――私は母になるのだ。
襲ってくる下腹部の痛みで朦朧とした意識の中、彼女は何度も自分にそう言い続けた。
もう何時間も彼女は痛みに襲われ、確実に体と心が疲労していた。
逃れることができない痛みを呪いながら、しかし、彼女は何度も自分に言い続けた。
――私は母になるのだ。
彼女が37歳での高齢出産ということで、担当医師や助産師は万全を期してその場に臨んでいた。
出産は足を半分棺桶に突っ込んだようなもの、と彼女にそう説いた義理の母は自宅の仏壇に手を合わせて、その時を待っていた。
無事を祈っているから安心しろ、と彼女に言ったものの、父となる男は分娩室の前で腕時計を睨んだり、貧乏揺すりする右足を何度も摩って落ち着きがなかった。
――私は母になるのだ。
彼女とその男が結婚して、その日を迎えるまで数年の年月を要した。
今日を迎えるまでその数年が長かったのか短かったのか、新しい生命を生み出すために痛みと戦う彼女の姿を見たら、その答えを単純に出すことはできないだろう。
それは生きた年数が長い短いで、その人が幸せだったのか不幸せだったのかを単純に決めつけることができないのと同じである。
――私は母になるのだ。
自分に言い聞かせるその言葉すら消えてなくなりそうなほど、痛みが極限に達しつつあった。
と突然、その痛みが波を引くようになくなった。
溜めていた息を大きく吐いた瞬間、彼女は自分の足のほうから待ちわびていた泣き声がしたのを聞いた。
――私は母になったのだ。
彼女は顔を上げる。
助産師の両手に抱えられた小さな裸体が大きな声を上げている。
それを目にした彼女の顔は、それまで痛みに苦悶していたとは思えないほど優しい微笑みを浮かべていた。
――私は母になったのだ。
助産師が母親に近づいていく。
赤ん坊が母親に渡される。
母親の胸の中で赤ん坊が大きな声で泣いている。
――私は母になったのだ。
私の愛しい子、生まれてきてくれてありがとう。
あなたのためなら、私は人前で涙を見せて生きても厭わない。
私はあなたが喜びの涙を流す幸せな日を迎えるまで、生きていくと約束する。
母親の語る言葉をそばに赤子は泣き続ける。
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
おぎゃあ
胸の中でお袋が泣いている? そんな馬鹿な。骨になってしまった人間が泣くわけがない。風に揺らされた桜の木の葉っぱが互いに擦れて、その音がそんな風に聞こえたのだろう。
立ち止まった俺を不思議そうに見る住職の視線に気づき、お袋の遺骨を納めた骨壺を改めて胸に抱き締めながら、お墓に向かう。後ろから、杖を突く音と親父の足音、そんな親父を気遣うようなカミさんの小さな声が付いてくる。
お墓に到着し、お袋の骨壺を墓石の下におさめる。親父が鼻をすする音が聞こえた。住職にお経を読んでもらった後、三人だけとなったお墓の前でぼんやりとゆっくり雲が流れる春の空を見つめていた。 「親父」
お袋が亡くなってから頬がこけてしまった親父に呼びかける。親父はゆっくり流れる雲を眺めたまま、こっちを見ようとしない。 「37年前の今日、親父はどこにいた?」 「病院だよ、決まってるじゃないか」
そこで初めて親父が俺を見た。 「その時、何を思ってた?」 「何を思ってたって……これから紙おむつを買う金を稼ぐために、仕事をもっと頑張らなくちゃなって思ってたよ」 「他は?」 「他って、なんだ?」
俺を見る親父の瞳が大きくなる。 「不安とかなかった?」 「不安だと? 分娩室の前に座ることしかできない俺が不安がってもどうしようもないだろ。俺はでーんと座っていたよ」
親父はそう言って大きく笑った。親父がこのように話し終えた後に大きく笑う時は、たいがい嘘をついている時だ。お袋から聞いた話と随分かけ離れている。子供のころにとっくにそれを見抜いていたが、今に至るまでそれを口にしたことはなかった。今回もそれを口に出さず、俺は横にいるカミさんと目を合わす。 「……しかし、変なことを聞くな、今日は。どうしたんだ?」 「お義父さん、実は……」
首を傾げる親父にカミさんは腹部をさすって見せた。それ以上言わなくても、親父にはすべてが理解できたようだ。 「そういうことか、そういうことか。お前も父親になるんだな。だから、そんなことを聞いてきたんだな。父親になる男はでーんと構えていればいいんだ。おまえが不安がっていても仕方ないことだからな」
親父は俺を見て笑う。『父親になる男はでーんと構えていればいいんだ』という親父の言葉をお袋が聞いたら、なんて言うだろう。きっと、 「嘘つくんじゃないよ、あんた!」
と親父の背中を軽くたたきながら笑ってそう言うことだろう。カミさんが目を伏せて言う。 「お義母さんにも見せてあげたかったな。孫を抱いて喜ぶ姿を見たかった」
医者に止められているというのに、親父はワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、口にくわえて火をつける。親父の口から吐き出された煙草の煙が風に乗って行方を決めずに消えていく。 「なあに、心配せずともいいよ」
親父はカミさんを見た後に、お袋の骨壺の入ったお墓を見ながら続ける。 「きっとそれは母さんの生まれ変わりだ。あんたが後悔することはない。なぜなら、きっとあんたのお中に居る赤ん坊は母さんの生まれ変わりなんだから」
強い南風が吹き、木々のざわめきが聞こえる。
強い風が吹いたというのに、春の空を流れる白い雲は俺たちを見守るようにゆっくりと流れていた。(了)
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