手もない。足もない。口もない。ならば如何にして私を伝えられよう? 残された方法はひとつしかない。第三者へと伝達し、それを介して未来に繋ぐ。それが私の残された唯一の道だ。その役目を、私は、まだ幼い果樹美に任せることにした。幸い、私の内側に、その奥深くに、まだ何も書き留められていないノートのような清廉さを保ったまま四つのgeneが群遊していた。アデニン、チミン、グアニン、シトシン……。四本の色鉛筆で私は記憶を描いた。絵を描いたことのない私は、どうしても輪郭を正確に辿ることができなかった。ただ、それは私が記憶を描こうとしている以上、当然の現象であったと言えるかもしれない。何事であれ、生物は機械的に、枠に収められた写真のように、一個の事象を明確に記憶し描出することはできない。おそらく私が描き出す記憶は、散逸した8ミリフィルムのように脈略なく繋げられた状態で顕れることだろう。果樹美、どうか私の記憶を最後まで鑑賞してくれ。不器用な伝え方で申し訳ないと思っている。それでも、私はできる限り正確に私のことを伝えたい。そしておまえは、自動車が駆ける風に乗って空を舞い、はるか遠く離れた土に着陸して、そこで新たな生命を芽吹くのだ。そうすれば、私は私の記憶が未来の樹木や果実たちに受け継がれたことを肌で知るだろう。朽ちた私は土に還り、太い茎を支える土壌として私の子孫たちを見守り続けていくだろうから。
『wagonとtankの衝突事故について』
私は、楠木神門という交差点の側に生える、ある一本の街路樹だ。道路は南北と東西に伸び、二つの道路はこの地点で交じりあった。アスファルトで舗装された道路で、日中は私の姿が影となってその道路のうえに映し出される。その影の上を非常に多くの乗用車が行き交い、特に漁場から加工場へとサーモンを運ぶ過積載トラックと、加工場から市場へとツナ缶を運ぶ過積載トラックの度重なる往復によって、アスファルト道路に幾本もの亀裂が走っていた。果樹美よ、私はこれからおまえに、この交差点で起きたある死亡事故について語りたいのだ。おまえは少し退屈を覚えるかもしれない。果実は甘味を求めて自らの胚珠に糖分を溜め込もうとする。その意味において果実はロマンティストだ。しかし、私のような樹木は、せいぜい長年じっと立ち続けたまま、葉を茂らせて落とすサイクルの中で黙々と過ごすことしかできない。糖分のごとき刹那的な快楽に、私は魅力を感じないのだ。だから、果樹美よ、私はおまえが私の記憶を土臭い黴のように鬱陶しいものだと感じて耳を塞いでしまわないかと心配している。しかし私は、おまえがすぐに安易なものに飛びついてしまう態度を是正したいとも考えているのだ。狡猾で饒舌なカラスに嘴で啄まれないように。たしかに私の話は要領を得ないものかもしれない、しかし、どうかおまえには、私が描いた記憶の絵の前で少しでもいいから踏みとどまってほしいのだ。そしておまえが、私の残したものの細部を掴むまで、その場から立ち去らない抵抗力を身につけてほしい。そうすれば自ずと、私が伝えたかったものをおまえは理解できるはずだろう。 月夜になれば乗用車の姿も影を潜め、代わりに湿気を含んだ重みのある闇が現れる。闇は道路の表面と私の葉叢をしとどに濡らしていく。そこに街灯の光が差し込み、アスファルトの細粒が見事な輝きを放つことがある。私の方も同じだ、時折吹き付ける夜風に、私の葉を遊ばせてみると、それら一枚一枚は無邪気に揺れて輝き、雫を落とした。しかし、その光景は、冬になれば見ることができないのだ。冬の闇はあらかじめ除湿されていて、私の枝に葉叢などあろうはずもない。私の枝、すなわち骨格だけを寒気にむき出していると、あたかも私は一個の構築物に過ぎないのではないか、という思いが浮かぶ。そう、私はただ佇立しているだけなのだ。今、私の目に見えるのは、一定のリズムを乱さず点滅し続けている赤色信号だ。その様子は何かに似ているように思われるのだが、あの事故を目撃する前の私はそれが何に似ているのかうまく言い当てることができず、とにかく不気味な印象を受けただけだった。ある日、私はその印象がさらに強烈なものへと変化したことを確信した。楠木神門の周囲に不吉な磁場が発生していると。その磁場に引き寄せられるようにして、二台の自動車は粒子のように衝突し炎上した。果樹美よ、これからその顛末を話すとしよう。 一台のwagonが南方向から接近してきて、東方向へと右折しようとして、右方向の指示器を点滅させ、充血した目を見開くように赤いブレーキランプを点灯させた。運転者である人間の疲労が見てとれた。自動車は一旦停止して、排気口から太く白い煙を吐き出した。あれは人間の吐息と同じ原理だろう。タイヤが右方に向けられたその時、対向車線を非常なスピードで走る、車高の低い一台のtankが滑り込んできた。tankはけたたましい警音を鳴らしたが、二台の車はあえなく衝突した。しかし、その衝突の仕方は、私の目では不慮の事故と呼ぶことはできなかった。事故を唯一目撃した私が持った印象は、この事故は起こるべくして起こった、言い換えれば、二台はまるで引き寄せられるように衝突した、というものだった。tankは衝突を回避しようとしたが、何らかの見えない力が働いて、その二台を破滅の運命へと導いたように思えた。この力こそ、私が赤色の信号を見たときに感じた磁場によるものなのかもしれなかったが、本当のところは分からない。曲がろうとしたwagonは横からの衝撃によって車体をくの字に凹ませて横転し、tankはボンネット部分を大破させて白濁した液体を噴出させた。その後もまだ前進したが、ハンドル操作はままならず、私の二本隣の街路樹に突っ込んで止まった。細かく砕かれたフロントガラスが散乱して、その表面に燃え盛る火の影を映した。火の粉は冬に舞う風媒の花粉さながら、煙とともに舞い上がっていき、赤色信号の灯に照らされた後、夜空の中に溶け込んでいった。wagonの車体はフレームを残して炭化しはじめ、そこから人が出てくる気配はなかった。木に衝突したtankは前の部分が潰れて無くなってしまっていて、赤いような黒いような人間の血液が、樹皮の隙間に沿って滴り落ちているのが分かった。私はそのとき初めて人間の血を目にした。そして赤色の点滅信号は、ちょうど血が滴り落ちる様子に似ていたのだと私は気づいた。しばらく後に別の車がこの事故現場を発見するまで、私はその光景を見続けた。
『この事故について、警察はどのように判断したか』
警察と消防がそれぞれサイレンを鳴らしながら到着した。消防隊員がwagonを消火し終わって、中にあった遺体を確認し、早速身元調査が開始された。事故車は小型クレーンによって吊り上げられた。警察は、通報者に発見当時の詳細について尋ね、事故車のナンバープレートを確認し、現場の交通整理と検証を開始した。車両の損壊部位から、警察はすぐに、この事故は右折車と直進車の衝突、すなわち右直事故であると判断した。道路にブレーキ痕は見られない。代わりに衝突する直前にハンドルを大きく切ってできたスリップ痕が残っている。直進車は一度も減速をすることなく、右折車に突進した、という形になる。現場は片側が二車線の道路であり、街頭による照明は確保されていて、右折車のwagonは目立つ白色の車であった。そして、wagonの破損の程度から考えて、制限速度である時速四十キロメートルを遥かに超えるスピードであったと推測された。警察はこの事故を、人的要因によるものであると判断し、その前提に基づいて捜査を進めた。運転手は、飲酒運転、居眠り運転などで判断力が減退し、無謀な運転を行ったせいで起きた惨劇であったのだと。ここで事故車の処理をしていた消防隊員の一人が異議を提出した。正義感に裏打ちされた強い眼をしている彼は、tankのシフトレバーがD(ドライブ)ではなくN(ニュートラル)になっていたこと、そしてサイドブレーキも限界まで引き上げられていたことを説明した。この二つの動作は、車が何らかの原因で減速、停車できないときに行うべき冷静な判断、そして模範的な行為である。これは判断力の減退とは言えないのではないか? 消防隊員は、車両が故障したことが原因ではないかと主張し、警官はその話をメモに取った。消防隊員が警官たちのもとから去った後、警官たちは、やはりこの事故は人的要因によるものだろうと結論づけた。車両が突然、全くの操作不能になる、だって? 警官たちが持ち合わせている長年の経験とカンから言って、あるいは常識的に考えて、そんなことはありえないと判断した。もし故障していて全くの制御不能に陥ってしまっていたならば、当然その自動車のメーカーにも責任が問われることになり、話を悪戯に大きくしてしまう。それは、これから大変な悲しみに打ちひしがれるであろう遺族の心情を逆撫でする行為となりうる、と彼らは想像し結論づけた。(この判断は非常に恣意的だと言わざるをえない。彼らは見たいものしか見ることがない)さらに、警察は昨日、この事故とは別の、連続殺人事件の対策本部を設置したばかりであったようだ。
『ある若者は死を模倣した』
暗夜、青年は歩道の一角にパイプ椅子を広げて腰掛けた。表情はフードを被っていたために見えなかった。パイプの継ぎ目が傾いでいるらしく、青年が少しでも身動きをとると、蝙蝠のような鳴き声を立てて軋んだ。青年は、その音を立てることが罪であるかのように、微動だにすることなく、夜通しその椅子に座り続けた。しかし彼は己の内側で渦を巻いたまま轟く睡眠欲に抵抗していた。寒風は吹き荒れて、青年の足首から覗ける若々しさを保った肌を白く作りかえていき、瞳を隠した瞼は花弁の化石のようであった。青年は法的な意味において青少年であったが、しかしその魂は青年特有であるはずの瑞々しさや若々しさが失われているように思われた。青年は額を伏せながら交差点の前で座り続ける。黒のコートと相まって、死を弔っているように見える。しかし弔いは生きた人間の行為である。この青年は明らかに死を模倣していた。何の前触れもなく失われた二つの生命の道程を捉えようと、炎上したwagonが焦がしたアスファルトの黒ずみを凝視していた。しかし、果樹美よ、彼は本当に死ぬだろうか? 彼にはその道程を進む勇気はないだろう。彼は、自分の身が何らかの事故に巻き込まれて、その生命が奪われてしまうところを想像しているのではないか? 自ら進んで死ぬには、英雄と肩を並べるほどの確固とした決意の楔を打ち込み、自ら生を放棄する責任を負わなければならない。しかし彼にはそのどれも持ち合わせてはいない。果樹美、君にも分かるだろう? 青年は夜が明けるまで座り続けた。もう年老いた私以上に動きがなかったので驚いた。もしや彼は私のような街路樹になろうとしているのかとすら考えた。彼は本当に人間なのだろうか? あのまま放置し続けると(そう、思わず私は「放置」という言葉を用いてしまったが)彼を人間たらしめるものが全て剥奪されていくのではないか。夜が明けて日が差し込み始めて、まだ充分に明けきっていない青葡萄色の静けさが立ち込め、彼の肌色がいよいよ鮮明に見え始めたが、太陽の力を以てしてもその色は枯れた根のように白いままだった。 しばらくすると、ゴムが擦れるような音をたてて、彼の前に一台の車が止まった。あまり目立たないように作られた小さな車だったが、中から出てきたのは、どんな姿勢で入っていたのか分からぬほどの巨体であった。私の知識ではありえないはずの大きさだったが、現に見てしまった以上私は考えを改めざるをえない。彼は身長が二メートル以上はあったし、青年と同じ黒いコートを着ていたのだが、そのコートが体のラインをむしろ強調させてしまうほどの太り方だった。彼は座っている青年の頭を荒っぽく撫でて、両肩を強く叩いた。青年は叩かれた痛みで反射的に立ち上がった。巨体の男は青年の腕を引っ張って車に乗せようとしたが、車が小さすぎて男の巨体では青年の乗るスペースがなかった。青年は巨体の男に何かを話してから、(おそらく、手を離してもよいかと許可を取っていたのだろう)手を離して後部トランクの前に立った。巨体の男がトランクを開けてやると、青年は体を折り曲げてその中に体を押し込んだ。巨体の男がトランクを閉めようとしたが、まだ青年の体が少しはみ出していて閉まらない。巨体の男は上から強く押し付けるようにしてトランクを無理やり閉めようとした。しばらく時間が経ってから、青年が何かに屈するようにして閉まった。車は、巨体の男に加えて青年をも運ばなければならなくなったので、エンジンをかける時の音がとても大きなものとなり、白い煙を激しく吹き出した。車はゆっくりと右折して、道路の焦げた部分を踏みつけていきながら楠木神門を去っていった。
『保険調査員』
「君は最初から損害サポート部を希望していたんだってね?」 「はい」 「珍しいな。毎年必ず新入社員に、最初どこの部署を希望していたか聞くようにしているんだけど、ほとんどがリテールとかディーラーとか、営業系なんだよね」 「入社前の懇親会でも、先輩たちが私のことを、珍しいパターンだなと仰っていました」 「うん、本当にそう思う。ていうか、よくこんな仕事やろうと思ったね。ちゃんと分かってる? うちの仕事」 「……分かっているつもりです。辛い仕事だということはよくわかっています。でも、どうしてもお客様の近くで働きたかったんです。苦しんでいるお客様を、助けたいんです」 「助けてあげたい、ねぇ……とりあえず現場に着いたわけだけど、事故の概略はもうつかんでいるよね?」 「はい」 「典型的な右直事故だな。南方向から東方向へと右折しようとした車と、北方向から直進してきた車が衝突した、というわけだ」 「はい」 「直進車が減速した痕は残っていない。それどころか、制限速度である時速四十キロメートルを軽くオーバーしていた。八十キロメートルは出ていたのではないかと推測されている。ところで、一般的に信号が南北方向で青であった場合の右直事故の責任割合は、何対何か知っているか? ああ、待った、その前に責任割合って言葉はもう知っているな? 真面目に研修を受けてくれてたと思うんだけど」 「過失相殺のことですよね。具体的な保障金額を算出するための……インターンシップで実際に計算させられました」 「右折車がAで直進車をBとして、双方の信号が青だった場合、その責任割合は?」 「……ちょっと、まだ覚えていません。不勉強なもので」 「ふーん、そうなんだ」 「すみません、今調べます」 「いやいや、そんなことしなくても今僕が教えるよ。右直事故は基本、八十対二十だから、覚えておいて」 「A対Bが八十対二十……直進車が八十で、右折車が二十」 「そうそう……え? 違うでしょ。今さっき僕、Aが右折車だって言ったじゃないか。右折車が八十だよ」 「え?」 「ええっとね、右直事故っていうのは……まあ信号の状況によっては大きく変わっては来るよ? でも互いに青だった場合、右折車がこの事故の八十%の責任を負い、直進車が二十%の責任を負うことになる。今回のケースは深夜帯。信号は常時、赤の点滅。この赤の点滅の場合、交通整理がされていない交差点における事故のケースが適用される。この場合でもやはり、八十対二十になるな」 「でも、直進車は速度超過でしたが」 「車の免許を取るときに道交法を勉強しなかった? 右折車は直進及び左折車の通行を妨げてはならない、という基本的なルールがあるでしょう? もちろん、スピード違反をしていた事実は揺るぎないから、その点は加味されることになるけれど、右折車と直進車の責任の重さが逆転することはまずないと思う」 「スピード違反をしていた直進車のほうが、責任が重くなるものとばかり思っていました。そうではないんですね」 「そうだね、そしてそれは、右折車に乗っていた人の遺族の人たちもそう思っているだろうね。そして僕たちはこれから、その人たちに向かって、今回の事故はあなたたちの方が責任が重いので、保険金はこれだけしか支払われませんよ、と伝えに行かなければならない。これが、君がやりたいと言っていた損害サポート部の仕事だというわけだ」
『缶コーヒーを供える』
tankが衝突した街路樹は私の二本隣だったのだが、その樹の前で一人の女性がじっと立っていた。すでに事故から一ヶ月が経過していて、私は自分の枝に新たな葉が茂るのか、それともとうとう今年で私は枯れてしまうのか、他人事のように考えていたときのことだった。私はすぐに、あの事故と関係のある人物であると察した。女性は手にぶら下げた薄紫色の紙袋から、一本の缶コーヒーを取り出して、樹の根元にそっと置いた。土の上に置かれた銀色の缶コーヒーは、ちょうど淵の部分が太陽の光を反射させて、女性の足首を黄色に照らし出した。本来ならば艶かしいものに見えるが、一般的なモンゴロイドの肌と比べて、明らかに黄色い色素が濃くなっている。それは激しい憔悴を現しているようにも見えた。彼女は沈黙したまま、両手を合わせて拝んでいた。その手には一つ、指輪が嵌められていた。宝石が一切付いていないシンプルなものだ。 「……あの、貴方はもしかして」 その女性の後ろ姿を見て声をかける者がいた。その人も女性であったが、拝んでいる女性に比べれば一回り年上に見える。二人は互いに顔を確認して同じ事故の遺族だと分かると、互いに頭を下げあった。 「あの事故の……この度は本当に……」 「いえ、そちらこそ、この度は本当にご愁傷さまです」 「私からも、お供えを……」 「ええ……ありがとうございます」 風が吹いていないのに葉擦れの音が二人の上に覆いかぶさった。数々の乗用車がエンジン音を膨らませながら道路を走り、やがて破裂して短いクラクションを鳴らした。年上の女性は缶コーヒーの前で屈み、手を合わせて頭を下げ、立ち上がった。それほど長くはない。 「後で私の方も、伺わさせてください」 「わざわざ、いいんですよ……」 霧の中へと滲ませた声で、年上の女は答えた。 「あの事故で……お互いに主人を失くしたわけですから……私にも拝ませてください」 「いいんです」 わずかに語勢を強めるような断り方だったが、表情に変化は見られなかった。そのことが逆に気にかかった。やがて、その年上の女性が何か話題を変えようとしていることに私は気づいた。 「お住まいはどちらなんですか?」 「あの、ここから北にあるS市です」 「あら、北なんですね?」 年上の女性は、ちょうど目の前を通り過ぎた、右に曲がろうとしている車の方向指示器の点滅を呆とした目で見つめた。しかし口から発せられる声は雛鳥のように高い声だった。初々しさや若さのない雛である。 「南方向へと車を走らせていましたから……私はてっきりK市出身なのかと。あのあたりは確かに治安が悪いですからねえ」 「はあ」 「それに比べてS市は治安が良いとよく聞きますしね。関東から引っ越された方もS市を真っ先に選ぶと聞きますし」 消え入るような声だった年上の女性が突然饒舌になった。指輪の女性は明らかに、戸惑いを隠すような笑みを浮かべた。 「さぞや、住み心地もいいんじゃありませんか?」 缶コーヒーに目を向けながら、年上の女性は言った。指輪の女性は、なぜそんな話を始めたのか分からないらしく、話の流れに逆らわないように、単純な頷きを繰り返している。私よりもずっと若い彼女が、女同士の会話における心情の機微を察することは難しいだろう。私があの年上の女性から感じ取ったことはひとつだけ。彼女の言葉は、人間の皮膚に発疹や痒みを与えるウルシの樹液のように触覚を刺してくる。歳を誤魔化そうとして外見を繕った木肌から染み出す、アレルギー症状が出てしまうほどの濃厚な樹液。 「それにしても気になっていたのだけど。お供えは缶コーヒーなのね?」 「それが、なにか」 「ほら、こういうのって、もっと別のものを置いたほうがいいんじゃないかしら。花束とか、メッセージカードとか」 「……何を置こうが私の勝手ではないのですか」 「それもそうね……」 再び煙のような声で、年上の女性は缶コーヒーを見つめた。見よ、果樹美、あの何も映し出していない瞳を。あの缶コーヒーを見つめる目が、水たまりのように澱んでいる様を。警官はあの事故の原因を人的なものと判断した。現場に残された限られた情報では、運命がそうさせたかのように二台の車が引き寄せられて事故を起こしたのだと結論づけることはできないだろう。 「主人は下戸で有名な人でした」 今も缶コーヒーを見つめたままの年上の女性に、はっきりと言い放った。 「お酒が嫌いで、たとえ会社の付き合いでもお酒を飲むことは極力控えている人でした。それでも業績を伸ばしていたこともあって、職場でも一目置かれるような人でした」 「健康志向な主人でいらっしゃいますのね……いえ、いらっしゃったのね」 「ええ、コーヒーは主人の大好きなものでした」 携帯電話が鳴った。年上の女性が上品なハンドバッグからスマートフォンを取り出した。指輪の女性に背を向けて何か話している。親しげな声である。さすがにこの場では不適切だろうと考えたのか、ゆっくりと歩き出して指輪の女性から距離を取った。騒音で聞こえにくいらしく、片方の耳を押さえながら通話している。その押さえた指に、指輪はなかった。 ようやく通話を切ると、急用ができたと言って指輪の女性に会釈した。指輪の女性は、その姿を見て不快な思いを隠すことはできないようだった。ひとりの人間が死んだところから、急いで離れていく女性の背中。 指輪の女性は、薄紫色の紙袋を足元に置いた。土の上にある缶コーヒーの輝きは、近づいてきた彼女の影によって消えた。蹲った。涙が流れた。紙袋の中に入っていた、簡易裁判所のA4サイズの茶封筒が出てきた。木の下で肩を震わせている女性の傍を、三人組の中学生が通りかかった。そのうち二人は女性の姿に気づいていないようだったが、ひとりは驚いた様子で女性の背を見つめた、が、残りの二人が先に行くので立ち止まることもできずに、通り過ぎていった。 ――大丈夫ですか。 果樹美が、その指輪の女性の背中に声をかけた。指輪の女性は振り返ろうとしなかった。しかし果樹美は、彼女が振り返るまで待ち続けた。悲しみを癒すのは第三者の言葉などではなく、時間なのだということを、私は果樹美に何度も教えてきたから。 土が付いた茶封筒を、指輪の女性は手で払った。それを紙袋の中に入れて、振り返った。果樹美は、両手で椀を作って待っていた。紅玉の林檎を包み込むようにして、指輪の女性に差し出した。 ―あなたの後ろに、落ちていましたよ。 『果樹美』
お父さんの言うことを、私はほとんど理解できなかった。でも、お父さんが言うには、理解という言葉には二種類の意味があり、物事を理解することはある種の物事とある種の物事との間に有機的な関係性を構築することなのだが、お父さんが望んでいるのは、そのような意味での理解ではなく、単に私がお父さんの言うことに対し、私がどのような感じを受けたのか、という意味での「理解」らしかった。私自身、お父さんの言うことをしっかり噛み砕けていないから、変に四角ばった言葉を使わなければうまく言えない。「理解」とは、理を解きほぐすことだと、まるで杉の木みたいなしかめ面で話し始めたから私もうんざりする。しかし、理というのは、果たして論理的なものであるといえるのか? 理と論理は全くの別物だ、とお父さんは言う。 私は、春一番とともに空中へと舞い上がるつもりだ。寒さが和らぎ始めて、いつしか人間の口から絶えず吐き出されていた白い煙が見えなくなった。もう暖かくなったのだ。私は春の大気を胸いっぱいに吸い込んだ。あまり良い匂いはしない。けれど、私はその匂いが決して嫌いではない。たくさんの人間が住んでいるのに、綺麗すぎる空気なんてどうかしているじゃないか。 お父さんは何も伝えられないことを嘆いた。だからお父さんは、私が代わりに伝えてくれることを望んだ。私だって、本当に誰かに伝えられるかどうかなんて分からない。あの林檎を拾ってあげたときも、あの女性は薄紫色の紙袋の中にしまいこんで、何も言わず去っていった。あの女性がそのとき何を考えていたのか、ただの他者にすぎない私にわかるはずもない。でも、誰かが落とした林檎は必ず他の誰かが拾って、持ち主のもとへと届けなければならないのだ。悪い人に食べられてしまうよりまえに。 明け方、私はもう一度空気を吸い込んだ。酸いも甘いも噛み分ける。私はこの言葉をお父さんに教えてもらった。まだ私は、息を吸い込んでも酸っぱさも甘さも感じられない。けれどいつかは、誰もがそうなる、とお父さんは私を励ます。もう一度吸いこむ。私の心は膨らんでいく。暖かな風が吹き始めた。私の手を繋ぐお父さんの手の力が少しずつ弱くなっていくことに気がつく。お父さんは今、土木課の業者が動かしているチェーンソーで切り倒されようとしているのだ。毛虫の温床でしかなくなった老木を切って、また新たな樹を育てるために。もっと吸いこむ、もっともっと吸いこむ。私のからだは明け方の春空と同化して浮き上がる。お父さんの手が離れて、指先だけが触れている状態になる。そして、春一番が私の体を吹き付けて、ついにその指も離れて空を飛んだ。 お父さんの体がぐらりと倒れた。葉も枝も斜めに傾いて、道路の上に倒れたのを私は見た。でも、お父さんをずっと支えてきた根は、切り株となったまままだそこに残されていた。私はもうかなりの高さまで浮き上がっているのに、お父さんの体の中に走っていた幾重もの年輪が、全く傷むことなく残されているのが見えた。きっとあの年輪こそ、私が彼の地で伝えなければならないものなのだろう。 夜明けの太陽が眩しかった。私は目を細めながら光の筋を目で追った。光は私の遥か上に広がる星や宇宙の方向にも、遥か下に広がる人間や大地の方向にも平等に照らし出していた。途方もなく広い世界に点々と連なるものを私は一つずつ数えた。夜は星がいくつも瞬き、昼は人間がいくつも瞬いた。そのどれもが生きている。あちこちで、今も生き続けている。 私の行先は風が決めることだろう。新たな土地で着陸して新しい根を生やすまで、私はこの天と地の狭間を泳ぎ続ける。
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