■■の瓶

永海番陽

小説

5,025文字

今また、私に……私に包帯増やすこと考えてましたね?……いやらしい

Kがテーブルに置いた蜂蜜を容れるような瓶は、見たことのない赤さの、謎の液体で充たされていた。何の説明もせず、ニヤニヤしながらKはそれを眺めていた。頭の右半分から右目までを覆う白い包帯に、その赤が薄い光になって映り、血が滲んでいるようだった。頬にある青アザと対照的で、彼の顔はエセ芸術家に玩ばれたキャンバスみたいで、なかなかに面白かった。私はKが食べたがっていた鮭のムニエルを作りながら、何も訊ねず、Kが顔と瓶をチラチラとキッチンから交互に観察していた。Kは瓶を爪で軽く叩いたり、視力の弱い無傷の左目を近づけたり、身震いしてため息をついたりと落ち着きがなかった。私はだんだんその様子に気がたってきて、フライパンの中身をKの背中にぶちまけようか、それとも単に包丁で刺そうか本気で迷った。そして迷っている間、鮭に火が通っていく様を見て、

「ああ、これでいいか」

と呟いた。Kは私の小声に反応し、こちらを向いた。一瞬きょとんとしていたが、すぐにねっとりした微笑みを浮かべて、こちらに近寄ってきた。彼の動きは独特のぎこちなさがあり、運動からフレーム的な連続性が失われているようだった。

「あハァ…………■■さん、私、スゴいものを手に入れたんです…………」

前は綺麗だったが、今は掠れて掠れてボロ布のようになった声で、Kは話しかけてきた。

「ねぇ……あれが、あの瓶の中身ぃ……アハ……スゴいんですからねぇ……! きっと■■さんも喜びます」

「……あの気色悪い液体が? なんかのジュースじゃないの?」

「ジュースじゃないですよー…………アッハハ……■■さんは勘が鈍いですねぇ……」

「…………鈍いよ。悪い?」

「ああ……! 今また、私に……私に包帯増やすこと考えてましたね?……いやらしい」

「ムニエル出来たよ」

Kはわぁーと声を上げて、絆創膏だらけの手で皿を受け取り、テーブルに運んでいった。溢さないか心配だったが、Kの頭と違って、料理は安定していた。

「ムニエルぅ……ムニエルぅ…………ああ、ムニエルって……天使様の名前みたいですよね……ハハ」

「そうね。サリエルとか、ラファエルとかみたい」

自分の分の皿と、二人分の箸を置きながら答えると、Kはニイーっと口角を上げた。

「なに?」

「いえ……これから天使様を……二人で戴くと想像すると……ウフフ……なんて素晴らしいディナー……」

「……そうだね。そう考えて食べたら、きっと美味しくなるね 」

私とKはクスクス笑い合った後、恵みに感謝します、と主に食前の祈りを捧げた。私はその最中、テーブル端にあるあの瓶の気配が膚に染み込む感覚がして、落ち着かなかった。じわりじわりと、赤い影が、肉をくすぐりに伸びてきているような……。「……■■さん?」

「え? なに?」

「いや……いつまでお祈りしてるのかと……」

「ああ、天使を食べるなんて言ったから……」

「……ハハ……謝ってるんですか…………大丈夫ですよ……■■さんは……私は謝りませんけど……」

「バチあてて欲しいの?」

「はい……」

ゆっくり、Kはムニエルを口に運ぶ。舌の上に鮭が置かれて、Kの唾液と脂が混ざり合う一瞬が、唇の隙間から覗けて、私はそちらに意識をとられて、箸を持ったまま固まった。出来れば、咀嚼する音も聴きたくて、耳をすましたけれど、エアコンのゴォォォォ……という音しか入ってこなかった。

「ハァー…………すごく……とても美味しいです……■■さん」

馬鹿な考えをしていた私はハッとなって、うっかり箸を落としそうになった。

「……■■さん、どうしたんです……?」

「いや、なんでもないよ……美味しいなら良かった」

言いながら私は、やっとムニエルを味わった。……確かに、自分でもにやけるほど美味しかった。しかし、それは、Kのせいに違いなかった。

「……■■さん、さっきから…………ああ……上の空……ですね」

Kは鮭から私に目を移し、片微笑んで言った。その表情は、Kが重要な話をするときの合図だ。私はそれが嫌いだった。光沢のない瞳が、脳に反射してきて、髄液を湯立たせられるようで……なにより、そんな感覚を心地よいと思っている自分が嫌いだった。

「……あハァ…………わかってますよ…………これが……これ気になるんでしょう……?」

Kは、両手で包み込むように赤い瓶を持ち上げて私に見せた。私はその赤の向こうに透けるKに、いい加減それがなんなのか説明しろ、と強く見詰めた。

「■■さん……睨んじゃ……ウフフ……素敵……じゃあ、種明かししまぁす……」

Kが言い終わると、瓶の蓋がいつの間にか無くなっていた。途端に、部屋にその中身の匂いが溢れる。強烈だった。 強烈な、嗅いだことのない種類の匂いが、私の部屋に、私の鼻に、私の肉に、私の肺に、私の心臓に、私の骨に染み込んできた。床から天井まで、赤色の水に満たされたようで、溺れてしまうかと思った。 甘い……いや、酸っぱい……違う、こうばしいような…………あ、やっぱり甘い…………鉄……?

「■■さん……気に入ったみたいですねこれ……」

頬に薄い紅を浮かべてKは言った。

「これね……薬なんです……」

「薬……?」

「はい……なんと……なんと、よみがえりの……生き返る薬なんです……!」

生き返る薬――私はその言葉にふるえた。大抵の人なら鼻で笑うような、馬鹿げたことだけど、私の中では疑いよりも期待が大きかった。だって、本当によみがえるなら――

「そうです……■■さん。これが……これがあれば私を………殺してもいいってことです……!」

何かが落ちる音がした。私が持っていた箸を落とした音だと思うが、そのことをちゃんと認識する暇は無かった。こめかみ辺りの血管がドクドクと響き、目には熱い涙が溜まり、乱れた大きな呼吸は空気の取り込み方を忘れたようだった。どんどん濁る意識の中で、Kの笑い声だけが耳に届いていた。……気付けば私は、キッチンで包丁を手に取っていた。そのまま刺しに行ってもよかったが、疑問が頭に浮かんだ。

――包丁で殺していいのか? もっと別の殺し方がいいのではないか? 例えば風呂で溺死させるのはどうか。Kがもがいてもがいて、水面に大量の泡を浮かばせるのは官能的ではないか。 例えば灯油を全身に掛けて焼死させるのはどうか。黒煙と共に声を上げながら、身体中の脂を溶かし、のたうち回るKはきっと可愛らしいに決まっている。

「アハハハハ……! あァ……■■さん。この薬が本当に……よみがえりの薬かどうか……確かめないんですかぁ?」

Kに言われて私は、ようやくマトモな思考に帰った。そうだ、まずそんな薬が実在するかを確かめなくてはいけなかった。しかし、どうやって確認すればいいのか。

「ここに……試すのにうってつけの……実験台がありますよ?」

私が考えていると、Kはそう言って、瓶の中身を、自分の皿の鮭へソースのように少量掛けた。すると、信じられないことに、食べかけだった切身の鮭がビチビチ動き始めた。肉は膨らんでいき、そこに皮が付いていき、内臓が再生し、喪われた身体は、どんどん形を取り戻していった。 私は唖然として、その光景をただ眺めた。腰が抜けそうだった。そして薬がどうやら『本物』と分かり、興奮からニヤケとしびれが止まらなかった。結局、鮭は丸々一匹生き返って、テーブルの上で苦しそうに跳ねた。Kはとてもとても楽しそうに、お腹を抱えて息だけで笑った。

「……ァァ……わ……わかりましたか……!? これが……これで、殺しても……私を殺しても大丈夫になったって……!」

Kの顔は真っ赤だった。そして、いつ持ってきていたのか、包丁を掲げて、再生した鮭におもいっきり降り下ろした。 鰓を、目を、腹を、ザクザクと、ブスブスと鮭をめった刺しにした。血が飛び散り、Kの服も手も汚れていった。それは……私に対する誘惑に他ならなかった。

「ねぇ……! ねぇ、■■さん! 私を……私を殺してください! 包帯じゃ消せない傷を! こんな風に……ザクザクザクザクザクザクザクザク刺して!! ほら殺してください! 早く……早くころ……」

Kの言葉が途切れて、代わりに声にならない声が漏れた。私が我慢できずに、もうKの胸を刺したからだ。力が抜けて、倒れかけたKの身体を支えて、次は腹を刺した。次は太もも。次は背中。とにかく刺した。その度にKは喘いで、血と共に涙を流した。私の背中に、必死に手を回して、耳元で「うれしい……すき……うれしい」と小さく何度も囁き続けた。私は喜びに溶けそうだった。これから何度も、こんなことが出来るのだ。Kをうしなわずに、このセックスが出来るのだ。なんて……幸せなんだろう。

「K……好きだよ……」

「………………」

Kはもう、真っ白で、どこも動かせなくなっていた。身体は赤くて綺麗だった。そしてやっぱり……その顔はとても可愛かった。口がだらんとしてて、眠ってるみたいで、そこから血がつぅぅぅぅ……と一筋垂れてて……。

私は血の湖になった床に、そっとKを寝かせて、テーブルの瓶を手に取った。再生した鮭はまだ、尾びれをかすかにピクピク動かしていた。私はKの胸のクレヴァスに、瓶の赤い液を注いだ。ソースみたいにかけても変わらないんだろうけど、乱暴にしたくなかった。ある程度の量を注ぎ終わって、私はKを静かに観察した。顔をよく見ていると、頬の青アザがすうっと消えていくのに気付いた。それからあちこちの傷が塞がり始め、膚が修復されていく。止まったお腹の動きも戻り、灰色になりかけていた肌も、活きた白に塗り変わっていった。 よみがえる……本当によみがえる。

Kの頭の包帯とか、腕の絆創膏とかを取ってみると、やはり何もなかったかのように、私が以前つけた傷も治っていた……すごいな。Kが目覚めたら、いったいどこでこの薬を手に入れたのか訊こう――

「■■さん……?」

驚いて、私は「ひゃっ!」と間抜けな声を出してしまった。よみがえったKは上体を起こし、部屋をキョロキョロ見回した。私はKの様子に、急に、違和感を覚えた。 眼が、透き通ってる。

「■■さん、私、どうして床で寝てたんです?」

声が、清んでいる。

「なんか思い出せなくて……お酒でも飲んだんでしょうか?」

怪我、してない。

「■■さん……なんで包丁持ってるんですか?」

「…………」

「■■さん……? どうしました?…………なんで黙って……」

「今から、あなたを殺すんだよ」

「……え?」

私はKに包丁を突き付けて、ふるえながら言った。

「さっきも殺したの。だけど生き返ってさ。だからもう一回殺せるから……だから殺すよ?」

Kはアザより青ざめて、息荒く私から離れようとした。私はKの腕を力いっぱい掴んで引き寄せ、馬乗りになった。

「やだ!! やめてやめてやめてッ!!!  なんでなんで意味わかんないよ!! ■■さんッ!!! 包丁やめて!!」

「大丈夫!!! 生き返るから!! あんたが持ってきたあの薬で!! よみがえったんだよお前!!」

「知らない!! 薬ってなに!? お願い落ち着いてよ■■さん!!!」

私を振り落とそうと暴れ、泣き叫ぶこの子は……Kなのか? 薬の量を間違えたのか? なら、やり直さなきゃ。なおさら今殺さなきゃ。殺して、また薬をかけたら戻るかも……

「■■さん……殺さないで……!」

きっとそうに違いない。

「殺さないで!!」

「うるさい!!!!」

私は『K』が鮭にやったみたいに、包丁を思いっきり首、というか喉に降り下ろした。すると噴水みたいに血が溢れて、途端に静かになった。前ほどの要領で他の場所もザクザク刺していくと、私に抵抗していた身体は徐々にしずまり、光が失せていった。死んだのだ。赤に犯された死に顔を見て、私はとても安心した。それは正しく『K』だったのだ。可愛い可愛い『K』だ。帰ってきてくれたのだ!

私はすぐに脇に置いていた瓶を持った――しかし、軽かった。驚くほど。恐る恐る見ると、瓶は空だった。何も中に入っていない。私は瓶を落としそうになった。手が振るえて振るえて抑えられなかった。乗っていた『K』から崩れるように落ちた。こぼれたのかと辺りを確認しても、『K』の血ばかりだ。紛れてしまったのか……いや、そもそも瓶は倒れていなかった。こぼれるはずがない。まさかと思いテーブルを見ると、生き返った鮭がいない。ムニエルしかない。いや待って…………瓶がない。

どうして………さっき、さっき在ったのに……うそ……うそでしょう………………。

部屋に…………………………『K』の死体しかない。

2024年4月11日公開

© 2024 永海番陽

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