大和大学二年生落語研究会所属せこだ名ぼっとん亭水仙こと村西慎太郎は現落語研究会会長高座名三代目ぶりき亭メカ次郎こと柳澤康太から第十一代目揉亭おっぱい襲名の許しを得た。しかるに揉亭おっぱい襲名は村西が望んだことではなかった。村西の高座名を決めるに際して柳澤が会員の共有パソコンに記録されている過去の高座名リストから撰んできたのがそれだったのである。村西と言えば村西とおる。アダルトビデオ関連のエロい高座名が良いとの理由であった。ゆえにこれは落研会長からの命令であり、村西に拒否権はない。しかし十代目揉亭おっぱいには拒否権があった。ゆえに村西が十一代目揉亭おっぱいの襲名を回避する道があるとすれば、十代目に襲名を拒否してもらうよりほかに法はなかった。
十代目は何年も昔に既に落研を出ていた。それゆえ村西はOBOG連絡先リストにある電話番号に電話を掛けて揉亭おっぱい襲名の許しを得る必要があった。中には幾度も一緒に飲みに出掛けてやっと襲名を許される場合もあると村西は聞いていた。翻って会員は襲名にあたり、それだけの努力が義務付けられているのである。電話掛けてダメ言われたからダメでしたは通用しないのだ。
こうなれば入会から一年間嫌がり続けていたぼっとん亭水仙が全然マシに感じられる。揉亭おっぱいは幾らなんでも滑りすぎだと村西は思った。今後女性と交際する機会を得られたとしてこの高座名は振られる原因に充分なり得る。むしろこの高座名の所為で女性を遠ざけることになるだろう。しかも十一代目である。事情を何も知らぬ人であれば村西が自ら望んで十代目に師事したものと早合点するに違いない。詰んでいる。
落研を辞めるという選択が村西の脳裏を過った。だが村西の唯一の長所は一度やると決めたことは必ず最後までやり切るということであった。意地になっていると言っても良いが、村西の人生是全て意地であり、意地以外の生き方を村西は知らなかった。そもそも村西は落語自体、大学に入るまで何らの興味も無かった。入学式が終わって大学構内をぶらぶらしていたら背後からやってきた柳澤に強引に肩を組まれて、「君はこれからの四年間を落語に費やすことになる」と断定されたのが始まりであった。
無論、大概の落研がそうであるように大和大学の落研も落語だけをやる研究会ではなかった。漫才やコントも許されていた。村西は幼少のみぎりよりテレビで漫才を見るのが好きだったので落研でもそちらに手をつければもっと気軽に楽しくサークルライフを過ごせたに違いなかったのだが、入学式に受けた柳澤からの予言に自らの運命を感じたのである。それに村西には昔からペラい高等趣味の性があった。習うにしても、エレクトーンよりはピアノであった。それでいてちっとも上達することはなかったのだが小学一年に始めて高校三年まで続けた。大学生になり、親元を離れることになって、物理的に教室に通うのが無理になったので村西は漸くピアノから解放されたのであった。この解放感は得も言われぬものであった。それもあって村西は解放感を得るために意地になって落研に留まり続けるであろう。
そんなわけで、以来、三日間に渡って村西の苦悩は続いた。柳澤から貰った情報に依れば十代目揉亭おっぱいは銀行勤めとのことであった。さっさと許可貰ってこいと柳澤から圧力をかけられているため村西は次の土日まで待つ訳にはゆかず、大方の企業の昼休憩時間にあたる十二時から十四時の間に十代目に電話を掛けてしまうより仕方なかった。しかるに村西はなかなかどうして勇気が出なかった。襲名のことを考えて明日こそはと思って床に就くのだが、眠りは浅く、ものの二時間もせぬうちに目覚めてしまう。どうせもう眠ることはできないからと電話の予行演習をする。そうして永遠ほどにも長い午前中を過ごして更に長い十二時からの二時間を耐える。現にスマートフォンに電話番号を打ち込むまでのことはするのだ。発信ボタンを押す、其の最後の決断が村西には出来なかった。
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