故郷からの脱出

合評会2022年05月応募作品

わく

エセー

4,692文字

北朝鮮にいた日本人が敗戦後にどれだけ悲惨な思いをしたのか、今ではほとんど知られていません。これはフィクションではありますが、悲惨な手記の中から、私の心に残った場面を散りばめて、小説に使えるようにしておいたものです。字数も超えてますし、これ自体はあまり小説らしくもありません。それに手記の内容を勝手にアレンジするのもどうかと思うのですが、一人でも多くの人に知ってもらいたくアップすることにしました。

 

(1945年8月13日にソ連軍が上陸した清津という北朝鮮北部の都市から、ひとり逃げ遅れた祥子という女の子の話です。ニュースで流れるウクライナでの様子のとおり、戦争が起こってから市民が逃げるのは大変なことで、家族が離れ離れになるのも普通のことでした)

 

ふもとへ降りるとそこには、トラックがあった。父がどこからそんなものを用意したのか分からなかったが、祥子は荷台に乗るとすぐに眠ってしまった。トラックの燃料が切れたところで祥子は父に起こされた。二人で山道を歩き続けた。祥子はお腹が減って疲労困憊だった。途中の農家で食糧を買おうとしたが、清津の日本人の状況を農家も知っていたのか値をつりあげられた。逆に、日本人のことを可哀そうに思って食糧をめぐんでくれる人もいた。その農婦は、家政婦だったオモニにどこか似ていた。祥子がオモニはいったいどうしているだろうと父に聞いてみたが、父は黙ったまま歩きにくい泥道をずんずんと進んでいった。

城津の街にたどりついたときは雨が降り続けていた。二人はもう少しの辛抱だと思って雨に体が濡れるのも構わず、最後の気力を振り絞って歩きつづけた。酒屋をやっている伯父の家にたどり着いた途端、二人は戸口の前に倒れこんだ。伯父と母、姉の淑子、三人が二人に駆け寄って介抱をした。あの日以来、はじめて家族全員が顔を合わせることができて、祥子は心底安心して、それから丸一日眠りつづけた。

だが、もう城津も安心して住める場所ではなかった。祥子たちが清津から城津にたどり着くまでの間に日本は戦争で敗れた。祥子が城津に入ったとき、家々の軒先に掲げられた日の丸は、丸の半分が青く塗りつぶされて別の模様にされているのが目に入ったが、その時の祥子にはそんなことを気にする余裕はなかった。敗戦後、略奪を恐れた伯父は、利益を考えないような安値で日本人・朝鮮人に関わらず酒を売り払っていた。街には朝鮮人の保安隊が組織されて、元軍人、元警官を探しだしていた。伯父の知り合いの警官は、炎で自分の顔をあぶって面相を変えて逃げたという。祥子が城津に着いて、三日しか経っていないのに、もう隣町までソ連軍がやってきているという噂が聞こえてきた。祥子も城津に着いてから、ようやく自分の見たのが米軍兵士ではなくソ連軍兵士だったことを知った。ソ連兵の顔を思い出すと身震いもしたが、あの時フムラのナイフを落としたことが痛恨に感じられた。フムラだったらきっと勇敢に闘ったに違いないと思うとまた悔しくなって涙が溢れた。

そのうち城津にもソ連兵が現れだした。戦車やジープに乗ってきた彼らは、祥子が見たように丸坊主のものもいれば、中国人かモンゴル人に見えるようなものもいた。彼らは日本人からまず腕時計を奪った。腕時計を耳にあてて鳴っているのを確かめて彼らは自分の腕につけた。両腕に何個も腕時計をしたソ連兵もいた。祥子は伯父の商店にソ連兵が入ってくると胸の動悸を抑えて立ち向かおうとしたが、母親に服の襟をつかまれて強引に床下に隠された。母親の腕力がそれほど強かったとは祥子も知らなかった。夜の街には日本人女性の悲しい泣声が聞こえた。祥子が火炎瓶の作り方を覚えたのはその頃だった。伯父が昔、陸軍にいたころに急造の火炎瓶の作り方を教わっていた。自分たちに何かあったときは自分で自分の身を守るのだと伯父は祥子に教えた。ソ連兵から教われないように祥子は丸刈りにされた。はじめ祥子は嫌がっていたが、実際丸刈りになって鏡に映ると、自分の顔がフムラにどことなく似ているような気がして、自分が強くなったように思えた。姉の淑子は丸刈りにされるのを頑なにこばんだ。伯父はそんな淑子のために、床下を開けられても淑子が見つからないように仕切りをつくったりもした。

城津に着いて一か月ほど経ったころ、京城行の列車が出るという噂が流れた。祥子たちが城津の駅に向かうとそこには清津の時と同じように人だかりができていた。祥子たちは貨車に乗って、再び南を目指した。狭い無蓋の貨車の中に日本人がぎゅうぎゅうに押し込められた。祥子の頭の上にはまだ一、二歳くらいに見える子供が乗っていた。その子の糞尿がこぼれてきても、祥子は動くこともできずに我慢をするほかなかった。京城行きと聞いてはいたが、そのはるか手前で列車は止められた。なぜ止められたのか誰も分からなかったが、朝鮮人の保安隊の隊長らしき人物から、他の咸興の日本人が避難している寺や遊郭に行くように命じられた。祥子たちは丘を少し上ったところ寺に押し込められた。境内にはぼろをきてやつれた人ばかりだった。人々の衣類の汚さに祥子は驚いた。自分たちの服ももう汚れ果てていたが、寺の人々の服はもっとひどくて、ほとんど真っ黒だった。

夜になると、境内にも構わずソ連兵がやってきた。やつれたとはいえ、髪の長い淑子は、すぐにソ連兵の目にとまった。マンドリン(なぜだか皆、ソ連兵のマシンガンのことをそう呼んでいた)を突き付けられて、男たちもなす術がなかった。祥子がそのソ連兵に突進しようと思った瞬間、その場を助けてくれたのが絹さんという遊郭で働いていた女性だった。絹さんは、淑子に目をつけたソ連兵に水をかけて怒らせた。その間に淑子は境内を出て、林の奥へ逃げ込んだ。境内に絹さんの泣声が響いたが、周りの日本人は死んだように目をつむることしかできなかった。

ソ連兵が目的を果たして帰った後、絹さんは立ち上がって帯を締めた。

「泣き叫んでやった方が、あいつらも喜ぶんだよ」

絹さんはこともなげにそう言ったけれど、顔の影はとうてい隠し通すことのできないものだった。祥子の母は、絹さんの手に自分の涙を押し付けていつまでも離さなかった。淑子はそれでようやく、髪を切り丸刈りにされた。

ソ連の憲兵隊がやってきて取締が厳しくなると兵士の横暴も止んだ。暴力が全くなくなったわけではなかったが、ソ連軍の中には女性兵士もいて、祥子たちの寺の一角はその一人が見守ってくれていた。しかし、今度は発疹チフスの流行で人々が死んでいった。風呂にも入れない不衛生な環境で人々の衣服には虱が大量についていた。衣服の縫目には白い卵がびっしりと産みつけられていた。その虱が発疹チフスの媒介をした。人々は野良犬が死ぬように死んでいった。祥子の家族のなかではまず父と淑子が発疹チフスにかかった。父と淑子は同じ日に亡くなった。母はいつまでも泣いたが、祥子は不思議と泣かなかった。父と姉はむしろに包まれると、まるで鉄の固まりでも運ぶかのように荷車に載せられた。冬の時期で、父と姉の遺体は凍りついていた。他の遺体と重ねられると、どれが二人の遺体かの区別も難しくなった。祥子は父のくるまれた、むしろに焦げたような跡があるのを覚えた。姉はそのうえに乗せられていた。祥子は山の中まで荷車の後を追った。父が放り込まれた穴は小さかった。父がよく使っていた、書斎にあった広々とした机のほうがよほど大きかったように思えた。姉は穴に入れられる前にむしろから頭が飛び出した。骨と皮だけで髪もなかったが、姉の美しさは変わらなかった。土の中に埋められても、いつまでも凍り続けて解けることはないように思えた。

その後、母と祥子がほとんど同じ時期に発疹チフスにかかった。祥子も、もう自分は死ぬのではないかと思えた。何日にもわたって高熱が続いた。意識は朦朧としていた。ぼんやりとした視界の中にフムラの顔が浮かんだ。彼は祥子の首を支えて軽く彼女を起こすと、彼女の口を開けてなにかの粉と水を注ぎこんだ。フムラは祥子をまた寝かせると、真上から彼女のことをしっかりと見つめた。祥子には、彼がまた大人びたように見えたが、頭の良さそうな卵型の頭と引き締まった口元は以前となにも変わらなかった。彼はゆっくりと祥子にしゃべりかけた。

「これからぼくは朝鮮のために生きようと思う。いつか朝鮮と日本が手をとりあえる日が来るように、お互い頑張ろう」

祥子はフムラがなぜこんなことを言うのか分からなかった。彼女の記憶にはこんなことをいうようなフムラは存在しなかった。このとき彼女にはなぜだか、フムラが清津の海岸線に対して斜めに立ち、水平線に向って水切りをする姿が思い出された。フムラの投げた石は沈むことなく水面を切り裂き、まるで日本にまで届くかのように見えた。彼女の思い出の中のフムラは大真面目なことを言う人間ではなかった。言葉を用いずとも、自らの手で全てを説明してくれる少年だった。

「どうして、そんなことを言うの」

祥子はフムラにそう聞きたかったが、干からびたような喉からは声にもならない声しか出なかった。フムラはそのまま姿を消してしまった。フムラの薬のおかげか、それから祥子の病状は快方に向かった。彼女は発疹チフスが治っても母にフムラのことを尋ねなかったし、母もフムラのことは何も言わなかった。もし尋ねたとしても、母も意識が朦朧として何も覚えてはいないように思えた。あれは本当にフムラだったのか、それとも幻だったのか分からずじまいとなった。

春になると、伯父が咸興の日本人会の有志とともに闇船をやとって南朝鮮まで逃げるという計画が持ち上がった。父が死んでから母は伯父の言うなりだった。計画が持ち上がってから二週間ほどで、準備は整った。咸興から無蓋の貨物車にまた乗って西湖津の港で降りた。港で待っていたのは、長さ二十メートルくらいのエンジンのない帆船だった。

こんな船で海を渡れるのか祥子は不安になったが、陸路は陸路で困難なことは清津からの道で分かっていたことだった。風次第の帆船はなかなか進まなかった。水を補給しようと、陸に降りたところでソ連兵に見つかって、急いで船を出したこともあった。船には水がなくなり、みな喉がからからだった。赤ん坊を抱えた女性は乳も出せずうつむいていた。船頭には一人千円を払って、三十八度線以南まで行くことを約束させていたが結局、船が行きついたところは一体どこなのか分からないままだった。丘に向って道を歩いているところで、朝鮮人の保安隊に出くわし、ここがまだ三十八度線より北だということを知らされた。保安隊からはなけなしの持物を強奪されたが、三十八度線の超える道を教えてもらえた。

「さっさと日本に帰ればいいさ、勝手にしな」

そう彼は言ったが、もう少しで三十八度線を越えられるのかと思えば希望も湧いた。それでもまだ二昼夜、山道を歩かなければならなかった。祥子は仮眠の後に絹さんの姿が消えていることに気づいたが、何も言わなかった。黙って母の手を握ると、母の手も冷たく震えていた。

その夜通った村の人々は優しい人だった。温かい食事をとることができるのも久しぶりのことだった。あと一日早くこの村にたどり着いていれば、絹さんは助かったのではないかと祥子は思ったが何も口には出さなかった。母は拝むようにして漬物を食べていた。

翌日、ソ連兵の監視をくぐりぬけて夜の川を渡り三十八度線を超えた。米軍のテント村に入るとみなDDTの白い粉の洗礼を受けた。食事は缶詰ばかりだったが、これまでの生活と比べればとても贅沢なものに思えた。祥子はその後、引揚船に乗っても、憂鬱ともまた違う、引きずるような凄惨な感情にさいなまれた。内地にたどり着いて、様々な生活上の困難が降りかかり、清津から避難する道のりを思い出すことがなくなっても、彼女はときどき悪夢にうなされた。内地の誰からも理解されず、ずっと黙ったまま何十年が過ぎ去っても悪夢にうなされた。

2022年5月20日公開

© 2022 わく

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"故郷からの脱出"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2022-05-20 21:33

    参考にした話の多くは平和祈念展示資料館のHPに労苦体験手記としてアップされています。
    https://www.heiwakinen.go.jp/library/shiryokan-heiwa/
    またこの文章を書いたのが8年近く前になり、記憶が朧気になってしまっていますが、『在外邦人引揚の記録―この祖国への切なる慕情 』という1970年出版の書籍にも引揚者本人の手記が寄せられており、これも参考にしたと思います。
    国分寺市立本多図書館で調べたはずなので、現地に行けばこの本がどうかはすぐに思わかると思います。
    どなたの手記を参考にしたのか、それをメモにすら残していないというのは今考えると大変恥ずかしいことをしたと思います。今後、必ず確かめたいと思います。

    著者
  • 投稿者 | 2022-05-27 00:04

    シリアスな題材ゆえと思いますが今作はいつものわくさんのシュールさやとぼけた感じが見られませんでしたが、とても良かったです。
    余談なのですが、今回わたくしも参考にアレクシエーヴィチの『セカンドハンドの時代』を読んだのですが、一つ一つのエピソードの重さ深さ濃さに圧倒されるようで、また著者の講演動画やノーベル賞スピーチを見て考えさせられる事が多く、書くのが嫌になって一行書いただけでずっと放置していたのですが、わくさんの御作を読んでとても触発されるところがあり一晩で一気に全部書けました。お礼申し上げます。

  • 投稿者 | 2022-05-27 09:23

    どんな創作も、リアルの破壊力には敵いませんね。小説らしくもないと仰られていますが、ちゃんと小説の体をなしていると想います。長編で読んでみたい題材です。

  • 投稿者 | 2022-05-28 00:59

    証言文学の力強さで勝負している。「これ自体はあまり小説らしくもありません」というリード文の言葉は、これを安易に物語(小説)にしてしまうことへの危惧やためらいとして受け取った。五つ星!

  • ゲスト | 2022-05-28 01:32

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  • 投稿者 | 2022-05-28 09:04

    力がすごいですね。
    この圧倒的な現実の持つ力。
    想像ではとうてい勝ち目がないです。本物のビールとノンアルコールビールくらいの違いと差があります。
    恐れ入りました。

  • 投稿者 | 2022-05-28 10:56

    本当の話だったとしたら、面白かったとか言っていいのかわからないんですけども、面白かったです。いつまでも悪夢から逃れられないっていう最後が好きです。それを面白かったとか言っていいのかわからないんですけども。

  • 編集者 | 2022-05-28 23:09

    フムラの幻か、現実かわからないところが良かったです。引き揚げは想像を絶する悲惨なものでしょうが、きちんと語り継がれるべきだと思います。そういう意味でもここに挑んだことは凄いと思います。

  • 投稿者 | 2022-05-29 00:34

    満州の小説は書きたいと思っていて(ぼくの企画は建国の方だが)、満州には以前から興味があった。また満州引き上げ経験者も知人に少なくなかったので、断片的にいろいろ聞き及んでいるが、本作に触れてさらに知見を広めることができ、感謝したい。

  • 投稿者 | 2022-05-29 08:22

    フムラの登場が何となく唐突に思いましたが、あくまで人生の1ページのような描かれ方なので、途中のような部分で始まり、良い意味ですっきりしない終わり方をするのも、作者の狙い通りなのかなと思いました。
    規定の問題がありますが、もっと長編で見たい話です。

  • 投稿者 | 2023-01-09 19:17

    すごく大切に書いたのだなということが伝わってきます。人の人生を書くとき、それがフィクションであれノンフィクションであれ、一種の畏敬の念というか、自分とは異なるところにある命を強く感じる必要があって、この作品はそれを正面から行ったのだなと思いました。フムラや家族、親戚縁者や絹さんと人物が多く登場しますが、皆主人公にどのような影響を与えたのかということが上手に書かれており、すごい話でした。

    • 投稿者 | 2023-01-22 18:41

      合評会以外でもコメントを頂けると、とても励みになります。ありがとうございます。
      ただ、元の体験記の壮絶さこそに、すべてがあるかとも思い、私が作品にするのも蛇足どころか、有害な気もしなくもありません。
      (とても私のレベルとは比較できませんが)井伏の『黒い雨』も似たような問題を抱えているかとは思いますので、今後もう少しこの問題を考えたいです。
       
       他の私の作品は、不真面目な作品ばかりですが、今後も精進したいと思います。

      著者
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