「砂糖を十個。ビンは棚の一番左」
毎週土曜日の午後三時。先生が珈琲を召し上がるのは有名な話で、必ず十個の角砂糖を欲しがった。砂糖の数は多くても少なくても怒られる。きちんと言われたとおりの分量で用意するのが私の仕事であった。
雇われたての頃、十個でなければならない理由を訊ねたことがある。先生はぷかりと煙草をふかしながらこう答えてくれた。
「十月十日、十時十分十秒に生まれたから」
今でもその声音や立ち姿をはっきりと思い出す。かすれた抑揚のない声で、自分のことを「ぼく」と言うような幼い人だった。書斎の天井には恐竜の骨格模型がいくつもぶら下がっており、よく締め切り前に筆が止まると、踵をあげて立ち、考えがまとまるまでそれらを眺め続けていた。
ある土曜日、先生はいつものように午後三時に珈琲を所望した。
キッチンに立った私はキャビネットの戸を開き、一番左のビンを見た。手で握りこめるほどの小さな入れ物だった。持つと、中に詰まったラムネのような楕円がきゃらきゃらと音を立てる。
「砂糖を十個。ビンは棚の一番左!」
リビングから声が飛んでくる。砂糖を十個、ビンは棚の一番左……私は口の中で一度繰り返してからいつものように珈琲を淹れた。マグカップを持ってキッチンを出る。椅子の上で胡坐をかいた先生が新聞を片手に私を見た。
「どうもありがとう」
先生がマグカップを受け取る。
冷えた背が震えそうになるのをこらえながら、「先生」と喘いだ。
「なに?」
無垢な表情だった。
私は訊ねた。砂糖はどうして十個なのですかと。
先生は「理由なんてないよ。ただ……」と肩をすくめ、こう言った。
「生まれた数字で死にたくなったんだ」
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