悪口の才能

依存神経

小説

11,432文字

教員採用試験をがんばる若手講師のお話です。何かの公募に出した小説です。

「水原先生はこの中で誰が好きなの?」

私の隣の三年一組担任の江川が問う。

江川は、太い眉で剃り残された髭、白髪交じりのゴマ塩頭の四十代半ばの教員だ。三年生の学年主任を務める。中肉中背で、白だったであろうワイシャツの襟が黄ばんでいる。時々昼休みや業間休みに校舎裏駐車場の自分の車で煙草を吸う。たった今も、口から発された苦い臭いを吸い込んでしまった。喉が苦い。間接キスのようで不快だ。

私の目の前には、焼肉網を挟んで同年代の二十代前半の佐野、三十代前半の高山が並ぶ。全員男性の教員だ。

佐野は私と同様に非常勤講師の身分。体育科を受け持ち、角刈りで切れ長の一重が特徴的な青年だ。体育大学で柔道専攻の経歴があるらしく、「筋肉ダルマ」の肉体の持ち主である。常にジャージ姿で、児童を集めるための笛をなぜか三個も首からぶら下げている。何の目的で使い分けるんだよ。

高山は本校の正規教員だ。ウェリントンの茶色い縁の眼鏡で袖のないベストをワイシャツの上に着用している。今年は五年三組を受け持ち、先の二人とは対照的でやや神経質だ。職員室のデスクにはキシリトールガムのボトルが壁のようになっている。朝礼前と昼食後と放課後の業務時に大きな一掴みを口に入れてバリボリと噛む。普段は穏やかな人物だが、この瞬間だけ面倒な用事で話しかけてはいけない気がする。オイルでセットされたオールバックは八重洲のビジネスマンのようだ。

 

「それはセクハラですよ、江川先生」

高山が指摘する。

「えー、そうなの。最近は厳しいねえ。で、もって、水原先生の気持ち次第でない?職員室に気になる男とかいないの?」

江川が問い詰める。どうして私がセクハラ質問を歓迎している扱いなんだよ。佐野は他のテーブルに呼ばれ、三十代後半の女性教員のグラスにビールを注いでいる。この古臭い会社のような宴会の光景にはもう慣れた。

「いやー、まだ結婚とか先なので。仕事で精いっぱいで何も考えられないですね」

「えー、百点満点の返事じゃん。いるでしょ」

「江川先生、水原先生困ってますから」

江川が高山の見えぬところで私の太ももに左手を添える。水分のないガサついた大きな手の平が太ももをサッと撫でる。ストッキングの下の腿の毛穴がすべて開くような、電撃が走る感覚。

 

「ヒッ、あ、のっ! 私、職場で彼氏は作らないので!」

驚いて大きめの声を出してしまった。

どれくらい大きいかというと、貸し切りの宴会場で全テーブルに聞こえるくらい。

この学校では、四月末の運動会後に新人の歓迎会も兼ねて学校近くの焼肉屋で打ち上げをする。運動会で塵芥にまみれた身体にビールが染みることはなく、余計疲労が増す。

宴会場に十くらい用意されたテーブル全てがシンと静まる。ガヤつきが一掃された。しかも、ほら、松井英子先生と鎌田博人先生が睨んでいる。二人とも四十代半ばのベテラン教員だ。

目の前の網で焙られている豚トロが燃え始めた。江口の手がサッと元の位置に戻る。黒くなる豚トロ以外何も見ることができなかった。高山がカバンからボトルガムを取り出して自らの口に押し込んで、ボリボリ噛み砕く。炭火が目に染みる。

 

教員の出会いは少ない。

そのため、職員室内で恋愛に至る者も多い。睨んでいた二人はともに二年生の担任で、陰ながら交際をしているようだ。陰ながらといえども、イソイソと二人ともに退勤する様子や、運動会の合間に小突き合いながら雑談に耽る姿を見ると、非常勤講師の私にだってどんな関係なのかは察しがつく。

大学を出てすぐ教員になる者には、純粋で真面目な性格の者が多い。また、それが裏目に出て少しダサい。なんて言うのだろう、洗練されていないのだ。

恋愛の方法も小学校の頃から変わっていないのだろう。お揃いのトートバックに、お揃いのイルカのキーホルダーをぶら下げて通勤する中年カップル教員。痛い。しかし、幸福そうだ。ちょっと羨ましい。いや、かなり羨ましい。  

夜景が映えるホテルの最上階で高級コース料理……。そんな洗練された恋愛からは程遠い。でも、庶民的な幸せを勤務のたびに見せつけられると、毎度負けた気がする。そもそも「洗練された恋愛」の例に夜景とコース料理しか浮かばない私も発想が貧困だ。正直に申し上げると、格好悪い中年カップルの形でもいい。満たされたい。

 

だが、今の私には幸せな恋愛をする資格がない。二十四才にもなって非常勤講師なのだ。

ここ二年、五井駅から数百メートル先の小学校に週に三回通勤している。五年生と六年生に書写を教える。

この学校は少子高齢化の風潮に逆らうかのようなマンモス校で、高学年は各五クラスもある。私は一コマ三〇〇〇円の授業を週に十コマ、月あたり約四十コマ受け持っている。つまり月給十二万円しか稼いでいない。学生のバイトならいいが、大学を卒業して教員免許まで取ったのにこのざまだ。情けない。

こんな給料じゃ一人暮らしは到底成り立たない。知り合いの紹介で得たウェブライターの副業で月に二万円を稼ぐも、足りない。そのため、私と同じく市原市にある実家から月に三万円の援助を受けている。同じ市なのだから、一人暮らしを引き払って実家に帰ることを提案され続けている。当然の提案だが、余計自分がみじめになるようで断っている。

「はい、児童の皆さーん! 先生は、親からお小遣いをもらっています!」なんて言えない。

この小学校での勤務は、教員採用試験に落ちて、教育大学の初等教育ゼミで一人だけ進路が決まらない私のために教授が斡旋してくれた。

近年は小学校の教員の倍率が下がっている、なんてニュースで聞く。けれど、落ちる奴は落ちるのだ。それが私だ。

とにかく様々な有能な人たちの御裾分けによって私の生活は成立している。

 

今年こそは受からないと生きていけない。普通の人の当たり前の恋愛や遊び以前に「安心」がない。あと一歩のところで夢を叶えられなかった落伍者としての意識が付きまとう。倍率が五倍ほどの大学入試に勝ち抜いた時が一番幸福だったと思う。教育大学で四年もかけて教員免許を取得したのに、それを活用する試験に落ち続けている。

倍率二倍以下の教員採用試験に落ちている。しかも、二度も落ちている。どうしようもない。二回も受ければどっちか受かりそうなものだが、両方落ちているのだ。

中学校や高等学校の教員免許を取得していれば、私立学校の講師に狙いを定めて就活をすることができるが、小学校免許のみだと難しい。名門校ばかりなので、何かが秀でているわけでもないし経験が浅い学部卒の女が採用されるわけがない。

 そうなると、公立学校の教員採用試験を受けるのがよくあるルートだ。しかし、これも厄介な問題がつきまとう。民間の就職活動のように何か所も併願できないのだ。

通常、教員採用試験は、「東京都」「北海道」「大阪府」のように都道府県の括りで試験が行われる。「札幌市」「大阪市」など市単位でも採用を行う場合もあるが、それも大きな都市の場合がほとんどだ。

 じゃあ「東京都」「神奈川県」「埼玉県」などと近場の自治体をたくさん併願すればどこか受かりそうだが、そういうわけでもないのが恨めしい。どういうわけか、関東、関西、東海地方、などのエリア内では別の自治体であっても同日に一次試験が実施されることが多い。つまり、一エリアで一自治体の採用試験しか受験できない。一発勝負だ。そんなことあるかい。

 理由があるのだろうが、教員志願者としては困りものだ。しかし、エリア間では試験の日程がずらされている場合が多い。そんなわけで、公立の正規教員を目指す者で「教員になるのが第一目標でエリアはどこでも良い」という者は、北海道・東北・関東・関西……のように全国を行脚する。

私にはそこまでのガッツがない。「見知らぬ土地で教師となる……」名作小説のような展開だが、生まれてからずっと千葉に住み着いている私には見知らぬ土地で一から知り合いを作る覚悟がない。    

それに、なんだかんだで都心に近い環境というのは便利だ。ベタベタに甘やかされた上にプライドが高い非常勤講師が私なのである。

 

そんなことを考えていられるのも今年がラストだ。二個下の弟は保険会社の営業として新卒入社が決まった。結婚を前提として交際中の彼女もいる。最近では、同棲の準備を進めているのだとか。月に一度くらい実家に帰ると、父も母も浮かれてニタニタしている。私にはないものを皆が持っているのだと実感する。

 

今年の教員採用試験がダメだったら、民間の就職活動をしよう。しなければならない。いつまでも「センセイ」という職業にこだわっている場合ではない。私も親をニヤニヤさせるような人生のホームランを決めたい。今年が最後の打席だ。

 

 大失敗した飲み会の翌日。なんとなくソワソワして早めに職員室に到着してしまった。なんと、朝7時。私は非常勤講師だから担任は持っていない。大学生のように自分の授業がある時間のみ学校にいればいいのだが、この日は意識が高かった。

余裕のある中年カップルの熱愛を見せられて、「今年こそ教員採用試験に受かって、まずは正社員になって安定をつかんでやる」という野望がわいた。

 せっかくなので、朝の職員会議に参加することになった。職員会議までの時間は、デスクで教員採用試験のテキストを広げていた。すると、「そういうのは学校で開くべきではない」と高山から注意を受けた。学校で先生になる勉強をしたらアカンのかい。

 仕方がないので、授業通信を作成してみる。来週はゴールデンウィーク前の最後の授業なので、休み明けの持ち物を列挙したプリントを配布しよう。長期休暇明けには毛筆の授業はやらずに、HB以上の濃さの鉛筆を持ってくるように指示をする。昨年、ゴールデンウィーク明けに毛筆の授業を設定したら、事前に告げていたのにもかかわらず、書道セットを忘れる児童が各クラスに約十五人ずつ発生して授業が成立しなかった。

半紙と墨汁と筆を十五人分用意するのは教員側の負担がデカい。クラス内で貸し合いを許可したのだが、今度は、汚しただの半紙を使いすぎただのトラブルが起きた。二次災害じゃん。それに、貸し出している子が手持無沙汰になって、教室内を歩きまわる。隣のクラスの教員が怒鳴り込みにくる。三次災害。

授業後は授業後で、保護者からクレームの電話が連続。勤務時間が終わった時間帯に怒り狂う保護者に平謝り。さらに、管理職にも平謝り。

それでもって、残業によって、マッチングアプリでいい感じだった歯科医の男とのアポが流れた。「いえいえ、お仕事頑張ってください! また予定決めましょう!」なんて書かれたメッセージを受信するも、以降その男とは一切の連絡がつかなくなった。

散々な思い出だ。長期休暇明けに毛筆を実施すると失うものが多すぎる。硬筆に限る。児童も休み明けで大掛かりなことはやりたくなさそうだ。ゆるやかにスタートをするのが良い。

 

職員会議まで授業通信を作成して時間をつぶす。コピー用紙の余白を文字で埋める。学級通信のようなものを作ってみたかったのだ。ぺんてるの就活ペンで一文字一文字丁寧に文字を認める。就活生じゃないのだが、インクが濃く書き心地が柔らかい。止めはねを思うがままに表現できるのでお気に入りだ。

今や時間のない担任の先生はワードや一太郎でサクッと制作してしまうが、書道が得意な私は手書きで完成させたい。この学校において、誇れるものはそれしかないのだから。

我ながら、読みやすい字だ。デジタル教科書体のような柔らかさと程よい丸みを兼ね備えている。

 

みなさん来週からゴールデンウィークですね! 

連休中は遊びに行くのも勉強やスポーツを頑張るのもステキだと思います。普段できないことに思いきり夢中になれる一週間です。先生はお部屋の掃除と読書をしようかなと思います。

さて、書写の授業では特に宿題は出しませんが、連休明けの授業についてお知らせをします。

連休明けの書写の授業では、毛筆ではなく硬筆を行います。エンピツできれいな文字を書く練習をします。何の字にするかは、今、先生の方で考えているので、お楽しみに。

もちものは次のとおりです。よく読んで休み中に準備をしてね。

 

①黒エンピツ(HB以上を三本)

学校にはエンピツ削り機がないのでおうちで削ってきてね

キャップをつけること

 

②消しゴム 

よく消える消しゴムを用意しましょう。

 

③教科書

 

 忘れないうちに連絡帳にメモをしましょう。

 

 不必要なくらい丁寧なメモを書く。ゆったり文字を書くと、温泉に浸かった時のように頭から疲れが吹っ飛んで心地よい。

まだ時間はあるので、余白にオリジナルキャラクターをラクガキする。短い筆の姿で、軸にリボン、穂に「 (・_・) 」のようなシンプルな表情が描かれたキャラクター「くまのちゃん」だ。ここ数か月で、多くの五年生の子どもたちから支持を得た。

次第に、子どもたちが教室の黒板や他の科目の授業ノートに「くまのちゃん」のイラストを描くようになってしまった。シンプルなキャラクターなので、どの子も描ける。私が小学生の時は、同級生が自由帳に一斉に「星のカービィ」を描く時期があった。あれに近い現象が起きている。

「くまのちゃん」は先日の五年生学年会議の問題にあがった。四月半ばだ。早すぎる。「新学期早々余計なことをするな」と出勤日に高山に怒られたが、悪い気はしない。私のキャラクターが子どもたちの心をつかんだのだから。

二週間ぶりの「くまのちゃん」に夢中で腕を生やして鯉のぼりを持たせていると、若い女性事務員の小保方さんが深刻な顔でやって来た。

 「先生、お爺さんが病院に運ばれました」

 肺胞出血による肺炎で緊急搬送されたらしい。

 

 祖父は「ちびまる子ちゃん」の友蔵のような孫バカな人物であった。どんな時にでも味方をしてくれる。教員採用試験に落ち続ける私にも「こういうのは順番があるんだよ。大丈夫、大丈夫。先生になる勉強って難しいだろうにえらいね」と褒めてくれた。

戦争を経験した八十才の祖父は六十才まで市原市で自営業の定食屋を営んでいた。洒落たレストランに比べると味は劣るが、チャーハンのようなチキンライスを玉子でくるんだオムライスはいつ食べても懐かしい味がした。懐かしいという言葉に縁遠い幼稚園の頃から変わらない感覚。二十四才になっても懐かしさとは何なのかわからない。しかし、流行の「ふわとろ」とは程遠い薄焼き卵に茶色いチキンライスを包んだオムライスは、やっぱり懐かしい味がする。どの家庭にもあるようなケチャップが「ブッベ!」と威勢よくジグザグにかけられる。すっぱい。

 管理職の計らいでこの日の授業はすべてキャンセルとなった。来週は硬筆の授業の予定で良かった。鉛筆なら筆入れに最初から入っている子が多い。「くまのちゃん」の授業通信をカバンの奥底にしまい込み、駅前の病院に向かう。

汗を垂らしながら病院に到着。すぐに受付の中年女性に問い合わせる。祖父との面会は拒否されてしまった。新型コロナウイルスの感染防止のため、家族でも病室に入ることはできないらしい。特にこのご時世の肺炎患者はコロナ陽性ではなくてもセンシティブな存在だ。横を向くと父と母がいた。目が合う。私と同じ説明を別の若い女性スタッフから受けているじゃないか。こういうところで「家族」を出さなくていいんだよ。

 

「これ使ってください」

私は家族と話すスタッフとの会話に割り込み、自分のスマートフォンを手渡した。スタッフに預けた私の端末に、母親の端末からビデオ通話を発信するのだ。感染対策のリスクは0に近くなるだろう。スタッフもこれ以上うちの家族に説明をしなくてもいいし、私たちも目的を果たせる。

頼み込んだものの、こういう時は何を話せばいいのか思いつかない。しかし、取りあえず顔を見なければいけない。気がする。

 話のわかる若いスタッフは了承し、すぐに病室の祖父とつないでくれた。私の端末に祖父が現れる。人工呼吸器をつけられた祖父は、急に本当の年寄りになってしまった。

「のりこー!がんばれよー!!」

呼吸安定のためにモルヒネを打たれた祖父が「がんばれよ」と私にエールを送る。声は裏返り、震えている。がんばれよ、じゃあないんだよ。そっちが、がんばるんだよ。ププっと吹き出してしまった。

 人工呼吸器をつけられた祖父は、まさに大病という姿であった。水色の病人の象徴かのようなパジャマに着替えさせられている。朝のひげ剃り前に倒れたのか、鼻から延びるほうれい線の下はグレーの髭に覆われている。

「頑張るよ。さっき、仕事してきたよ」

先ほど作成した授業通信をカメラに向けた。手が震えてピントが合わない。スマホの画質と祖父の老眼ではハッキリ見えないだろう。そんなことわかっている。でも、今の私らしいものはこれしか思いつかないのだ。私には、祖父を安心させてあげられるものがない。せめて、「健気に過ごしている」と、虚勢を張らなくてはならない。そうするべきだ。

 何も見えていない祖父は「えらい!」と言った。祖母の料理を味わう時の「うまい!」と同じ発音。さっきと比べて威勢がいい。

その後も祖父は「がんばれよー」と言い続ける。我々は、何も言えなくなった。泣いてしまいたいが、我慢をする。それは、「もうおしまい」だと伝えているようだから。

すると、病室のスタッフの綺麗な指が登場し、通話を終了させられた。キリがないのをわかっているのだろう。それに、医療スタッフには次の用事がたくさんある。教員と同じだ。とてつもなく長い時間のように感じたが、通話のログを見ると、たった三分五六秒。

 まるで、ドラマの世界だった。偶然いた職場で電話を受けて、病院に駆けつける。しかし、私たちは俳優でもないし脳内に脚本家がいるわけではない。隔離下の貴重な会話であるとわかっていても、「がんばれ」「がんばる」程度の会話しかできなかった。他の家族も「具合はどう?」「元気?」と、どう考えても不調な人物に呼び掛けていた。教員として日々喋る仕事をしていても、いざという時にはダメなのだ。何を話すべきかがわからない。作文の授業で苦し紛れに無理やり原稿用紙を埋める小学生だって、もっと豊富な言語を操るだろう。

四分足らずの通話で、己の無力さと気の利かなさを思い知らされた。優しい祖父との会話のはずなのに。今日は厳しい。

 

その後、すぐに祖父は死んだ。すぐに。

 

 「先生の連休は、遺品の掃除と諸々の手続き書類の読書で終わりましたよ」とか言えないな。

ひとり暮らしのマンションに久々に帰宅し、深夜にオレンジの入浴剤を入れた湯船に浸かる。祖父の死の悲しみに暮れる暇はなかった。あらゆる作業が傷心を忘れさせるのだ。もしかして、遺族の悲しみを紛らわすために短期間でギュウギュウに慣れないあれもこれもが詰め込まれているのではなかろうか。

 入浴後、床に脱ぎ捨てた喪服を蹴っ飛ばしてベッドに入る。ヒヤリとしたタオルケットが私の頭から足先までの熱を奪う。棺で安らかな顔だった祖父。私も安らかに眠る。この世で一番不幸な気でいたが、しっかりと眠い。生きているからだ。抗えない。

 目が覚めたのは、昼間だった。明日からは学校がまた始まる。せめて、外に出よう。家にいても、祖父との最後の対話が脳内再生されるばかりだ。再来月に控えた教員採用試験のテキストと長財布、スマホをトートバッグに突っ込む。部屋着のシャツの上にパーカー、そして、いつ洗ったかよくわからない生地がやわらかくなったデニムを履く。いつもの近場の公園に向かう。

 上総更級公園はとにかく広い。犬の散歩をする人でコミュニティができており、この日は、大きな白い毛玉のような犬を連れたおばあさんとロングコートチワワのお姉さんが話し込んでいた。白毛玉犬は温厚でゆったり佇んでいるが、チワワは始終キャンキャン吠えている。

 公園には大きな池「修景池」があり、池の縁をグルリと囲むように赤い板で作られた遊歩道がある。歩くとカンカンカンと軽快な音が鳴る。その外周には、鮮やかな緑の芝生。そして、さらに外周の小高い道には、「四季の道」という名がつけられている。ランニングに励む人が多い。この「四季の道」からは、池や周辺の街並みを悠々と見下ろすことができる。街中にできた河川敷のようで、不思議な気分になる。

 

 私は気まぐれな散歩の際にはこの公園に足を運ぶ。誰もが干渉せずに自由に過ごしているのが快適なのだ。

木々や池に双眼鏡を向けて野鳥観察をする人、ペットの犬と触れ合う人、遊具で遊ぶ子どもたち、ジャブジャブ池で水遊びをする園児。最近の公園は、近隣住民の苦情で鬼ごっこすら許されないこともあるようだ。しかし、この公園では、あらゆる人が欲望のままに探求をする姿に出会える。

昨日まで祖父の件で実家にいたが、息が詰まるようであった。例えば、一人暮らしの癖で小腹が空いたから深夜にコンビニに行こうとすると顰蹙を買う。家の余りご飯で作ったおにぎりや夕飯の野菜炒めの残りを薦められるのだが、そうじゃない。深夜のコンビニでのアイスやスナック菓子を欲しているのに。

 今日は、公園の目の前のセブンイレブンでから揚げ棒とスポーツドリンクとサラダパスタを買い込んだ。公園内の屋根付きの4人掛けのテーブルを陣取って教員採用試験のテキストを開く。現実に向き合う時期だ。

 教育法規、教育心理学、教育史、学習指導要領……。二回も試験を受けているので、頭に叩き込まれている。実際、教職にまつわる知識を問う筆記試験では毎年八十点以上を得点できる合格圏内だ。つまり、筆記試験以外に問題がある。対人の試験だ。

 教員採用試験における対人での試験にはいくつか種類がある。まずは、模擬授業。授業者としての資質をはかるためにお題に沿った授業の導入部分を三分くらい実技する。集団で試験をするので、授業の導入部分の実技になることが多い。挨拶、目当ての確認、授業内容に関わる導入部分でのつかみ、などを各受験者が先生役として行う。他には、就職活動っぽいオーソドックスな面接もある。「どうして先生になりたいの?」「最近子どもと関わった経験は?」「どうしてうちの自治体?」など、事前に設問集で対策ができそうな質問がされる。前以て考えておけば、落ち着いて答えることができる。

これらの試験は、正直私にとっては有利だ。非常勤講師を二年もやっているので、他の大学生の受験者よりは回答に説得力が伴う。授業を行っていればハプニングや失敗、成功それぞれが自然に発生するので、面接官の質問にあわせてありのままを話せばよい。

 じゃあ、何がダメなのか。グループワークだ。グループで特定の話題(例:小学校でのプログラミング教育は是か非か)などについて議論をするのだが、現場教員としての意見と教科書に書かれているお手本のような意見、どちらの肩を持てばよいかわからないのだ。結局、その場で一番発言力がありそうな受験者に「私も同じだと思います」と同調してしまう。過去二回の敗因は明らかにこれなのだ。

 わかっているけども、うまくいかないんだよなあ。

対策テキストのグループワークのページを開きながら、上を見上げる。四角くて茶色い天井が空を阻む。大きく伸びをして、机に突っ伏す。祖父との最後の会話と同じで、何を言えば正解なのかわからない。

 

 十五分くらい経過しただろうか。突然、肩を叩かれた。岩のように武骨で力強い。高山だ。

「えっ、高山先生。どうしたんですか、こんにちは」

「これ、職員室で見ていたやつですよね」

「はい、すみません……」

高山はろくに挨拶もせずに、私のテキストを手に取った。職員室でも飲み会でも休日の公園でも、同じ神経質な服装をしている。

「ハハッ、ハハハハ」

高山が悪役のように笑い出した。いきなり登場して、失礼すぎないか。

「なにがおかしいのでしょう」

「水原先生、糞真面目に黄色いマーカーで『他の受験者に共感しつつ、自分の意見を述べる』にマークしてる!ハハッ」

公園の木々の湿っぽい香りがキシリトールに塗り替えられた。そりゃ勉強しているのだから、マークするでしょう。

 

「だから、何なのでしょう」

「いや、いや、すいません、フフッ」

涙をぬぐう高山が続ける。

「先生、大真面目だからこそ、これできてないですよね。グループワークで落ちるでしょ?」

「たしかに落ちますけど」

「そりゃわかりますよ。じゃあ問題です。僕についての印象を答えてください」

突然、高山式教員採用試験突破セミナーが開催された。笑いすぎてメガネが曇った高山は、シャツの袖でグラスをぬぐっている。

「……真面目で几帳面な先生」

「ハイ、ダメー。本音じゃないですよね。眉間にしわ寄せてる」

「え、そんなこと」

「先生はコミュニケーションで正解を探しすぎるんですよ、こんなもん失敗してもいいんです。怒らないから、思ったことを言ってみてください。ここは学校じゃないので」

正解がないという回答って難しい。しかも、怒らないって言っても怒るじゃん。場所が学校でなくても、アンタは教員でしょ。

「……」

「じゃあ、質問を変えましょう。江口先生のどこが嫌いですか?」

「そんなところないですよ」

「それは回答じゃないです。取り繕わないでください。江口先生はこの場にいないので、僕と陰口を言いましょう」

何か言わないと帰ってくれなさそうだ。

「昼休みに煙草を吸いに行くところ」

「おっ、いいね。昼休み終わると、煙草のにおいすごいよな。もっともっと!」

「飲み会で私の隣の席に座るところ。シャツの襟と歯が黄色なのに、自分は清潔だと思っているところ。今は死語のちょい悪オヤジぶってて、若い女に好かれていると勘違いしているところ。子どもの前で無意味に話しかけてきて、児童に『先生たち仲いいね』といわせて満更でもなさそうな……」

すごい。口に出したら止まらない。高山はゲラゲラ笑いながらテーブルをバンバン叩いている。「くまのちゃん」が五年生にウケた時のような気持ちになる。良くない。でも、もっと言いたい。

「それと、私の文具を勝手に使うところと……それとそれと…」

 

「はいストップ」

高山が私の肩を揺さぶる。

「先生、すごいじゃないか!僕の予想より悪い。普段これ溜め込んでたの?」

「溜め込んでたってわけじゃないですけど、言うべきじゃないなって思って。仕事場なので」

「こんなに喋る水原先生初めて見たよ。飲み会でセクハラされている時とか、何も言わないだろ。これまでは、誰かが助けてくれればラッキーなんて受け流してたでしょ。その分、人をよく見てるわ。悪口の才能がある。演技のつもりが心から共感してしまった」

「悪口の才能ですか……」

「先生、グループワーク得意な部類だと思うよ。言わないだけでよく見てるもん。俺だって勤務して長いけど、文具を勝手に使うとか知らなかったし。場の正解を探さなくていいからさ、好き勝手言ってみなよ」

 

高山は私のテキストの黄色いマーカーのページを破り捨てた。そんなドラマみたいな演出しないでよ。

「あっ、ひどい。そんなドラマみたいな演出しないでよ」

「フフッ。落ちたら来年も受けりゃいいんだからさ、今年はいい意味で悪口を言うつもりで試験受けに行けよ。まじめな話、グループでの議論って、共感以外に自分の意見を述べる覚悟も必要なんだよ。先生の観察眼で『お前の考えは甘いんだよ!』って普段黙ってることを発散してこい。まあ、試験だから口が悪いのはダメだけど。適切な言葉で批判をするのは、悪くはないからね」

 高山に励まされた。悔しい。でも、ちょっとスッキリしている。爽快だ。高山がスーツのジャケットを気障に肩にかけて立ち去ろうとする。名残惜しい。

 

「先生!」

高山が振り向く。

「……ボトルガム。ガムを食べるときに怖い顔。肉に食らいつく獣のようで、教育家としての表情じゃない。ガムの山が異様。これ、さっきの質問の回答」 

屋根付きテーブルの外に日差しが差し込む。

高山はそのまま立ち去る。伸びる影の右手はボトルガムの容器をチャカチャカと軽快に振る。湿った草木のにおいが、だんだん痒い。

2021年9月1日公開

© 2021 依存神経

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