう云うものかを考えた。煉瓦造りだろうか、それとも石造りだろうか───それを考えているうちに、私はキャンバスの前で寝入ってしまった。

私は夢を見た。両手両足を見ると、獣のもので、再び狸だった。それで、私はこれが夢であることが分かった。ビルジング群の中を歩いているのは同じだったが、一人───もとい、一匹ではなかった。私は狸の大群と共に行進していた。煙草も持っていなかった。私ははっ、とした。西洋の館とはこのことだ。ガラス張りのビルジングのことだ。

私たち狸一同は両手両足を合わせて行進していた。

行進するザッザッザッと云う音がビルジング群の中を木霊した。左のビルジングに音が反射して右のビルジングにそれが衝突した。それがまた反射して左のビルジングに衝突した。それを繰り返しているうちに左右のビルジングが傾いてきて、数百匹の狸と共に、私は圧死した。絶命した先には───『展覧会の絵』のフィナーレが鳴り響いていた。

私は目を覚ました。レコードの音は鳴りやんでいた。

早速私は「西洋の館」を描くことにした。異様な思い付きだったので、今日は趣向を変えて『モルダウ』を聴くことにした。

そこで、はた、とビルジングを何色にすれば良いのか分からなくなった。緑色にすれば善いのか、薄紫にすれば善いのか、はたまた灰色にすれば善いのか。

私は意を決して妻に訊くことにした。書斎を出て隣の妻の洋室の扉の前に立つとはたして時計の秒針の鳴り響く音が聞こえた。それだけで私の心は不安感に満たされたが、それを堪えて妻の部屋に入った。

キャンバス───妻の───を見た瞬間に私には秒針の音が聞こえなくなった。妻のキャンバスに描かれていたのは、ビルジングであった。私が考えていたのと全く同じ構図だった。しかし、肝心の色は無色、キャンバスの白地であった。ビルジングの窓枠のみが、灰色の墨汁で、それもビルジングの窓枠にしては太い筆で描かれていた。

私は「わっ!」と大声を上げた。妻が不審げな目で「どうしたの?」と訊いてくる。「いや、なんでもないんだ。はい。」と答える。

秒針の音が鳴りだしたので急いで妻の部屋を出て、自分の書斎に戻り呟く。

「そうか、灰色か……」

私は書斎に閉じこもり、妻が描いていた絵を模写し始めた。太い筆と灰色の墨汁を使い、窓枠を描き始めた。すらすらと絵筆が動いた。何かが降りてくるかのように筆が舞った。やがて妻が描いていたものと同じものを描くことができた。

葉山からもらった少女の絵を取り出してみた。好い絵だと思った。これを今描いたビルジングの中に取り入れてはどうだろうかと云う心持ちが働いた。絵の中の少女は暗い部屋の中で一人うずくまっているが、これをビルジングの白日のもとにさらすのだ。ビルジングのモノクロと少女の肌の青白いのが共鳴しあうに違いない。

私はビルジングの前に裸体の少女を置いた。少女はどこか喜ばしげであった。

唐突にノックもせず妻が書斎へ入ってきた。

「あなた、真似たでしょう、私のをそのままそっくり」

その声は微かに怒気を含んでいた。

私は飄々として答えた。

「真似たんじゃない。参考にしたまでだ。現にこの絵を見たまえ。こんな少女は君の絵にはいないだろう」

妻は今度は本気で怒ったようだった。

「話をすり替えるのを辞めなさい。これだから男は───大体そんないやらしい格好の女の子を描いて、よくもふてぶてしく、これが俺の作品だなんて言えるわね!」

「はい、これが私の作品です」

妻は勢いよく書斎の戸を閉めて出て行ってしまった。

私は住所録を広げ、ペンパルに手紙を書くことにした。

───こんにちは。お久しぶりです。島津です。御元気にしていらっしゃいますか。私はまたも絵が落選して落ち込んでいるところです。まあしかしめげずに頑張ろうと思います。坂田さんの方はどうでしょうか。この前随筆が文芸誌にのったとか、本当におめでとうございます。その節は雑誌を送っていただきありがとうございます。拝読させていただきましたが、私が評価するには力不足と云うくらい、大変丁寧に情景が描かれていて、とても感動いたしました。

随筆と云うのはあの様に書くものなのですね。私には読むことはできても書くことはできないので───話は変わりますが、ご存知のとおり、私は趣味で絵を描いております。勉強会で発表するのですが───今回の主題は「西洋の館」です───もう一枚描き終えたのですが、どうも諸般の事情により発表ができそうにありません───自分では良く描けたと思うのですが───とにかくある事情があって発表できないと云うことです。そこでこの絵を受け取っていただけないでしょうか、いいえ送りつけさせていただきます。キャンバスのもので場所を取るので一瞥して捨てていただいてもかまいません。しかしやはり送らせていただきます。ぜひにでも送らせてください。この手紙はそれと同封する形になっていると思います。御免ください。

では、また。

島津 耕造

───手紙を書き終えると、私はキャンバスと封筒を持って郵便局に走った。

小雨が降り始めた。尚急がなければならない。

郵便局につくと日頃煙草を吸っているせいか息が切れていた。早速郵便局員に大きな紙袋をもらってキャンバスと封筒を入れ、郵便局員に渡した。

その時、私は隣に見知った人間がいるのに気が付いた。中等学校の頃の理科の教師である。二年間お世話になった。「お前は大器晩成型だ」と言われたのを昨日のことのように覚えている。

私はおずおずと声をかけた、

「もしもし、先生ですが、島津です。島津耕造です。覚えてらっしゃいますでしょうか」

先生は目を見開いて、私をじっと見つめ、やがてこう答えた。

「覚えているとも。島津、大人になったな、うまくやっているか」

「ぼちぼちです」嘘であった。親からの仕送りと内職で糊口をしのいでいるのである。

「先生は何故ここへ」我ながら愚問であった。

「郵便を出しに来たに決まっているじゃないか」

「はい。そのとおりです」

私は続けた。思いがけない言葉が口から出た。

「先生、私と文を交わしませんか」

先生は驚き呆れた表情で

「何でまた唐突に」と言った。

私は先生の表情を意に介することなく続けた。

「先生には大変お世話になったと思っているのです。そのお礼の文が書きたいのです」

先生は笑って

「そこまで俺が君にしてやったことはないよ。もちろん可愛い生徒の一人だったがね───君が望むなら文を交わしてもいいよ」

「ありがとうございます、ぜひとも!」

私はポケットから住所録を取り出すと先生に差し出した。先生はスラスラと住所を書いた。同じ郵便局に来ているのだから当然と云えば当然だが、先生の家は私の家と近かった。

先生は私の思いを読み取ったかのようにこう言った。

「遊びに来たかったら、文を交わすだけじゃなくて、俺の家に遊びに来てもいいぞ」

「ありがとうございます、ぜひともそうさせていただきます」

私は先生に丁寧にお辞儀をして家に帰った。

家では居間で妻が冷静に待っていた。

「どこへ行ってきたの」

「郵便局さ」

「何をしに」

「そりゃ手紙を出すために決まってるだろ」

「あのキャンバスは?」

「……。」

妻の眼の白い部分が光った。

「出したのね」

「……。先生に会ったよ」

「またすり替えね」

「はい。」

 

半月が経った。先生に文を書いた。

───お元気でしょうか。遊びに伺うと言っておきながら、半月が経ってしまいました。昔先生に言われた言葉を今でも覚えております。先生は同級生たちの前でこう仰りました。「島津は大器晩成だ。大人物は才能が表れるのは遅いが、徐々に大成するものだ」とこの言葉を聞いてとても嬉しかったのを覚えていると同時に、この言葉を胸に今も生きています。未だ何も成し遂げていませんが、先生の言葉を裏切らないように今も精進しております。この間お会いした時は先生はお変わりないようでしたが、いかがでしょうか。風の噂で、教職を御辞めになって、理化学研究所の所員になったとうかがっております。御仕事は順調ですか。私は塾講師の内職をしております───時々ですが───。先生に教わった時のことを思い出しながら───一対一の授業です───塾講師をやっております。薄給ですが、楽しくやっております。ここでは書ききれませんが、先生から受けた御恩は一生忘れないつもりです。また、手紙、書かせてください。近々尋ねさせていただければと思います。

では、また。

島津 耕造

───私は手紙を書き終えて、郵便局に向かうために書斎を出た。居間には妻がいて、私の目をその黒い眼でじっと見つめた。私はあえて何も言わず、何も語ろうとはしない妻の眼をじっと見つめた。そのまま数十秒もしただろうか、妻がついに口を開いた。口元には何もついていなかった、唇が艶やかに光った。朝食を食べたばかりだと云うのに、何も食べていないかの様な綺麗な口元だった。

「今日が何の日か覚えているわよね」

私はわざと恍けて答えた。

「あら、何の日だったか知らん」

妻はそこでようやく笑みを浮かべて答えた。

「私の絵が展示される展覧会の日よ」

「そう、だったね、」

私はそう口ずさむように答えながら、妻の視線を避けて、千鳥足で玄関へと赴いた。

戸を開けて郵便受けを見ると、一通の手紙がはさまっていた。坂田さんからだった。

───島津耕造様

絵、拝見いたしました。とっても好い絵だと思いました。特にビルジングの灰色と少女の肌の青白さのコントラストが。話は変わりますが(唐突で申し訳ありません)、思うところあって、私は筆を置くことにいたしました。筆を置くと言った口で私が言うのもなんですが、私が寄稿した文芸誌に島津さんも投稿されてはどうでしょうか。今までお手紙のやり取りをさせていただいて───こう言うのは僭越なことかもしれませんが───島津さんには文筆の才があるように感じましたので。それではお元気で。

坂田 春奈

───私はそれを読み終えると封筒にしまい直し、懐に入れ、代わりに手鏡を取り出した。目の下に隈ができていて、髪はぼさぼさだった。自分のことを芸術のために生まれてきた人間だと思った───ただし、それは随筆ではなかろう。絵か?

私は郵便局で手紙を出し終え、家に戻ると、妻は化粧もきちんとしてコートを羽織って居間の椅子に座って私を待っていた。

妻が、ゆるやかに口を開いた。

「玄関で長いこと立ち止まっていたようだったけれど、誰かから頼りでもあったの」

口調もおだやかであった、が、口元にはある種の冷淡さが入り混じっていた。

「うん、坂田さんからだよ」私は後ろめたさもなかったので、淡々と答えた。

「あら、そう」妻はそう答えて、白い歯を見せた。

私は黒のロングコートを手に取った。妻が袖を取って私の腕をその中に通した。私たちは恋人たちがするように、手を握り合って展覧会の会場へと向かった。この前秋がきたばかりだと思っていたのに、もう秋は過ぎ去って木枯らしが吹いていた。

会場は人でいっぱいだった。

「大賑わいね」と妻が呟く。

「そのようだね」と私は答える。

私たちは手を握り合ったまま、人ごみの中へと歩を進めた。

肖像画、風景画、静物画など様々あったが、妻の絵は一目で分かった。絵画教室で描いた美人画である。タイトルは淡白に『美人画』としてある。濃い青緑色の背景に、薄紫色の長方形が巨大なキャンバスの下から三分の一、左から六分の一ほどのところに、全体の面積の七分の一ほどを占めている。

「あっ!」私は声を上げた。『美人画』の前に一人の少女がいた。そうしてその少女には見覚えがあった。葉山にもらったポンチ画の少女にそっくりである。目は落ち窪み、肌は青白く、鼻筋は奇妙なほどに通っていて、やはり痩せぎすである。ただし今はボレロを着ていた。臙脂のリボンを胸で結んでいる。左足の踵の白さが異様に目に映った。少女は裸足なのである。

「あの娘……!」妻は絶句した。

無理もない、あのポンチ画と私のキャンバスの中にいた少女がそのまま現れたのだから。私は声をかけるべきかどうか迷ったが、声をかけることにした。

「もし、君」

「はぁい?」力の抜けた声が返ってきた。

私はその返答で続けるべき言葉がないことに気づいた。そこで無理を承知でこう聞いてみた。

「君、葉山と云う男を知っているか」

少女はぼんやりとした表情でこう答えた。

「は……はやまさん。知らないわ」

これは葉山に問いただす必要があるぞ、と感じた。それと同時にこの痩せぎすの青白い少女に興味を抱かずにはいられなかった。

「なぜ裸足なんだい」

「だって裸足のほうが地面が冷たくて気持ち好いもの」

「今はもう冬だぞ、君は正気か」

「わたし正気だわ」

わたしはここで今の質問が愚問であったことに気が付いた。狂人に「正気か」と尋ねて「正気だ」と返ってきたところで何の意味もない。そこで私は思い切って少女のこう言ってみた。

「君は見たところ高等学校の生徒だろう。平日にこんなところ居るようじゃ勉強はどうしているんだい。俺は塾の講師をやっているんだが、よかったら俺が家庭教師───」

妻がコートの袖を引っ張っているのに気づいていたが、それを無視して私は続けた。

「───家庭教師をしてあげようか」

「わたしにはそんなお金もないし、私の家なんてないのよ」

私は即座に答えた。

「俺の家へ来れば好い」

少女は妻の絵の薄紫色の長方形を背景にして立っていたが、青白い顔がその薄紫色の靄の中に浮かび上がっているように見えた。そうしてまた滑らかな踵の白さが目の中に響いてきた。

私は妻の手を放して、少女の細い骨ばった腕を握った。

「なにをするの」少女が大きく目を見開いて懇願するように言った。

私は無言で少女の腕を引っ張って雑踏を抜けていった。家へ帰ろうかと思ったが、ふと立ち止まって懐に手を入れて手鏡を手に取るとその中をまじまじと見つめ、そこに私の像があるのを確かめると、葉山の家に行くことにした。

妻は後から追いかけるようについてきた。

葉山の家へは列車を二三本乗り継いで行った。二人差し向かいの四人掛けの座席に座っていたが、誰もが無言だった。私が窓際に座り、私の隣に少女が座り、少女の向いに妻が座った。しばらく誰も口をきかなかったが、峠を越える頃になって山間に紅葉が見えだすと妻が「綺麗ね」とぽつりと呟いた。私は右手で少女の細腕を握りしめたままだった。

少女が唐突に言った。

「前からそうよ」

「わたし、だって、この中を歩いてきたんだもの」

私は驚いて言った。

「この峠を歩いて越えてきたと言うのか」

「ええ、そうよ」少女はこともなげに答えた。

しばらく沈黙が続いて、その沈黙に耐えかねたように妻が口を開いた。

「あなた、名前は」

「わたしに名前なんてないのよ。あったかも知れないけれど失くしてしまったわ」

私は懐から手鏡を出して、その中を見つめてからこう言った。

「イリス……君の名前は今日からイリスだ」

「イリス……イリスね。好い名前だわ、アハハ」少女はカラカラと空虚な笑い声をたてた。

葉山の家の最寄り駅に着くと、私を先頭にして、三人は歩き始めた。私は右手で少女の細い腕を握ったままだった。手を放してしまえば、列車に飛び込みかねない、そんな危うさが少女にはあった。妻は静かに私たちの後をついてきた。私が振り返ると妻が白い歯を見せて笑った。

葉山の家に着くと、唐突に少女が口を開き、一言々々を噛みしめるように、こう言った。

「わたし、この家に、閉じ込められていたわ。わたしは、ここから、逃げ出して、きたのよ」

「なんだって」私は驚いて言った。

「だから、わたしは、この家に、閉じ込められていたのよ。長いあいだ。食べ物も、ほとんど、与えられなかったわ。だから、排泄せずに、すんだの、だけれど」

私は葉山の家の戸を激しく叩いた。

「葉山!葉山!いるんだろ、出てこい!」

しかし葉山は家から出てこなかった。いるのかも分からなかったし、鍵が閉まっていたので確認しようもなかった。

隣の家から老人が飛び出してきて「うるさい!」と怒鳴った。

「すみません。何せ緊急事態なものですから」と私は言った。

老人は「緊急事態だあ?そんなこと俺の知ったことじゃねえ。だからばあさんにあいつは止めとけって言ったんだ」と言う。

そこに妻が割り込んできて、

「失礼ですが、あなたと葉山さんはどう云う御関係なのでしょうか」と尋ねた。

すると老人はこう答えた。

「関係も何もあったもんじゃねえ。この家の大家だ。とにかく真っ昼間からうるさくするのは止めてくれ。それから、ここの住人は二三日前から留守だよ」

老人はぶつくさ文句を言いながら家に戻っていった。

「どうするの?」と妻が私に尋ねた。

「どうしようもないさ、このまま家に帰る他───」

妻は私の言葉を遮って、

「そうじゃなくて、この娘をどうするのかってことよ」

私は少女の方を向いて尋ねた。

「家がないって言ったな。あれはどう云う訳なんだ」

「ここに来るまでの記憶がないの」

「それじゃあ俺の家に住むしかないな」

妻が隣で釘を刺した。

「俺の、じゃなくて、わたしたちの、よ」

「そう、そうだ、はい。」

私は手鏡を覗き込んだ。そこには、私と思われる顔が映っていた。

私たちは列車に乗って家路に着いた。列車の中で妻が「紅葉が綺麗ね」と呟くのが聞こえた。私は右手で少女の細く青白い腕を握りながら、左手で手鏡を覗き込んで、そこに自分の顔の像があるのを確かめていた。

家に着くと妻が「この娘を着替えさせるわよ。ところどころ泥で汚れているもの」と言って、自分の部屋に引っ張っていった。私の右手はこの時ようやく少女の腕を離した。

私は自分の書斎に戻り十数個───数えると十四個あった───の鏡の焦点をある一点に集め、その一点に立ち尽くした。全ての鏡に私の姿が映っていた。私は一つずつ丹念にその像を眺めていった。ある鏡を見ると、私は陰鬱で、ある鏡を見ると、私は思慮深げに見えた。私は一つ々々の鏡で違った像を持っていたが、一つの鏡を見て、私は悲鳴に近い声をあげた。偶然鏡が対になっていたのである。その鏡の中には何十人もの私がいた。驚いたのも束の間、私はその鏡に見入った。私がいる、私が、私が……

「耕ちゃん!」

私は若干髭が伸びたなと思って鏡に見入り続けた。

「耕ちゃん」

妻が書斎の戸を開けて入ってきた。それで私はようやく鏡を見るのを止めた。

「ちょっと見てほしいものがあるのよ」

妻が私の左手をとって引っ張っていった。妻の部屋に入ると、時計の秒針の音がけたたましく耳奥で鳴り響いて、思わず妻の手を振りほどいて両手で両耳を塞ぐ───と同時に飛び込んできた色に目を奪われた。

それは蝶だった。羽根が七色に輝いている。少女の背中だった。やはり青白く骨が浮き出ているが、肩甲骨のあいだに蝶が居て、それが私の瞳の中に鮮やかに輝いた。肩甲骨の先の皮膚には五センチほどの長さの針が刺してあり、両端に五ミリほどの球がついている。少女が薄くためいきをついた。

「こんどはなぁに」

「美しい……」私の口から思わず声が漏れた。私は右手を伸ばして蝶に触れ、人差し指で色彩をなぞった。そのとき、おもいがけず、手が、右の肩甲骨の針の左端にある五ミリの球に触れ、針が肩甲骨の皮膚を貫いて右に動いた。そのさまは私に歓喜をもたらした。

 

私は先生の家に行った。

「おう、久方ぶりだな、耕造」と先生は笑った。

「お前のことはいつも気にかけていたよ。何故なんだろうな。毎年卒業しちまう学生の顔は忘れんのに、妙にお前だけ喉の奥に刺さって取れんのだ。お前は生意気な学生だったよ。それなのに俺は耕造を俺の息子の友だちしたいくらいには思っていた。三者面談の時、そう言っただろう。覚えているかい。───もちろん覚えているだろうね、そう言ったことを。教師にはさぞ可愛がられただろうね。高校受験受かった時には一緒に写真撮ってなあ。お前は大器晩成型だから、まだ途中なんだろう。お前が土方として働いている時のお前はいくらでも交換可能、スクラップ・アンド・ビルドだったが、俺たち教師にとってのお前は一人で交換不可能な存在だ。何故だかお前だけ通り過ぎられないんだ。妻ができたと聞いているがうまくやっているか。妻は大切にしなきゃならん。大切にな。まだ一緒に暮らして一年も経ってないんだろう。───風の噂で聞いたぞ、お前妾取ったんだってな。好い身分になったもんだなあ。───そんなんじゃないってそんな訳あるか。違うってか。───友達の家で拾ってきたってことか。それに蝶の彫り物かあ、とんだ拾いもんだな。お前は焦らずじっくりやるのがいいよ、何たって大器晩成型だからな。それはそうと、その友人のところには文か何か寄越す方が好いだろう。それか直接行くんだね。それが好い。直接行くのが好いだろう。」

私はへえへえと聞きながら、小豆餅を食べてはお茶を飲み、茶を飲んでは煙草を吸い、の繰り返しだった。まあ私はこれで、出不精な性だから、自分にとって葉山のところへ干渉する口実ができたくらいに思っていた。

家へ帰ると居間で妻とイリスが、珈琲を飲んで話していた。あれ以来、七色の蝶は姿を現さなくなっていた。私は書斎へ逃げ込んだ。私は鏡の世界に逃げ込んだ。鏡は私の像を映し、それに反射した光がまたもう一方で像を創った。私はこれに安寧を見出した。そこで一服した。私は煙草を一日に」四十本近く吸う。

「あなたもよっぽどデカダンね」と妻に言われたことがある。私はデカダンなのだろうかと考える。デカダンと言われればそうかも知れないが、そうじゃないと言えばそう言うこともできる。何をしても中途半端なのが己なのであると自覚することはできているつもりだ。

妻を葉山のところに行かせた。イリスの記憶を探るためだ。その間、私はイリスを部屋に呼んで、鏡の年式などの説明をしていた。イリスは興味深げに眺めていたが、ふと立ち止まって、

「耕造さんて腕に傷ついているよね、なんで」

「見えたのか、それじゃあ仕方ねえ。まあ別に若気の至りみたいなもので、俺には社会性がなかったのさ。早い話が友人がいなかった。話し相手なかったって訳さ。それでこうやって傷口と話していると自然と会話できてくると云うものでさ。何故切るって?それ以上気持ちいいことがないからさ」

「ほら」と私は言って袖を捲り上げた。

「切ってみなよ」

イリスは少し躊躇した後、剃刀を手に取った。青白い顔を少し赤らめて、

「どのくらい?」

「深く、可能な限り深く」

イリスは私の腕に剃刀をあて、「いいの」と私に訊いた。

「いい」と私は答えた。

一線の鮮紅が走った。

後、皮膚が裂け脂肪が見えたと思うと、血が溢れだしてきた。

「きれい───」とイリスが呟いた。

血は留まることなく溢れ続け、私たちの足元に血溜りを作った。

「もう一度好い?」

私は手鏡を取り出し、イリスの方へ向けた。イリスははっと息をのんだ。私は手鏡をイリスの方へ向け続けた。イリスは手鏡の中を見つめた。イリスは言った。

「わたし、手鏡、ほしいわ」

「これをあげるよ」と言って私は手に持っていた手鏡を手渡した。イリスは骨ばった手でそれを受け取ると大事そうに抱擁した。私はイリスを抱きしめた。

「イリス、愛してるよ」

そう言うとイリスは莞爾として笑った。

そして「わたしも耕造さんのこと愛してるわ」と言った。

 

───私たちは愛し合った。行く宛はなかったけれど、愛の言葉をささやきあった。

「イリス、あなたの心は霞草のように美しい」

「耕造さん、わたしを守ってね」

「イリス、必ず俺が守るよ」

「愛してるわ」

「イリス、君は雪の中に溶けていってしまいそうだ」

「それはあなたもよ。いつか消えてしまいそうで、それが怖いの」

「君はありのままでいればいいんだよ」

「一緒に進もうね。一緒に歩もうね。」

「ダメになったら一緒に死のう」

「誓ってくれる?」

「誓うよ」

私たちは毎日お香を焚いて暮らした。ペトリコールの香りが私たちのお気に入りだった。

「わたしを信じてくれてありがとう」

「イリス、好きだ、大好きだよ」

私たちは薬に依存していた。二人で、錠剤を半分に分け合って飲んだ。

「わたしたちは大丈夫よね」

「ああ、大丈夫だよ、どこまでもいけるよ、このまま手をつなぎあって……」

「わたしのすべてをあなたに捧げるわ」

私たちはペトリコールのお香を焚いて、錠剤を半分に分け合って飲んだ。

「わたし一人では生きてゆけそうにもないわ。耕造さんなしでは生きて行けそうにないわ。一人になったらと思うと寂しくて泣きそう」

「大丈夫だよ、イリス、俺がずっとそばにいて、君を温めてあげるから」

「頭の中ぜんぶ耕造さん、耕造さんってなってる」

「愛しているじゃ足りないよ、イリス」

私たちはペトリコールのお香を焚いて、錠剤を半分に分け合って飲んだ。

「俺は狂っている、イリスに狂っている」

「そんなあなたをわたしは愛しています、わたし耕造さんのおかげでここまで生きてこれてよかったと初めて思えたわ」

「触れていたい、イリス、君に触れていたいよ」

「平和に、穏やかに、自由な愛の形を作ろうね」

「俺は君と会って大きく変わったよ」

「わたしもよ、あなたにすべてを捧げたい」

「一緒に花を育てよう、薔薇、白霞草、金木犀、白桔梗……」

「耕造さん、あなたと離れたときは切なさと寂しさで放心しています」

「君に出会えてよかった、イリス、君に出会えてよかった、大好き以上の気持ち……」

私たちはペトリコールのお香を焚いて、錠剤を半分に分け合って飲んだ。

「耕造さんの腕を切ったとき、きれいだと思った」

「世界がみんな敵だよ、イリス、君に嫌われたら生きてゆけない」

「永遠がないのならば、一緒に死んで永遠にしてしまいたいわ」

「君の首を絞めたい。それくらいに愛している」

「そのまま殺してしまって構わないわ」

「それでもずっと一緒にいたい、抱きしめてあげたい」

「わたしは耕造さんのこと信じているから、信じてくれて、うれしい」

「イリス、君がそう云う気持ちになってくれて俺も幸せだよ」

「わたしは耕造さんと出会って、自分を少しだけ許せるようになったわ」

「よくここまで生きてこれたね、イリス、俺だったら死んでたよ」

「ずっと耕造さんの声を聴いていたいよ、それだけで幸せです」

「イリス、俺のことは踏み台にして、利用して、要らなくなったら捨てていいんだよ」

「そんなことは絶対に思わないわ」

私たちはペトリコールのお香を焚いて、錠剤を半分に分け合って飲んだ。

「耕造さんの苦しさや辛さが分かるからこそ、世界中の誰よりも大切で、これが愛しているという気持ちなのだと思う。だから、とても重い気持ちであなたに傷をつくった」

「イリス、あなたの綺麗なところも汚れたところも全部わかって、それでも君を愛してる。」

「誓いあったじゃない、一緒に死ぬって」

「無意識の闇から君の姿を救い出したいんだよ」

「追い詰めすぎないで自分を。追い込みすぎないで自分を」

「妻とは円満に別れるよ」

「わたしだけを見ていてほしいの」

「イリスは本当に俺の中で特別な存在。色々な理由が混ざってそう思う」

「最期を誓った狂った愛。大好きだよ。わたし、幸せになっていいの?許されるの?」

「イリス、あなたは薔薇のようだ。棘のある美しさ。人を寄せ付け、棘がある」

「海月だったら棘がある。私は棘があるのでしょうか。アザミも棘々しい花よ」

私たちはペトリコールのお香を焚いて、錠剤を半分に分け合って飲んだ。

「わたしのぜんぶをあげるわ、わたしの人生は耕造さんのためのものなのよ」

「俺は君を全肯定するよ。君の瞳の中に俺はどう映っているのだろう。イリスがいないと俺は消えてしまうよ。殺したいくらい愛してる」

「心の奥底は同じだね、わたしたち」

「俺がいれば大丈夫だよ、心配しないで大丈夫、安心して穏やかになれるはずだよ」

「耕造さんが心に棲みついた。今まで誰も棲みつかなかった心───孤独───が耕造さんだらけになりました」

「もう無理しなくていいからね、全てのことから守ってあげるから、あなたを苦しめる全てのものから」

「耕造さんは、生きてて偉いね、って初めて私に言ってくれた」

私たちはペトリコールのお香を焚いて、錠剤を半分に分け合って飲んだ。

「イリス、君の全部が綺麗だよ」

「泣きたいくらい嬉しい、大好き」

「俺はイリスの絶対的味方だよ」

「そんなあなたがわたしの世界にいてくれて嬉しい、耕造さんが消えてしまったとき、その時が、私の最期かも知れない」

「イリス、君の花は白霞草だよ、俺は君の幸せを心から祈っている」

「生きてさえいればいいのよね、わたしたちは。だから、まだ、もう少し生きるよ、わたしは」

私たちはペトリコールのお香を焚いて、錠剤を半分に分け合って飲んだ。

 

───妻が葉山の家から帰ってきた。

「葉山はいたか」と私が尋ねると、

「葉山さんはいたわ。なんでも彼の言うところによると、イリスは記憶を失くした状態で彼のところにきたらしいのよ。だから彼も彼女の身上は知らないのだって。それで、例の絵を描いたらしいわ。閉じ込めていた気は毛頭ないとか言ってたわよ───イリスは?」

「素御の部屋にいるんだろう」

妻は自分の部屋に入るなり、「ちょっと!来て!」と叫び声をあげた。私が驚いて妻の部屋にいくとイリスがうずくまって血を吐いていた。

「タオルをとってきて頂戴」と妻が言った。私はタオルをとってきて妻に渡した。妻はイリスの口元をタオルで拭った。

私と妻はベッドまでイリスを運んだ。イリスはさっき私があげた鏡を胸に抱いていた。イリスの状態は良くないようだった。

「はぁ、ちょっと落ち着いたみたいね」と妻が言った。

「そのようだね、よかった」と私も言った。

続けて「今日は俺の部屋に来ないか」と私は言った。

妻は「そうね、今はイリスをそっとしておいてあげましょう」と答えた。イリスは私があげた鏡を胸に抱きかかえたまま妻のベッドで眠っていた。

私は妻を自分の書斎に連れ込むと、妻の服の袖を引っ張って抱き寄せた。妻は「急に、なに……」と言ったが、私はかまわずに妻を抱きしめた。

次の日イリスは息を引き取った。

2020年11月23日公開

© 2020 猫が眠る

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