11章の最後に出てくる子供は、昌子によく似ているとあるが、彼女の子ではなく、その姉の時枝の子だろう。最初の子が流産したということになっているが、アルドリンによる奇形児だったため、偏見の強い地方で、格差婚と言われて立場の弱かった姉の下ではそのまま育てるわけにはいかなかった。密かに東京の療養所に預けるしかなかったのだ。
時枝といえば、小さいころに熊に襲われたことがある。昌子が姉に命を救われたことがあるというのはこのときのことなのであろう。昌子をかばって熊にやられたというわけだ。そのときの恩を返すために、昌子は姉の子を連れて上京したのである。高校を卒業して1年くらいは姉の家で手伝いをしていたというから状況的にも良い。急に上京したのはこうした事情があったわけである。その後も昌子は気軽に東京に行けない姉に代わり子の身元引受人として東京にとどまった。
基本的には昌子に任せていた時枝であったが、我が子に会いに行ったときがあった。そのとき久松に写真を撮られてしまった。写真の女は時枝だったのである。30歳くらいという年格好がちょうどよい。はっきりした描写はないが和服を着慣れているだろうという条件にも当てはまると思われる。久松としては最初から時枝を標的にしていたわけではなく、施設に入っていく者をとりあえず撮っておいて後から素性を探したのであろう。そうしたやり方でもたどり着けるような個人情報に関して緩かった(そもそも概念がない)時代であることは作中の他の描写からしてもよくわかる。
こうして久松が時枝を強請れそうな相手として目を付けたわけだ。そして、東京にいる身元引受人の昌子の方を呼び出し、恐喝した。当初は応じていた昌子だったが、キリがないとして殺害を決意する。方法に関しては11章までに明らかになったとおりだろう。管理人の殺害も顔を知られたからという点で同じだろう。
あえて補足するなら、用いられた睡眠薬のアルドリンは姉が使っていたものを持ってきておりそれを使ったということではないか。嫁いでから気苦労が多かったと思われる時枝はアルドリンを常用するようになっていた。そのために子に障害をもたらすことになってしまい、今後そんな薬を使わないだろうし、この障害を確認する分析の資料のためにも昌子に全て渡してしまったと思われる。昌子はそれ以来手元に持っていた薬の残りを使ったものと思われる。でないと、あえてアルドリンを使う理由に乏しいように思えるからだ(真相を隠すには睡眠薬でも他の種類の方が望ましい)。
さて、隠された動機が明らかにしたところで、展開にどう影響するだろうか。田島は負い目のある時枝から真相を聞き出すことに成功するかもしれないが、それをもってしても事件の法的評価はあまり変わりない。表面的な動機の男女関係の問題でも、(恐喝の程度と経緯が違うが)恐喝相手を殺す、管理人を巻き添えで殺すという点は変らないからだ。情状がいくらかよくなるかもしれないが、昌子が重罰を受けることは避けられない。
なにか他にハッピーエンドになるような展開はないかと考えてみたが、ギブアップである。「テン――」に別の意味がないか? 真相に結びつくとはいえ死の間際の言葉で「天使」というのは不自然な感がある。殺害トリックも実現可能性としてどうなんだ?(確実性が弱くないか?) 別の犯人の存在は?などと検討してみたものの上記の真相以外は思いつかなかった。
昌子は「古い女」と自称しているので、姉の秘密を守るためにあえて真相は明らかにしないのかもしれない。
ここで気になるのがプロローグである。冒頭の「彼」は誰か? 女性を「彼」と表現しても絶対にいけないということはないだろうが、素直に男とみるべきだろう。アルドリンによる障害は手だけに現れ、知能は変らないというのは作中で記述されている。そうすると、成長して一定の成功を収めたチカラなのだろう。拳銃を手に入れることができるくらいになった(「拳銃」というのは比喩的表現かもしれないが)「彼」は、一連の事件もまた知ったのだろう。その恨みは、殺された久松でも、裁かれた昌子でもなく、アルドリンに限らず薬害(他の薬害や公害も含まれているように思える)を起こした者たちへ向けられたものであり、存在自体が事件の引き金になった自分自身にも向いているのだ。それはあまりにも悲しく『天使の傷痕』というにふさわしい。
タイトル回収もできたし、これで正解なんだろうか。でもミステリ的にこういうラストは好きじゃない。別解があったらいいなあ。
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