練絹の白き小袖

合評会2024年9月応募作品

大猫

小説

4,153文字

2024年9月合評会参加作品。お題は「世界の終わりと白いワンピース」
和風の「白ワンピース」で行きます。
「グリーンスリーブス」を「緑の小袖」と訳した歌本があったのにシビれた思い出があります。
ワンピースは平安時代なら「小袖」です。時代が下ると通常服の小袖も、平安時代までは肌着でした。
出典は『平家物語』です。諸行無常の鐘の声、と呟きながらご覧ください。

月光の下、契りを交わした男女が肌着を取り替えて別れる。愛する人の残り香を身にまとって会えない時間を忍ぶ。万葉の昔から続く優しい習わしだ。夫婦となって一つ屋根に住むようになってからは、そんな必要はなくなった。

けれども今日は取り替える。真白き練絹の小袖にたきしめた白檀の香り、愛してやまない妻の香りを、惜しむように身に着けた。

床に伏した妻の黒髪を掻きやると、サッと同じ香りが立つ。花のような美しい顔は涙に濡れ、やや青ざめている。夫が自らの小袖を着せかけてやろうとすると、妻はわずかにためらう様子を見せた。その理由が夫にはすぐに分かった。

「戦陣に居る身ゆえ、小袖もこのように垢じみて臭うようになってしまった、着ずとも良い。が、せめて持って帰ってはくれまいか」
「いいえ!」

妻は身を起こしてその汚い小袖を素肌にまとった。薄明りの下、白い乳房が揺れるのを夫は眩しく眺めた。
「今度の戦では一定、討ち死にするであろう。私が死んだ後は都へ戻るが良い。宮中一の器量を謳われたそなたのこと、いくらでも良縁があろう」
「縁起でもないことをおっしゃいますな」

妻は夫の袖口に取りすがった。
「海にも岸辺にもこれほどの御味方が集まっておられます。殿が討ち死になさるわけがありません。今しばらくの別れと思い、船にてお待ち申し上げております」

そのまま頬と頬と寄せ合っていたその時、
「兄上!」

仮屋の板戸がドンドンと鳴った。
「今にも源氏方が山の上から攻め降りて来ようという時に、北の方をお迎えして睦み合いとはなんたるご油断か! 敵が攻めて来たらなんとなさる、裸で戦うと言われるか!」

夫はちっ、と舌打ちし、妻は恥ずかしさで真っ赤になる。夫妻は手早く身支度を整えた。
「この教経のりつね、総大将より陣頭指揮を承ったからには、兄上と言えどお見逃しはいたしませぬ。疾く疾くお出ましあれ。北の方は速やかに御船に戻られよ」
「今行く。そう怒鳴るな。今生の別れを惜しんでおったものを、この無粋者め」

外へ呼びかけてから、夫は妻に向き直った。
「済まない。逢いたさのあまりに無理して来てもらったのに、このような辱めを」
「いいえ、こうしてお目にかかれた幸せ、何と罵られようと構いませぬ。それに、ぜひとも殿のお耳にいれたいこともございましたの」

それから妻は頬を赤らめて懐妊していると告げた。
「なんと、この数年、子に恵まれなかったのに、今この時とは」

夫は喜びと悲しみとがないまぜの顔をした。
「今となってはこの世の忘れ形見となるやもしれぬ。身体を労わっておくれ」
「いいえ。必ずお帰りくださいませ。お子の顔を見ずにあの世へ行かれてはなりませぬ」
「分かった。神仏のご加護を祈っていてほしい」

夫の名は越前三位平通盛えちぜんさんみたいらのみちもり、妻は小宰相こざいしょうと呼ばれる宮中の女房。外で怒鳴っていたのは能登守平教経のとのかみたいらののりつね、ところは摂津・一ノ谷。平家方の布陣は山の手、鵯越ひよどりごえのふもとであった。

 

その日の通盛の装束は、赤地の錦の直垂ひたたれに、唐綾縅からあやおどしの鎧着て、白覆輪しろぶくりんの鞍を置いた黄河原毛きかわらげの馬に乗った堂々たる将軍姿。源氏の奇襲を受けるも手勢を率いてしばらくは互角に渡り合う。が、乱戦の中、味方は散り散りとなり、いつしか川辺に追い込まれ敵にぐるりと取り囲まれた。矢を射かけられ、馬より引きずり降ろされて、大男二人に組み敷かれ、右腕を踏みつけられ、背後から小刀で首を掻かれる。頸椎が砕け、鮮血が噴き出て一尺も飛ぶ。

首の落ちるその瞬間、胸元から馥郁と白檀の香りが立ち上った。通盛は恍惚と目を閉じた。

 

あっ、と小さく叫んで小宰相は目を覚ました。悪阻で気分が悪く臥せっているうちにうたた寝をしてしまったようだ。味方が合戦の最中というのになんという不甲斐なさ。それにしてもひどい夢を見た、縁起でもない、と額の汗を拭き、白湯を飲んでいるところへ、小宰相を訪ねて小舟がやってきたと言う。通盛の家来で君太滝口時員くんだたきぐちときかずと名乗っている。
「ご主君は乱戦の末に湊川の川下で、敵に囲まれて討死なさいました。私もお供する覚悟でおりましたのですが、ご主君から『お前はなんとしても生き残って、北の方を訪ね、我が最期をお伝えせよ』と仰せがありましたので、致し方なくこのように生き長らえ、恥を忍んで参上した次第でございます」

聞くなり小宰相は
「小袖! あの小袖は?」

と叫んだ。昨夜、船に戻ってから夫の小袖を脱いでしまっていたのだ。

布に包んであった小袖を取り出し、抱きしめて顔を押し当てた。それからその場に突っ伏して動かなくなった。

 

ああ、初めての懐妊でずっと気分が悪く、香も焚いておらぬ小袖の汗じみた匂いを嫌だと思った。お優しいあの方を悲しませてしまった。きっと討死すると予感しておいでだったのに信じなかった。この世で夫婦となったからには、あの世でも必ず同じ極楽の蓮の上でお会いできますと、どうして言って差し上げられなかったのか。

そのまま小宰相は幾日も突っ伏したままでいた。

 

平通盛が小宰相と出会ったのは、上西門院じょうさいもんいんの女院が法勝寺へ花見においでになった時のこと。女院へお仕えする美しい娘に一目惚れをした。この時小宰相は十六歳。それから通盛はひたすら和歌を詠み文を送ったが、何の返事もなかった。十歳年上の通盛は、小宰相には厭わしいだけだった。通盛はそれでも懲りず諦めず、それから三年の間、絶えず文を送り続け、小宰相は一度も返事をしなかった。

仲を取り持ってくれたのはご主君の上西門院の女院だった。通盛からの文を小宰相がうっかり落としてしまったのをお目に留められた。
「そなたほどの器量なら言い寄ってくる男はあまたあるでしょうが、一度二度断られれば諦めて他の女へ乗り換えるものです。それを三年もの間、このように優しき文を絶やさぬとは、よほどの志と思わねばなりませぬ。通盛卿のお人柄の評判は、心優しく穏やかで、平家の公達ながら驕る様子もないと聞いております。添うてみてはいかが」

女院を始め周囲から祝福される中で一緒になって、通盛から珠玉の如く大切にされ、夫婦の情愛は徐々に深まって、思いもよらぬ幸福な数年を過ごした。うち続く騒乱や政変、平家の都落ち、合戦、それでも通盛と離れようとは思わなかった。通盛がいる限り修羅の巷にも耐えられた。通盛がすべてだった。

 

一ノ谷の合戦は平家の惨敗に終わり、沖合に浮かべた御座船に一門の将の討死の知らせが次々に入ってきた。薩摩守平忠度さつまのかみたいらのただのり武蔵守平知章むさしのかみたいらのともあきら備中守平師盛びっちゅうのかみたいらのもろもり尾張守平清貞おわりのかみたいらのきよさだ修理大夫平経盛すりのだいぶたいらのつねもりの子息三名経正つねまさ経俊つねとし敦盛あつもり。そして越前三位通盛。弟の能登守教経はかろうじて生き残った。後日を期すべく平家の船団は屋島へ向かうこととなった。

 

幾日も臥せったままの小宰相を心配して、女人たちが何人も見舞にやってきた。
「そのようなことでは通盛殿が悲しまれます。ちゃんと飲み食いをして、健やかなお子を産まなければなりませぬ」
「……殿のおられぬ世の中で、生きられるとは思えませぬ。できるものなら後を追いとうございます」
「何を言いやる」

治部卿局じぶきょうのつぼねがぴしゃりと言った。
「無事にお子をお産みして立派に育てるのがあなたのお役目です。おなごには殿方のなしえぬお役目がある。そのように心弱いことでどうするのです」

治部卿局は通盛の従兄の新中納言平知盛しんちゅうなごんたいらのとももりの北の方だ。一ノ谷の戦では長男が討死したと聞いた。他にも夫を亡くした北の方が幾人も見舞に来てくれた。気丈に振舞う姿に小宰相は武家の女とはこれほど強いものかと思った。

「まずは無事に身二つになることだけをお考えなさい。お子の行く末を見届けたなら、出家して通盛殿のご冥福をお祈りするもよし、他の殿御と添うもよし」
「何をおっしゃいます! よ、よ、よその男となど……」

絶句した小宰相を見て治部卿局は言葉を和らげた。
「心無いことを申しました。他意はないのです。あなたはもともと平家の一門でもないし武家の人でもない。義理立てしても甲斐のないことです。このように若く美しい女の盛りを惜しいと思ったまで」

とにかく早まった真似だけはしないようにと言い含めて、自分の船に帰って行った。明日は屋島に進発する。

 

幾月もの船上生活で、人々は波に揺られながらも深々と眠れるようになっていた。ましてや合戦そして負け戦の収拾を幾日も経て、ようやく落ち着き先の屋島へ向かう波路について、張りつめていた神経が少し緩んだか、あちこちから深い寝息が聞こえてくる。

その中で小宰相はまんじりともせず横たわっていた。通盛との最後の逢瀬、時員が語った通盛の最期、治部卿局の叱責、それぞれ蘇っては心をずたずたに引き裂いて、しまいには心の欠片すら消え失せたような心地がした。
「殿に会いたい。もう一度会いたい。お目にかかって言いたい。この身は殿だけのものですと」

治部卿局もおそらく他の人々も、いずれは小宰相は都へ戻って他の男に嫁ぐと思っている。通盛ですら都へ戻れと言った。中にはそうする女人もいるのだろうし、それが悪いとは思わない。でも小宰相にとって男は未来永劫通盛だけだ。
「殿がおられなくなったこの世のどこに、私のいる場所があるのだろう」

子を産んだとしても通盛の身代わりにはならない。まして今の平家は朝敵。男の子であったなら攻め滅ぼされる修羅の人生が待っている。女の子であったとしても男に翻弄されて悲しみ多い人生を送るだけであろう。自分一人の地獄に加えて、子供の地獄までを見るのは耐え難い。
「終わった。この世が終わってしまった」

小宰相はそっと起き上がって船べりに出た。
「南無西方極楽世界の教主、弥陀如来、本願あやまたず浄土へ導き給え、必ず我が夫と同じ蓮の上にお迎えくださいませ」

月の沈みかけた方向を西側と見て、念仏を唱え、「南無」の声と共に海へ沈んで行った。

 

舵取の男が入水に気づいて周りの人に知らせ、慌ててあたりの海を捜索して引き揚げた時は、小宰相はすでにこと切れていた。五衣いつつぎぬ小袿こうちきの豪奢な衣装は船に置いたまま、あの小袖と袴だけの姿となっていた。遺体を船内に置いておくのも不都合だし、このまま海に戻せば浮かび上がってきて無惨な姿を人目に晒すことになろう。幸い通盛の鎧が一領残っていた。それで身体を包んで、そっと小宰相を海に沈めてやった。

2024年9月22日公開

© 2024 大猫

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"練絹の白き小袖"へのコメント 5

  • 投稿者 | 2024-09-23 19:04

    正統派の実力を感じました、素晴らしいです。逃げ馬トーマスでも感じましたが、細部の仕上げが本当に丁寧なことに感服しました。

  • 投稿者 | 2024-09-23 21:17

    このお題で平家物語が出てくるとはびっくりしました。しかし文体が美しい……。平家物語、また読んでみたいです(清盛が死ぬあたりで挫折)

  • 投稿者 | 2024-09-24 19:24

    あれですね。いつも思うのですが、大猫さんってどんな素材も自分の台所で手際よく美味しく料理しちゃうシェフみたいですね。魔法みたいです。
    いつも「まさかこの材料でこんな料理が作れるとは!」という気持ちでいっぱいです。
    ただのファンレターのようなコメントになってしまいましたが、今回も本当に美味しく料理されちゃって、悲しく切ない「世界の終わりと白のワンピース」でした。

  • 投稿者 | 2024-09-25 11:11

     大猫さんに関しては最早、日本史を我々に分かりやすく教えて呉れる先生な故、尊敬しかない。
     ただ私と一緒は、語弊があるがワンパターンの、そしりを受けるかも識れぬ。

  • 投稿者 | 2024-09-28 23:11

    視を編みまとう者。入水の件があったため、僕は浦島太郎の序章のような作品とも捉えましたが、まあ纏めるうちに鶴の恩返し、等でもおかしくはなく。
    勝手な解釈が出来てしまう可能性があるところ、ですが少しタイムリーに読めば、あながち新総裁上川陽子一点買いのヨミではないかと。たしか、その様なお話をしていたように懐かしく感じました。

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