アルカンはアルケーン、アルケンはアルキーン、アルキンはアルカイン。なんてことだ。まあいい、今日の講義は終わった。私はホワイトボードの構造式を消すザビエルの後ろ姿を横目に講義室を出る。講義棟を出て自転車置き場まで行きたい。キャンパスの通路は学生で溢れている。彼らは皆歩みが遅いのだ。邪魔だ。私はこの午後の穏やかな陽射しにやられてしまったのだ。早くアパートへ帰って一眠りしなければいけない。私は自転車の鍵を外してハンドルを握る。北門までの緩やかな傾斜をゆっくり漕ぐ。北門の近くまで来て、左にふと知っている人影を認めた。
彼女はベンチの端に座っている。ちょうどベンチの傍に植えてある樹の陰になっている。彼女が彼女だと気付くのに時間は要らない。黒髪のボブカットが黒の革ジャンを着ているのならそれは彼女だ。私は漕ぐのをやめて彼女の傍で停まる。彼女は顔を上げてこちらを見る。彼女も私に気付いた。
「やあ。何してるの。」
「この通り特別何って訳でもないけれど、五月の午後の陽射しを浴びるのは嫌いじゃないの。」
落書きだらけの看板の近くに自転車を駐める。
「なにか飲むかい。」
彼女はなんでもいいと言った。自動販売機はすぐそこにある。
自販機のところまで行くと誰かが買おうとしている。私は彼の後ろから自販機の棚を覗く。二本だと三百円か。小銭はあったかしら。ああ、あるある。彼はもう小銭を入れたのだろうか。彼はなかなかボタンを押さない。早くしてくれないか。まだか、まだか。自販機が故障でもしているのか。十秒ほどして彼はふらっと自販機の左へ離れていく。なんだ、何も買わないのか。お金さえ入れていなかったのか。よく見ると彼はイヤホンをしている。
「どちらがいいかな。」
彼女の元へ戻って私はブラックコーヒーとカフェオレのボトルをベンチに並べる。
「じゃあカフェオレ。」
私はベンチに彼女とシスに座って、ボトルの蓋を開ける。樹の影は彼女の右肩のところまでで終わっている。私は陽射しで背中が温まるのを感じながらコーヒーを飲む。
彼女はゴールデンウィークに蕎麦屋のバイトと、それから銅像製作のための鋳型のモデルのバイトをしたと言う。何人もの年寄りが彼女に粘土をくっつけるのだという。なんて藝術的なんだそんな銅像を作る創作教室があるなんてと関心する以上に、私は彼女が年寄りに囲まれて粘土を貼り付けられているその光景を想像して笑った。
「そういえば小説まだ読んでない、ごめん。」
書いた小説を読んでくれないかと彼女に頼んであった。
「それにしてもあなたが書き物にハマるなんて思わなかった。」
私に小説なんかに時間を割いている暇があるのか。彼女に言われなくてもそんなことは分かりきっている。別に彼女はそんなつもりで言った訳じゃない。これは私の頭の中の話。私は実験をしなければいけない。私は科学に献身しなくてはいけない。しかし藝術に足を踏み入れてもいいではないか。そうだ、小説を書くことが悪い訳じゃない。時間がないだけだ。余裕がないだけだ。要は上手く時間を使えばいいだけだ。
じゃあまたと言って、私は自転車に跨る。帰ったら高田みつえでも聴こう。私は北門を出て鳥羽川を渡る。
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