夢のような家族のように

渡海 小波津

小説

10,158文字

家族という小社会がすべてだったあの頃への追悼の辞

  夢のような家族のように

 窓にはカボチャのお化けとコウモリの飾りが貼りついていて、物珍しく眺めていた。

「用意できたから座って頂だい。ほら、隆もこっちへいらっしゃい」

 振り返るとテーブルには豪勢な料理が並んでいる。先に座った隆の隣に座るとそのひとつひとつを見渡す。サーモンの乗ったサラダ。鶏の大きな腿肉はキャラメル色にテラテラと光っている。そして我が家のより色も香りも上品なカレーライスがそれぞれの前に置かれていて、他にもフルーツの盛り合わせやソーセージが爽やかな香りをさせていた。

 今日は、隆の誘いでハロウィンパーティというものにお呼ばれされている。しかもお泊りだ。

 お母さんははじめ断りなさいと言ったのだが、隆のお母さんが電話をくれたらしく迷惑にならないようにと言って許すと、小さな箱をぼくに持たせてくれた。

「さぁ、遠慮せずに食べてね。おかわりも用意してあるから」

「今日はいつもより豪華だねっ」と隆は嬉しそうに言いながらチキンに手を伸ばす。

「ほら、食べて食べて」

 隆のお母さんに促され、やっとぼくはスプーンを手に取った。

「いただきます」

「はい、どうぞ」

 隆のお母さんも嬉しそうに、にこにこしながらチーズをつまんでいた。テーブルの中央には等間隔に並べられたキャンドルが橙色の灯を揺らめかせ、それがちょうど隆のお母さんの顔を、海に浮く月のように照らしていた。

 そういえば、四人分の用意がされているのに、席が一つ空いている。

「ねえ、ここは……」

 隆に小声できくと、

「お父さんだよ」と何食わぬ顔で答える。

「そろそろ帰ってくるころじゃないかしら」

 ぼくの背後にあるらしい時計を見るようにして隆の返答にそう添えられる。

 間もなくして時計が突然鳴りだした。振り向くとそれはからくり時計で、小人や魔女が白雪姫を囲むように踊り、やがて八の部分だけ魔女を残して、みな裏へと戻ってしまった。時計に見とれてぼうっとしていると、照明が落ちた。

「わっ」

 驚いて声を上げる。隆は驚いた風でなくわあわあ言っていた。一体何だろうとドキドキしていると、キャンドルだけの薄暗闇に、白っぽい物体が飛び出してきた。突然のことが次々と起き、もう何が何だか分からずにいると、再び照明がぽっと点き、白い物体の正体が丸見えにされる。

 それはシーツを被っただけの人間で、きっと中は隆のお父さんだと予想もついた。

「ははは、お前本気でびっくりしてただろ」

 知っていたように隆とそのお母さんは笑っていた。

「驚かせちゃったね」

 シーツの中から聞こえた声はやはり男の人で、きっとお父さんだった。シーツはずるずる近づくと、わざわざ目の前まで来て正体を現してくれた。

「キャアアアー」

 中から現れたのは顔が爛れたゾンビだった! ぼくは本当に書いたような悲鳴を上げ立ち上がるや否や、隆の後ろへ跳ねるように逃げていた。

 ――その後、ぼくはマスクを脱いだ隆のお父さんに何度も何度も謝られ、隆には笑われながら、三人と一緒に食事を楽しんだ。

 翌朝、朝食をご馳走になると、ぼくは隆の家を後にした。

 家を出るとき、隆のお母さんがお家で食べて、と今朝の美味しかったジャムを一瓶持たせてくれた。

 三人はわざわざ家の前まで出てきてくれて、両親とも細身のせいか、つくしん坊のように並び、いつまでも見送ってくれていた。

 ぼくは少し歩いては振り返り、お辞儀をしたり、手を振りながら、見えなくなるまでそうして帰った。

 隆の白い大きな家は、しばらく小さくならなかった。

 白い家も見えなくなってくると、点っと紺色の壁の小さな家が見えてきた。壁の色はだいぶ日に焼け、藍に近くなっており、近づくにつれ塗りむらの斑がはっきりとしてくる。見ようによっては大蛇がとぐろを巻いているようだ。膝下くらいの低い段差を一つ上がる。

 牙に手を掛けるように、そっと扉を開く。

「ただいま」と奥に届くよう言うと、お母さんの顔が居間から出てきた。

 豚舎の豚が顔を出したみたいだ、なんて言ったら三時間は説教されるから言わない。

「おかえり。何それ?」

 両手にしっかりと持っている瓶を指して訊いてくる。

「ジャム。隆くんのお母さんが――」

「何で断って来なかったの! わざわざお土産持たせた意味がないじゃない」

 言い終わらぬうちにそう言うと、すぐに電話しなさいとぼくに子機を押し渡す。

 呼び出し音が鳴るとすぐ隆のお母さんが出た。ぼくがお礼を言うと、横で聞いていたお母さんが子機を取り上げ、代わる。

「昨日はありがとうございました。なんかジャムまで頂いちゃったみたいで――」

 ぼくを怒るときの一・五オクターブは高い声でお礼とお詫びの言葉を次々と並べていた。

 そして電話が終わると、ぼくはすぐ居間へ呼ばれた。

「座りなさい――」

 お母さんの説教は長い。だから終わる頃には足が痺れて、厚い靴下を十数枚履いた象の足みたいになっていて、足の裏が正しく床に着いているのかもわからなくなる。

 それに話を聞いていないと、終わってからの内容確認で再び怒られてしまう。そうなれば最初からやり直しだ。酷いときには夕方からお父さんが帰る七時過ぎまで延々と続くこともあった。

「聞いてるの?」

 時折入る七面鳥の鳴き声みたいな確認に短く、はいと答える。この時間はとても堪え難い。が、頭の中は話さえ覚えていれば思考の余裕は多少あり、合間を使い、なぜこんなに怒られるのかその都度考えた。今のところ有力なのは、ぼくはこの家の子ではなく不要な存在なのだろうという説だ。これはいつだったか、お母さんが発した、「お前なんていつ出ていっても困らないんだからね」という言葉から導いた仮説だ。しかしこれがまたうまい具合に当てはまるのだ。ぼくが話を聞きもらしてビンタをもらうとき。ニュースの時間に話しかけてテレビの音量を三十六まで上げられるとき。邪魔な子なんだと思うとやけに納得がいってしまう。だからこの考えはきっと間違っていないのだと信じることにしている。

 こうやってガミガミ言われているうちはまだ良い方で、猿か怪鳥みたいな耳に響く金切り声で言われると鼓膜を抜け頭まで痛くなってくる。そのくせ話す内容だけは同じだった。勉強のこと、友達付き合いのこと。たまに門限のことで怒られることもあったが、そんな日は説教よりも鍵を掛けられて外で過ごすことの方が多かった。そういったときの方がかえって仮説の正しさを強く信じさせ、いつからか許しを乞いて泣く自分を見ているぼくがいることに気付くようになっていた。

「あんた、ちゃんと分ってんの?」

 またキンキン声が鼓膜を打つ。ぼくは涙を膝にぽとぽと落とし返事した。我慢ならもう出来る。しかし、泣くことは説教を終えるために必要な行為だった。だから泣いて謝った。

「ただいま。何やってんだ?」

 お父さんが帰ってきた。いつもの光景に対する投げ掛けとしてはおかしいのだが、この言葉が説教の時間を、たとえ途中であっても終わらせるだけの力を持っていることが何より重要だった。

「聞いてよ。この子ったら――」

 疲れた顔で着替えに行ったお父さんを味方につけようとして、お母さんも奥へと行ってしまった。

 そのうちにぼくは、生まれたてのガゼルみたいによたよたと壁に沿って部屋へ向かう。奥では楠みたいな大きな体で上枝を身振り手振りするように揺らすお母さんと、オリーブの風に吹かれたような、あっけらかんと相槌を打つお父さんが並んで立っていた。

 晩ご飯に呼ばれるまではほとんどぼくは部屋で事典を眺める。隆の部屋はゲームや漫画本がたくさんあったけれど、うちにはない。携帯ゲーム機が一つあるが、ゲームはずっと前のものでもう何十回とクリアしてすっかり覚えてしまった。この事典も何回も見ているけれど、写真にある宇宙のことを考えるのはいつでも飽きなかった。綺麗だと素直に思った。そしてその先の宇宙のことにまで想いをめぐらせることがそれまでの嫌なことも忘れさせてくれた。それに読書だったらいつまで部屋にいても怒られないで済むために、何よりもそのために事典や辞書を精読することが多かった。

 学校の帰り道はよく商店街を通る。人通りのあるところを歩きなさいと、お母さんがずっと言っていたからだろう。

 惣菜屋さん、八百屋さん、お肉屋さんも並んでいた人も多かった商店街は、一昨年くらい前に近くにショッピングモールができると、次々シャッターを下ろしてしまっていた。

「お母さん、風船!」

 薬局の前で手を引かれた子が言った。声を聞いたからか、店のおじさんが出てきて、その子の手に風船の紐を握らせてあげている。その子とお母さんはお礼を言いながら店の前を過ぎていった。

 おじさんもしばし二人を見送っていたようだったが、ぼくも見ているのに気付いたようで、にっこり笑うと、手招きをしてみせた。

 ぼくはくるっとその場で向きを変え、悪い人に呼ばれたように一目散に走りだす。家に持って帰れば言われることはわかっている。

 商店街からそのまま走り続け玄関の前で足を止めた。乱れた呼吸が整うように二、三回深呼吸をする。腕を広げたときに見えた空は高く、手の届かないところに鰯の家族が群れをなして泳いでいた。

 息苦しさのなくなったところで、ぼくは段差を一つ上り、扉を引っ張る。ガチッと錠の音がする。ランドセルから鍵を取りひねった。扉にはチェーンはされておらず開く。どうやらお母さんも出掛けているらしい。

 もしチェーンがされているなら、それはお母さんが何かぼくに対して怒っている証拠で、お父さんが帰るまではこの段差がぼくの椅子兼机になる。そういったことは度々あった。

 家は落ち着く静けさで青が似合う心地がした。誰もいない家というのは、とにかくワクワク心躍る。普段入らない奥の部屋へ入りお父さんの隠しているエッチなビデオが増えていることを確認したり、台所の棚を全部開けお母さんの隠しおやつを調べたり、調味料や小物の場所を変えてみたりと、静かな家を堪能する。この時間だけは家のどこで何をしても許されるような気がする。ぼくの部屋だけの世界が家中に広がる気分だ。

 たまに玄関が開く音がしてあわてて戻すこともあるけれど、秘密の楽しみは二、三十分あれば充分だった。

 その日は塩を、開けることの少ない棚の引き出しに入れておいた。

「なあ、今日味薄くないか?」

 晩ご飯に手を付けたお父さんがこぼす。

「塩がなくてね。醤油あるから薄かったら使って」

 そう言って手がぬっとお父さんの前に伸びて醤油差しを置く。お母さんの手は手首に肉がついており、鯰みたいだ。置かれた醤油差しをお父さんの手が取って、野菜炒めの上で大きな円を描きながらぐるぐるかける。黒い液体は韮や人参の上で弾ける。

「べちゃべちゃするからあまり好きじゃないんだよな」とかけながらぼそりと言うと、

「だったら無理にかけなければいいじゃない。薄いって言うから渡しただけなのに勝手に使って文句言わないでよ」

 お母さんが文句を言う。お父さんは何も言い返さずにリモコンを取るとテレビの音量を三十まで上げ、黙々と香りの強い野菜炒めに箸を付けていた。

 ぼくは側頭骨に響くテレビニュースを見ながら、胡椒の辛い野菜炒めを食べた。ニュースの人たちは、日本のどこかで起きたらしい事件について話している。子どもを置いて外出していた間、その子が家に火を点けたという事件だった。焼け跡からその子とその弟の遺体が見つかったらしく、近所の人のインタビュウの様子が流れている。焼け跡からはどうやらその家だけが燃えた様子で、黒くなってまだ立っている柱のある敷地前で、リポーターと近隣の人らしきおばさんが並んで話をしていた。

 人ごとながら、残った家族はその晩どこで寝食をしたのだろうか、といらない心配をしてみたりしながら食事を続けた。

 食べ終えて部屋へ行こうと立ち上がると、陰鬱なニュースはやっと終わり、テーマパークのハロウィン特集に変わった。

 ――夜、喉が渇いて目が覚めた。枕元の時計を見るとまだ三時だった。音を立てないように部屋を出て、首を伸ばし居間の様子を窺う。奥の部屋でお父さん、手前の部屋でお母さんが眠っている。夏は二人、奥の部屋で寝ていたけれど知らぬうちにそれぞれ寝るようになっていたようだ。

 忍び足で廊下を抜け台所へ行く。真夜中に起きたが眠気はなく、肌から感じた空気は、しんとしていた。夜も寝ているようだった。

 コップ一杯の水を一息で飲み干すともう一杯入れて、半分だけ、今度はゆっくりと飲む。冷蔵庫の扉を開けてみると赤いジャムの瓶が光の中に鎮座しているようだった。そっと手を伸ばし心地良い冷たさの蓋をひねると、むんと甘酸っぱい香りが立つ。指いっぱいに掬い取り、垂れないうちにぱくんと咥える。香りと同じ味が唾液に混じり甘さと酸味が広がった。瓶を元の位置へ納めると、手を洗って部屋へと戻る。布団に入っても口の中はまだ甘く、秋に似た寂しさを感じる。

 舐めてみた爪の間はほのかに甘く、その夜はいつもより心穏やかに眠りへとついていった。

 段差を上り、扉を開ける。ジャラリとチェーンが張るのが見えた。しかし、中からすぐお父さんの声が聞こえてくる。

「ただいまー」

 隙間から言うと、

「今開ける」と片足をサンダルにかけ、手を伸ばす。

「お母さんは?」

「出掛けてる」

 鍵を開けると、用は済んだというように居間へ戻ってしまった。ぼくは靴を脱いで部屋に荷物を置き、居間へ行く。お父さんは横になりながら、ドラマの再放送らしきものを見ていた。

 よくあるホームドラマ物。ぼくはこの手のドラマが嫌いだ。毎週家族やその周りの人にトラブルが起きては、結局最後はみんな笑ってめでたしになるお決まりの流れだからだ。ニュースのような事件は決して起きない偽りの家族だ。そんな印象しかなかった。

 ぼくは一言部屋にいるとだけ言って居間を後にする。お父さんの返事はなかった。

 宿題を済ませると、まだテレビの音が聞こえたので台所へ向かった。何をするでもなく開けては閉めて中を調べる。

 先日の塩はまだ同じ場所にあって、新しい瓶が元の場所には置かれている。ぼくはその二つを入れ換えて、胡椒や山椒、七味などの瓶も全部一つ所にしまった。元々あった塩だけが唯一元のままにそこに残る。この家で言えば、塩はぼくのようだ。

 晩ご飯前、部屋の戸が突如開かれ、母が侵入してきた。

「あんたでしょ、調味料どこにやったの」

 入るなりそう言うと、鷲が獲物を掴むようにぼくの腕を握り台所へと引っ張る。立ち上がるとき読んでいた辞書はぼとりと床へ落ちた。

「痛いよ。知らないよ」

 台所までの間にそう言うも返事は無言。

「あれ、あんたでしょ」

 台所に着くと、怪鳥のような形相で塩の瓶を指す。

「知らない」

 ビシャン。水を浴びせられたみたいにふいに痛みが頬を打つ。左頬はたちまち熱を持つ。

「あんたくらいしかいないでしょ」

 手を上げ、認めないと打つという格好だ。

「知らない」

「何で見え透いた嘘つくの!」

 襲ったのは振り上げられた手ではなく、一際大きな咆哮だった。耳がキーンと鳴る。

 ――家が静まる。

 台所にお父さんがやってきた。

「そんなに怒鳴らなくてもいいんじゃないか?」

 そう言いながらぼくとお母さんの間を通りコップに水を注ぐ。

「だって聞いてよ、あなた――」と冷蔵庫から缶ビールを取り出し行こうとするお父さんの後ろをお母さんは、ガチョウみたいについて行った。

 左頬はまだ熱っぽかった。我が家のトラブルメイカー役はドラマの子役とは違うのだから仕方ない。

 ぼくは氷を頬張って、調味料を全部戻すと部屋へと戻った。

 落ちた辞書を拾い上げ、折れたページを伸ばしたが、一度ついた皺は取れないままだった。

 夜ごと少しずつ舐めていたジャムもわずかになった頃、学校の行事予定が配られた。

 年間でもっとも大がかりな行事で、一年生が植えた芋を二年生が育て、三年生が収穫し、四、五年生で近所のお年寄りを招待する。そして六年生が中心となって班ごとに焼く。芋焼き会のお知らせだ。

「お母さん、これ」

 家に帰るとプリントを渡す。

「今年は用意する物が多いわね」

 そう言いながら、持っていく物をメモしている。

「今年はぼくが焼くんだよ」

「あんた、ちゃんとできるの?」と笑いつつ言われた。

 当日、横穴を空けた一斗缶に枝や新聞紙を入れて火を点ける。持ってきた点火棒をカチカチし、新聞紙に着火させ缶の横穴へ入れた。乾いた小枝をその周りに入れていき、団扇で空気を送り込む。小枝はパチパチと弾けるように赤くなり、太い枝を徐々に焦がす。新聞も枝も大きな炎の中に姿を変えながら揺らめいている。下級生も一緒に後ろから覗いている。こうやって覚えていって彼らの中からやってみたいという子が出てくるのだろう。

 そう思うと、脈々と受け継がれていくこの行事が何か大きなうねりとなって歴史という見えないものの一部であるように感じられた。

 一斗缶を上から覗くと大きな赤い手のひらがひらひら指をうねらせている。角材をその中に継ぎ足すと、缶から手を突き出さんばかりに火が大きくなる。太い枝が燃える頃には、新聞紙は灰となり天高く舞っていた。

 缶の口に網を置き、輪切りにしアルミホイルで包んだ芋を乗せていく。ここまでくれば後は火が尽きないように枝を足すだけでよい。

 他の班の缶からも、もくもく煙を上げ始め、校庭にはたくさんの煙が空へと溶けるグレーの絵の具のようだった。

 ぼくは、副班長に指示を任せ、火の番をした。焼けたら火ばさみで芋を取り、皿に移して下級生に渡す。

 渡された下級生はお年寄りのところへそれを持って行き、それが済むとアルミを突っつき開けて、ほくほく頬張っていた。

 ぼくたち上級生は終わりの頃に三つ四つ食べて、残りは持ち帰り用に袋へ入れる。

 こうやって火を囲むのは、きっと太古の昔からしてきたからなのだろうか。まだ消えずにいる炎を見ていると、とても穏やかな気持ちになれる。そんな気がした。

 そういえば、隆の家で食卓を囲んだ時も同じ気持ちだったようだなと、ふと思い出した。

 段差を越え、扉を開ける。

 居間へ戻るとお母さんの目の前に手を出して焼芋を見せる。

「ほら上手に焼けたんだよ」

「あら、すごいじゃない」

 褒められるのは嬉しい。ぼくは素直にそれを渡した。

「これお母さん食べてよ」

「そうね、お父さんが帰ったら見せてあげましょう。せっかくだし」

 そう言うと渡された芋を近くの棚の上に置いた。半日くらい大丈夫だろう。そう思った。

 それからしばらくするとドアが開いた音がして、お父さんだとわかるとぼくは玄関へ出て行った。

「おかえりなさい。ねえ今日学校でね――」

 言おうとすると、

「後で聞くから先行ってなさい」と疲れがそのまま言葉になったようにこちらを向かずに言う。

 機嫌が悪いのかもしれない。そう思いぼくは芋焼き会の話をするのを諦めた。

「ねえ、あなた。今日学校で芋焼き会があったんですって」

 ところが、何も気にせずに行事の話を始める。お父さんはテレビを見ながら、黙ってご飯を口へ運ぶ。

「ねえ、聞いてる?」

「聞こえてる。疲れてるんだ。黙っててくれないか」

 この空気はまずいとぼくは感じた。夏の湿気みたいにべとりとした嫌な感じだ。

「少しくらい良いじゃない。この子が――」

 ダンッ――。直下型地震のごとくテーブルが揺れる。机にはお父さんのこぶしが置かれていた。

 家が静まる。――虫の音が家にまで浸み込んで来るような静けさが満たす。

 それきり食卓はだんまりだったので、ぼくは早々に食べ終え部屋へと戻ることにした。

 音量の上がったテレビからは先週のニュースの続報がビリビリ流れていた。

 部屋に戻ると、今日使った点火棒や軍手、火ばさみ、新聞紙、アルミホイルの入った袋が転がっていた。帰ってすぐお母さんに焼芋を見せに行ったからそのままだったのが、なんだかもう昨日のことのようだった。

 それを拾って中から一つを取り出す。カチカチと灯りを点けてみる。少しも揺るがない火がまっすぐに立っている。キャンドルのように瞬くことのない火はどこか無機質で、冷たいとさえ錯覚させた。指を近づけるとその先に熱を感じる。表面を焦がす静かな冷たさだった。

 ぼくはプリントの端を切り取って、そっと火に寄せてみた。燃え移らない、火と空の境目あたりを探りながら切れ端の先端が境界に触れるくらいまで寄せる。先がじんわりと黒くなっていく。ぽっと紙は赤い空気に包まれ、指先まで鋭い熱が刺す。

「わっ」

 驚いた拍子に紙が手から落ちていく。机のプリントへ落ち、赤い染みは水に落ちた一滴のワインのごとくたちまち広がり、机中の紙を染める。本能的な、火への恐怖が湧き起こる。ぼくは水を求めた。台所へ駆けた。見つかったら怒られる。急いで消せば大丈夫。

 水を持って戸を開けると机は悪魔のような赤い熱と黒い煙の塊に変わっており、天井は黒雲が渦巻く。机に水を浴びせかけ、窓を全開にする。虫の声が一斉に飛び込んできて、炎がごうっと呻る。煙は出ていくどころかどんどん厚さを増していく。もう一度水を、と戸を開けようとすると、目の前で開いた。それがお母さんだと分かるや、悲鳴がぼくを打つ。

 これがお父さんも聞いたことがない声だったのだろう。慌てた様子で飛び込んでくると、状況を理解したのかすぐ出ていった。

 瞬間にも壁、床は猩々緋の陣羽織を織りだし、楽しかった芋焼きに似た音を立てる。でもそれは少しも楽しく感じられず、じりじりと迫る恐怖そのものだった。それでも、炎から目を逸らせず、じっとその場に立っていた。

 お母さんはぼくの腕を掴み廊下に連れ出す。掴んだ腕はそのままぼくを抱き締めた。お父さんが駆け戻ると、盥いっぱいの水を部屋に撒く。一度は引っ込む炎も、次の一杯までにはまた大きく腕を広げており、次第に部屋いっぱいに膨らんでいった。

「必要な物だけ持って出よう」

 日頃はたいした反応もしないお父さんが、いつもより狭くはない背中で言う。するとお母さんは腕を解き、奥の部屋の箪笥や棚の中を漁りだし、お父さんは子機を手に一一九番を押す。

 ぼくは二人が協力している間、部屋の戸を喰い破って顔を覗かせた口の裂けた大蛇のような炎を、ただじっと眺め続けていた。お母さん、お父さんが荷物をまとめている音が背後でする。まるでぼくだけが、現実と幻想の間に、ただこうして立っているみたいだ。しかしそれが、どちらが現実で幻想かはまるでわからない。ただそう感じた。

 お母さんがぼくの手に荷物を持たせると、玄関へと促す。促されてやっとぼくはその場を発った。

 三人家を出るとすぐ、赤いサイレンを鳴らしながら消防車が二台、通りを塞ぐように停まった。近所の人も家の前へ次々と出て来る。

 我が家だけがやけに明るい。

 ぼくたちはその中心で両手いっぱいの荷物だけを持って、ただ立っていた。

 ――あの大蛇がそれからどう家の中を這い回ったのか知らないが、火はなかなか消えず、台所の窓や居間の窓、至る所から舌を出しては、そこへ水が向けられていく。

 家はバキバキと鳴りながら崩れていき、それに合わせ、お母さんは足元から崩れるように膝を着いた。その顔は瞳を赤く潤ませて、夕陽に染まる海原のようだった。そのお母さんの腕をしっかり掴むお父さんも青い髭の剃り跡のあるごつごつした顎まで赤く照らされながら半身に影を差して立っていた。

 崩れた家からは、螢火のように火の粉が一斉に天空へと舞い上がる。星のない秋の空に新しい星座を浮かべては消え、消えては浮かべる。その火がキャンプファイヤーや芋焼き会、ハロウィンパーティ、――を次々と思い出させては消えていった。ぼくの目は瞼の底を見るように、宇宙に舞う生きた火の粉を延々追いかけ続けていた。事典には載っていない光景だった。

 視線を戻すとすっかり家は崩れきっており、それからあっけなく火の勢いは弱まっていった。放水もすぐ終わった。

 近所の人やわざわざ見に来たのだろう人々は、鎮火を合図に方々へ散りいなくなってしまい、消防隊と後から来た警察官だけがぼくたちを囲んで立っている。

 真っ黒になった家を見て、ぼくはなぜか、隆の家族をまた、思い出していた。今のぼくたちは三人、一体どんな風に立って見えるのだろうか。

 それからぼくたちは、いろいろと質問を受け、もう答えられることは何もないと言う頃にやっと解放された。

 その晩は近くの公民館を借りて、そこで寝ることになった。三人、布団を並べたのも久しぶりだ。

 その夜は、お父さんと、ぼくと、お母さんと、――いつまでも、こんな日が続けばという願いを、少しの罪悪感と一緒に抱きながら、懐かしく甘い眠りへとついていった。

 翌朝のテレビには、もうぼくたちの姿が映っていて、赤い家の前で一本のしだれ桜のように三つの影は寄り添って立っていた。これまで見たどの家族より美しかった。

 どこかの家の、塩瓶を隠す子どもには、どんなリアルなドラマより、ドラマティックに映ったことだろう。

 今日からぼくたちは家族になったのだ。作った家族でない、ドラマのような家族に――。

 家へ帰ると焼け跡には人が数人うろうろしていた。近所の人やカメラを担いだ人だった。

 芋は焼けてしまっただろう。

 台所だったあたりには、溶けて固まったジャムの瓶らしきものが、秋の陽を透かし、きらきらと輝いていた。

2015年5月16日公開

© 2015 渡海 小波津

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