僕は依然として黙っていた。口は開いていたかもしれない。とは言え、それは返答に窮していたわけでも、ジンコウナイジシュジュツという聞いたことのないフレーズによってフリーズしていたわけでも、あるいはまた反人種差別主義者たちから仲間外れにされたことをふと思い出して固まっていたというわけでもない。僕はデスティニーさんの真剣な眼差しに見とれていたのさ。
「手話で説教を――言うなれば、目の痛い話はもうしたくないってわけですか。確かに人工内耳手術を受けて聴力を取り戻した人は大勢いると聞いたことがあります。で?」と北斗がフラペチーノよりも冷たい声で言った。
お兄さんが聴覚障害者でよかったと僕は思った。こんな冷たい声の薄情者を友に持つ男と自分の可愛い妹の交際を許す兄はいないだろう。北斗はハンサムだったらどんな言動をとっても許されると思っている、たぶん。ハンサムが正義というのは確かに永遠不変の真理だ。しかし、世界はその真理だけで回っているわけではない!
「荻堂さんに私の描いた豚の飼育をお願いしたいんです」とデスティニーさんが北斗に向かって言った。「世話のかかる豚ではありません。しつけも必要ありません。ネガティブな要素は食べられないことくらいです。私はその豚と引き換えに頂いたお金で、兄に手術を受けさせたいんです」
「その豚、ワクチン接種は済ませてます?」と北斗。「なんて冗談はさておき、今あなたがお兄さんの障害者手帳を持っているのなら、それを拝見してみたいなって思っちゃったんですけど、こんなことを思う俺って、まったくもって非常識な人間ですよね。そう思いません?」
北斗がそんな非常識なことを言ったもんだから、僕は恥ずかしくて顔向けできないといった顔をデスティニーさんに向けた。そう、僕はその顔向けできないといった顔でデスティニーさんと顔を合わせたかったわけだ。がしかし、デスティニーさんは僕に顔を向けてくれなかった。彼女は北斗に向かって微笑んでいた。
それからデスティニーさんはキャンバス生地のトートバッグから障害者手帳(本物に決まってる!)を取り出して北斗に渡したのだけれど、北斗がデスティニーさんから障害者手帳を受け取ってすぐ、僕は彼からその手帳を取り上げた。
「やめてください、デスティニーさん。同情を引かないと自分の絵なんてもう買ってもらえないと思ってるんですか?」と僕はそう言いながら手帳をデスティニーさんの前に置いた。そしてしつけの悪い北斗を手で制した。本当なら足で制したかったくらいだ。「友人が失礼しました。彼は悪い人間ではないのですが、人を信じることができないんです。彼のこの性格は貧乏な家庭で育ったせいで、彼は何も悪くないんです。貧乏が全部悪いっていうか。さて、そろそろ豚と対面したいのですが――」
僕はそう言ってお兄さんを見た。お兄さんは絵を梱包したと見られる厚みのない段ボール箱を、その厚みのない胸板にずっと立て掛けている。
デスティニーさんの対応は迅速だった。彼女はお兄さんから段ボール箱を取ると中から絵を出し、僕に差し出した。僕はその絵を両手で受け取った。
今度の絵はプラスチックの白い額縁に入っていた。でもそれ以外は踊り子の絵と同様だった。同じく画面の右下には「デスティニー」とカタカナでサインが入っていて、画用紙のサイズも筆遣いも一緒だった。
僕は絵を見た瞬間からしばらく全身に電気が走っているような感覚に陥っていた。腹を空かせたiPhoneにその電気を奢ってやりたい気分だった。なぜ僕がそのような感覚に陥っていたのかというと、例によってデスティニーさんの絵が言葉で言い表せない絵だったからだ。デスティニーさんなら外角の和が百八十度の三角形を平面上に描くこともできるだろうなと思った。
「タイトルは?」と僕は恐る恐るデスティニーさんに訊いた。
デスティニーさんは目を輝かせてこう答えた。「タイトルは、『真珠の価値を把握している豚』です」
つづく
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