僕の中にいる子供

芦野 和亮

小説

2,344文字

いつ頃からはわからないが、気が付いたら僕の中に小さな子供が居座り続けていた。

幼さを象徴する柔らかそうな頬からして、彼の年齢は五、六歳だろう。幼児が被るようなカラー帽子がたまに傾けば小さな手でそれを直し、華奢な体を包んでいる皺のない紺色の制服の釦を指で触れていたりと、挙動に落ち着きがない。

彼が僕の中ですることと言えば、物語を書いたり、歌を歌ったりすることだ。鼻歌交じりに鉛筆を走らせている姿や傾いたカラー帽子をそのままにして歌う姿は楽しげだ。誰に向けて物語を書いているのだろう、何を思って歌を歌っているのだろう、と向日葵のような表情の彼を遠くから眺めながらいつも疑問に思っている。その疑問を彼に尋ねたい衝動に駆られるが、いつも訊き出せずに彼を遠くから眺め続けている。その疑問の答えを知ろうとする僕自身の姿勢が野暮っぽく感じるからだ。

彼は鼻歌交じりに物語を表現し、傾きがアンバランスなカラー帽子のように歌を奏でている。

 

明るいうちから吹き荒れる春の嵐がまだ止まぬある日の夜、僕は世間から逃げるように自分の部屋に戻り、コンビニで大量に買った缶ビールを貪るように飲み続けた。心の内側から斬り込んでくる厭世的な気分と体を覆う皮膚を剥がされるような自己否定的な思考から逃れるためには、アルコールに頼るしかなかったのだ。

延々と飲み続けていると、家の窓を揺らす荒ぶる季節の感情に何も感じなくなった。隙間風に揺らされるカーテンを見ても何も感じなくなった。嵐の騒めきにも、窓の鼓動音にも、カーテンの揺らめきにも、僕の感情が波立たなくなっていた。目の前の色が音もなく崩れ落ち、耳に入る音の色が崩れ落ち、アルコール摂取量を超えた僕の体が崩れ落ち、意識が遠ざかろうとした刹那、一冊の白いノートが唐突に目に飛び込んできた。必死に自分自身を奮い立たせながら、何度も宙を掴んでようやくノートを手に取った。ノートを見開くと、意味を成さない文章が無秩序に並んでいた。敵の陣地に入ったのに金にならない歩のような滑稽さに満ちていた。

僕はやはり波立たない感情のままノートを破り捨て、意識を失った。

 

小さい子供が鼻歌交じりに鉛筆を走らせていた。いつもの風景だ。僕はなぜか嬉しくなり、鼻歌交じりの彼に近寄る。寝そべって鉛筆を走らせている彼は近づいてきた僕に気付いていない。彼はノートにどんな物語を書いているのだろう。期待しながらノートをこっそりと覗き込むと真っ白だった。彼が鉛筆を走らせているというのに「文章」がそこにない。彼が創造しているはずの物語がそこにない。にも関わらず彼は鼻歌を止めることなく鉛筆を走らせてはページを捲って、新しいページに鉛筆を走らせている。何ページ捲っても真っ白が続くだけだ。僕は恐ろしくなって、彼に気付かれないように後ずさりを始める。

と彼は鉛筆を走らせるのをやめ、ゆっくりと立ち上がった。彼は僕に振り向くことなく、傾いたカラー帽子を直すことなく無邪気な声で歌い始める。皺のない紺色の制服の背中が大きく上下している。後ずさりしているはずなのに、上下する背中が小さくなっていかない。逆に視界いっぱいに広がってくる感じがする。それと比例するように無邪気だった歌声が悲鳴へと変化し、最後にはか細い高音になっていた。

僕は後ずさりを止めて膝をつき、目をつぶって耳をふさいだ。目の前が真っ暗となり、か細い高音が遠ざかる。深くため息を吐いた瞬間、後頭部を殴られたような激しい痛みが走った。それも一回だけではない。二回、三回と激しい痛みが襲ってくる。たまらず呻き声を上げながら目を開けると・・・

 

・・・白銀色の輪っかが天井からぶらさがっていた。カーテンの隙間から日が差し込んでいる。腕時計を見ると時刻は遅い午前の時間帯だった。身を起こすと頭が割れるように痛い。空になった七、八本の缶ビールがボーリングで使うピンのようにあちこちに倒れて散らばっている。二日酔いを冷まそうと水を飲みに立ち上がろうとしたが、回転する駒のように目が回り吐きそうになった。

吐き気と激しい頭痛に堪らずに体を横にする。横になったまま背伸びをすると、手の先に何かが触れた。手繰り寄せて顔の上に持ってくる。もう少しのところで真っ二つになりかけたノートだった。ページを捲ってみる。走り書きされた文字が躍っている。僕自身が書いたのに判読不能の箇所が目立つ。頭痛で鈍化した読む力を奮い立たせながら、読みづらい文章を目で追う。出来そこないの物語が愛おしく感じる。

家の外は静かだった。春の嵐は去ったらしい。カーテンを開けてみなければ分からないが、霞みかかった青い空が広がっているのだろう。カーテンの隙間から入り込む陽の光は柔らかく優しかった。

 

僕の中に小さな子供が居座っている。今日もまた鼻歌交じりに鉛筆を走らせ、傾いたカラー帽子を元に戻すことなく歌っている。

寝そべって鉛筆を走らせている彼に近寄ってノートを覗き込もうとすると、彼は体全身でノートを隠し、照れ笑いを浮かべて僕を見上げる。

傾いたカラー帽子を戻そうとする僕の手から逃げながら、彼は無邪気に歌を歌いつづける。

僕の中にいる小さな子供がいつまで居座り続けるのかはわからない。けれど、僕にとってそれは大した問題ではない。彼は彼自身が描き出す物語を誰に読んでもらいたいのか、また、無邪気な声が奏でる歌を誰に聞いてもらいたいのかを僕は知るべきであり、気づくべきなのだ。

それを受け入れる時が来るまで、鼻歌交じりの彼を、傾いたカラー帽子姿の彼を、僕は遠くから見守ろうと思う。

もう少しで真っ二つになりそうになったノートを手に持ちながら。

2014年3月24日公開

© 2014 芦野 和亮

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