人類が死を克服して数世紀が経った。医学の発展は病魔を滅ぼし、テロメアのリセット技術で寿命は概念ごとリムーブされた。地上の国家は統一され戦争のない世界が現実のものとなり、あらゆるジャンルの科学は究極まで進化し、貧困と差別と犯罪を死語にした。先人らの不断の努力は、持続可能な永世の平和と繁栄を人類にもたらした。つまり、ヒトは死にもせず老いもせず、無限に労働でき、無限に納税し続けるリソースとなったのだ。
それから悠久の時を経て、人類は生きることに飽き、果てしない退屈の末に「死」を復活させた。死は申告制で、人類に十分な貢献をした者のみに与えられる。
デヱ氏が自宅に戻ると、古めかしい茶封筒が無造作にポストに突き刺さっていた。もしや、と膨らむ期待に心臓が高鳴る。部屋に入り、身支度を解く間もなく、封を切り中身を取り出す。案の定それは行政から送られた死亡日申請書だった。嗚呼、これで俺も死ねる。デヱ氏は無駄に広い一人暮らしのマンションルームで小躍りした。
昔ながらの紙の申請文書は、これから待望の死に向かう心の高揚を盛り立ててくれる。この日の為に用意しておいいた、とっておきの万年筆を革張りのケースから取り出して、キャップを外した。メモ紙に試し書きをして、インクの出に納得すると、おもむろに、死を迎えるために必要な欄を書き埋めていく。
もう二度と書くことはない自分の氏名。
何もかも飽きて捨てがらんどうになった自宅の住所。
誰からもかかってこない無駄な電話番号。
注意事項を確認したことを示すだけのチェックボックスと、死に至る昂る心を抑えながらひとつひとつ空欄を埋めていく。
そして、希望死亡年月日。デヱ氏はペンを止めた。
さて。いつ死ぬのが、自分に相応しいだろう。
候補の日付はある。しかし、いざこうして最後通牒を突きつけられると、迷う。
死亡日申請書が手元に届いた時点で、デヱ氏の死亡は確定している。申請書には約一年後の日付が申告期限として記載されていた。それまでに申請書を提出しなければ、その翌日に死ぬ。デヱ氏としては五十年以上も死亡許可申請を出し続けて、ようやく書類が発行されたのだから、できるだけ好い日に死にたかった。せっかくなので。
「死ぬのに一番好い日か……」
誰もいない、何もない部屋で、デヱ氏は声を出してつぶやいた。誰も聞いていなくても、声を発することには価値がある。自分は今、死のうとしている。これは人生で最大かつ最後のイベントである。生半可な日付は選べない。デヱ氏は一旦ペンを置いた。
命日の選定にはひとつ問題があった。それは官営火葬場のキャパシティである。一度に処理できる遺体の数には限りがある。同じ日に希望が集中すると自動的に抽選となり、それに外れると希望は叶えられない。その辺も考慮して上手に命日を決める必要があった。
キリ番やゾロ目の日は、人気が高い。統合記念日や、テロメアフリーデーなどの有名な記念日も、抽選となる可能性が高い日付だ。また、人気のアーチストや歴史上の有名人、空想されたキャラクターの記念日や命日を自分に重ねて申請する人も多い。これもまた競争率の高い日付だ。
親の命日や、自分の誕生日に合わせるケースは、比較的申請が通りやすい。それらはあくまで個人的な数字だからだ。ただし、注意すべきはそれが素数かどうかだ。命日に素数を入れたがる死者は案外多く、平凡な偶数よりも素数の方が若干ではあるが競争率が高い。割り切れない方が、人生の機微を表現しやすいということなのだろうか。
一般的にはこんなところだが、さて、自分はどうするべきか。
デヱ氏は考えた。先程までは自分の誕生日をそのまま命日にしようかと思っていたのだが、いざ書くとなると、果たしてそのような単純な考え方でいいのか、と思う。かつていた恋人の誕生日はどうだろう。すでに故人であるが、その元恋人はデヱ氏の誕生日を命日にした。亡くなったときにはすでに離別していたが、あてつけられたような気がして、誕生日が来るたびに、デヱ氏は彼女のことを思い出すことを強制されていた。ただ、これは他の故人についても同じで、印象の強い日付に紐付けられた命日は、何年経ってもその故人を思い出してしまう。いわゆる命日汚染であるが、これは同じ命日の故人が増えるほどに効果が薄れていくため、最近ではあまり問題にされなくなっていた。命日を気にするのが嫌なら、ひたすら長く生きればいいというだけのことだからだ。デヱ氏としては面倒な刷り込みを遺した元恋人に仕返しがしたくもあったが、先立たれたのではそれも叶わず、彼には手の打ちようがなかった。
いっそ、乱数発生器で適当な数字にして、それを見ないでオートペンで入力し、いつ死ぬかわからないスリルを味わうのもいいかもと思うこともあった。実際そのようにして、最期の時間を愉しむ人々もいた。それはかつて死を恐れていたころの人間の生き方に似ているのかもしれなかった。だが、やはり、きちんと意味のある命日を設定して、この世を去りたいと思う。
壁に投影したカレンダーをじっと見つめる。なにかに紐付けられた日、何もフラグがない日、どちらもそれぞれの魅力があった。三六五日どの日にも、それぞれに魅力がある。
ふと目が止まったのは元恋人の命日。どうしても意識がそちらに向かってしまう。度し難い。何か強烈な、特別な意味を上書きして、あの女の存在を消してしまいたかった。
デヱ氏はペンを手に取り、死亡希望日に誕生日を書き込み、葬儀場に提出した。
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