邪気乱遊戯

時乃

小説

13,214文字

 

 

 

 

ああーなんかスゲーすっきりした。完全に目が覚めた。……いや解放されたって感じかな。

 

オタクの渡辺がそんなセリフを言っていたことを、俺は江坂のゲームセンターの中で思い出した。

北大阪急行の駅のひとつ、江坂駅は格闘ゲームファンなら一種の聖地として知られている場所だ。この江坂は「キングオブファイターズ」「サムライスピリッツ」など、九十年代を代表する格闘ゲームを次々と生み出してきた企業、SNK(正式名称、新日本企画)が、かつて本社を構えた町だ。特に「キングオブファイターズ」においては、江坂駅前にある高架下を実際にゲームのステージに取り入れたこともあるのだ、といったことも全て、オタクの渡辺からの情報である。

そのためか、江坂のゲームセンターは、昔ながらの雰囲気を残している。具体的に言えば、UFOキャッチャーやプリクラといったライトユーザー向けのものは一切ない。あるのは、格闘ゲームや、音楽ゲーム、レースゲーム、オンラインカードゲームといったコアユーザー向けのゲームばかりで、それが狭い空間の中に押し込められている。部屋の照明のせいでゲーム画面が見えにくくならないように、壁面が黒色で電灯は一切ない。停電が起きれば間違いなく何も見えなくなる状態なのだが、ゲーム画面から発せられる光は、慣れない人が入れば脳震盪でも起こしかねないほど明滅しているため、夜か昼かすら分からなくなってしまう。

俺はPoP’n Musicとかreflec beatとか、そういうKONAMI系の音ゲーが好きなのだが、reflecのラスボス曲として知られている「FLOWER」のHARD(Lv10+)の余りの鬼畜ぶりに、息をついて後ろをたまたま振り返ってみたら、THE IDOLM@STERをプレイしていた渡辺を見つけて声をかけたのだ。

どうも渡辺のほうは、かなり前から俺がここに通っていたことを知っていたらしいが、なかなか声をかけることができないでいたようだ。いや、正確に言えば、俺のことを無視していたらしい。オタクのことだから、どうせ俺みたいな奴と積極的に関わりたくはないのだろうと察して突っ込まないでおいた。それにしても……正直ゲーセンという公共の場でIDOLM@STERをプレイする勇気があるのなら、もうこの世のほぼすべてのことを何の臆面もなくできるような気がする。渡辺を死ぬほど恥ずかしい目に晒す方法は何だろうか。少なくともこいつに、性的な辱めは通用しなさそうだ。舐めろと言っても舐めちゃうんじゃね?

俺がなぜオタクの渡辺と付き合っているのかといえば、この一点に尽きるだろう。すなわち、こいつはオタクでコミュ障でニートまっしぐらで常時リュックサックで生きる価値なんかこれっぽっちもない人間で、俺の存在を知っているにも関わらず無視するほど人と関わるのが嫌いな癖に、IDOLM@STERをゲーセンという公共の場でプレイできちゃうほど人目を気にしない、むしろ人の注目を浴びるような行動をするのだという、徹底的に矛盾した世界を生きているからだ。このIDOLM@STERだって、どんなゲームか知らないが、どうせロクなものじゃないんだろ?

「なあ渡辺」

「あ、なに」

「そのゲーム、どういう内容なんだよ」

「えっと育成ゲーム。まあ簡単に言えば、プレイヤーはマネージャーになって、好きなアイドルを売れっ子にするためにいろいろと育てるって感じ」

「最近の育成ゲームはモンスターじゃなくて女を育てるのかよ。ポケモンとかたまごっちとかならまだしも、それってどうなんだろうな」

「いや、どうって言われてもw それにしてもあずささんはやべぇな」

ここで会話は途切れた。

変な話かもしれないが、なんだかゲームのキャラが可哀そうになってくる。なんでわざわざこんな奴を相手にしなければならないんだ、と不満を抱えて生きているんじゃないか。いや、生きているという言葉はさすがに変か。存在している、が正しいのか?

悲しいかな、ゲームのキャラに口は無い。こいつらに拒否権はない。そして、生命の安全すらない。

「どうって言われても、じゃねえよ。おまえは俺の言葉に反応するだけだな。もっと生産的な会話ができないのかよ」

そう言ったのだが、どうやらゲーム機の喧騒に紛れて聞こえないようだった。

「そのゲームだってそうじゃねえか。そこにいるアイドルの仕草を見ておまえは股間についてる粗末なものを反応させているんじゃねえのかよ」

やっぱり聞こえていないようだった。あるいは無視しているのかもしれない。

 

俺は渡辺を放って置いたまま、PoP’nをやろうとゲーム機の前に立った。Pop’n Musicとは、音楽に合わせて画面の上から落ちてくるポップンが、画面下部にある横線とぴったり重なった時に、対応するボタンを押す、というだけのゲームだ。ボタンは全部で九種類あり、それらすべてのポップンを正しいタイミングで正確に押し続けると高得点を得ることが出来る。

どうやら先客がいるようだった。画面を覗いてみると、なかなか巧い。色とりどりのポップンが画面上から雨のように落ちてきているのを、すべて叩ききっている。とはいえ、これぐらいの腕前の人間はそこらじゅうにいるし、俺も十分クリアできるレベルだ。

早く終わらないかと待っていたら、まだ幼稚園児ぐらいの男の子がPoP’nを見て立ち止まった。こんな時間にこんなガキが居ていいのかよと思ったが、実はそれほど珍しくない光景だったりする。

そのガキが俺の順番を抜かして、プレイ中の奴のすぐ後ろにくっつくように並んだ。おい、なんだよ、順番抜かすんじゃねえよ。そうやって注意するべきなのだろう。だがとんでもない。いい加減にしやがれこの野郎。俺はとっさに怒りの矛先をプレイ中の奴の背中に向けた。だが奴は無言でゲームをし続けている。やはりこいつも聞こえていない。

仕方なく俺はそのガキをじっと観察することにした。だって見た目は幼稚園児のガキだ。こんな奴を殴る訳には行かない。不道徳を賞賛するような無頼派的馬鹿野郎の仲間入りにはなりたくないと俺の心が言っている。警察に捕まって前科歴を付けたって俺も他人も得しない。唯一得しそうなのは、万が一俺が日本文学の怪物と呼ばれるような作家として華々しいデビューを飾った時に俺のことをはなはだしくヨイショしようとする文春か「とくダネ!」辺りのマスコミ陣だけだろう。その点NHKは立派だ。全国民が視聴に堪える番組を制作しているし、特にニュースにおいては、前科とかそう言った不健全な内容は本当に軽くしか触れないし、ていうか文学の話題自体ちょっとしか触れないし、一世帯ずつ訪問してまわる集金活動も地道に行われているし、NHK入社を夢見る就職活動生を「うちっぽくない」と言って落選させる孤高の放送局だ。

そこらへんまで考えたところで、プレイしていた男のゲームが終了し、男が背後をちらと見たのち俺の姿を視認。すぐ足下にいるガキには気づくことなく去っていった。連コするような真似はしなかった。

さて、ガキの出番である。予感と言うのは大事だ。こいつは確かに、幼稚園児だけあって、ボタンが配置されている台の高さすら背丈が届いていない。これじゃあボタンを押そうにも押せないし、そもそも画面も肝心の下半分が見えないに決まっている。でも俺は今、予感がしている。予感なんだから奇妙奇天烈なことが起こるに決まっている。そもそも小説だって最初の一歩は理性でも、いざ書き始めた時には常に予感から何かを受けているようなもんなんだし、結局、虚構はみんな予感の次元から生まれるって結論を導いてもいいんじゃねえか。俺の特殊能力である「自己完結論」癖は、世界であれ宇宙であれなんであれ、学生の狭い価値観にとらわれたまま達観してしまう中二病精神を醸成していくうえでもうってつけのスキルだ。なにせ働き始めたらこの狭い価値観が失われてしまう。俺はとにかく可能な限り心の中にある空白を埋め尽くして埋め尽くして埋め尽くさなければ。

だから俺は、この幼稚園児が突如、「ストリートファイターⅡ」のダルシムのようにいきなり手が伸びてヨガヨガ言いながらボタンを叩きつける図を想像してそれを何とか無難な形に纏めて「文藝」あたりに送りつけてやろうかと思った。「新潮」は無理だし(本物の天才が行くところだ)「文学界」も無理だし(あそこはインタビューばかりするから嫌いだ)「群像」も無理臭いので(癪だが)「文藝」あたりなら決定的な勘違いをして俺を受賞させてくれるかもしれない。完全に嫌がらせというか喧嘩を売っているようなもんだが、悲しいかな、平平凡凡な生活を送ってきた音ゲーオタクが才能ある人間であるように見せかけるには、某動画サイトに投稿されている「FLOWER」(LV10+)を片手でクリアするみたいなmjktな芸当をしなければならないのだ。……いや待てよ、こんなことをすれば「とくダネ!」に食われてしまう。くそ、じゃあ結局俺は正道に進まなきゃならねえのか。「正道こそ王道」というのが株式会社東京海上日動火災保険(TOKIO MARINE TOKYOじゃなくてTOKIO)のスローガンだが、俺はあそこの人事担当が大嫌いだしあんな奴が正道にいるのかと思うと反吐が出る。あの人事の思想を一言で表すなら「仕事のできない奴は生きる価値なし」だ。仕事が出来ない奴の受け入れ先みたいな人事部のおまえに言われたかねーよ! おまえも生きる価値ないっつーの、プギャー!(AA省略)

とすると、俺は二つのうち、どちらかを選ばなければならない。「とくダネ!」か「マリーン」か。あまり悩む時間を費やすことなく、俺は「とくダネ!」を許すことにした。最近の文学作家までが一種のキャラ化しはじめているこの現状を作りだした馬鹿は、別に「とくダネ!」だけではないし、そういうマスコミを見ている視聴者だって、面白い小説よりも面白い人間(というかキャラクター)を求めているのは想像に難くない。結論、二十一世紀の作家はまず、誰にでも明確に分かる特徴を最低一つは持っていなければならない。俺の特殊能力発動。それに比べて「マリーン」は異常だ。物差しが一つしかないような連中だ。あいつらは仕事とクライアントしか頭にないし、それさえ頭に入れさえすればいいという至極単純すぎる思考回路を持っている。ここにも漫画のキャラクターは存在した。対戦相手のデータをべらべらと喋るけれど「馬鹿な! こんな技はデータにはない!」とか言って負けるあいつらみたいな。ここから対句的に、あぁー俺の作品で評論家の連中を「馬鹿な! こんな作品があの小僧から生まれてくるはずがない!」とか言わせてみてぇー。

次第に自分の立身出世欲へと落ち着き始め、もう少し自分の妄言を膨張させようとしたが、目の前にいるガキの父親がガキの背中を軽く押して、さっさと前へと足を動かすように急かす仕草をするのを見ていっきに目が覚めた。あれ、PoP’nは? と思ったが、それは自分の愚かな妄想である「ダルシム化」の延長線上にある思考をまだ引きずったままなだけだ。俺はただの馬鹿なんだということを再確認して、百円玉を用意しようと財布を取り出すことにした。だが、デニムのジーンズのポケットの中に無理矢理押し込んだせいか、なかなか財布がポケットから抜けない。

あぁイライラする。それにしてもさっきの父親は「こんなものは教育上よろしくないから見てはいけないしこんな男みたいになってほしくない、だから見るな」と自分の子供に無言の圧力をかけて、さっさとゲーセンから退場しようとしていた。なんだあれは。自分が連れて来たんじゃないのか。それなのにどうしてPoP’nをじっと見ている子供を、あんなにも慌てて俺の側から離すんだ。「あんたはうちの子どもの教育上よろしくないからどこかに消えてくれ」と面と向かって言われた時よりも百倍むかつく。何も言わないこと、ですら人を傷つけることはある。しかもその傷つけ方が、かなり陰湿なベクトルに向いているから余計に性質が悪い。

と、ここまで来て、待てよ、と思う。そんなことを言っている自分も渡辺に対し何も言わない攻撃を続けているような気がしてきた。「最近の育成ゲームはモンスターじゃなくて女を育てるのかよ。ポケモンとかたまごっちとかならまだしも、それってどうなんだろうな」……今、俺が「どう」と言ってうやむやにしたことは、ちょうどさっきの父親と繋がってくるのではないか? 落ち着け、俺はなぜ「どう」と言ってごまかしたのだろうか。わざとうやむやにした理由はどこにある? そうだ、直接言葉にして口に出して言うことが憚られるから俺はごまかしたんだ。それは条件反射というか、咄嗟に、無意識的に判断した結果、俺は「どう」と言ったことになる。

しかし変だ。所詮はゲームセンターだし、まともな一般人が真摯に耳を傾けたり注目したりすることは絶対にないような、取るに足りない遊び場だ。そんな所で俺が「どう」の中身――「女を自分好みの色に染め上げて自由に侍らすのってフェミニストじゃなくても嫌悪感バリバリなんすけど」――と言ったとしても、喧騒の中に埋没するか、またしても聞こえないふりをされるかのどちらかになるに決まっている。「どう」と発言するより前からずっとそう思っていたはずだ。それがすぐさま躊躇して穏やかな形にされた。そして「どうって言われてもw」という返事が返ってきたのだ。瞬時に俺の「どう」を作りだしたものの正体は何だ?

ようやく俺は財布を抜き出し、小銭入れから百円玉を探した。十円玉や五円玉や一円玉と違って百円玉はギザギザしているから、すぐに分かる。五十円玉もギザギザしているが、俺の指がその大きさを覚えているせいかほとんど間違えることがない。

百円玉を投入。e-amusement passを読みとり口へと財布ごしにかざすと直ちに反応レスポンスの良さには驚かされる。さて今度は俺が反応する番だ。曲が始まり、ポップンが矢継ぎ早に落ちてきた。音楽ゲーと称している割に肝心の音楽はまともに聞こえてこない。ただひたすらにボタンを瞬時に正確に叩き続ける。二つ、三つ、四つ横に並んで落ちてきたときには同時に押す。今日は調子が良いのかボタンを叩くタイミングが絶妙に良い。最も良いタイミングで叩くと派手なカラーリングで小さく「FEVER!!」と表示される。画面下部に表示される虹色の文字列が花火のようにちらちらと舞い散る。Let’s Fever!! 連続コンボ数が百を超えた辺りから、俺は大量のポップンが飴玉の雨のように思えてきた。ちょうど子どもがお菓子の家といったような感じで夢想しそうな光景だ。つまり、雨が飴になったのだ、と。

 

 

 

 

渡辺と一緒にゲームセンターから抜け出してみると、外はすでに夜になっていた。排気ガスが薄く空を覆っているせいか、空が平面的に見える。道を行き交う人はどこかせわしなく、人の数というよりは量の概念で捉えたくなる。駐輪禁止の看板もむなしく路上駐車している自転車が道の端に寄せられているし、煌々と明かりを漏らしているドラッグストアには、かなり派手な文字でクッキーやポテトチップスが安売りされている。「毎月十日は十日市です 十個で一つのサービスデイ♪」俺と渡辺は特に興味を惹くことなく前を過ぎ去ろうとしたが、店内から出てきた中年の主婦とぶつかりそうになったので、道を譲った。主婦は何も言わずさっさと離れていった。

「もうすぐ卒業式だな」

「だねえ」

「おまえ、受験しなくていいのかよ」

「大丈夫だ、問題ない。実家の店を継ぐから」

「――酒屋か。いいのか、お前。酒屋で酒買って飲む世代なんか、これから先どいつもこいつもバタバタ倒れて死んでいくんじゃねえか?」

「だな。この前来た客も、まともに耳が聞こえてなさそうだったし」

「まともに生きてりゃ難聴にもなるわな」

車のクラクションが鳴り響いた。信号が青になっても動かない車が一台いたらしい。慌ててアクセルを踏んだのか、かなり不自然な加速をした。

「俺は進路がまだ決まってない」

「ほう」

「就職浪人だな」

「浪人になれば暇な時間が大量にできるな。スカイプでAVAやろうぜ」

「……」

微妙に噛み合わない会話だ。

「あーそうそう。この前ニコニコで見た北斗の――」

アークシステムワークスが製作した「北斗の拳」の格闘ゲームの話になった。先日、渡辺がわざわざURLまで貼り付けてスカイプ上に送ってきたものだから一度だけ見たことがある。その動画は格闘ゲームのよく知らない自分でもはっきりと分かるほど、カオティックなゲーム展開だった。コメントには大量の「w」が流れてきていた。

「いや、でもな、この前、あの北斗を上回るぶっ壊れゲーを見つけたんだよ。ストⅡの改造版なんだけどさ」

「あぁ」

「――昇竜拳をだしたら、昇竜と同時に大量の波動拳が撒き散らされるんだよ。何を言っているか分からんと思うが、俺も最初見た時は意味が分からんかったw あと、傑作なのが、なんか舞空術みたいに勝手に浮き上がったりするんだわ、ドラゴンボールだろあれw」

居酒屋のビラを配っている男の前を通りかかろうとすると、横から「今から飲みにいきませんか」と人懐こそうに話しかけてきた。一瞬視界の端に写っただけでイケメンだと分かった。俺や渡辺と比べて百倍は生きる価値を持っていそうな男だ。だが、渡辺はそのイケメンの存在を完全に無視している様子だった。渡辺に乗せられる形で俺も無視した。

「ところで、これからどうするよ?」

渡辺が尋ねた。別にどこも行くあてはなかった。頭を空にしたまま人の流れに任せて歩いていただけだった。ここで「じゃあ帰ろうか」などと言えば渡辺は恐らく不満そうな顔をするだろう。こいつはまだ遊び足りない、と眼が言っている。それを拒む理由はない。こいつのちぐはぐさにマジになって付き合えば少しは退屈の刺激にはなるかもしれない。というか、家に帰ったところでせいぜい勉強しかすることがない。こいつにこれ以上付き合う理由はないが、ここで断って家に帰ったとしても何もない。選択肢は二つある。居酒屋かカラオケ。だが、渡辺はお酒が飲めないし煙草も吸えないので、必然的にカラオケになる。渡辺は二十以上の特権を完全放棄しているにも関わらず、十五の頃からエロフラッシュをPSPで見ていたという意味で、ここもちぐはぐだ。

 

 

カラオケから出ると、すでに明朝五時だった。カラオケボックスは密室で、時計もないから、時間感覚が狂ってしまうらしい。俺と渡辺は交代で歌を唄いつづけた。二人で一緒に歌うことはない。というのも、渡辺が歌う曲はどれも俺の知らない曲ばかりで、俺が歌う曲に対して渡辺は自慢の「無視」を決め込んでいたからだ。必然的にソロ歌唱を交代で続けていくことになる。アニメソングの弾が出尽くした渡辺が歌い始めた「ココロオドル」だけは俺も知っていたが、かなり激しいラップ調の音楽を渡辺が完璧に歌いきることができるはずもなく、俺のココロはちっとも踊りだしそうになかったので、静かにカタログに目を落としてやりすごすしかなかった。はっきり言って、水樹奈々(紅白歌合戦を見ていたので、これだけが唯一分かるアーティストだ)を唄っていた時よりも酷かった。

ボックスに入ってすぐに届いたオレンジジュースが、完全に氷水で薄まってしまった頃、渡辺がそろそろ帰ろうと言いだした。「おう」とだけ言って俺は帰る支度を始めた。

そして今に至る。さすがにこの時間になると人は誰もいないし車も全く走っていない。電灯も落ちている。唯一の明かりはコンビニだけだ。夜明けはまだ遠くにあった。

「始発電車は何時だろうな」

「えっと三十分後ぐらい」

「知ってるのか?」

「もちろん、知ってる。ちなみに千里中央は――」

徹夜したせいか、眠気が強く粘着していた。ひとまず家に帰って眠りたかった。昼過ぎに起きたら、また勉強しようと思った。勉強しなければ、また寝るだけだ。俺は寝るために、勉強するために家へ帰っているのだろうか。そもそも俺は家で過ごしていたんだっけか。俺は家の中で生きているのだろうか。いじめを受けていて親にその事実を隠している子どもにとって、一番の居場所は学校でも家でもなく自らの空想世界であったように、俺の居場所は家にない。俺の居場所は、もちろん――

「ゲーセン、もう開店してないかな」

「それはないわ。だって五時だぞ」

「ちっ……」

俺はあそこの中でしか生きられない。

あそこは何も考えなくていい。音と光と暴力とエロスで支配された電脳遊戯場。気持ちのいいものが勝手に与えられる空間。俺はひたすら享受するだけだ。そう、あそこは反応が大事なのだ。All you need is……。

 

この時である。俺と渡辺は足を止めた。女の声が聞こえたからだ。しかも、その女の声というのは、人間の声じゃない。声優の声だ。正確に言えば、「アニメ」の声だ。

 

「死ねぇ!」

 

いちいち説明を受けなくても必殺技だと分かるセリフが聞こえてきた。その声は道路上から聞こえてくる。暗闇の中、目を細めると、駅前の高架下に人の影が見えた。

「な、なんだあれ!」

渡辺が、恐らく彼にとって自己ベストのスピードで走りだした。俺も慌てて追いかけた。渡辺がコンビニの前で立ち止まった。ここからならば、謎の人影がよく見えるみたいだ。コンビニの照明が目に染みた。

さて、渡辺が視線を向けている方へ目を遣ると、いわゆる「アニメ的な美少女」が二人、対峙しているのが目に入った。一人は腰まで伸ばした黒髪の少女で、セーラー服とミニスカートを着ており、右手には辞書のような分厚い本を持っていた。印象的なのはその眼で、右目が赤くて左目が黒い。血管が透き通って見えそうなほど白い肌をしているものだから、彼女の赤い目は切り傷から流れた血のような印象を与えた。それに対してもう一人の少女は肌が浅黒く、茶髪のショートカットで、アーミーチックなキャミソールとショートパンツを身に着けていた。頬に切り傷の痕があるせいか、血気盛んな印象を受けた。彼女の手にはナイフがあった。刀身がコンビニの光を反射して冴え返っていた。

俺は肌の白い方の少女を見て「あれほど長い黒髪をしていたら枝毛の処理が大変なんじゃないか」とか、黒い方の少女を見て「この時期にあの恰好で寒くないのか」とか思っていたのだが、渡辺はさっきから「すげぇ」「やべぇ」しか言っていなかった。

ナイフが地面を蹴った。一瞬にして両者の距離は縮まる。ナイフが空を切る物騒な音を残すが、辞書がその髪のつややかさを失わぬまま横へ流れて凶刃を躱す。しかしナイフの両目は辞書の動きをまだ捉えている。右足を軸にして回転して回し蹴りを放った矢先、その爪先は少女の鼻先をわずかに掠った。その隙を逃すことなく、辞書は何もない空間に銀色の矢を出現させ、彼女の足下から三本発射される。軸足を狙った攻撃を瞬時に見て取ったナイフは左足を着地させると同時に後方へと宙返りをしてその矢をやり過ごす。生身の人間では不可能な重心移動だ。さらにその宙返りは、足がちょうど辞書の頭上を叩きつける形になっているが、辞書は後方へステップジャンプしてやり過ごす。しかしナイフの攻撃は終わらない。辞書がページを開く間も与えずナイフは怒号と共に横に薙ぐ。首を狙ったその攻撃は、辞書が腕でガードすることで致命傷を免れるも、袖が破れて血が染み出す。辞書はその傷を庇うことすらしないでページを開く。突如、ナイフの後方、地面から黒い巨大な手が伸びて掴みかかる。辞書にさらなる攻撃を加えようとしていたナイフはその手に反応し緊急回避をしようとするも片足を掴まれる。バランスを崩したナイフは息を飲み、転倒。その刀身は辞書にわずかに届かず、烏の濡れ羽色をした辞書の前髪がわずかに切れて、はらりと落ちたばかりだった。体を引きずられたナイフは掴む手を切り落とそうと試みるも、まるで影を相手にしているかのように反応がない。巨大な手はさらに大きく伸びナイフの体を持ち上げる。片足を持ち上げられ宙づりになったナイフは悲鳴を上げ、一度、二度と大きく振り回された後、コンクリートの床に叩きつけられた。足を握られたままであるため、全身をバウンドさせることすら叶わないナイフはその衝撃をもろとも一身に受けてしまう。内蔵を破裂させかねないほどの激烈な打撃を受け、手からその凶器が離れ、辞書の足下に転がった。

ナイフの体を離して、巨大な手がゆっくりと地面へ還っていく。ナイフは過呼吸の中で苦悶の声を喘ぎ、自分の体を横に向けて胎児のように丸まった。折れた肋骨が肺に突き刺さったのだろうか、時おり痙攣しながら吐血している。

辞書が右手にある本を閉じた。その閉じた音が、勝敗を決した合図のように聞こえた。足下にあるナイフを一瞥した辞書は、それを片足で軽く踏みつけた。ナイフは胸を抑えてなんとか立ち上がろうと、うつ伏せから四つ足になろうとしているが、辞書はまたしても足で、ナイフの体を転がして仰向けにした。仰向けになると吐血が口の中に溜まり続けることになり、やがて窒息して死ぬ。辞書は自らの手で止めを刺さず、ナイフ自身の血によって溺死するその瞬間を待つほどの冷酷さがあった。

俺はその一部始終を見ていたが、なぜか大声で叫んで異変を伝える気にはならなかった。コンビニの店員に通報する必要性はないと判断した。いやむしろ、ここで叫んだら知的障害者みたいだ、という念に衝かれている。それは、彼女たち二人が、どこまでも「アニメ」であるということだからか。

ナイフのタンクトップが血で染まり、やがてその痙攣も指先しか反応しなくなった。辞書はそこまで見届けて、俺とも渡辺とも目を合わせることなく、彼女は俺から背を向けて去っていく。

俺は辞書の背中を追った。不思議なことに、渡辺も俺と同じタイミングで駆け出していた。セーラー服の後姿と、そこから伸びる白い首に目掛けて。彼女は俺たちの急接近に振り向いた。そのときの驚いた顔は意外と女の子らしくて可愛かった(俺は萌えたのか?)のだが、そこで俺の意識は途絶えたらしく、マンホールの蓋がなくなったかのように記憶の穴が開いている。

なぜ駆け出したのだろうか。言うまでもない。また、あの反応のせいだ。セーラー服が背を向けたら襲えとチュートリアルに書いてある。

 

 

 

 

ゲームのキャラに口は無い。こいつらに拒否権はない。そして、生命の安全すらない。

悲しい事実が発覚してしまった。俺もどうやら、渡辺の同類、すなわちオタクだったらしい。だって楽しくて仕方がない。何の努力もなしに人をどうこうできるなんて最高じゃないか。俺は辞書の体を壁に押さえつけて、ずっと辞書の腹を殴り続けている。辞書は俺の攻撃に合わせて、肺から息を吐き出したような弱々しい声を漏らし、俺はその声にまたしても反応して臍の辺りに拳を打ち込んでいる。しかも不思議なことに、俺の一方的な攻撃に、辞書はまったく抵抗しようとしない。なんだよ、まるで両者合意のセックスみたいじゃないか。

路地裏の中にいるので俺と渡辺以外に人気はないし、今の時間はまだ早朝だ。通勤ラッシュの時間帯にはまだ早いし、とにかく静か。腕時計を見ると朝の六時を過ぎた頃合い。空は少しずつ青みを帯び始めて、血が通うように太陽の光が沁みだしている。

「おい渡辺、おまえ馬鹿でかいリュックサックを背負ってるんだろ。何かカメラとかそんなのないのかよ。記念としてスクショにできないのか」

「はいはい、ちょいとお待ちをー」

芸人の「もう中学生」のような台詞の後、リュックサックを開ける音が聞こえた。俺は拳の動きをやめて渡辺のほうへ振り返る。辞書が咳き込むのを耳にしながら、俺は顔を後ろに向けて渡辺のほうを見た。

なんだかゴチャゴチャしたものばかり入っていた。何かの充電器やエアガン、ゼリータイプのカロリーメイト。小型ラジオに懐中電灯。マンガ。遊戯王カード。そしてガイガーカウンター。

「よし、よし、これで撮影」

取り出したのはニンテンドーDSだった。いやいや、それも確かにカメラ機能ついているけれども。まあ何でもいい。渡辺はレンズを辞書の顔に向けて、タッチペンを持ってシャッターボタンをタッチしようとしている。辞書は自分が撮影されていることに気づき、顔をどちらに向けるか一瞬迷ったように目線を動かした後、カメラのほうに顔を向けた。俺としてはカメラ目線ではなくて、少し目線を逸らしていたほうが魅力的なのだが。俺はもう一度拳を振るった。辞書の顔が苦痛で歪んだ瞬間が撮影された。

「そろそろ交代してよ」

渡辺がそういって邪魔をする。

「いいじゃねえか、もう少しだけやらせろ。どうせおまえ、徹夜なんかしたことないんだろ? 寝てろよ」

「バリバリ徹夜してるよ! 俺なんか昨日寝たの朝の十一時だよ!」

「あっそう。それにしても面白いなコレ。格ゲーのもうひとつの遊び方だ」

明らかに衰弱している辞書の体をひとつ、またひとつと殴り続ける。この行為は現実においては決して許されるものではない。だがここでならば大丈夫だ。誰も見ていないし、罪悪感も沸かない。相手はあくまでアニメの美少女。罪悪感を抱くには、あまりにもリアリティが足りない。

そろそろ腹が減ってきたので、渡辺のお望みどおり辞書を明け渡すことにした。

「ほらよ、交代だ」

俺は辞書から手を離した。もはや両足に力は入らないらしく、背中に壁を密着させたまま崩れ落ちた。いつのまにか、矢やら手やらを出現させていた彼女の武器は手から落としていた。彼女はその辞書を手に取る。そのまま俺に攻撃をしかけるのだろうかと思ったが、彼女はその辞書を胸の当たりで抱きしめて、まるでテディベアを抱いて恐怖をやわらげようとしているかのように縮こまっていた。つい先ほどナイフを殺したこの少女にしては、ずいぶん大人しい。

俺はコンビニで、適当に朝食を買うことにした。パンかおにぎりを幾つかと、ウーロン茶でも買えばいいだろう。俺は財布を取り出そうとポケットに手を入れた。相変わらず財布が取り出しにくい。ようやく抜き出して小銭入れをあけると、ゲーセン代がまだ残っている。これだけあれば、朝食一人ぶんぐらいなら十分だ。

ふと、辞書の涙声が耳を掠めた。見ると渡辺は、スカートの中にあったであろう白いショーツをひざの辺りまでずらしている。脱がしてやろうと、辞書が履いている黒革の靴と白のショーツを持って躍起になっているようだ。少女は渡辺を押しのけようともしないで、ずっと自分の武器である辞書を胸元で抱きしめ続けている。

少し離れたところから見ると、なぜか直視するのが嫌になってきた。俺はあまりそっち方面には興味がわかないのだ。少し早足で俺はその場を去る。渡辺を置いて、そのままコンビニへ向かうことにした。

 

 

ひとつ気がかりな点がある。出勤途中のビジネスマンに紛れて、江坂の雑踏を歩きながら、そのことを思い出した。俺はさっき、渡辺がショーツを脱がそうとしている光景を見て、またしても、あの「どう」が出てきてしまった。あれは自分の意思と関係なく、いつも突発的に生まれてくる。ワニワニパニックのワニが顔を出すみたいに。そして叩けば、また引っ込む。無線の中に入り込むノイズのようなものだろうか。

そもそも、あのときナイフの少女と辞書の少女が戦っていたのは「どう」なんだ? ナイフの少女が死んだのは「どう」なんだ? 後ろから辞書の少女を襲ったのは「どう」なんだ? そして、俺のリンチ行為や渡辺の陵辱行為は「どう」なんだろう? 俺はそれらをひとつひとつ、あの黄色いハンマーでポコっと殴っていく。イテッ、イテッ、イテーナ、と叩くたびワニが鳴く。

太陽が俺の目を刺すように光を差し向けてきた。空を見上げると、雲がゆったりと漂っている。息を吸い込んでみると、排気ガスの味が少ししたが、それでもなんだか気分がいい。最高にちぐはぐな光景に、なんだか笑いを隠せない。

 

 

ああーなんかスゲーすっきりした。完全に目が覚めた。……いや解放されたって感じかな。

 

 

脳内ワニワニパニックが終わったところで、ちょうどコンビニの前にたどり着いた。

そうだな……今朝はツナマヨのおにぎりでも買うことにするか。

 

 

2013年5月29日公開

© 2013 時乃

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"邪気乱遊戯"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る