ハッピーエンド

竹之内温

小説

13,217文字

完璧な身体の持ち主美咲と、引っ込み思案な妹美野。姉の恋人であるあゆ川は、美咲の浮気を疑い、美野に接近をはかる。遊星のように巡ってもたどり着かない、美しい姉妹のハッピーエンドとは

「私はこの街にある目に見える全ての美しいものを、あなたに捧げたいと今思っているの。本当よ」

美咲はそう呟いた。そしてこう続けた。

「でもそれは目に見えて、触れるものだけ。私は雰囲気や匂いや、人間の存在感なんて信じない。あなたの身体や、今見えるホテルの空室と光っている看板とかそういったものしか信じるに値しないと思うの。だってそれ以外の一体何が、私やあなたの実感になるというの?」

美咲は空室と光った看板を手で撫でながらこう続けた。美咲が触ったとたんに看板は、憂いを帯び始める。

「私は今とても興奮している。それはあなたに美しいものを捧げたいと思って、目の前に空室というホテルの看板が見えたからよ。私のは美しくないかもしれない。でも少なくとも醜くはないでしょう?」

「もちろん、君は最高だよ」

 

あゆ川はかいわれに似ている。

 

美野はその日、大学の授業が三限で終わりだったので三時から美容室へ行った。中学生の頃から髪の毛を切ってもらっている人なので、「いつも通りに」とだけ伝えた。美野は喋るのがあまり得意ではない。この話の中でも美野のコミュニケーション能力の不足が、決定的な間違いへと物語を導くかもしれない。それはまだ分からない。美容室を四時半に出て、吉祥寺の街を散歩する。人の多いアーケード街を迂回し、デパート脇の細い道を歩く。気に入っているレコード屋を目指して歩いている。美野はその間ほとんど視線を上げない。誰かに呼び止められるのを恐れているかの様な足取りだ。

 

あゆ川はこの店にもう三十分はいるだろうか。店員とあれこれ話しをしている。喉を閉めた感じの声をしている。細すぎる身体には案外似合っている声なのかもしれない。あゆ川と店員は友人の様で、店員は胸元にネームプレートをつけているので店員と分かるが、二人の近すぎる距離感が、店全体を雑な雰囲気にしている。他に客はいない。店内では六十年代に流行したフォークソングが流れている。どうして潰れないのか不思議に感じる店。遊び感覚の仕事。もしかしたら店員は店長で、店の奥の五畳位のスペースに住んでいるのかもしれない。

 

美咲はマンションのパソコンに向かって何やら独り言を呟いている。パソコンの横には、マグカップと灰皿が置いてある。灰皿には吸いかけの煙草が置いてあり、空気清浄機から流れ出てくる風に煙が揺らめいている。美咲は一口煙草を吸って、灰皿にそれを押し付ける。リターンキーを押す時だけ、キーボードを押す音が変化する。押すよりも叩くといった方がいい投げやりな音だ。眼鏡をかけた美咲は完璧な横顔をしている。誰にも見られていないのに、美しく、パソコンの前に座っている事が仕事なんじゃないかと錯覚を起こす程だ。夕日がスクリーンの色を変えてしまうのが気になったらしく、美咲は立ち上がりカーテンを閉める。美咲は部屋の中でも靴を履いている。

 

美野はレコード屋の扉を開ける。同時に店内の男二人が美野を見る。視線を避けて店内のロックコーナーに進む。アーティスト名Dの列を見始める。

「美野ちゃんだよね?」

美野は後ろを振り返る。そこに立っていたのは姉の彼だった。細いのが特徴になってしまう位に細い身体をしている。

「あゆ川さんですよね?」

「そうそう。よく覚えていてくれたね。この店よく来るの?」

「たまに……」

「そうなんだ。俺ここでちょっと前までアルバイトしてたんだよ」

「そうだったんですか。レコード屋で働いてるっていうのはお姉ちゃんから聞いていましたけど……」

「もしかしたら、姉ちゃんに紹介してもらう前に会ってたのかもね」

「そうですね……」

「あのさ、今から飯食いに行かない? 美野ちゃん実家だっけ?」

「そうですけど……」

美野は人とご飯を食べるのが苦手だ。姉は細い身体をしているにも関わらず、たくさんの食べ物を、特に野菜を食べる。姉は少ししかご飯を食べない女の人を見ていると悲しくなるらしい。鑑賞物としても、生き物としても、失格に感じるからだという。美野は他人と一緒に食事をすると緊張の為もあり、目の前の食べ物に箸が出せず、隙間のないテーブルはそのまま圧迫感として美野に届く。だからなるべく、食事は実家で食べる様にしている。

「じゃあ家で夕飯食べるの? それとも今から予定があるとか」

「予定はないです。でもお姉ちゃんいないし……」

「緊張する?」

美野は覗き込む様に顔を見られるのが苦手だ。あゆ川は彼女の妹だからだろうか、少し不躾ぶしつけな位美野の顔を眺め回している。

「緊張はしていません。行きます……」

「よかった。じゃあここからちょっと歩くけど」

「あゆ川ー、店の中でナンパすんなよ。店の品格が落ちる」

あゆ川は店員に手を振って、「彼女の妹なんだよー」と言いながら笑っていた。彼女の妹、これで何回目だろうか。今までも美野と呼ばれるのと同じ位の頻度で、彼女の妹と様々な男の人に呼ばれていた。それ程に姉は色んな男の人を恋人にしていた。世間で呼ぶ所の二股などは日常的であり、多い時では彼氏と呼ばれている男の人が六人いた。そして姉はその全ての男の人を美野に会わせた。美野と彼氏を会わせる時の姉はとても楽しそうで、普段よりも雄弁になった。そしてその日だけは一人暮らしをしているマンションには帰らず、実家に美野と一緒に帰り、美野のベッドで一緒に眠った。美野は二十一歳、姉は今年で二十六歳になる。あゆ川も三ヶ月位前にやはり姉の彼氏として美野は紹介された。その四日前には別の男の人と美野は会っている。

「美野ちゃんさ、最近姉ちゃんと会ってる?」

「あんまり。月末はいつも忙しそうにしてるから」

「この前さ、俺酔っててさ、ちょうど姉ちゃんのマンションの近くで飲んでたから、泊まらせてもらおうと思ってマンションに行ったの」

「はい……」

「そしたらさ、鍵開けっ放しでさ、玄関に男物の靴があった」

「どんな靴でしたか?」

「えっとね、コンバースの紫色のスニーカーだったよ」

「それならジージョって人ですよ」

「誰なの? そのジージョって? 外国の方なの?」

「めちゃ日本人。トッポジージョに似てるからお姉ちゃんが勝手にそう呼んでるだけです。お姉ちゃんの四八番目の彼氏」

「ふーん。そういう事ね。で、俺は何番目な訳?」

「五十番目……」

美野は今まで姉のいる前でもいない場所でも、決して姉にとって不利になる発言をしてこなかった。それは一つには姉の為、もう一つには美野の為だ。美野にとっての姉は、女としての全てだった。姉は手ほどきとして、美野に様々な事を教え込んできた。女として姉が必要だと感じた全てをだ。姉は世の中にどういった男がいるのかを美野に見せる為に、様々な男と付き合ってきた。お金は伴っていないが、姉は売春婦の様だった。姉にとって身体が全てだった。相手と自分の身体だけが、姉の現在、過去の記憶の全てだった。売春婦的な行為であっても、姉はそこにお金という姉が不純だと思っている欠片が混ざるのを極端に嫌がった。彼氏だか客だか分からない男からプレゼントを貰っても、全く嬉しそうではなかった。プレゼントはたいがい姉から美野に与えられた。大きな宝石がちりばめられたアクセサリーや高価な鞄なんかが、美野の部屋にはごろごろと転がっていた。

「美野ちゃんはあばずれでも姉ちゃんの事好きなの?」

「お姉ちゃんはあばずれではありません。お姉ちゃんは今まで一度としてあばずれであった事もありません」

「そう。でも俺は姉ちゃんの恋人ではなかった訳ね。俺さ、結構姉ちゃんの事好きだったんだけどな」

あゆ川が探していた店に到着する。あゆ川はドアを開けて美野を店内に導き入れると、自分も店の中に入った。ここでもあゆ川は店長らしき人と雑談を始め、軽快に笑っていた。美野はその場に立っていた。あゆ川は最後に「彼女の妹なんだよ」と言って、一番奥の席に向かった。あゆ川は変化を嫌うタイプの人間だと二軒目の店で美野は理解した。姉が前に言っていた通りだ。あゆ川はコロナを、美野はジントニックを、食べ物はあゆ川が「適当に頼んじゃうよ」と言って注文した。あゆ川の注文した食べ物は姉の好物ばかりだった。美野は心の中でそんなに一杯私は食べられないのに、と思った。

「姉ちゃんは俺の事適当に考えているのかな」

「お姉ちゃんは誰の事も適当には考えていないと思います」

「でもね、実は俺も一回だけ浮気した事があるんだ」

「えっ?」

「聞きたい?」

「はい……」

美野は驚いた。姉はいつだって相手を愛していたし、姉の彼氏は姉以上に姉を愛していると思っていたからだ。

「ホテルに行ったんだ。ちょうど今から二時間位後の時間だったよ。曜日は今日と同じ、水曜日。俺とその子はそれまで手も繋いだ事がなかったんだ。年下だったし、その子はラブホテルに入った事がなかったみたいだから、部屋は俺が選んで、金を払った。その子は終始無言だった。部屋に入ってからもだ」

店員が飲み物を運んでくる。あゆ川は軽く瓶を傾け、飲み始める。美野はライムを軽く絞って、グラスの中にライムを落とす。

「その子とは実は前に一回会っているんだ。殆ど話した事はなかったけどね。どんな子なのか抱きしめるまでよく分からなかった。部屋の照明を真っ暗にして、キスをした。その子は何か言おうと口を開きかけたけど、俺はそれを無視

した。言葉なんて邪魔なだけだろ。その子は上になるのを嫌がった。ここまで細かい話は気分が悪いかな?」

「いいえ、続けて下さい」

 

美咲は娼婦に適した身体をしている。微笑みを絶やさない肌、どんな相手でも包み込む憂いを帯びた真っ直ぐな声。そしてすぐに反応して濡れる性器。美咲は自分でも何故娼婦という仕事を生業にしていないのか、不思議に感じる事がある。自分に適した仕事だと認識している。しかし美咲は金銭を信じていない。金銭はあっという間に別の何かに姿を変えてしまうからだ。美咲の信じているものはただ一つ。身体だけだ。身体ももちろん変化を伴う。筆頭は老いだ。老いは人々にとっては身体を蝕む毒かもしれない。しかし美咲は身体同様に老いを信じている。老いは正確に目に見えないじゃないか、とあなたは答えるかもしれない。それは美咲が信じない方にカテゴライズするべき部分ではないかと。人によっては老いは目に見えないものだろう。しかし美咲にとってそれは目に見えるものだった。美咲の中で老いと身体は直結している。

幼い頃からの父親の狂った様な動物好きの為だ。たいして裕福でない家庭の中でも、美咲の実家にはつねに最低五種類の魚や虫や鳥などがいた。魚やハムスターなどは恐ろしい繁殖力でもって家庭を支配した。美咲の父親は全ての生き物を平等に扱った。家庭内において人間と、その人間に育てられる生き物は同等の扱いを受けた。多すぎる生き物は毎日死んだ。生まれて愛でて、死ぬ。美咲の家ではその循環が恐ろしい程の早さで行われた。毎日が誕生日で、毎日が葬式だった。人間以外の生き物は人間よりも早く老いた。美咲は毎日それを見つめながら育った。自分よりも幼かった生き物が、いつの間にか自分よりも老いて死んでしまうのだ。

父親は数多くの生き物を同時に愛した。美咲は数多くの男を同時に愛している。その間にたいした違いはないのかもしれない。美咲が男を愛する様になってから、美咲は実家を出た。今まで父親に自分の秘めている、娼婦的な性格の話をした事はない。美咲の父親は交尾をしないだけで娼婦的な人間だと美咲は思っている。だから話をすればきっと理解してくれるだろうと考えている。

 

「その子はベッドに横になって痛みに耐えていた。暗いからもちろん顔は見えない。けどね、何度もセックスをしてきた女はより深く貫いてもらおうと、少し腰を浮かすもんなんだ。そっちのが気持ちいいからね。その子は逆だった。より深くベッドに身体を沈めた。まるで俺から身体を引き離すみたいにね。俺は何だかよくない事をしている気分になったから、一度、中断したんだ。そしてその子の横に一緒に寝そべった。少しの間その子と話しをしたんだ。ラブホテルの糊の利き過ぎた、雑な感じのするシーツにくるまってね。この話もう飽きた?」

「全然。続けて下さい……」

あゆ川と美野のテーブルに料理が運ばれてくる。あゆ川は親しげな表情を浮かべて、再びコロナとジントニックを注文する。美野は運ばれてきた生春巻きとオムレツを小皿に盛って、あゆ川の前へ持っていく。

「さっき聞くべきだったとは思うけど、美野ちゃんと姉ちゃんの好きな食べ物って一緒なのかな? 姉妹だからって好物まで同じとは限らないもんな」

「私とお姉ちゃんの好みは全部一緒だから……」

「食べ物以外も?」

「食べ物以外も」

「洋服も?」

「洋服も」

「男も?」

「多分男の人も……」

店員が新しいコロナとジントニックを運んでくる。そして最初に頼んだ方のグラスを持って、去っていった。

「その子はとても感覚的に生きている子だった。多分痛みそのものよりも、痛みを感じる身体を心に還元するんだと思う。少しリラックスしたその子と再びセックスを始めた。二回目は成功。その子は実家に住んでいたんだけど、俺が『泊まって行く?』と聞くと『うん』と頷いて、実家に『今日は友達の家に泊まるから』と電話で話していた。俺とその子は喋ったりセックスしたり、風呂に入ったり色んな行動がごちゃまぜになった夜を過ごした。次の日の昼頃にホテルを出た。俺は連絡先を聞こうか前の晩からずっと考えていた。何かを手に入れる為には、何かを失わなくてはいけない。俺は物事をそう考えるタイプだからね。両方を懐で温める訳にはいかないんだ」

「それで? 結局どうしたんですか?」

「どうしたと思う?」

「あゆ川さんは捨てて、手に入れる覚悟を決めた。違うかな」

「それが正解だよ。正確には今決めた答えだよ」

 

美咲は実に多くの男と寝た。数字に愛着を感じている訳ではなかったので、

今まで寝た男の数は分からなかったし、名前も正確に覚えていなかった。大体八十人位なのだろうか。美咲にとって名前を覚えているという事実は、その男を一層愛していたという証拠にはならない。それぞれの男のテクニックや部分の大きさや固さは名前と同じだ。それにはたいした意味がない。もちろん美咲にも好みのセックスはあった。美咲は年齢に適していて、美咲を必要としているセックスを好んだ。

 

「ホテル行くのもいいけどさ」

相手の男は看板を撫で擦っている美咲の片方の手を握ろうと、近づき手を伸ばす。美咲はすばしっこい小動物の様に身を避ける。

「どうしたの?」

「いいや、別に。ちょっと手繋ぎたいなと思ってさ」

「ごめんね、手とか繋ぐの苦手なの」

「でも俺達さ、恋人だろ」

「そうよ。でも恋人だと手を繋がないとおかしいの? 私達はしっかり抱き合っているのに」

「美咲が俺と恋人でいるのは密室の中でだけなの?」

美咲には相手の言っている意味が全く理解できない。身体を重ねている者同士が外で手を繋ぐ。誰もいない部屋でなら何時間でも手を繋いでいられるが、外で恋人の身体に触れる。それはセックスの一片を、誰だかも知らない男女に見られるという事だ。恥。それは恥だ。

「ねぇ、密室以外で何故、私達が恋人だと誰でもない人達に知ってもらう必要があるというの?」

相手は黙り込む。まだ二十四歳の男だ。密室での戯れと同じ位に、美咲を人目に曝して、恋人風に道を歩く事に快楽を覚えて当然だ。ただ美咲の美意識がそれを許さなかった。美咲は自分に関わった全ての男をその名字で呼び、扉の中に入るまでは友人と変わりなく接した。ある人にとってその姿は、ビジネスライクなものに映ったかもしれない。娼婦と娼婦を買った男という関係だ。美咲はどこででも手を繋いだり、キスをする二人組を見ると節操がないと思い、苦い顔をした。歪んだ表情は美咲を一層美しく見せた。先程までぶつぶつ言っていた男は結局、美咲の美貌と扉の中に敗北した。美咲は街の中では誰のものでもなかった。それさえ我慢すれば、男は金を払わずに娼婦的な女を手に入れられるのだ。

 

「今決めたって?」

美野は新しくテーブルに並べられたビーフンを口に含んで、何度か噛み終えた後にそう言った。あゆ川は煙草を吸っている。

「どういう事だと思う?」

「質問に質問で返さないで下さい」

美野はあゆ川の話の途中から既に全てを理解していた。あゆ川は美野を誘っているのだ。あゆ川は美野が処女だと思っているらしい。これは正解だ。美野は処女だ。

しかし美野は何十回と男と寝た経験を持つ女よりも、男に対しての手練とは何かを知っている。美野は身体を使わずに、耳で情報を吸収しそれを蓄えている。時に姉は身体を使って美野に教えた。恋人を美野に紹介し終えた後、美野のベッドに一緒に入り込んだ姉妹は小さな声で会話を続けた。姿勢について、口紅の塗り方、洋服の脱ぎ方、女が美しく見える照明についてなどだ。毎回、逢瀬の度に照明の位置や明るさを変える。そうすると身体の表情が相手には違って見える。自分の身体を光によって演出する。男と会うときの格好で女は下着にばかりこだわるが、下着などにたいして凝る必要はない。まずは洋服がすとんと下へ落ちるものでなくてはならない。その時さらさらと音がするものは尚良いとの事だった。そして姉は何回もこう言った。

「決して表情なんて相手に見せては駄目。そして相手の感情なんかを察そうとしても無駄よ」

「何で? 感情ってとっても大切じゃないの?」

「私が今何を考えているか分かる?」

「分からない……」

「感じようとしてみて」

「よく分かんない……」

「でも私がここにいるのは分かるでしょう?」

「うん。それは分かる」

「何で分かるの?」

「触れるし、体温があるし、匂いもある」

「そう、触れる。だからね、身体ってとっても大切なの。それ以外、特に心なんて無いに等しいのよ。きっとね」

 

「俺さ、姉ちゃんとは別れるよ。前に美野ちゃんに会った時からずっといいなって思っていたんだ」

「私がガキだからって、馬鹿にしないで下さい」

「何故そう思うの? 俺は美野ちゃんが若いからって馬鹿になんかしてないよ」

「お姉ちゃんは美しいです。私だってお姉ちゃんを見ているとうっとりした気分になります。あゆ川さんはお姉ちゃんに別の男の人がいたのが悔しいんです。だから私で、一時的に安心しようとしているだけでしょ?」

「姉ちゃんは確かにとても美人だよ。あんなに美しい人が街を歩いているの、俺は今まで見た事がない」

あゆ川は手を上げて、コロナの瓶を指差した。カウンターの中に立っている店員は笑顔で頷いた。

「でもね、君の姉ちゃんはさ、何ていうのかな、とても美しくて。感情的ではない」

「あゆ川さんにとって感情って何ですか? その答えで決めます」

美野はジントニックのグラスからライムを取り出して、ライムをくわえながらあゆ川をじっと見つめ、そう答えた。

「振り子だよ。それを持っているかどうかかな」

美野はライムの皮を灰皿に捨てて、ジントニックで喉を濡らした。

「お姉ちゃんは小学生の頃に一度だけ、自分のおこずかいで猫を買ってきたことがあるんです。その猫はお姉ちゃんが高校生の時に死にました。老衰で。猫はお姉ちゃんが小学生の時には赤ちゃんで、高校生の時には老人です。それ以来お姉ちゃんは動物の面倒を一切見なくなりました。お姉ちゃんは自分と同じ時間軸で生きていない動物は悲しいと言っていました。お姉ちゃんには美しい身体よりも美しい心があるのに、誰もそれには気が付きません。あゆ川さんもね」

「俺と姉ちゃんは考えてみると、会っても会話をせずにセックスばかりしていたな。美野ちゃんに言う話じゃないかもしれないけどね、俺は真っ先に姉ちゃんの官能的な雰囲気にまいっちゃうんだ」

あゆ川は女の持っている奥行きに触れた気がした。その認識は浅はかだが、第三者を置いて初めて理解に近づく事があるのは確かだ。

「ご飯食べ終わったら、連れて行って下さい」

美野はトイレに行く為に、鞄を持って席を立った。自分がトイレに行っている間に、あゆ川がテーブルの上に載っている料理を食べ尽くしている事を願った。

 

「本当のテーブルマナーはね、テーブルの下で行われるものなのよ」

「それってどういう事?」

「あなたが大勢で食事をしている時にね、素敵だなって思った人がいるとするでしょう。でも周りには大勢の人がいて二人で喋るのが困難なの。そんな時どうする?」

「黙ってる。たまに相手の事を見ちゃうと思うけど」

「私はそんなあなたがチャーミングだと思うわ。でもそれは小さい頃からあなたの事を知っているから。他の人には何も伝わらない。とても残念な事だけどね」

「うん……」

「テーブルの下には、あなたが素敵だなと思う人の足があるの。あなたはそれに触ればいいの。身体に触れれば何かが分かるはず。それに誰にも見られずにすむ。喋るのが苦手なあなたでもできるでしょう。相手の足にね、始めはそっと触れるの。相手がちょっとぶつかっちゃったのかなって思う位に。それから先はゆっくりと曲線をなぞればいいの。簡単でしょ?」

「難しいよ。お姉ちゃんはいつもそうするの?」

姉はベッドの中の妹のふくらはぎをゆっくりと足先でなぞる。静かに足先は上へ進む。

「くすぐったいよ!」

「そうやって相手に感じさせる事が大切なのよ。身体が感じれば、あなたは何も喋らなくても大丈夫。あとは相手が喋り出すから」

妹は姉のその時の表情を覚えている。美野は美咲のその時の表情を覚えている。

 

美野はテーブルの下のあゆ川の足を僅かな時間意識した。しかし、美野はあゆ川の足には触れなかった。美咲に反抗したのでも、恥ずかしかったのでもない。美野は喋っていたからだ。

 

美咲とあゆ川のセックス。二人はホテル街の、一等薄汚れたホテルに入る。それを望むのはいつも美咲だ。あゆ川はもっときちんとした、清潔感のあるホテルに美咲を連れて行きたいと思っている。あゆ川は美咲との週一回の夜の宿を確保する為に、アルバイトを週一回増やした。美咲は食事をしても、あゆ川に半額かもしくはそれ以上の金額を払ったが、ホテル代だけは一円も払おうとしなかった。あゆ川は最初からホテル代を美咲に払わせるつもりなどなかったが、食事代を払う時と比較すると、ホテル代を払わない美咲の頑さが気になっていた。あゆ川の後ろに立ち、美咲は美しい顔を俯けてたいていは小声で鼻唄を歌っていた。あゆ川はいつも美咲が口ずさんでいる曲名を、未だに美咲に聞けずにいる。

部屋に入るとあゆ川はまず、かかとの高い靴を一つずつ、しゃがんで美咲の足から脱がせる。こんな靴で歩けるのだろうかと、靴に触れる度に僅かな時間考える。そして靴を脱いだ美咲を前に、一つの征服感を覚える。十センチもかかとのある靴を脱ぐと、美咲の身長は百六十センチメートルになり、街の中で保っていた強さ、頑さが失われる。だからか、あゆ川は美咲の靴を一層大切に扱う。節度を持って接する。

美咲はベッドに静かに座る。次にあゆ川は美咲の首筋に舌を這わせる。美咲は「すう」と溜め息を漏らす。美咲の柔らかな指先は、あゆ川の太腿を撫でる。あゆ川はこの時、他のどの女の子にも感じた事のない、慎み深い優しさを美咲の指先に見出す。自分の太腿が愛されていると感じるのだ。美咲はズボンの上からあゆ川の太腿を撫でているだけなのに、あゆ川は美咲の指先が持っている熱を確かに感じる。あゆ川は美咲の首筋から唇へ、舌を移動させる。美咲の口からは毎回同じ匂いがする。何を食べた後でも、何を飲んだ後でも、必ず同じ匂いがするのだ。竹薮の匂いだ。あゆ川の中でその匂いは美咲の匂いだったが、あゆ川は美咲に会う度に、今日だけの匂いを探し回った。

「ねぇ、あゆ川君の身体はあゆ川君だけのもので、誰のものでもないんだね」

「突然どうしたの?」

「ふとそう思ったの。せめて身体だけでも、私のものになったらいいのになって」

あゆ川は美咲の顔を見つめた。美しい横顔が崩れ去るのを待ってみた。ここで美咲が泣き崩れれば、あゆ川は美咲を愛しただろう。美咲は口元を結び、座っているあゆ川の目の前に立ち、自分のブラウスのボタンを上から一つずつ外した。美咲はボタンの外し終えたブラウスを、柔らかく下に置いた。

「私の身体は今からあゆ川君のものよ」

「身体だけ?」

あゆ川の質問には答えず、美咲は微笑み立ち竦んだまま、あゆ川の唇に指先を持ってゆく。あゆ川は美咲の指先を軽く噛む。

「美咲の爪のマニキュアはいつだって完璧に塗られているんだな。欠けてもいないし、はみ出してもいない」

あゆ川は美咲の指先をくわえ込む。

「私は完璧でいたいの。せめて外見だけでも」

「でも俺は、美咲の不完全な部分にこそ愛おしさを感じると思うよ」

「私、探られるのって嫌いよ。何故皆、完璧さを嫌がるの?」

「自分が完璧ではないから、完璧な人といると気後れすんだよ」

「でもね、セックスって、完璧じゃない人達がするものよ。きっと」

美咲はあゆ川の唾液でてらてらと輝く指先で、あゆ川の顔の輪郭をなぞり、あゆ川の洋服のボタンを先程と同じ様に、一つずつ外す。あゆ川は自分の下半身が動き始めるのを感じる。美咲の腰を掴み、ベッドへ導く。美咲には安いホテルのやかましい色をしたシーツは似合わないと思う。こんな場所で抱き合っている限り、知らぬ間に二人は出口を探し当ててしまうはずだ。あゆ川は自分と美咲の関係に必要なのは、生活感だと思っている。

「何で、美咲の部屋でセックスをするのは駄目なの?」

「あの場所はね、私だけのものなの。だから誰にも入って欲しくないの」

「本当は浮気とかしてるんじゃないの?」

あゆ川は美咲に股間を触られながら、そう言った。

「浮気って何のことを指しているの?」

あゆ川は美咲のブラジャーを外す。美咲のブラジャーとパンツは必ず上下がそろっていて、レースがほつれたり、ゴムが緩んでいる事もない。あゆ川のパンツはいつだって伸びていて、色も褪せている。ラブホテルのシーツと似た様なものだ。

美咲の胸は左右のバランスもよく、寝そべっても弾力があり、型を残している。あゆ川は美咲の胸が好きだった。少し触ると乳首が反応し、身体全体の水分を今にも吐き出しそうだ。あゆ川は上半身裸の美咲を抱きかかえ、美咲をベッドの端まで導き壁に寄り掛からせる。あゆ川は美咲の胸を舐めながら、美咲の表情を下から見るのが気に入っている。たまに下を向いた美咲とあゆ川の目が合う。美咲は唇を震わせ、ほんのり微笑む。セックスをしている限り、美咲は笑っている。あゆ川はその事について考えると、無償に虚しくなる。目の前から聞こえる美咲の喘ぎ声や、膣から溢れる匂いまでが現実のものでない気がするのだ。

 

美咲はキーボードを押し続けている。美咲は街の中では手も繋がないし、キスもしない。泣いたり、本気で笑ったりもしない。表情の変化は街と扉の中において同等に扱われる。案外多くの男が美咲に表情を求める。美咲は身体で表情以上のものを伝えていると思っているので、そういう言葉を言われるととても困惑してしまう。表情の中に感情を見出そうなど、愚かしい考えだと思っている。買いたての靴を履いているので、足の指先が縮こまって鈍い痛みが絶え間なく続いている。

 

ホテルの出口から美野とあゆ川が出てくる。二人は手を繋いでいる。アーケード街の中でも、二人の手は握られたままである。あゆ川は煙草をポケットから取り出すのに、片手で苦労しているが、それでも嬉しそうな顔をしている。美野は人ごみの中で、あゆ川とのあまりに近い距離に困惑して、俯いている。様々な名前も知らない人間にじっと見られている気がする。美野はいけない事をしていると感じている。あゆ川の手は昨晩、美野の性器に触れていたのだ。美野の手は昨晩、あゆ川の性器に触れていたのだ。あゆ川の手が、今は美野の手を握っている。皆が昨晩のそれを知っている気がするのだ。昨晩の一部始終を街の中で再現しているのではないかと美野は心配している。

「美野ちゃんは手を繋ぐの嫌じゃないの?」

「お姉ちゃんは嫌がりました?」

「二人は何でも話し合うみたいだね。そうだよ。美咲は嫌がって外では決して俺に、身体のどの部分にも触れさせようとはしなかった」

「あゆ川さんはお姉ちゃんの事、分かっていないだけなんです。お姉ちゃんは誰よりも素敵な女の人なのに。何が不満なんですか?」

「美咲は何も要求しない。相手の愛情すらね。たまに高級娼婦のヒモになった気分になってしまうんだよ」

「でも昨日言った、ジージョって人、私とお姉ちゃんのいとこですよ」

「じゃあ美野ちゃん、昨日は俺に嘘言ったの?」

「お姉ちゃんの恋人はあゆ川さんだけですよ」

「何だ、そうなんだ……」

アーケード街を姉だったら、決して歩かないだろうと美野は思う。姉は人ごみを嫌った。しかし人ごみと美野が言うと軽く叱った。「人をごみに例えたら失礼よ。人波って言いましょう」と。こんな優しい言葉を喋る姉に感情がないはずがない。あゆ川は何も分かっていないと美野は再び感じる。

「お姉ちゃんは身体しか信じていません。でもリアリストではないんです。夢を見続けているだけ……」

「美咲は身体という夢を見ているって事?」

「ううん、ちょっと違うかな」

美野にとって今日歩く街は今までと違ったものに見えた。多分隣にあゆ川がいたからだろうが、今まで人々の喋っている言葉は雑音でしかなかった。美野とあゆ川は無言ではあったが、美野は自分を守るオブラートの様なものの存在を感じた。身近な雑音と感じていたものが、街の一部に変化した。美野の事を人波が襲ってくる、というイメージが離れてゆく。

「美野ちゃんはこれからも俺と会ってくれるの?」

美野は握られていた手を振りほどく。セックスは今終わったと美野は感じた。

「やっぱり、あゆ川さんはお姉ちゃんと一緒にいるべきです。私が昨日無駄な嘘をついたから……」

「美野ちゃんの言った事が嘘だろうと、本当だろうと俺には関係ないよ。その話を前提に考え出した結論ではないんだから」

「私、お姉ちゃんに言わないと……」

 

美野は美咲の住んでいるマンションを訪れる。姉はある日突然に、実家を出ていってしまったのだ。その理由を今まで聞いた事はない。美野はインターフォンを押す。美咲が中から出てくる。美咲は美野を見つめる。パソコンの画面ばかり見ていたので、美咲の視界は僅かにぼんやりとしている。

「あゆ川君と寝たのね?」

「どうして?」

「匂いがするのよ」

「でも匂いはお姉ちゃんが信じないものなんじゃないの? だって身体じゃないよ」

「そうよね。匂いなんて今まで信じていなかった。でも匂いで分かる事もあるのね。美野がどこからか持ち帰ってきただけの匂いなのに。私にはあゆ川君と美野が一緒にいたと正確に分かってしまった」

「ごめんなさい……」

「いいのよ。それよりあゆ川君は美野に優しくしてくれた?」

美野は答えない。美咲の表情はいつもと変わらない。部屋にいて仕事をしているのに、美咲は外に出掛ける時と同じ様な洋服を着ている。美野は姉がジャージ姿で同じ事を言ったら、抱きついて泣けるのかもしれないと思った。完璧な佇まいの姉を、乱してはいけないと美野は感じた。

「何でも言う姉妹だったじゃない。お願い、教えて……」

「優しかったよ……」

「そう……」

美咲は泣いていた。美野は美咲が泣くのを初めて見た。美咲は涙を流す所を初めて人に見せた。

「やっぱり、私はお金じゃ買えない娼婦なのね……」

美野は泣く美咲に見とれてしまった。やはり姉は誰よりも美しい、とこの期に及んで感じた。感情など持たなくていい人間なのだ。姉は身体だけを信じて、過ごせばいいのだ。あゆ川やその他の男が姉を理解していないだけだ。姉は媚態を匂いとし、指先や胸や膣を言葉の代わりにして生きていくべき人間なのだ。

「私もうあゆ川さんには会わないよ」

「会いなさい。私に教えて、皆がどうやって愛を確かめ合っているのか、私に教えてちょうだい」

美咲は部屋の中に美野を導き入れる。美野は黙って美咲の後に続く。

玄関でそれまで履いていた靴を美咲は脱ぎ、髪の毛を束ねていた装飾の施されたクリップを部屋の中に投げつける。乱暴なはずの仕草が、密室の悲しみを助長する。美咲の涙は止めどなく流れるが、泣いている顔を美野には一瞬しか見せなかった。小さな声で美咲が歌を口ずさんでいるのを、美野は確かに聞いた。

 

「心なんてなきゃいいのに……」

 

――(了)

2007年5月15日公開

© 2007 竹之内温

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