「レイパーの地位向上は、監獄から始まった」という粗雑な要約を良しとしないベテラン傷害犯は少なくない。
ルミ・エンライも、そのような単純な歴史観を受け容れてはいない。
囚人と刑務官との強靭な連携によって、刑務所内のヒエラルキー崩壊や脱獄連鎖を食い止めた刑務所は多かった。そのような奮闘の成果に眼を向けさせることなく、すべての監獄を一括りにしてしまうような表現は、あまりにも乱暴だ。それに、当時、「レイパーの地位向上」と言っても過言ではないような事態は、刑務所の外にある様々な共同体内の序列においても、続発していたのだ。そのことがまた、投獄されるレイパーの増加と刑務所内での勢力拡大につながってもいる。
ただし、
内乱期の直前。線の引き方によっては、内乱期の初頭。幾人もの古流レイパーが、各地で刑務所の秩序を転覆させていったことは、事実として認めざるを得ない。その事実が世界に大きな衝撃を与えたことも、否定はできない。時代の動きを理解するにあたっては、刑務所内の古流レイパーの存在は、欠くべからざる歯車だったとみなすのが妥当であろう。そして、〈塵阿弥陀仏〉も同様だ。
古流レイパーの圧倒的な個人暴力の源をたどるなら、元凶の一方はオーヴァゼアから流出した塵阿弥陀仏であり、もう一方の元凶は古流レイパーの思想史――肉体と得物への塵阿弥陀仏の定住、そして爆発的な進化を促すことになった思想および執念の歴史である。
人類世界の外から来た塵阿弥陀仏と、人類が闇に葬り去ってきた古流レイパーの歴史。この両者の連動により、数多くの、語るに堪えない、あってはならない事が起こった。それでも人類は、そんな事が起きてしまった街区、国家、そして歴史を抱えたまま、続きの時代を生きていこうとしていた。
しかし、
「こいつぁ、いけねえや」
〈斐川の隠居〉――リンダ・ヴィクトルは、ルミが渡した書類の束を放り捨て、足を投げ出した。
「いけないったって、伯父さんがそんなことで、どうするんですか」
「どうしろってんだよ」
「いいかげん私に居留守の片棒かつがすのをやめて、からの現役復帰あたりがベストだと思いますよ」
「ハ、まっぴらごめんの向こう傷だね」
まっぴらごめんの向こう傷。久しぶりに聴いた。リンダの家を出てからまた戻ってくるまで、約2年。外の世間では、まったく聴くことが無かった言葉だ。その間に接触した政府関係者たちも、そんな言い回しはしなかった。職歴や生年とは関係なく、リンダの言語は古くさい――とまで言うのは不適切だが、少なくとも、時空的にきわめてローカルな領域内で孤立しており未来が無いとは言える――というだけのことだったのだろう。
偏屈な伯父は、だらしのない格好をしたまま、長火鉢の灰をつつきはじめた。
先日のレイパー大量脱走により、前時代の悪夢を再び見ることになってしまった日本。その政府の中枢部からそれほど離れていない地点にある8畳の座敷には、早春の陽光だけがぬくぬくと射し込んでいる。
事態の鎮静化のために走り回っている新政府の官僚たちは、怠惰と無為の化身になってしまった元上司の姿を見て、何を思うだろうか。
「そんなことよりアレだ。さっきの話だ。その女の話だよ」
「ヴァギネギシさんのことですか? 女だなんて言ってませんよ」
「男が「女だ」っつってたんだろ。女じゃねぇか」
「現役復帰の前に、激しいリハビリが必要みたいですね。すっかりもう、お天道様の下には出せない口になっていますよ。気づいてますか?」
まあ、
女性なのだろうけど。
――しからば、ヴァギ姉さんと呼んでほしいでごファック。
古流レイパーに襲われたルミと先輩を助けてくれたパーソンは、たしかにそう言った。それ以外は何も、自分について語ることは無かった。
「やっぱり、伯父さんも知りませんか」
「知るも知らねえも、おまえの説明じゃあ、顔も体も見えてきやしねえ」
「身長は、草鞋も込みで152センチくらい。体重は45キロから53キロ。上半身は、私と同じくらいの太さです。右目の横幅は――」
「待て待て待て。物差しで物言われたって判らねえよ。ブスかスベタか、それともちったぁ見られるのか、まずはそいつをはっきりさせろ」
「旧時代の唾棄すべき主観じゃありませんか」
「俺の箪笥は、そう出来てんだよ」
「伯父さんの頭の中の御事情なんか知りませんけど」
旧防衛省の高官だった伯父の記憶の中には、この国の武人についての情報が大量に詰まっているはずなのだが、これでは埒が明かない。何らかのヴィジュアルデータを挟んで話すしかない。
とは言え、
「あの時代の剣客だとしたら――」
「まぁ、どのみち無駄な説明だな」
内乱と国際テロ、そして他国との謀略戦までもが入り交じった混沌の時代。流血とレイプと抵抗の時代。殺人術と生殖術と護身術の時代。
人類の生と死に大きな影響を与えた超絶の武術家たちの多くは、その影響の大きさゆえに、新時代へそのまま溶け込むことはできなかった。
彼らの顔は消えた。あるいは増殖した。どちらにせよ、その顔は情報としての価値を失っている。
現代の整形技術、そして塵阿弥陀仏までをも使った自己整形にかかっては、生来の容貌傾向など、無いも同然だ。己の顔を変えたい者。変わらせたくない者。強者の顔になりたい者。肉親の顔から離れたい者。見られたい者。見られたくない者。人間は、己の内側で様々なことを思案しながら、自分の容姿を管理している。そんな案件には、外から触れたくない。触れるべきではない。
そんなことを考えるようになる前から、ルミはパーソンの見た目について語ることを好まなかった。やはり、子供のころの時代環境の影響が大きかったのだろう。あってはならない時代だった。レイパーへの警戒心や好奇心が急激に膨らんだ結果、前前時代的な骨相学までもが蘇り、個パーソンの身体的特徴が安易にレイパー全体と結びつけられた。そして、そんな風潮に対する反発の声も激しかった。ルミは、そちらの声の影響を強く受けて育った。
あの時代と今とを並べてみれば、まさに隔世の感がある。人類視覚上の特徴に応じてパーソンを分類するためのキーワードなど、今はもう、内務省直轄期以来の伝統を誇る警察機関のシステムにおいてさえも使用されていない。どのみち、ヴィジュアルデータの照合技術が充分なレベルに達した時点で、それらの語は不要なものとなっていたのだ。
「ほらよ。こっちは御注文通りだ」
リンダは話を打ち切って、毛筆の紹介状を突き出した。
当代最強とも言われる武人――〈一般相対斎〉に読んでもらうための紹介状だ。
伯父の独特の筆跡。本気で偽造してやろうかと思ったこともあった。
この家を出てから約2年。東方フルコンタクト教会で、伯父の言う「ド突き合い」の経験を積んだルミは、ようやく一般相対斎への入門申請を許された。
――人は誰もが、神速に達しうる。
そんな理念をかかげる相対斎の道場こそ、ルミが求めていた場所だった。
速さ。とにかく速さだ。
膝行して紹介状を受け取った。
そして、〈相元兵炉〉――新宿区にある相対斎の道場へ向かうための身支度をしようと、ルミは立ち上がった。
「待ちな」
「はい?」
「ケツが光ってる」
砂壁がつくりだす影の中でよく見てみれば、たしかにルミの臀部のあたりは、ぼんやりと光っていた。
男女共用区内を長く歩いたせいだろうか。2年前には、こんなことは無かったはずだが。
ルミは縁側から庭へ出て、腰のまわりにまとわりつく塵阿弥陀仏の群れを祓った。
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