モココケロリッチ

時乃

小説

12,920文字

みなさん!

「まずはこちらのデータをご覧ください……これは、5歳から10歳までの児童を対象とした、不眠症になっていると考えられる人の数を年度別に棒グラフで示したものです。このグラフからも分かるように、不眠症になっている児童の数は、ここ数年で急激に増加しています」
「不眠症というと、成人病の一つだというイメージを持ちますが、今は子どもも不眠症にかかってしまうことがあるんですね……どうして不眠症になる子どもが増加しているのでしょう?」
「原因として考えられるのは二つです。一つは、一昔前に比べて、マンガやゲームなど、家の中で深夜でも楽しめる娯楽が増えてしまったことですね。深夜にこっそり携帯ゲームをしている子どもの姿は、もう珍しいものではなくなりました」
「そうですね」
「そしてもう一つは、昨今の教育への関心への高まりから、幼いころから塾に通う児童が増えてきて、夜遅くに帰らなければならなくなったことなどが挙げられるでしょう。最近は小学校の低学年でも、夜十時過ぎまで勉強している生徒が増えているそうですよ」
「すごいことですね」
「子どもの不眠症は、言うまでもなく子どもの健やかな成長に悪影響を及ぼします。例えば、成長ホルモンは睡眠時に最も活発に分泌されるのですが、子どもが十分に眠ることができないと、多くの発育障害を引き起こす可能性があります」
「具体的にはどのような症状が起きるのでしょうか?」
「神経症、集中力低下、免疫力低下、肥満、多動性障害、ヒステリーなど、弊害として引き起こされるものは数えきれないほどあります。また、昼間の学校の授業を集中して聞けなくなることから、学力低下の原因になると心配されています」
「私にも娘が一人いるのですが、先日深夜の零時になっても起きていましたね。九時からや十時から始まるテレビドラマを見なければ、学校の友達との話についていけなくなるそうでして。早く寝るように言うのですが、なかなか言うことを聞いてくれないのが子どもというものですからね」
「その子どもたちは皆、夜の遅い時間帯のテレビ番組を見ることが当たり前になってきているんですね……その気持ちお察しします。こちらの言うことを簡単に聞いてくれればいいのですけれどね」
「本当にそうです」
「そこで! 本日私がご紹介したい商品はこちらです」
「これは?」
「商品番号一番、モココケロリッチ抱き枕です」
「モコ……?」
「モココケロリッチというのは、幼稚園児や小学生の間で流行しているキャラクターの名前です。今回は特別に、抱き枕として販売することができるようになりました!」
「ほほぉ……これは非常に『かわいい』ですね。最近はこういうものが流行っているんですねえ」
「カエルをデフォルメしたキャラクターなのですが、今子どもたちの間で大ブームなんですね。やはりこの愛くるしさといいますか、とても『かわいい』デザインではないでしょうか。しかしこの抱き枕、ただのキャラクター抱き枕ではないんですね」
「と、言いますと?」
「素材として低反発ウレタンを使用しておりまして、これがお子様の体にピタッと密着するんですね。とくに小さな子どもですと、体に合わない抱き枕を使用すると猫背などの原因となるのですが、本商品に至ってはそのような心配は無用です。ちょっと指で凹ませていただけませんか」
「どれどれ」
「ほら、このように反発することはありません。さらにこの柔らかさは、ちょうど人肌が持つ程度と同じになるように、綿密な計算を経て作りあげられた物なんですね」
「なるほど、つまりこれは、子どもが最も安心する柔らかさに仕上げられているのですね」
「さらにこの抱き枕、非常に手入れが簡単なんです。洗濯機で丸洗いOKです」
「ほほー」
「色はグリーン、レッド、ブラウンの三色。サイズはS、M、Lの三つをご用意いたしました」
「では、気になるお値段の方をお願いします」
「商品番号一番、モココケロリッチ抱き枕、色、サイズの組み合わせで全部で九種類。一年間の品質保証をつけまして、さらに! 今なら目元も癒すことができる『ぬくぬくあったかアイピロー』を二つお付けして、お値段は一九八〇円! 一九八〇円のご奉仕で……」

岩波文庫が読めなくなって久しい。愛しい人に愛しく触れるような手つきで、ページを捲っていく緩やかな時間など、今の私には持ち合わせていなかった。
学生時代の気分からいまだに抜け切ることができないでいる。それはもちろん、私が大学を卒業する時に「社会人になっても自分は文学の側に居たい」という想いを捨て切れなかったからだが、岩波文庫を電車の中で読むことほど恥ずかしいことはないのだということに、つい最近になって気づいてしまったのだ。
ブックカバーで覆い隠せば気づかれにくくなるが、それでもすぐ近くにいる、私の上司と同世代の人間の視線が気になって仕方がない。また、電車のアナウンスと列車の揺れのせいで、文章が全く頭に入ってこない。
外回りをしているときに歩きながら読むことも考えた。しかしそれは、電車の時よりも恥ずかしい行為だということは、もはや考えてみるまでもないことだった。やがて、車で取引先に出向くことが多くなって、文庫本を取り出す暇もなくなった。
だから私が読書をするのは、家に帰ってからだ。家族が夕食を終えてからの帰宅になることがもはや当たり前のようになっていたが、私はその短い時間だけでも、本を読むことだけに集中できるから幸せだった。
しかし、妻がこの家を去ってからというもの、私の指が撫でているのは紙ではなく、息子の健太だ。
ちょうど健太の腹がある辺りで、掛け布団が呼吸に合わせて小さく上下している。二月の冷えた夜空に凍えさせられた私の指は、子ども特有の高い体温によって暖められた。
時計を見ると、もう夜の十一時を回っていた。
小学一年生である健太を、これほど遅い時間に寝かせてしまうのは良くないと知りつつも、その原因は私の努力の及ばないところにあるのだと思うと、鈍い重石が私の奥でのしかかった。
音を立てずにダブルベッドから抜けだして、健太の部屋の扉を閉めて台所に向かう。冷凍食品のお好み焼きを電子レンジに入れて自分の夕食とし、私は健太のための、明日の食事作りにとりかかった。
野菜が余っている。ピーマンやニンジンやモヤシと鶏肉で炒めたものを作ることにした。これを夕食にして、朝食はシリアルにする。次の土日に買い出しにいかなければならない。
スポーツニュースにチャンネルを合わせて、海外遠征組のサッカー選手のVTRを見ながら、お好み焼きを食べた。ニュースを見た後、ザッピングして突然目に飛び込んできたのが、抱き枕だった。通信販売ばかり映しているチャンネルだ。
健太の部屋にある机には何枚かシールが貼られていて、そのなかにカエルのキャラクターがあった。それと全く同じものがそこには映しだされていて、私は初めてそのキャラクターが「モココケロリッチ」という名前であることを知った。
ごくありふれたテレフォンショッピングを、私はじっと見続けていた。自分とは全く関係のない出来事ばかり映していたテレビ画面が、この時になって急に、私のためだけに映しているかに見えた。
購買意欲をかきたてられたわけではなかった。健太が喜ぶかどうか私には予想できなかったし、もし喜ばなかったら、今以上に健太との溝が深まってしまうかもしれない。しかし、それでも私は、画面の右上に映し出されている電話番号を紙に写しとった。もしかしたら、という気持ちを込めて。
翌日になり、健太を起こして着替えさせたあと、シリアルに牛乳を入れた朝食と、昨日作った夕食をテーブルに出しておいた。電灯や戸締りの方法を健太に確認させて家を出た。健太はとても眠そうにしていて、ちゃんと通学できるかどうか少し心配だった。
どこにも寄り道をしなければ普段通りの時間に出社できる。体にすっかり沁みついた朝のリズムで何もかもが動いていることを、駅のホームにある時計を見て実感した。
通勤電車に揺られながら、窓に貼られた正方形のシールに目を向けた。それは黒烏龍茶の広告だった。「脂肪吸収を抑える」という文句や『笑うせぇるすまん』の喪黒福蔵のイラストが書かれていた。それを見た私は思いがけず、居なくなった妻のことを思い出した。
妻は健康やダイエットに大きな関心を寄せていた。食事中に、私や健太が麦茶を飲むなか、妻だけは自分専用のペットボトルを用意していて、その中には黒烏龍茶が詰められていた。どんな味がするものなのか、私は少し味見してもいいかと頼んだが、黒烏龍茶は高額だから大事に飲まなければならないのだと言いつつ、しぶしぶながら私のコップに少量注いだ。
妻の健康志向は健太に食べさせる料理にも及んだ。そして今、私は一つ重大なことを忘れていたのを思い出した。健太はニンジンが嫌いだ。妻はよく私に、健太の好き嫌いの激しさを嘆いていた。
しかし、今まで健太は私の作った夕食を残したことがあっただろうか。
好き嫌いを克服したのか、と思ったが、すぐに取り消した。私にとって都合がいいように、楽観的な解釈をしているにすぎない。
歩き通して靴底が少し捲りあがった革靴から伝わってくる、線路と線路の切れ目が作り出す電車の振動がやるせなかった。

夜の九時を過ぎたころ、電柱からの白い光に濡れながら帰路につき、自宅に着いた。
扉を開けてみると、廊下もリビングも真っ暗だった。一昔前ではこんなことはなかったのだが、今ではもう慣れてしまった。玄関にあるセンサーが反応して、自動的にオレンジ色の照明が点いた。フローリングの廊下に私の影が落ちた。
リビングの照明スイッチに手を伸ばした。夕食を残さず食べ終えて、水に浸けてシンクの中に片付けている皿を確認した。健太は私の前ではとても良い子だった。
階段を上った。家族は二人しかいないのに、どうしてこの家は二階建てなのかと、ふだん考えもしなかったことが頭に浮かんだ。
健太の部屋はまだ明かりが付いている。ドアのわずかな隙間から蛍光灯の光が漏れている。
「入っていいか」
「うん」
健太はニンテンドウ3DSでポケモンをしていた。私が帰ってくるまでの間に、少しでも寂しい思いをさせないようにと思って買い与えたものだ。
「遅くなってごめん。すぐに風呂を沸かすから」
「うん」
ゲームに夢中になっているらしく、うつむいたまま画面から目を離すことなくそう答えた。
「呼んだら入ってくるんだぞ」
そう言い残して部屋を出て、スーツを脱ぎ、風呂場で上半身を丸めて、スポンジでよく擦りながらバスタブを洗った。以前は風呂場でも本を欠かさず読んでいたものだが、今はそんなことは悪癖だと思って止めた。そして、親らしいことを健太にしてやれるのは入浴の時だけなのだから。

タオルを石鹸でよく泡だてて、まずは健太の腕から洗う。健太は直立したままじっとしていて、私が後ろを向くように言うと、黙って後ろを向いた。
肩から尻にかけてタオルを動かしていると、健太が、
「自分で洗いたい」
と言いだした。
「急にどうした」
「松下くんはもう、自分一人でお風呂に入ってる」
「自分でお風呂を沸かしたり、風呂を洗ったりできないだろう」
「お父さんが帰ってきて、風呂を沸かして、それから僕一人で入るから、ねえ、一人で入りたい」
「ほら、足を上げて」
健太は私の肩に手を置いて片足立ちになった。そういえば靴も買い替えなければならない。上靴がもう小さくて履きにくいと言っていた。学校指定の上靴はいつ売りだされるのだろうか。健太は知らないだろうか。
「ねぇ、一人でいいでしょ?」
洗面器でバスタブからお湯をすくい取り、右肩から洗い流した途端、「あつい!」と健太が大声を張り上げた。
「ああ、ごめんごめん」
「だから一人で入りたいの!」
風呂場の固い床で地団太を踏んだ。健太の足に合わせて、流れたお湯が粘ついた音を立てた。
「分かった分かった」
カランをひねって、ちょうどいい湯加減のバスタブに冷水を流し込みながら、洗面器でよくかき混ぜた。
健太は機嫌を損ねたらしく、面白くなさそうな顔を張り付けたまま何も言わなくなった。それはダブルベッドで一緒に横になっても続いた。すでに時計は十一時を回っていたが、健太は全く寝静まる気配がない。
「眠たくない」
「明日も学校があるのに、起きられなくなったらどうするんだ」
健太は足で掛け布団を押しのける。私は何度も掛けなおすが、健太はお構いなしに何度でも蹴って押しのけようとする。寝かさなければ私も一息付けないのだが、健太はそんな事情もお構いなしで、さっきからもぞもぞと動いてばかりいる。このまま私が何度も掛け布団を戻しているうちに、そのうち疲れて私が眠ってしまいそうだ。
そのとき、健太の机に貼ってある例のシールが目に入った。モコなんとかという名前だったはずだが思い出せない。
「ねえ健太。あのカエルのモコなんとかって……」
「モココケロリッチ」
「そう、それだ。あれ、健太は好きなのか?」
「うん、好き」
その「好き」という言葉を聞いて、健太が食いついてくれたことを確信した。
「お父さん、そのモココケロリッチの抱き枕を買おうかな、と考えているんだ」
健太は「欲しい」と言って、私の方に体を向けてくれた。
「じゃあ、これからは一人で眠れるか?」
「買ってくれるの?」
「ああ、買ってあげる」
背中を撫でた。掛け布団の上からでも、その温もりが感じとれる。
モココケロリッチと聞いて健太は目を輝かせていた。そのときの嬉しさといったら!
静かに寝ない子には買ってあげないぞ」と言うと、健太は蹴り飛ばしていた掛け布団を自分で引き寄せた。それから健太が眠ってしまうのは、ほんの数分のことだった。
そっとベッドの側に屈みこんで顔を覗きこむ。本当にどこにでもいる、平凡な少年の寝顔だ。
子どもは決して大人が操るものではない。子どもとて、自分とは別の意識を持った一つの個なのだから、文句もわがままも言う。私は、そんな当たり前の事実にすら恐怖していたのかもしれない。私の子どもであり、唯一の家族である健太が、私の側から消えてしまうのではないかと。
しかし、私はまだ健太から愛想を尽かされてはいない。その事実が、どれだけ私を安心させてくれることか! 昨日の晩に偶然見かけたテレビショッピングが、私を救ってくれたのだ。
背中を撫でた手の温かさと、健太の目を見た嬉しさを忘れないうちに、メモを開いてコールセンターへとダイヤルした。私は大抵のことを後回しにするのだが、今日だけは特別だった。ただ、残念なことにもう受付時間が終わってしまっていた。しかし、それがどうしたというのだろう。明日もう一度電話をすればいいだけなのだから。

休日の昼過ぎになってインターホンが鳴った。健太が真っ先に玄関へと向かって、重いドアを一人で開けていた。宅配便の青年は見るからに爽やかな青年で、私を見ると軽く会釈をして、受領書にサインを求めた。判子を押してダンボール箱を手渡される。中身は枕ということもあってか、大きさの割にとても軽い。健太は待ちきれないみたいだ。私はすぐにリビングへと段ボールを運ぶと、カッターナイフでガムテープを切り取った。
丁寧に梱包された「モココケロリッチ抱き枕」を取り出す。テレビで宣伝していた通り、枕には程良い弾力があった。人間の頬のようである。
「これでもう、一人で眠れるな」
健太は首を縦に振った。その喜ぶ顔を見ただけでも、この買い物は決して無駄ではなかったと確信できた。
健太はさっそく自分の部屋のベッドに置こうと、二階へと階段を駆け上って行った。
もちろん私も、このモココケロリッチ抱き枕のおかげで助かることが一つ増えた。
健太を眠らせることが必要なくなったので、少しではあるが自由時間を持てるようになったのだ。私の趣味である読書も復活し、妻が去って以来読んでいなかった「アンナ・カレーニナ」をもう一度最初から読み始めた。小説の中でも家庭問題があちこちで起きていて、私は苦笑いを浮かべた。
健太は毎日寝るのが楽しみで仕方がないらしく、風呂に入れた後は、私に言われなくても自分からベッドに入った。以前は、朝になって目覚めたときにも健太はいつも眠そうにしていたが、今では自分で目覚ましを合わせて、一人で起きられるようにもなった。自分が成長したのだということを私に見せたがっているのかもしれない。

そうして健太は無事に成長していった。
幼い時に家庭問題が起こると子どもに悪影響を与えるというが、健太に限ってはそのようなことはなかった。やがて健太は一人で風呂に入り、私が帰ってくる頃にはすでに照明を落として寝息をたてていた。
私自身も父親としての自覚を感じ始め、真面目に仕事と向き合っていくうちにいつしか中間管理職にまで昇進していた。
取引先との接待が休日にまで及び始め、私は少しずつ、いわゆる仕事人間になっていくのが分かった。
飲みが入ると、帰るのが終電近くになる。そうなるとさすがに健太のことが気がかりになるが、私の思っている以上に健太はしっかりしていた。
私が何よりも驚いたのは、ある日健太が自分で食事を作るようになったことだ。部活動に参加する年齢になると、健太は料理クラブに所属した。
なぜ料理クラブを選んだのか聞いてみたかったが、健太が決めたことに私が首を突っ込む権利もないのですぐに気にしなくなった。もしかしたら、仕事で忙しくなった私を気遣ってのことかもしれない。それならば健太には申し訳がないのだが、正直言って助かるのは本当だ。仕事で疲れた状態で作る私の不味い料理よりも、健太は自分で作った方がいいと考えたのだろう。

時の流れは早いもので、健太は中学生になっていた。
ふがいない私のために、健太には多くの我慢や苦労をさせてきてしまった。しかし、本当に健太は親孝行をしてくれる立派な息子だ。もっとも、そのことを褒める権利が私にはないのかもしれないが。
授業が分からなくなったりしていないだろうか。友達づきあいは上手くいっているだろうか。私はそれを時間があるときに尋ねるのだが、健太は決まって「大丈夫」と言った。健太も難しい年頃に入ってしまい、素直に悩みを親に打ち明けることもしたくないのだろう。それが少し不安だった。健太から私に口を開くことは極端に減ったが、私から話しかければ健太は返事をしてくれた。
再婚することができないかも考えた。職場で働く子を、そういう目で見てしまったこともある。彼女は気づいていたかもしれないし、そうでないかもしれない。だが、どちらにしても今まで同じ職場で働いてきた人間をプライベートな目線で見ることは気が引けた。私に男性的な魅力が欠けていることも、日々の仕事ぶりを通じて彼女はよく分かっていることだろう。健太も賛成してくれるとは思えない。
家に着いた。窓を見ると明かりが消えている。もう眠っているのだろう。長年使い続けてきた腕時計は、まもなく十一時になることを示していた。
リビングに入ると、テーブルの上には肉じゃがが置いてあった。キッチンの鍋に入ったままの味噌汁と、炊飯器の中の白飯を椀に入れて食べた。
本当に、健太の腕前には驚かされる。健太は私が和食好きであることを知ってか、よく煮物や焼き魚を用意する。私は健太が作った筑前煮が好物なのだが、肉じゃがもそれと同じぐらい美味しかった。
「昨日の料理、美味かったぞ」
今朝は取引先に直行するつもりだったから、家を出るまでに余裕があった。昨日のことを健太に伝えようと、久々に話をした。
「ああ」
健太は朝食で焼いたトーストの皿を軽く洗っていた。そのとき健太が使っていた洗剤の種類も、私がかつて使っていたものとは違っていた。
「健太、料理人になれるんじゃないか」少し冗談めかして言う。
「……急に何言ってんの」
「仕事ばかりで、健太には伝えていなかったけどな。お父さん、健太の筑前煮とか、昨日の肉じゃがとか好きでなあ」
健太はコップをスポンジで洗っていた。
「そういえばお母さんもすごく料理が上手だったよ。きっと健太はお母さんに似たんだな」
偶然なのか故意なのか、私がそう言った途端に健太は蛇口をひねって水を止めた。洗い終わった二つのコップをスタンドに伏せた。
「今日は俺が先に家を出るんだよね」
タオルで手を拭いたあと、健太は自分の部屋へと向かった。
リビングで一人になった私はテレビを付けた。
この時間はどのチャンネルもニュース番組を流しているが、今朝はどこも同じ報道を流していた。いじめを苦にした飛び降り自殺が昨日起きたらしい。
この手の話題は何時の時代も尽きることがない。だからこそ、私のような親がいつまでたっても子から離れられないのだ。健太にはありがた迷惑な話だろうことは分かっていても。この自殺した子の親は、積極的に会話しようとしたのだろうか。
健太が制服を着てカバンを持ったままリビングへと降りてきた。水筒に麦茶を入れようと冷蔵庫を開けた。
「学校は楽しいか」
私は新聞を広げて、何気ない雰囲気を装いつつそう尋ねる。テレビ欄の裏を捲ると社会欄で、やはりテレビと同じく、見出しに「中二男児、いじめを苦に自殺か」とあった。
「別に。普通」
新聞記事に目を落としながら、麦茶が注がれる音を聞いた。自殺した生徒の遺書には、いじめた生徒の名前が記されていたらしい。また、両親への謝罪の言葉が抜粋で引用されていた。
「いってらっしゃい」
そう言うと健太は「いってきます」とだけ言い残して、玄関へと向かった。扉が開く音がして、閉まった。私は新聞を二つ折りにした。
まだ通勤には時間があったので、洗濯物でも干しておこうかと思い、洗濯機を開けた。
その中から自分のカッターシャツや健太の私服を抜き出していく。そのとき、洗濯機の奥で何やら大きなものが入っていることに気づいた。私はそれに手をかけて引き出した。
「これは……」
かつて私が健太に買い与えた抱き枕であった。キャラクターの名前はもう忘れてしまったが、このカエルのキャラクターには確かに見覚えがある。
なぜこんなものが入っているのだろう。まだ使っている、ということなのだろうか。
しかし、私はそれ以上気にも留めずに、さっさと全ての服をかごに詰めてベランダに出た。思えば、こうやって家事をするのも何年かぶりだ。ハンガーや洗濯バサミの置き場所が変わっていたため、それを探すのに少し手惑ってしまった。そして、全ての服を干し終わったとき、抱き枕だけがかごの中に残った。これはどうやって干せばいいのだろう。ひとまず洗濯かごに入れたまま日向に出すことにした。
家を出て出張先へと車を走らせているときも、違和感が消えなかった。あれはたしか、健太がまだ小さかった時に私が買い与えた抱き枕だったはずだ。記憶を掘り返しているうちに、あのキャラクターの名前も思い出すことができた。モココケロリッチ。しかし、あのモココケロリッチは、中学生の男子が持つはいささか幼すぎるのではないか? もっとも、健太は物を大事にするほうであり、すぐに新品に買い替えたりするような性格ではない。だから、あの時からずっと使い続けていても、おかしなことは何もない。私はそのように考えて、納得することにした。
しかし、どうも違うらしいことに気づいたのは、その日から三日たった日曜日のことである。
その日、健太は学園祭の準備で学校に行っていた。暇な私は掃除機をかけることにした。
健太はいつも「自分の部屋は自分で掃除する」と言っている。健太も中学生だから、自分のプライバシーも大事にしてほしいのだろう。しかし、その日の私はついでに健太の部屋も掃除することにした。ちょっとした気まぐれである。私は健太のプライバシーを侵害するつもりはなかったし、また掃除している途中で何か見つけたとしても、私は何も言うつもりはなかった。かつては私も、親に見られたくないものを隠し持っていたものだ。
隣の和室を掃除し終わって、健太の部屋の扉を開けた。
一般的な男子中学生の部屋だ。学習机にポスターとダブルベッド。ノートパソコンを置く机が一台あること以外は、昔と同じ間取り。ただ、一人で寝るには少しベッドが大きすぎて部屋全体を圧迫しているような印象を受ける。もう一回り小さいものにして、部屋をもっと広く使わせてもいいかもしれない……と考えている矢先、私はパソコンラックに目を向けた。
「ん……?」
私が見たのはパソコン本体ではなく、マウスだった。マウスを動かすために敷くパッドが、あのモココケロリッチだったのだ。ポップなレタリングで「MOCOCO KERORICCHI」と印刷されていて、カエルの顔の輪郭がそのままパッドになっていた。
おかしい。このモココケロリッチというキャラクターが、私の抱く健太のイメージと全く合わない。健太は早くから、大人として見なされてきた人間だ。だから同学年の生徒の中でもあらゆる面で成熟していて、私はそのことをよく個人懇談の場で担任の教師から聞かされている。そんな健太が、なぜこのようなグッズを持っているのだろう。幼稚園児の女の子が好みそうな、この「モココケロリッチ」というキャラクターのグッズを。

「非常によくできた子だったのですが……」
応接室にて、健太の担任である吉川が机に面して向かい側に座っていた。深刻そうなその表情には、困惑の色が入り混じっていた。しかし、困惑しているのはむしろ私のほうだ。吉川が話す言葉にはどれも現実味がなかった。しかし、そう感じるのは私だけであり、吉川が言ったことは全て事実に他ならない。
健太が傷害事件を起こしたのだ。
「ただ、一方的に悪いというわけではないようなのです。クラスメートが証言したのですが、倉本君は今回の被害者である水田君のグループからいじめを受けていたそうなのです」
「いじめられていた、ということですか」
「そのようです」
「な、なぜ気づかなかったんですか」
「未然に防げなかったのは私のせいです……申し訳ありませんでした」
担任を責めても仕方がなかった。そもそも、健太の心に気づいてあげるべき人間は、担任などではなく、親である私なのだから。
健太は我慢していたのだ。私がふがいないばかりに、家のことまでやらせて、今どきの中学生らしく部活に勤しんだり彼女と付き合ったりさせたことがなかった。だから、ある時その怒りが爆発して――
「倉本君の持ち物を奪い取って、ゴミ捨て場に隠したことが引き金となったようですね」
「持ちもの……カバンとか、そういった類の」
「いえ、違います。確かキャラクターグッズでしたね。水田君曰く、カバンにつけていた小さな人形だったそうですが」

水田夫妻に頭を下げた。治療費は私が全額負担することを約束した。水田君は膝関節を痛めて、全治一週間の怪我だと聞かされた。しかも、健太が殴った数か所の打撲の痕はまだ消えずに残っているらしい。幸い、学校側が私と水田夫妻の間に立ってくれたおかげで、警察を呼ぶところまでは行かなかった。事を大きくしたくないという考えしか頭にない教頭に助けられた形となる。
家に帰る頃には、すでに夕日は落ちきっていた。有給休暇を消費したが、気分は全く晴れなかった。とてもではないが、明日から安心して働きに出ることはできそうにない。
今日ばかりは、健太と話しあいの場を持たなくてはならないだろう。家のドアを開けて真っ先に健太の部屋へと向かった。
「健太」
ノックをしたが返事がなかった。
「入るぞ」
見ると健太は、ダブルベッドの上で横になっていた。
「こっちに来なさい」
返事はない。寝ているのだろうか。しかし、寝かせたままにするつもりはない。私は健太を起こそうと近づいた。
「……」
健太があの「モココケロリッチ」の抱き枕をきつく抱きしめたまま、目をつむっていた。それだけではなかった。健太は泣いていた。頬に涙の痕が残り、ちょうどそれが抱き枕に染みを作っている。
私は何かが瓦解していくような思いで健太を見下ろしていた。大きすぎると思ったダブルベッドは、抱き枕を抱いて寝るのにちょうど良い大きさだった。私はただ、ベッドの側に立ちつくし、もはや赤子のように蹲る健太の姿を茫然と眺めるばかりだった。
私は何も考えられなくなった。思考が茫洋としている。そんな状態でも、私の耳は健太の呟く声を正確に聞きとる。
「お母さん……」
抱き枕をさらに強く抱きしめて、布の擦れる音がした。

みなさん!

「まずはこちらのデータをご覧ください……これは、5歳から10歳までの児童を対象とした、不眠症になっていると考えられる人の数を年度別に棒グラフで示したものです。このグラフからも分かるように、不眠症になっている児童の数は、五年前までは急激に増加していました……が!」
「が?」
「この『モココケロリッチ抱き枕』を皆様からご愛用して頂けたおかげで、近年では徐々に、その数が下がりつつあるようです!」
「おお! それは素晴らしいですね!」
「今まで地道に販促活動を続けてきたかいがあるってものですよ」
「では、今回の商品は?」
「はい。皆さまから当社の商品を選んでいただいた感謝の気持ちを込めまして、今回はなんと、この『モココケロリッチ抱き枕』をグレードアップさせた、『モココケロリッチ抱き枕Super』をご用意させていただきました!」
「従来の物とどのような違いがあるのでしょうか?」
「このSuperは、従来の抱き枕には今まで無かった、ある画期的な機能が二つも追加されました! どちらも業界初ですよ!」
「おおっ、それは気になりますね」
「まず、画期的な機能その1! 従来の抱き枕は、冬場だと使用しにくかったんですよね」
「そうですね。普通、冬場だと抱き枕のうえから分厚い敷布団をかけなければなりませんから、非常に寝苦しいものがあったんですよね」
「そこで! 今回このSuperには、湯たんぽ機能を付けました!」
「湯たんぽ機能?」
「そうです。このSuperはなんと使用中に、ちょうど人肌の温度にまで自動的に温かくなるんですね。つまり、抱き枕を抱いていながら、まるで人を抱いているような感覚を得られるんです」
「なるほど! 使用者は子どもが中心ですから、人を抱いているような感覚というのはとても安心感を得られますね」
「続いて、画期的な機能その2! 今回はなんと、触覚だけではなく、嗅覚も刺激します!」
「嗅覚?」
「このSuperの中に、安眠へと誘うための香りを放つビーズが入っています。この香りを嗅ぐことで、より質の高い睡眠が得られるように工夫いたしました!」
「洗濯をしても大丈夫ですか?」
「もちろんです! 週に一回のお洗濯ですと、およそ二年半香りが持続します」
「つまりこのSuperは、今まで以上にお子様が安心して、なおかつ深い眠りにつくことができる、というわけですね」
「その通り!」
「モココケロリッチのデザインも一新しまして、より可愛らしく、より愛らしいものに変わりました。ぜひ、お子様へのプレゼントにいかがでしょうか?」
「では、お値段の方、宜しくお願いいたします」
「商品番号1番、モココケロリッチ抱き枕Super。色、サイズの組み合わせで九種類ご用意しております。一年間の品質保証をつけまして、さらに! 今なら目元も癒すことができる『ぬくぬくあったかアイピロー』を二つお付けして、お値段はなんと変わらず一九八〇円! 一九八〇円のご奉仕で……」

2013年5月29日公開

© 2013 時乃

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