学園祭脱糞事件

合評会2025年5月応募作品

わく

小説

3,851文字

 タイトルは『恐怖体験』っぽいですが、そこまで『恐怖体験』ではないかもしれません。その後の登校の一瞬が『恐怖体験』なだけかもしれません。無駄に書いてる長編のエピソードなので、状況が分かりにくいかもしれません。が、このエピソード単独でも、面白いところが少しはあるかもしれないと、自分では思いこんで、投稿してみることにします。子育て落ち着き、独立する予定の数年後には、合評会等に参加できると思います。

墓参りの途中、東京で弁護士をしていたという金持ちの入所者が、突如消えた。墓地といっても、山林にかこまれた天徳寺公園の中だったから、探すのは大変そうだった。電動車椅子で自由に動き回ることができるので、行動範囲も広い。被害妄想もひどくなっていて、対応には慎重さが求められていたはずだが、奴が手洗いを済ませているうちにどこかへ消えたのだ。おれが先に手洗いを済まそうとしているところに奴もまた用を済ませにやってきたのだった。じいさん一人を残して良いものか、門外漢のおれには分からなかったが、奴はのんびりとしていた。そして、じいさんが消えても奴は軽い溜息をひとつするだけだった。そんな態度、どんなことが起きたって一笑に付して悠揚としている姿は、中高生のころのおれにとって、最高にカッコよく見えたし、頼もしくも見えた。しかし、それから二十年経ち、額と目じりに細かい皺ができあがった奴の不遜な顔からは青春の光輪があとかたなく消え、いまやそこには、面倒事をはやく済ませて、くだらない(自分でもくだらないと思いつつ、決してやめはしない)スマホゲームを遊びたいとでもいうような怠惰さしか見えなかった。日が傾きはじめ、空は暮れはじめていた。だから、おれは奴を急かした。施設に電話して応援をよぶか、警察へ早く連絡するようにと。奴はいつも通り、アイコスをとりだした。一本吸いながら、奴はのろのろと、秋田市内と墓地を見渡せる丘の上に向かった。そこからは人の姿が全く見えないのを確認すると、ようやく奴は自分のスマホではなくて、おれのスマホを使って警察へ電話をした。
「猟銃を持った老人が墓地の中を車椅子で徘徊していました」

奴は匿名で、警察にそう伝えた。おれは自分のスマホを特定されて、警察に尋問されるのではないかと心配になった。
「うそじゃないから大丈夫だって。お前が特定されても、本当に見たっていえばいいんだから。こんな時のために、エアガンをあの人のジャケットに仕込ませてたの。護身用って言ってあげたの。喜んでたよ、あの人。まあ猟銃じゃなくてポケットに入る拳銃の形だけどね。猟銃って言った方がリアルだからな。これで、警察も普通より早く探してくれるよ」

そう言って奴は、アイコスを落としたさっきの丘に戻った。確かに奴から光輪は消えさったのだが、だからといって、かつての暴力的ともいえるような才知のほとばしりまで全く消えたわけではないようだった。とはいえ、背伸びして吸っていたセブンスターの重たい煙が、アイコスの軽い煙に変わったように、さまざまなものが風化し摩滅してしまってもいた。ひょっとして、怖いもの知らずだった十代のころのおれの嗅覚が衰えただけなのかもしれないとも一瞬思ったが、丘に座り込んで市街を眺める奴の目は、空の鮮やかな赤とは対照的に、死んだように見えた。
「脱糞しちまったかも」

奴はおろしていた腰を少しだけ浮かして、肛門のほうへ手を持っていった。それから慌てて早口になって、おれに優しさをほんの少しだけ見せた。
「ガチなやつ、ガチなやつ。年取って括約筋ゆるんでんの。ガチで。……いや勘違いだった。大丈夫だった。……でも病気かもな。ガチで」

奴が『ガチ』と強調したのは、おれが中学の頃に大勢の前で脱糞してしまった事件(そう…それは単なる事故ではなく、事件だった)を踏まえてのことだった。奴としては、昔のおれのことをからかったわけでないことを強調したかったのだろう。しかし、その優しさは、時の隔たりを、おれと奴との隔たりを余計に明らかにした。当時なら、なにも強調しなくたって、奴がおれをバカにすることはないと分かり切っていたのだから。当時も奴には優しさがあったが、それは強調する必要のないものだった。

おれは中学三年生の学園祭のバンド演奏のステージで脱糞したのだった。その日、腹が痛むのを感じつつも、薬も飲まずに我慢して体育館のステージに立ったのだった。しかも、その日は暑かったから短パンを履いていた。はじめは、なんとか誤魔化せるかと思ったが、噴流の勢いは収まらずトランクス、短パンをすり抜けていった。最前列の女子の悲鳴ですべてが明らかになった。それは、バンドの演奏に狂熱する女子の悲鳴とは全く別種のものだと誰にもわかったから、体育館内は騒然となった。同じバンドだった奴もおれの様子に気づいて、演奏は突然中止。事態に気づいた先生が、バケツや雑巾を持って駆け付けた。おれは、もはや腹痛にうろたえるのではなく、事態に慄いていた。脱糞すると、嘘のように腹痛は消えていた。今から考えれば、その時におれがすべき行動は十九世紀以前の貴婦人のように失神して、失神できなくとも失神したふりでもして保健室に逃げ込むことだったろう。しかし、その時おれのプライドは妙に働いて、バンドメンバーたちだけに、自分の糞尿を掃除させるわけにはいかないと強く思った。演奏が終わって、静かになってしまった体育館のなか、おれは顔を上げることもできずに、必死に床を拭くだけだった。奴はすぐに、替えのパンツを調達してくれた。それは柔道部で、巨漢の原田のトランクスだった。おれには腹回りが大きすぎて、奴のベルトを使ってしめると、それは短パンのようになった。さすがに、脱糞したおれにそれ以上の服を提供してくれる人もいなかった。後から聞いたところによれば、原田もおれに貸してくれたのではなく、柔道部の部室においていたものを奴が五百円で買い取ったらしい。

掃除の時に上着まで汚れて、おれはトランクス一枚に上裸でギターを背負って帰宅することになった。ひとりでは心細くてとても帰れなかった。
「おお、パンクだ。ちょっと、レッチリっぽくもあるけど。でもパンクだ。おれも無駄に上裸になろっ」

おれの姿を見て、奴はそう言った。奴が上裸になったのは、少しも『無駄』ではなかった。そのおかげで、おれはうつむくことなく前を向いて帰ることができた。いつもの二人の分かれ道がおれには恐怖だった。けれど、普段の分かれ道を通過しても、奴はおれと一緒に歩きながら話を続けた。バイトして金をためたら次にどのギターを買うかっていう、いつも通りの話を続け、遠回りしておれの家まで来てくれたのだ。夜のとばりと同じく、この帰り道には気取らない優しさが自然と下りてくるのをおれは感じていた。ジャガー、ジャズマスター、リッケンバッカー。ハムバッカーをのせたストラト。ハウりまくるエピフォンカジノ。はたまたブライアンセッツァーばりのグレッチ。何度も繰り返したはずの話、その後決して買われることのなかった数々のギターに、不思議な優しさが降りかかって輝いた。公衆の面前で脱糞したことなど忘れさせてくれる優しさが。

そうは言っても、次の登校日もまた、おれにとって恐怖だった。どんな顔をして、クラスの戸を開けて良いのか分からなかった。ずっと不登校だった中学生が、久しぶりに登校するのでも、こんな緊張感を味わいはしないのではないかと当時のおれは思った。しかし、いつもならおれより少し遅く登校するはずだった奴が、既に手を打ってくれて、クラスで大笑いしていた。
「おい、来たぜ! 南中事件を超えるぜ! 東中事件のはじまりだ! 最高のパンク!」

奴もクラス全体にも、もはや汚いものにふれるような妙な距離感はなく、みんな口を開けて笑っていた。『南中事件』とは、秋田南中学校で発生したと言われている伝説的な事件だった。放送室で男女の生徒が事に及んでそれがマイクを通じて全校に響き渡った事件と、この秋田東中学校では伝えられていた。しかし、その後高校に入学すると、同じ『南中事件』でも、放送室のマイクにナニをぶち込んでとれなくなった事態の一部始終が全校に響き渡ったとか、様々なヴァリエーションが各中学校で伝えられていると分かった。そして、大学進学で上京すると、そんな伝説は秋田に特別なものではなく、日本全国各地にある、現代の口承民話なのだと分かった。とはいえ、多感で無知な中学生たちに、『南中事件』という伝説は、アーサー王伝説が騎士を奮い立たせたのと同じような大冒険を思い起こさせたのだった。奴のおかげで、おれもどんな顔をして、どんなスタンスでクラスにいればいいかもすぐに分かった。おれは蔑まされる脱糞者ではなく、『東中事件』の主役でいればいいのだと。もちろん、中にはまだ蔑んでいる同級生がいることも分かってはいたが、少なくともおれは、そんなやつらのことを知らんぷりする勇気が生まれていた。おれのそんな態度に同級生たちが影響されたわけではなく、いち早く登校して狡猾そうでありながら他人を魅了する笑顔を見せる奴にみんなが影響されただけなのだったが、当時のおれはそういった事情にはっきりとは気づこうとしなかった。

空の赤さも、西にだけようやく残り、うす暗くなってきた頃、墓石が縦横に並んだ墓地のど真ん中に、電動車椅子がするするやってきた。パトカーのサイレンが鳴り響き、車椅子にのった老人をとりかこむように警官が大声を出している。それに呼応するように老人がエアガンの拳銃を空へ向けて威嚇した。そんな様子を丘の上から眺めて、ようやく奴の目は生起を帯びた。まるで、火事になった家で、下火になったあとに扉を開けてみると、突如起こる爆発のように。あの日の帰り道と同じような暗がりのなかで、あの日の朝と同じようでありながらも、いつかの優しさなどは吹き飛ばすような不思議な笑顔が燃え上がった。

2025年4月15日公開

© 2025 わく

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