徐福はお父さん

しょうだまさとも

エセー

10,453文字

ex. 著しく不当なビーン・ボール

徐福の研究 – 序論

 

天下を統一した秦の始皇帝は次に不老不死を手に入れんと欲した。水銀入りの強力な滋養強壮剤を飲み続け、不老不死の方法を手に入れるまでの間、出来るだけの長生きを目論んだ。やがて水銀中毒により四肢が痙攣し、言語(脳)障害を発症した。北方警護のため長城の建設、自らの墳墓の建設等、民を顧みない強権発動の数々に人心は離れ、治安は乱れに乱れた。そんな時代の出来事である。

いまよりおよそ2,200年前、日本列島では目下、縄文時代から弥生時代への遷移の境目の頃の話である。斉の国琅邪(現在の中国山東省)に徐福という高名な学者(方士)が居た。仙術、医術、薬学、天文学に大そう長けた人物であったという。徐福は、諸国巡遊中の秦の始皇帝に{徐郷県(現在の山東省龍口市)で}面会し、東方の海上には蓬莱、方丈、瀛州という島々(東方海中の三神山)があり、そこに住む仙人は不老不死の薬草を持っているから、海を渡って会いに行き、薬を譲り受けて参りましょうと申し出たのだった…(後の通説では、おそらく詐欺)。かなりの知恵と胆力を持った策士だったのだろう。

 

方士徐福の図

 

秦の始皇帝の命を受けた徐福が、不老不死の霊薬を求める為、およそ3,000人の健康で聡明な童男童女と、多くの材料と技術者を連れ従え、五穀の種を備え、東方に船出したのが、司馬遷『史記』の完成より100年前、紀元前219年頃の出来事である。その後、徐福は平原広沢を得、彼の地で王となり、戻らなかったという。

 

又使徐福入海求神異物,還為偽辭曰:『臣見海中大神,言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄,得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山,見芝成宮闕,有使者銅色而龍形,光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事,即得之矣。」』秦皇帝大說,遣振男女三千人,資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤,止王不來。(司馬遷『史記』巻118 「淮南衝山列伝」)

 

徐福は真面目に探したか

 

富士古文献(宮下古文書)(山梨県富士吉田市)によれば、徐福とその一行は、真面目に仙人を探していたという(笑)。しかし、最初から無いものを探しているのだと徐福が知っていたとしたら、皇帝の目の届かない僻地で、そんな猿芝居をやるだろうか。この古文書に記されている通り、徐福が本気で仙人と不老不死の霊薬の存在を信じ、真面目に探していたならば、始皇帝に対する詐欺の故意性向は否定される事になる。あるいは、賢い徐福は、(皇帝、そして自らの従者ら、)自分以外のすべての者を欺き、死ぬまで欺き通したという事かもしれない。いずれにしても、不老不死の霊薬は無かった。

いまも、日本列島各地には徐福の伝説(言い伝え)が残っている。しかし、各地に残る伝承は、その裏付けとなる資料に乏しい。言い伝えが多いのに、古文書がほとんど見当たらないという事は、それが意図的に滅失したか、あるいは隠ぺいされている可能性が高い。古墳や出雲を調べれば何かわかるかもしれないが、まったく見当違いの「はずれ」の可能性も大いにある事は言うまでもないだろう。

 

他覚的所見

 

「言い伝え」の歴史資料的価値については、その道の専門家に聞かれたい。

各地に多く残る「言い伝え」以外の他覚的所見、すなわち古文書等の物理的資料(証拠)については富士古文献(宮下古文書)(山梨県富士吉田市)が知られている。2009年現在、それ以外はほとんど皆無に等しい。従って、考古学的所見を伴った立証はいまのところ極めて困難であるといえよう。そこで、筆者の比類なき想像力を発揮したがる。

尚、佐賀県には、次に紹介する浮盃の他にも、竜王崎、金立山、その他、徐福に由縁の深い伝承が残されている。また、吉野ヶ里遺跡からは、中国大陸の人間の特徴を有する人骨が発見されているといふ。日本の米(ジャポニカ米)の原産は中国の東南部界隈(長江中流~下流域)にある事はDNAの研究で明らかになっており、日本の稲作は紀元前700年頃の縄文時代後期、九州北部で始まったということであれば、それはおそらく原産地からやって来た人々によって広められたはずである。この原産地は徐福の故郷、学問が盛んだった斉の国の地方(越)とほぼ一致するという。稲作の伝来よりおよそ500年の後、徐福は、先人によって蓄積された知見を学び、見事、日本に上陸を果たしたということではないか。

徐福は、浮盃(ぶばい)の海岸に上陸したかもしれない。しかし、だからといって、平原広沢が同じ場所だとは限らない。徐福旅団は海路や陸路で方々に移動したかもしれないからだ。

和歌山県地方に残る伝承は広く浸透しており、何らかの由縁を感じずにはいられない。

 

時系列

 

紀元前278年 ユダヤ人徐福生誕

紀元前259年 始皇帝生誕

紀元前221年 始皇帝即位

紀元前219年 徐福船団出航

紀元前210年 始皇帝崩御

紀元前208年 徐福死去

 

徐福旅団上陸地点

 

徐福旅団の態様については、司馬遷『史記』に詳しい。『史記』の他にも、日本でも有名な『魏志倭人伝』(三国史)はじめ、『呉書』や『呉主伝』には徐福の東方航海の様子が記されている。

 

徐福旅団浮盃上陸の図(金立神社)

 

徐福の旅団は、巨大な楼船からなる大船団だったと伝えられている。仕官、従者、船の漕ぎ手、兵団の士官、弓兵、工兵、そして学者や技術者等を擁し、およそ3,000人の健康で聡明な童男童女を合わせ、五千から六千人規模の大船隊を組織していたという。なるほど長い航海の間に欠く事の出来ない大量の真水と食料を運ぶためには、相当な容積の船体(排水量)が必要になろう事は想像に難くない。

この大規模な船団を目前にした土着の民の記憶の象徴が、ビャクシンの大木として投影されている様に思われるのである。

徐福旅団が上陸の記念に植えたと言い伝えがあるビャクシンの古大木が、佐賀県佐賀市諸富町浮盃(ぶばい)にいまもそびえ立っている。事実かよ。浮盃(ぶばい)とは、徐福旅団が、上陸に適した地点を探るため有明海に朱色の大盃を浮かべて潮の流れを観測し、大盃が流れ着いた場所から上陸したという言い伝えがある場所だ。出来杉君、本当かいな…。ちなみに、徐福の故郷とされる中国の江南地方には野生のビャクシンの木が多く自生しているという…。

上陸した徐福旅団の一行は、一面の葦原を掻き分けて進んだので、その葦の片側の葉が落ち、この辺りの葦には片方にしか葉が付いていない様子を「片葉の葦」と称したという。そして、片一方に落ちた葉は、筑後川にしか生息しない斉魚(エツ)という魚になった…。う~む。史実にしてはいささか出来過ぎな感は否めない…。つじつまが合い過ぎる。

更に与太話は続く。上陸した徐福旅団の一行は、きれいな真水を求めた。井戸を掘り、船旅で汚れた手や体を洗ったので、その井戸は「御手洗井戸」と称され、いまでも民家の庭に残っているという…。この地、寺井という地名は「手洗い」が訛ったものだという…。う~む。詐欺師の講釈みたいになってきたが、素敵な物語だ。

徐福旅団の上陸地点にビャクシンの大木がそびえ立つという物語のディテールは、伊豆地方にも見受けられる。伊豆半島、静岡県沼津市江梨大瀬崎にある大瀬神社には、ビャクシンの大木がいまもそびえ立っているという。

 

徐福の里

 

和歌山県新宮市「徐福公園」は徐福の住居跡であるという言い伝えがあります。

富士山麓山中湖畔東に位置する長池村は、かつて長命村と称され、徐福の子孫の村だという言い伝えがあります。富士山麓では織物業が盛んです。この織物の技術を伝えたのが徐福旅団の内の一行であったという言い伝えがあるそうです。河口浅間神社には機神(機織物の神様)として徐福が祭られています。

有明海文化圏には、いまも方士の神仙思想が残っているという。

 

平原広沢はどこか

 

佐賀地方に上陸し、和歌山地方に至り、やがて豪族として身を立てたというストーリーが思い付きます。富士古文献(宮下古文書)(山梨県富士吉田市)によれば、徐福は、紀伊の国(和歌山)の熊野でお告げを受け、伊豆半島に渡ったとされ、孝元天皇7年(紀元前208年)2月8日に富士山麓にて死去したとされています。

 

徐福旅団新宮上陸の図

 

皇統との関連性を論じる事はあまりにおそれ多く、そもそも資料に乏しく、史実との整合性もやや欠いている感は否めません。
徐福は、始皇帝より与えられた秦の潤沢な国家予算を背景にして、健康で聡明な多くの男女と、材料と、先端技術と、栽培用の種を持っていたといいます。農耕技術、工業技術、そして文化や知識、教養など、当時の日本列島に与えた影響力は小さくなかったはずです。当然、造船や航海の技術も伝えられたと思量されます。

富士古文献(宮下古文書)(山梨県富士吉田市)が、なぜ徐福を詳細に記したかという疑問が生じ、興味深い論点になります。徐福の率いた旅団はいくつかの集団に分かれ、優れた技術や知識を伴い、日本全国に散らばった可能性も否定できません。だとすれば「徐福はお父さん」というよりも、むしろ「徐福は先生」といった方が馴染むかもしれません。

 

東南至蓬萊山 徐福の見立てたストーリー キーワード

 

徐福は「東方の海上には蓬莱、方丈、瀛州という島々(東方海中の三神山)があり、そこに住む仙人は不老不死の薬草を持っている」といって、東方航海の口実にしたという。徐福の立てたあらすじには、「東」「海」「島」「山」「仙人」「霊薬」がキーワードとして現れている。島は日本だとして、山は何処だろうか。日本列島に上陸した徐福が、霊峰富士に関心を寄せた事は想像に難くない。

 

三種の神器

 

大和皇統に伝わる三種の神器、それは剣、鏡、勾玉である。いずれも秦代より伝来の品々であるという。古文書より、君を尊、臣を命という。大夫や将軍といった称し方もすべて、その言語的な由来は周代や秦代にあるということである。

 

徐福は神武か

 

徐福は紀元前278年に生まれ、紀元前208年に死去した人物です。日本書紀の神武と同一視するのは無理筋ではないでしょうか。
神武天皇の即位年は、日本書紀が記す歴代天皇の在位年数をさかのぼると紀元前660年、という事になります。あくまで神話の世界のお話だというのが一般的な見解だと思いますが、何らかの理由により、時系列が大きくスライドしている可能性も否定できません。無論、肯定もできない訳ですが。
但し、徐福が日本に上陸してから、死去するまで11年しかない。たった11年で徐福は王として尊敬を集め、君臨できたでしょうか。王に代わる優秀な部下がいたか、世継ぎがいたのなら可能だと思われます。

高名な方士が、新たな土地で神官として身を立てるやり方には蓋然性があると筆者は考えます。なぜなら方士は、祈祷の術に長けていたからです。両者に共通するしきたりなどを調べたら、客観的な論証が可能になるかもしれません。

 

日本書紀

 

日本書紀が、為政者に都合の良い様に編集されたという説には説得力がある。日本書紀にある神武の東征が、徐福の東方渡航を置き換えた物語であったとしたら如何だろう。

日本書紀によれば、神武の東征は大船団によるものだったという。当時の日本の文明のレベルでは非現実的なストーリーであり、おそらくそれは渡来技術の象徴であったはずである。
また、神武の軍隊は男女が同数であったとされ、この奇妙な物語の筋書きも、徐福の東方渡航を置き換えた物語だと読み解けば、なるほど合点のいく代物である。

日本書記にある神武の東征にはディティールとして無理がありがちな為、往々にして「神話の世界のお話」であるとのそしりを免れない。但し、ディテールに散見される矛盾点、これを徐福の東方渡航として置き換えて読み解いた場合、むしろ斯様にして無理に設定されたあらすじこそが別の史実のトレースだったのだという事になるかもしれない。

神武の軍隊は、多くの古文書に天の孫と記されている。天孫とはいかにも奇妙な表現である。「天命により天下を支配するべき」中国の君主観に由来した概念「王権天授説」ではないか。土着の民の「渡来人に対する畏敬尊敬の念」を映し出した物語を、後世の編纂によって「神武の軍隊が正しく『天命により天下を支配するべき』御方々なのだ」という物語に紐付けた様にさえ見受けられる代物である。
浮盃の地に突如出現した巨大な楼船と、得体のしれない乗物から上陸して来た人たち、異国の装束に身をまとった渡来人の姿、それらの様に投影された日本人の記憶と、その伝承の物語。果たして彼方から渡来した農耕や鉄鋼の技術が、神武をして覇者たらしめたのだろうか。

徐福の時代より後、動乱の世の中が続いていく中で、その時々の為政者らは渡来系の諸部族に対抗するため、常に大陸の中華権威を意識しながら、あえて巧妙に中国大陸由来の神話を挿入して、ヤマトの皇祖神話を練り上げたのかもしれない。渡来の技術や文化をもたらす先進文明に対抗する為、ヤマトの政権は皇紀を加算する必要に迫られた。されど歴史の年月を穴埋めするには天皇の数が足りない。そこで、舎人親王ら日本書紀の編纂者は、天皇の寿命を延ばしたり、偶には架空の天皇を創作したかもしれない。

 

ならば徐福は誰か

 

紀元前219年頃、船団を率いて日本に上陸し、それから紀元前208年に死去するまでの間、日本に居た渡来人だという事になると思います。日本史上有名な誰かに置き換わっている可能性は否定できません。

『古事記』や『日本書紀』の後、しばらくの間、歴史文献が途絶えています。残されていた古文書の数々は、大化の改新で焼かれて滅失したとされ、大和朝廷の成り立ちは未だベールに包まれています。中大兄皇子の反乱は、その辺に何かの鍵が隠されているかもしれません。筆者の考え過ぎでしょうか。否、この界隈のわかり辛さには、実は明確な理由があるのだと筆者は考えます。

倭国では、宗教上の最高権威である祭祀王と、政治上の権力を行使する世俗王は両立していました。この二元体制、日本的な共生社会の成り立ちを、後世の編纂の都合によって皇統の系譜にのみ置き換えた事により、色々と齟齬が生じたのではないでしょうか。魏志倭人伝の記述によれば、巫女支配の系譜は卑弥呼の時代の前からずっと続いており、男子の王と両立していた。∴卑弥呼の存在は微妙に隠ぺいされがちなのだと考えると、如何でしょうか。
後に古事記や日本書紀が編纂された紀元後8世紀頃の日本では、中国の律令制度を模倣して、天皇を頂点とした絶対的な王権を強固に確立しようとしていました。その布石となる歴史文献は、時の為政者によって都合の良い様に書き換えられたはずです。編集前の原本はまさか残っていないでしょう。ヌププ

こうして国家の出自が編纂された後、律令制度が確立した政権下においても、祭祀の権威と支配の権力を両立した二元体制は引き継がれました。おそらくそれが統治として一番良いやり方だったからです。この二元体制が神祇官と太政官であり、いずれも中臣(鎌足)氏の系譜です。中臣鎌足は、中大兄皇子に蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺を唆(そそのか)した人物として知られています。神祇官の所管が大中臣氏、太政官の所管は藤原氏。つまりこの体制のはじめに、祭祀権威が大中臣氏を名乗り、政治権力が藤原氏を名乗ったという訳です…。

さて、この話はそろそろ止めておいた方が良いでしょう。

 

物部氏

 

物部氏は、近畿地方の有力な豪族でした。伝説では、神武の東征を一度は弾き返して、再び熊野から攻めて来た神武の力に魅入られて敬服し、遂に臣従したといいます。この物語がいつ頃の話かは不明です。何やら紐付きそうな気もしますが、ここで書くのはやめておきましょう。

 

八咫烏(やたがらす、やたのからす)

 

日本書紀には八咫烏が三本足だという記述は見当たらないそうだ。三本足の八咫烏の由来は、倭国の信仰「神の使いの鳥」と中国の神話「太陽に棲む霊鳥」が後に習合したものだという。

道教の影響により、中国では奇数が陰陽の陽を表し、太陽を表す数は三である。
日本では太陽に仕える日女(処女姫)の神に奉じる神社(ヒメコソ神社)の紋様(神紋)が三つ巴である。

八咫烏の八咫とは元来、八田(はた)羽田(はた)を指す代名詞であるとされ、秦(はた)氏由来の姓である。秦氏は八幡宮を創建し、全国各地に八旗、八幡の神社を建立した。
そんな秦氏が徐福の系譜にあるとしたら如何だろう。大王家(天皇)と秦氏の相関は深い。皇統の系譜に影のように寄り添う黒い影。そんなイメージがカラスを連想させるのかもしれない。

古墳の中を開ける前に、羽田元総理のDNAを採取しておいた方が良いかもしれません。あるいは羽田空港が、八咫烏の棲み処という訳か。(白目)

八咫烏の「八」、日本では「末広がり」で「縁起が良い」からとして好まれる。
中国語では「八」の発音が「ヴァ」で、中国語の「发」(発)(ッファ)の発音に似ているのだという。この「发」という漢字が「发财」(発財)(ッファ ツァイ)を連想させ、すなわち「儲かる」「繁盛する」という意味になるのだという。両者の相関は明らかではないか。
尚、中国人が一番嫌う数字は「四」である。中国語では「四」の発音が「ス」で、「死」(ス)の発音に似ているのだという。すなわち「死」を連想させるという点で日本と同じであり、両者の相関は明らかである。

次に、不思議な数字「十三」に注目したい。中国語では「十三」「十三点」には「馬鹿」「阿呆」の意味があるのだという。
その理由は必ずしも明らかではないが、多分、中国の時間軸が十二(十二点)を数えるのに対して、それを超えた十三(十三点)が「行き過ぎた」すなわち真ん中(正午)を通り過ぎて歯止めのきかない様を表わしている。その様を指して「馬鹿野郎」という意に転じたのだという説がある。あるいは中国語の「十三」の発音が「シサン」で、中国語の「失散」(シサン)の発音に似ており、「災難で一家が離散する」という意味が連想されるのだという説もあるそうだ。後付けの、山師の講釈の様である。
「十三」 は西洋において最も忌避される「忌み数」である。無論、「十三」は聖書でも特別な意味を持っている。ユダヤ人イエス・キリストを裏切った弟子のユダが、最後の晩餐で「十三」番目の席に座っていたという。そんなキリスト教圏の俗信において最も忌避される「忌み数」の「十三」が、ユダヤ、中国(日本)と共通する禁忌となっている点は単なる偶然の一致なのだろうか。否、それはむしろ線としてシルク・ロードを伝った系譜だと考えた方が自然ではないか。おお、大阪十三はシルク・ロードに繋がるユダヤ末裔の地、すなわち大阪はユダヤ!大阪人はユダヤ人!

 

(閑話休題)

 

鞍馬の天狗はユダヤ人だろ。ユダヤ鞍馬天狗に鍛え上げられた源義経は不思議な術を発揮し、異端として鎌倉武士の衆に忌避された。そしてシルク・ロードを逆に辿り、中国大陸の北方に渡った。ユダヤ(方士・徐福)の術を用いて辺境の騎馬民族を率い、自らの系譜に対する復讐に燃える暴君と化したのだった。成吉思汗(チンギスハン)その人である。うww~、病院行けよ。うん、国際病院!否、水戸光圀公などは蝦夷に調査隊を派遣してアイヌを調べたほどの話ではあるのだけれど。

 

徐福の墓

 

徐福の墓が、和歌山県新宮市「徐福公園」にあります。徐福の墓は自然石を使った石碑で、墓碑の高さは140cm、幅は50cmです。この墓は1736年、紀州藩祖徳川頼宣により建立されたものです。墓碑には、徳川家儒臣の李梅溪が書いた「秦徐福之墓」という漢字が刻まれています。この徐福公園は徐福の住居跡であり、墓は他に存在するという説もあります。

徐福の墓については他にも、阿須賀神社(和歌山県新宮市)境内にある古い石碑や、三重県波田須にある徐福宮、その他いくつかの説があります。富士古文献(宮下古文書)(山梨県富士吉田市)によれば徐福は富士山麓で没したとされています。

筆者が個人的に感じる事は、徳川頼宣(幼名:長福丸)公は「何かを知っていた」のではないかという事です。徐福伝来にかかる古文書はいまのところ見当たりませんが、徳川幕府、あるいは御三家の関係する古文書を丹念に解読していけば「徐福に関する記述が見付かるかもしれない」という希望的観測をずっと心に秘めております。

 

徐福はユダヤ

 

□ シルクロードを通じ、中国に辿り着いたユダヤ人流浪の民の末裔

□ 修験道の源流

□ 方士と天狗の相関

□ 鷹鼻の修験者

 

徐福と卑弥呼

 

卑弥呼は、中国の著名な歴史文献にしばしば登場する人物である。その記述は『魏志倭人伝』や中国の正史『後漢書』や『東夷伝』に確認する事が出来る。

倭の国では元来、男子を王としていたところ、七、八十年を経た後、大乱が起こった。これを倭国大乱という。この争乱は長く続いたが、やがて有力者らは、不思議な祈祷の力を持った女性を君主とする事で合意し、この女王に対して国中が服したのである。祈祷の術を用いて民草を率いていた、この女王の名を「卑弥呼」という。

紀元後3世紀頃、邪馬台国が消え、大和朝廷がいよいよ立つ頃、卑弥呼の時代は終わりました。徐福の時代より500年ほど前に徐福由縁の地(越)より稲作が伝来し、そして500年ほど後になって卑弥呼の時代があったという事です。筆者は、古代中国の方士の亀頭と、卑弥呼の祈祷のやり方をよく比べてみたら良いと考えています。
筆者の見立てでは、卑弥呼はユダヤの血を分けた徐福の子孫です。卑弥呼は、ユダヤの戒律と、中華帝国に対する尊敬と畏敬の念を持っていました。そして、異端とみなされ、ヤマト連合(大和朝廷)に倒されたという事ではないでしょうか。われながら物凄い与太話だ。

あるいはこの謎に包まれた女性は、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)かもしれない。倭迹迹日百襲姫命は巫女的な性格を持っていたとされ、崇神天皇によく頼まれ、祈祷の術を発揮していたという。調べれば、おそらく古墳の年代等の考古学的な所見にしても合致し得るでしょう。だとすれば、大和皇統の系譜は、実質的に崇神を祖とするかもしれません。果たして神功皇后は台与(卑弥呼の女子)その人なのでしょうか。ならば台与の父は崇神という事になろうかと存じます。倭国の平定、大和朝廷の成立に卑弥呼が深く関与していたという不都合な真実が隠されているかもしれません。おい、いい加減にしたまえ。汗

卑弥呼の時代が終わりを告げたこの頃、中国では、中華皇帝が騎馬民族の脅威に苛まれた激動の時代ですが、ちょうど紀元後266年から413年の間、日本(倭国)に関する記述を含んだ文献が唐突に途絶えた時期でもあります。これは何故でしょうか。

 

八百万の神が宿る「しなやか」なニッポン(仮説やり隊)

 

なるほど元より中国大陸は多くの出自、母なる大地だ。(右翼の方々に叱られそうだが、)大中華の源泉から流れる歴史の遷移を正しく読み解かねばならないのは、我々日本人にしても同じ。なにしろ、あの卑弥呼ですら、大中華との敵対を企図する考えは無かった様なのである。
万が一、除福が逃げた先が日本列島だったとしたら如何なのだ。サンカが原住民であって、ユダヤの流浪の民が天狗だったら如何なのだ。修験道とユダヤ教が同じユダヤの系譜だとしたら如何なのだ。ユダヤ人らが中国大陸(シルクロード)を渡って日本列島にやって来たとしたら如何なのだ。日本人の知能が高いのが、ユダヤの血の影響だとしたら如何なのだ。この様にして、日本人の所謂「神頼み」、すなわち八百万の神(やおよろずのかみ)信仰が、日本人の出自そのものを体現している代物だとしたら如何なのだ。その答えはおそらく、次の通りである。大陸から、あるいは島嶼伝いに、様々な「知」と「血」を取り込みつつ、終に単一の海洋国家を建設したのが日出国。その中心には、各々方を束ねる象徴たる首長が居られたのだった。日の丸皇統の系譜である。

だとすれば、ヤマト以降の日本は(離れて暮らす)出来の良い長男だ。それはまるで親を超える逸材で、朝鮮、琉球、アイヌが兄弟だ。肝心の中国は、自己に対する破滅的な総括(共産主義)によって自らの歴史を殲滅したのだ。そこに隠ぺいするべき不都合な歴史があったかもしれないし、そうではないかもしれない。

先にサンカは原住民だと書いた。日本列島の原住民は、大和朝廷の征伐(「桃太郎伝説」)によって、山深い集落と、沖縄と、北海道に追いやられたろう。前者が縄文人、後者が弥生人である。故に、ヤマト以降の皇統の系譜は弥生人のそれである。琉球王(尚氏)の系譜が縄文人のそれ(「浦島太郎伝説」)ではないか。ヤマト以前、例えば邪馬台国と皇統の関係性、あるいは連続性についてはわからない。古墳や、出雲あたりを調べれば何かわかるかもしれない。各々方の民族の鍵穴に通す事の出来る「唯一無二の鍵」の守護者こそが皇統の守護者だとしたら、すごい話ではないか。

こんな仮説は物騒なのでやるべきではない。きっと厄介事に巻き込まれるに違いないのだ。

2014年10月1日公開

© 2014 しょうだまさとも

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