どんどんどんどどんどんどどんどん
どんどんどんどどんどんどどんどん
練馬区在住のイカした無職である帯山マサシ二十二歳は、民主主義などどうでもよかったがなんとなく楽しそうなのでスクランブル交差点のデモに参加した。予想にたがわず楽しくて、みんなと騒ぐのはかけがえのない時間だよね、この最高感が最高すぎ、みたいな感じだった。歌詞の英語もよくわからなかったけど、のれるリズムだし、みんなオシャレですべからくいいバイブス発してる。自分たちは若くて無敵で、いちばんイケてるホモ・サピエンスなのだ、とおもった。誰かが米国映画などにでてくるテンションの高い人の真似をして、foooo! と叫んだ。それがなんとなくかっこよかったので、帯山も真似してfoooo! と言った。きもちがよかった。大きなものに包まれていて、絶対的な安心感と言うか一方向に突っ走る快楽を存分に堪能していた。みんなで勇壮な革命の歌を歌っている、高揚感やばい。ブチ上げだよ。
若く理想的な肉体をしたおれが理想的なファッションで理想的な活動をしているので、女性としてはさぞ魅力を感ずるだろう。なぜならすべてが理想的だから、とおもっていた。ちょっと最近眉毛の形を作るのを失敗したくらいで、外見はほぼ完ぺきなはずだった。それだけに眉毛のミスが悔やまれる。ちょっと抜き過ぎてしまった。反省。持ち帰って改善策を検討させていただき、今後善処いたします。どんどんどんどどんどんどどんどん。
帯山は自分のめっさいけてる外見をみんなに見てほしかったし、かまってほしかった。マスコミのドローンの気配を感じるたびに、ちょっと目線を外しつつもかっこいい顔を作って万が一撮られた時に備えた。
赤い飛行機のようなものが突然、109の方角から帯山のいるあたりに向かって来た。
帯山のような騒いでる人たちにとって酒も入っているし気分は最高潮という折だった。
彼にとって赤い飛行機が突っ込んでくるのは死ぬかもしれないのですごいいやだった。なので帯山は、この飛んでくる飛行機は、いつか何かの音楽イベントで見た、立体動画なんじゃないか、と考えた。以前野外ライブに行ったときにこういう演出を見たことがあった。スクランブル交差点は広告だらけなんだから、こういう趣向があってもおかしくはない、とおもった。
だれもがなにかしらのイベントかな? 最初は考えた。AR広告に慣れた彼らは、頭上になにか致命的に巨大なものがあったとしても気にしない癖がついていた。
帯山はあらためて赤い飛行機を見た。内心、立体動画なわけないよね、この感じ現実だよ、と気付いていた。空の眼をバックに、飛行機はリアリティーを増していく。あー。ほんものだ。ははは。やばいじゃん。
高速回転するプロペラが迫ってきた。このIMAXも裸足の臨場感。しゃれになってない。こわっ。
音楽が消えて悲鳴とばばばばばばというプロペラ音、更にデカいのは小型電気エンジンのモーター音。近づいてくる巨大な音とアルミ合金と電子部品の赤い塊。その中には酔った愚かな娘がひとり。泣きながらベイビーシャンブルズを大声で歌っていた。ファックフォーエバー、イフユードンマイン。
帯山をはじめこの場にいる誰もが、飛行機が突っ込んでくるこの事態に対して、なんでだよ、とおもっていた。理由がさっぱりわからん。
なんでだよ、とおもったあと、任意のタイミングだがやがて全員がパニック状態に陥った。ぎちぎちの満員電車のなかで乗員全員がパニックになったら、そこかしこで事件が起きる。足を踏まれたり、逃げようとして人をかきわけるひとが続出、それにより転ぶ人も続出した。
「マジでおりてくる、おりてくるよ」
「やばいやばいやばいやばいやばいやばいってやばい」
「どいて、どいて、いや、いたい、いたい」
「あっ……あぅ」
「は、なんで、えぇ……」
「まって、まってよ、やめて」
「ああああああ」
不時着の衝撃音が交差点を包んだ。道玄坂下の交差点からスクランブル交差点までプロペラに人を巻き込みながら赤い中型飛行機が突っ込んだ。
皆各々声をあげるだけで身動きが出来ない人がほとんどだった。それだけスクランブル交差点には人間がライブ会場並みにぎゅうぎゅうにつまっていた。すでに歌声は無かった。フィルが作りこんだコールドプレイのトラックだけがずっと流れていた。さっきまで最手前でおおおーおーおー、と叫んでいた連中が、別の意味で叫んでいた。飛行機は帯山の手前三メートルくらいに落ちて人を巻き込みながら停止した。ばばばざあざざあざ、と嫌な音がした。バチバチバチッと鞭を打つよう音が聞こえた後、プロペラに巻き込まれた女性の肉片が背の高い帯山の顔に飛んできた。不快な血と大便のまざったような匂いが若干した。その女性は腰から上がばらばらになって、大腸が派手にまき散らされたためである。便秘気味だったのかもしれない。何人か巻き込まれたおかげでプロペラは止まったようだった。
帯山は機体の直撃は免れたものの、混乱した数名のものににおそるべき力で突き飛ばされ、無理な体制で転倒、反対側に居た男の背中に激しくぶつかった。腕を動かすこともできないので顔面をうって泣いてしまった。その男は転び激しく混乱した罵声を帯山に浴びせながら、近くの誰かに頭と頭で強かに打ち付けられて悶絶した。転んでしまった帯山の上にも転んだ人間が乗っかってきた。体を動かすことが全くできなくなった。
これはいわゆる将棋倒しという現象だよなあ、と潰されつつ帯山はおもった。花火大会で何人死んだとかいうニュースをおもいだした。サッカーで点を決めた時に味方の選手が喜びを爆発させて点を決めた選手に覆いかぶさる感じに似ていた。高校生の時サッカー部で県大会にも出れなかった自分をおもいだした。もし県大会に出れていれば、この場に居なかったかもしれない、なんて考えた。
急に、胸がぎゅううううっと苦しくなった。上方からの圧迫が激しくなった。人が倒れた自分の上に何人ものっている。多すぎるのだ。えぐい。重すぎる、つぶれる、とおもった。つぶれるまえに、息が全くできなくなった。肺がやばい、いつになったらうごけるんだ、とおもった。サッカーで点決めた後とはわけが違った。規模が違う。長いし、重い。足が変な方向に曲げられていた。足が折れる、とおもった。長い長い、長いよ。息ができない時間が長い。圧力は増していき、三秒後彼の右足は誰かの骨と誰かの骨に挟まれて、派手に解放骨折した。ぎゃあああ、と叫んだが、あまりに周囲がうるさいのと息ができないため、ぜんぜん目立たなかった。サッカーではこんだけ派手にリアクションすれば周りの人間が心配して駆けつけてくれるのに今は誰も気にかけてくれなかった。帯山は体中の激烈な痛みと孤独を感じた。
二分たっても状況はまったく変わらなかった。
やがて帯山の下に居た人間も、上に居た人間も、帯山もみんな窒息死した。
飛行機の墜落に巻き込まれて死んだ人間は十五人だったが、パニックによる将棋倒しの犠牲者は三十三人だった。着ぐるみやアニメキャラのコスプレなど、バカバカしい恰好をしていたので、間抜けな死にざまであった。重軽傷者は何百人にも及んだ。
混乱のさなか、ジョルジは目の前に落ちてきた赤い飛行機の存在を知っていた。乗っているのはおそらくハンナで、この事態の首謀者であることも大方予想がついていた。仮にも蒔岡のお嬢がテロリストと言うのは非常にまずい。それがドローン等で撮影されてはいけない。なんとかしてごまかさなくてはならない。
ハンナがコクピットから出てくるのを確認するやいなや、ジョルジはM18発煙手りゅう弾をスクランブル交差点にいる部下たちに準備させた。何人かが手元からぽろっと手りゅう弾を落とした。手りゅう弾からはすごい勢いで緑色の煙が噴出、たちまちハンナの飛行機を中心にたちこめ、辺りはさらに混乱した。
ジョルジは腹から息を吸い込んで、「ガァス!」と叫んだ。
各隊員がブックオフの店員のごとく同調し、「ガーーーーース!」や「吸うんじゃないぞ!」と同じく叫んだ。そののちに手早く活性炭が入れてある防毒ガスマスクをつけた。
それを見たデモに参加していた者たちはさらにパニックになった。「えっ、ガス? 今ガスって言った?」ジョルジたちの吸っても無害な煙幕を、飛行機から噴射された毒ガスかなにかと勘違いし、輪をかけてパニックになった。煙を大量に吸い込んでしまい絶望する者、視界が煙幕でふさがっているのに全速力で走って何かにぶつかり悶絶して涙する者。ガスマスクを隊員から奪おうとして返り討ちにあうものもいた。
交差点に集結していた五万人を超えるデモ隊は、突如突っ込んできた赤い飛行機と煙幕で大混乱になった。その混乱は蒔岡を取り囲んでいるデモ隊にも伝わった。テロだって。人がいっぱい死んだらしい。毒ガスがまかれたらしいよ。いっぱい死んだって。やばいじゃん。え、どうする? 帰ったほうがよくない? 駅の方ガスってんだってよ。帰ろっか。渋谷駅の方は危ないから原宿まで歩こ。えーだっる。最初は楽しかったのにねー。
そうやってノリで参加していたデモ隊の大部分は帰路についた。めいめいがニュースなどで現状を把握し、SNSなどで現場の情報や自身の感情を交換し、それがまた話題になったのを消費し、飽きたらネットフリックスなどを観て時間を潰したあと寝た。
エーコは赤い飛行機が不時着したのを二階の喫茶店から目の当たりにし、前後を忘れるほどに驚いた。慌ててフィルとともに交差点へ向かった。自身の端末を見るとハンナからのメッセージ。デモにつっこんだのは広告だらけの真っ赤なロッキード・ベガだ。まちがいない、ハンナだ。かわいいハンナがくれた、わたしの飛行機だ。くだらないデモを吹っ飛ばしてくれた。
交差点は惨状であった。スクランブル交差点がこの時以上にスクランブルすることは今後ないだろう、なんてくだらないことを考えた。機体の真下の死体は文字通り真っ赤なスクランブルエッグだった。ハッピーでいけてるイベントは失敗に終わり、凄惨なテロ現場となった。
「台無しじゃん」
煙立ち込める現場近くで、フィルは虚無的な表情でつぶやいた。民主化デモはこれ以上ないほどに失敗した。これでは本国になんと説明していいのかわからない。絶対うまくいきます、と報告してしまった。どうしよー。わけのわからない怒りを誰かにぶつけたかった。いつのまにかあたりには原因不明の煙が充満していた。視界はほぼゼロになり、血と焦げ臭い匂い、怒鳴り声、叫び声と大量のサイレンの音が彼を包んでいた。ひとまず考えるのがいやだから他のことを考えよう、とおもった。見るものが無いのでしかたなく隣に居るエーコを見やるといつもの通り弛緩した表情でさらに腹がたった。周囲のパニックに引きずられて興奮したフィルは、エーコの乳のあたりをねちっこく撫でまわしたくなった。急に撫でまわしたときの戸惑い恥ずかしがる表情の変化を見てにやにや笑いたくなった。
エーコはフィルのとなりで将棋倒しで死んでいる男を遠目から眺めていた。ゾンビメイクをしてデモに参加した女性が本当に死んでいるのを見て、ゾンビなのに死んじゃってるじゃん、つまんない冗談のようだ、と苦笑した。よくみると自分を抱いた男の何人かがケガをしてうめいていた。
フィルを一瞥すると、自分に対して性欲が混ざったサディスティックな苛立ちを向けているのがわかった。この状況でこの男は何を考えているのだと心の底から嫌悪した。なぜこの男が死なないのだ、という運命に対する理不尽さを感じた。精神の程度の低さから鑑みるに、こいつが真っ先に死ななきゃだめだろう、とおもった。幸い辺りは混乱しており謎の煙で視界が悪い。誰かに見られることも、ドローンに撮られることも無いだろう。ジャストナウ即刻キルユー、ぶち殺す。
エーコはその辺にあったいい感じに持ちやすく重くて一部鋭利な角もある縁石の破片を見つけた。それをおもむろに手に取り、破片の意外なグリップの良さに自足していると、フィルはなにしてんの? みたいな表情をした。エーコは破片を両手に持ってよろよろしながら高く頭上に掲げ、フィルの頭めがけて振り下ろした。体幹が弱いので石の重さをコントロールしきれず、エーコ的に不満足なおでこあたりに当たってしまった。ガッ、と鈍い音がした。あっ、とオカマのような声を出してフィルは悶絶してかがみこんだ。やめてくれ、という意味合いで片手を頭付近にもっていって防御していた。エーコは、あんたは私がやめて、といってやめたことがあったか、とおもった。コミニュケーションがいつでも有効だとおもうなよ。エーコはフィルがかがんだのでさっきよりも頭部が振り下ろしやすいめっちゃいい位置にあるのでうれしくなり笑った。そして縁石を再度フィルの頭めがけて振り下ろした。二回目なので力の使い方が若干改善し、ぱこん、と今度は小気味よいテニスのサービスのような音が響いた。フィルの赤黒い血がひび割れたアスファルトにぱたぱたっと落ちた。フィルは地面に倒れてぶつぶつ言っていたが、数秒ちょっとわらっちゃうくらい激しく痙攣した後、動かなくなった。エーコはセミの死に際を連想した。
エーコはあまり汗をかかない体質だが、この時ばかりは全身から汗が噴き出た。
少し立ち尽くしたら気持ちが落ち着いたので、手を合わせ念仏代わりに、かーりーふぉーにゃーれーすてぃんぴーす、さいまーてーにーあーりーりーす、とレッチリをちょっと歌って軽く弔って、はは、なんちゃってね、と自嘲的に笑ったあと、交差点中央へ駆け出した。
マルテは崩壊したデモ隊と機体近くから立ち上る煙を渋谷駅前のステージからただ眺めていた。長時間あっけにとられていて動けなかった。フィルに指示を仰ごうとしたが、体が動かなかった。墜ちてきた飛行機から降りてきたのはおそらくハンナで、その監督責任を取らされるかもしれない、と考えたからだった。これ超絶やべぇな、と一言つぶやいた。なにせデモに突っ込んだ飛行機の胴には、遠江重工のロゴマークをはじめとした各企業のロゴマークがあるのだから。全世界に配信された映像はすでにネットのトラフィックを埋め尽くしている。SNSや各メディア上すさまじい勢いで遠江の飛行機がデモに突っ込む映像が共有され、知識人やら素人やら様々な人が推測と意見とポジショントークを繰り広げた。優秀なファンドAIならば、動画の情報を解析して一秒もかからずに、遠江重工をはじめとした飛行機に貼られたロゴの会社の株式を大量に空売りするだろう。遠江の名と株価が目の前の飛行機のごとく地に落ちる。月曜日の寄付きには関連株含めストップ安連発。責任は自分である。それよりも、自分は逮捕されるのではないか、と考えた。このテロの犯人として捕まる。その前に誰かに殺されるかもしれない。自分が滅びる。終わる。
彼の脳内は、いつも通り様々なイメージが浮遊し、かつ感情は混乱の極みにあった。彼の通信端末には大量のメッセージやらトラフィックやらが流れ込んでおりぶるぶる震えっぱなしであった。まずは情報収集を行わなければいけないのだが、目の前の事態を理解することさえできず、彼は優先順位をつけてテキパキ仕事をしていかなければならなかった。だが所詮神輿である彼にそんな能力は無かった。好き勝手言う大衆たちの言説はもはや一方向に誘導できるようなものではなく、流動的でも落ち着いていた運営組織はひっくり返したような大騒ぎで、民主主義なんてはじめからちゃんと理解していなかった末端のものはやけになってマルテやフィルに対する没論理的な非難をツイッターとかで繰り返した。
もう何もかも放り出して新宿の人形風俗に駆け込みたかった。ナンバーワン嬢であるベルちゃんの無表情に癒されたかった。
予約しよっかな、と考えて通信端末を取り出した瞬間である。
このデモの責任者である彼の端末には大量の通知が飛び交っていた。何千、何万という知り合いからのメッセージ、あらゆるメディア、関係各所からの問い合わせ。その量とこれからうけとめなければならない激烈なストレスを認識した瞬間、彼の脳は決定的な情報オーバーフローを起こした。眼の奥あたりに強烈な痛みが走り、突っ伏して頭を押さえて悶絶した。もともとキャパシティの多い人では無かった。理解不能で情報過多な状況に対して、日ごろから大量の情報を浴びており、かつインプットが決定的に不得手であった彼の脳は、自衛のためフィルターをかけるという決断をした。
今後河合マルテの脳が処理可能な情報は十分の一に、脳の血流量は七割ほどになった。
彼はこの情報社会でもっとも不要な人間、つまり白痴として生きていかなくてはならなくなった。
この日の後河合マルテは行方をくらませた。いくつかの職を転々としたが、劣化した脳ではうまくいくはずもなく、最終的に若者がひとりもいない群馬県のとある限界集落にある公民館で、掃除夫として一生を終えた。歳をかさねるにつれ太っていき、美しかった顔も次第に崩れてきた。何か抽象的なことを考えたり、込み入った日常会話さえ彼の頭では不可能であった。だが、旺盛な性欲だけは残っており、たまに公民館にやってくるわりかし若い部類に入る五十代くらいのおばさんのゆるい胸元からちらりと見える乳首などをみて興奮する、というのが唯一の楽しみになった。エーコに言われてせっかく調べた南北戦争のことも、とっくに頭から消えてしまったが、もはや知的な仕事や営みが一切出来なくなり、茶を一杯淹れるにも苦慮するようになった彼にとって特に問題無かった。アメリカや民主主義と、彼はもうまったく関係がなかった。彼はわけもわからない状態で百歳まで生きたがずっとぼんやりとした不幸を抱えて暮らした。
ちなみにドラマーであるお寿司はこのスクランブル交差点テロの後、ひとりタイに逃げ出し、後に現地の十三歳の男児と結婚した。以上余談。
当初ハンナが脳裏に描いたビジョンとしては、よく映画に出てくる飛行機の特攻シーンであった。インディペンデンス・デイ、ガンダム、永遠のゼロ等々。爆炎があがり、派手に周りもろとも巻き込んで皆死亡。そんな終わり方を想像していた。なにもかもを吹っ飛ばす、悪くない終わり方だと感じていた。
だがそれは揮発性の高い燃料を積んでいるからであって、ハンナの作った電気飛行機では墜落しても爆発するわけがなかった。勢いよく墜落したとしても無様にぐしゃっとつぶれるだけであって、彼女はそのことに気付いていなかった。彼女は自殺という大事な判断さえ、映画やアニメなどのイメージで考えていたのである。さらに蒔岡リュウゾウのAIがハンナの命に背いて完璧な減速からのソフトランディングを成功させたため、ハンナの感じた衝撃は交通事故以下でしかなかった。なのでぐしゃっとつぶれるわけでもなく、デモの中に静かに突っ込んだ、と言っていい。しかもデモ参加者たちが緩衝材となって、接地してからも非常にスムーズに減速が行われたのである。ぎゅうぎゅうに人がいるところに小型飛行機がおちてくるというのはデモ側からしたらすさまじい衝撃で、回転するプロペラに巻き込まれてバラバラになる者、翼に首を持ってかれた者、墜落地点から逃げられず機体に潰された者、転んで他のものに踏まれたり蹴られたりした者。彼らの主張にたがわず多様性に富んだ死に方だった。大量の浮かれた若者をまきこみながらロッキードベガとハンナは、スクランブル交差点の中心にソフトランディングした。なんでこんなきれいに着陸しちゃったのか。
蒔岡ハンナは赤いロッキード・ベガのコックピットの中にいた。
着陸して疲弊していたのだろうか、汗だくで緊張が解けたハンナは、あらかじめもってきたペットボトルの水を一息に飲みほした。五〇〇ミリのペットボトルを持っていて、あらかじめ中身が半分くらいだから、二五〇ミリくらい一気に飲み干したのだなぁ、あたしは、とおもった。ただ事ではないうまさで、気分とは裏腹に肉体は爽快だった。ここ絶対天国じゃないよな、とおもっていた。
ハンナは機体をとりまく煙幕はどんどんもくもくしていく。救急車が何十台と向かってきているらしく、サイレンはどんどんうるさくなってきた。とたんに汗が噴き出した。とりあえず自分はなんでか知らんが生き残ってしまった。しかも自分は何十人か殺している。
なんであたしだけ生きているのだろうか? どっかーんって爆発するはずだったのだけれども、ぜんぜんどっかーんってならず、間抜けに生き残っている。アメリア・イアハートは海に落ちて死んだが、自分は人の海の中に落ちて死ぬはずだった。だが自分は何故か生きてる。うーん。なんで。死を覚悟していたのに、なぜか自分は渋谷のど真ん中に居る。警備隊員の罵声、容赦なく浴びせられるサーチライト、ケガ人の悲鳴、ホログラム広告、じめじめした空気、何千人の人間が狭い範囲にぎゅうぎゅうにいる。そいつらが吐く大量の二酸化炭素と口臭、血の匂い。それぞれの安易で即物的な思考。性欲、自意識、過剰な情報、痛んで劣化していく脳。空の上はシンプルだったのに下界はぐっちゃぐちゃだ。一度は清潔でキレイな空に居たはずだったのに、何故ここに戻っているのか。なぜ煙だらけなのか。とにかく人が死にまくっている。なぜ誰もかれもわたしに影響を与えるのだろうか。なぜ、それをわたしは批判的に捉えず素直に受け取ってしまうのか。ホントマジでなんで生きているんだ。わからん。マジわからん。この世のすべてがあたしのぽんこつ頭じゃわからん。わけのわからないままなんかしらんけど生きてる。なんだこれ。
ハンナの頭上には空の眼があった。
コクピットから出て、飛行機の羽根の上に立った。
渋谷の底の底に墜落したハンナは空の眼を睨みつけた。
巨大な衛星であり理解不能の塊は、あやふやでいい加減な人類を見おろしていた。
ハンナは自分の肉体や性、出来の悪い頭と根性無しの精神を捨てて、鋼で出来た飛行機と一体化したかった。空の冷たい空気に耐えられる、頑丈な外殻が欲しかった。いくところまでいってしまえば、楽になれるとおもっていた。おかしくなったつもりで、自分さえだましていた。だが無理だった。飛行機だけ壊れてしまった。ハンナは人の海の中でひとりきりだった。依然としてハンナは映画のサイコパスの人みたいに狂うことのできない小市民であった。しがらみはふっとばなかった。アクション映画の悪役のように爆死しなかった。ぐちゃぐちゃの自意識は音楽でも酒でも恋愛でも改善されなかった。いやな過去は消えなかった。そのかわり若気の至りでは済ませられない罪をかかえてしまった。個人が抱える最大の負債。大量殺人。全然受け止めきれなかった。そんなこと考えたら耐えられないに違いなかった。その為現実逃避が必要であった。思考のスケールを宇宙まですっ飛ばして、逃避する必要があった。木星のことを考えた。木星に比べれば地球での出来事なんてちいさいちいさい。木星のこと考えてもぜんぜん逃げられなかった。狂うこともできなかった。狂ったふりをしたとしても、たぶん下手だった。考えるべきことが多すぎてもう無理であった。いろいろなものに感情を振り回され、疲れ果て、受け止めることも無理であった。なんなら、ちょっとまだマルテのことが好きだった。そんな自分を早く消し去りたかった。もうとても生きられぬ。ユニのようになにもかも捨てて自分の世界の中で生きたかったが、あたしにはもうそれも無理だ。もうたくさんの人たちと関わって、罪を背負ってしまったから。
ハンナは煙にさえぎられても尚夜空で圧倒的な存在感を示す空の眼を見あげた。だいたいずっと昔から、父親に犯され続けているような気がしていた。それでおかしくなった。精液が血管を巡り、体中を支配している様だった。ある一定の限界にしばりつけられている様だった。わたしを見ている。絶対に逃げられない。盤上を一人で逃げ続ける王将のような気分であった。でももう、どうしようもなく詰み。罪。これからどうやって生きていけばいいのか。具体的にはどこに住んで、どう飯を食って、どうやって何十人も殺した罪をごまかしごまかし生きていけばいいのか。未来は考えれば考えるほど希望が無かった。どうにかできるエネルギーが無かった。もともと生きていくにあたってモチベーションに欠けていた。ハンナは徹底的に凡人以下であった。もういい加減におわりにしましょう。マルテに騙された時点で気をおかしくしてしまえばよかったのだ。いやもっと前。母が再婚した時か。それとも父がいなくなって、幻覚をみるようになったときか。自分は逃げているようで、ただただ我慢していた。はやいうちに音をあげて、おかしな人として生きていけばよかったのに、見栄で普通の人のふりをしてしまった。その結果がこれ。もっとはやく、一人だけで死ねばよかった。たくさんの人に迷惑をかけた。やけくそでおかしくなった人の真似をして、取り返しのつかないことをした。あたしだっていっつも真似ばかりだ。なにがアメリア・イアハートだ。なにが仮面ライダーだ。なにがファックフォーエバーだ。どこまでも凡庸だ。生きる理由がまるでない。死のう。自殺した人のマネをして死ぬ。最後まで人まねしかできない。
ハンナはふたたびなんらかの方法で死のうとおもった。くらくらしていて頭がもうろうとしていた。慣れない飛行機に乗ったのと、気圧変化で頭が機能するのをやめたがっていた。大丈夫、もうすぐ全部機能停止させてやるからね。おつかれさん。幸少ない人生でした。なにかあるようで、なにもなかった。
ハンナは空の眼を見上げながら人生最高の絶望感に浸っていたが、それを見つめる女がひとりいた。フィルを殺した後の興奮冷めやらぬエーコである。
エーコが飛行機にちかよると、ロッキード・ベガの羽根の上に立ち空の眼を睨みつけている女を見た。ハンナは空の眼の下にいた。過剰で混乱したものの中心で空虚な清潔を保っている彼女を、エーコは世界で一番きれいだとおもった。髪をすごい短く切ってる。赤い浴衣着てる。超似合う。顔小さい。超かわいい。この場、この状況において、彼女の非常に個人的なテロは為った。この娘の完全勝利だ、とおもった。この映像はエーコの個人的な伝説になった。この光景を忘れないために急いで絵に描きとめなければ、とおもった。それはエーコのいやな過去や多分不幸な未来を吹き飛ばし、感情の閃光で眼に焼き付いた影であった。
今アツイキセキがこの胸に吹いたら
水の流れも時の流れも 止まるから
いとしい人 震える想いをのせて
いつまでも夢の中にいて
急にジュディマリの「クラシック」の歌詞がエーコの脳裏にうかんだ。よくハンナがうたっていた。あの教室で、わたしのギターで、いつもいっしょに……。
思い出したとたんに涙がながれた。警察に拘束されたハンナを見おくりながら、わたしもつれていって、おいていかないで、と泣き叫ぶ悲劇のヒロイン的な自分が脳裏に浮かんだ。数分後の自分の姿であった。このままうかうかしていると、彼女は社会的にも精神的にも手の届かないところへ行ってしまう、と感じていた。無惨な殺人をして、彼女の精神はちょっとしたことで崩壊するほどもろくなっていた。
エーコはハンナの元へ駆け出した。なんてドラマチックなのだろう。あの子は私のためにこのデモを破壊した。この気持ちを伝えるまでは絶対にあの子を守る、とおもった。人を自分の意思で殺したエーコは、自殺未遂の結果大量に人を殺めたあげく無様に生き延びたハンナとは違って、肚が座っていた。マルテもこの際殺してやろうか、とエーコは周囲を見渡したが、見つかるはずがなかった。あの男は既に逃げているだろう。そういうやつだ。
三メートルほどの高さ羽根の上に乗り出していたハンナは全身の力が抜けて頭から地面に落ちた。駆け寄ったエーコは辛うじてハンナを受け止めた。周囲には死体やけがをした人だらけであった。
ハンナはおぼろげな視界のなか、エーコに抱きかかえられて、顔を見上げた。アルコールと疲れで朦朧とした意識の中で、涙を流した。
「ハンナちゃん。大好きだよ」とエーコは声をかけた。
「もういいよ、そういうの。もうやだよ。かんべんしてよ」と言ってハンナはエーコから目をそらした。
エーコは言っていることがよくわからなかったが煙幕の中をハンナを担いで逃げ出した。
どこに逃げられるのかもわからないが、とにかくこの場をはなれるべきだ、とおもった。ハンナと一緒ならば、きっとどんなことだってできる、と感じていた。彼女はフィルから解放された喜びと、ハンナのテロによって高揚していた。彼女にとってハンナは希望そのものであったが、ハンナの心中はずたずたで、これまでもこれからもずっと地獄なのだ、一刻も早く死んで楽になりたい、と願っていた。
ハンナもエーコもまた、ただの状況に引っ張られた人間の一人にすぎなかった。ギターを弾いたり絵を描いたり、孤高な雰囲気を醸し出していても、結局は恋愛や音楽や映画や思想や狂気やその場の空気に彼女らは酔っていた。彼女らが不変だとおもっている価値観は、情報の質や量の変化によって容易に変更された。彼女らの脳が生き物として遺伝子を残すためにテキトーに作った幻想であった。エーコにとってハンナに対する特別な感情は、J‐POPの歌詞よろしく永久不変の尊いものに感じられたが、ぜんぜんそんなことは無く、取り換え可能なぺらぺらなものであった。ソフトウェアがアップデートされれば消えるはかないバグであった。この世のすべてのものが過剰で、陳腐化していた。普遍的な価値、そのものが幻想であり、ハリウッドのブロックバスター映画の陳腐なメッセージとすべてが同列であった。純愛難病ものである女優が死ぬときに号泣したのに、次に見た映画ではゾンビに無惨に殺されてバラバラにされているようなもので、要は物語のジャンルやかける音楽や画面レイアウト次第で人間の感情など容易に変更可能だった。
この日、根本的に何が正しいか、何がいけないのかということを、結局蒔岡エリク以外は真剣かつ冷静に考えられなかったのである。大量の情報は通信を続けるけども、いくばくかの真実は埋もれて押しの強いミームだけが偏った淘汰を経て生き残り、十分な検討をされずに注目を浴びた。そしてこれからもそうであった。
周りの混乱はすべて透きとおって何もなかった。
ここにいる人間は空っぽなやつばっかりであった。もはや怒りや絶望さえなかった。
ハンナは空の眼を見上げるばかりであった。
蒔岡エリクはデモがハンナのテロによって崩壊したことをジョルジからの連絡で知った。振動と歌は止まり、母は静かな寝息を立ててエリクの傍らで寝ていた。エリクはひとまず良かった、とおもい、自分が取り乱していたことを反省した。
自身の端末に届いている、ハンナからの長文メッセージを見つけた。
普段から文を書いていない人間の文章で、情緒は混乱の極致にあったと推測した。
蒔岡エリク様へ
ごぶさたです。ハンナです。
もうすぐ死のうとおもいます。
だからこのメッセージは遺書のかわりです。おかあさんに見せるかはまかせます。
まずはお父様にひどいことをしてしまってごめんなさい。
でもあたしを盗撮とかしてたのでいい感じに罪がきえるとおもいます。
でもほんとうに後悔しています。ほんとです。
そのかわりと言ってはなんですが、今回のデモをなんとか妨害してみます。明日のニュースをみてください。蒔岡家がずーっとずーっと続くことを、わたしは祈ってます。
私たち大衆はこれからもアホであり続けます。だから人権だの民主主義だのクソばかばかしいことを掲げてバカバカしいことができます。それに負けちゃだめです。数少ないほんもののエリートは公務員の家を取り囲んで歌うなんてことをするクソバカ愚民を完璧にコントロールしないとだめなんです。あなたのお父さんはそれをあなたに教えるために私と母を蒔岡の家に呼んだのです。わたしたちの様な馬鹿は確実に存在していて、どうしようもないってことを肌で感じさせるためです。
そうはいってもあなたは私を許せるわけないでしょう。これからあなたを待っているのは、一切ミスの許されない永遠の地獄です。でもやり続けないといけないのです。そう縛られたのです、あなたのお父さんに。かわいそ。圧倒的な知性と力で民主主義者を潰してください。約束ですよ。大衆の嫉妬はレゴで出来た爆弾となって、あなたの頭にいつか落ちてくるでしょうね。
あなたはこの国のすべての情報を把握した上部構造でありつづけなければいけません。九十五%のアホはあなたを攻撃し続けるでしょう。そして時には爆弾積んだドローンがあなたに向かって突っ込んでくるけどそれをしっかりとはねのけなければならない。それはとても難しいことだけど、めっちゃだるいことだけどがんばってください。あたしにはむりです。
お兄ちゃん、うそだとおもわないでほしいんだけど、だいすきでした。
もっといっぱい話したかったです。
私は次のどこかへ移動します。それが上なのか下なのか、空なのか海なのかは関係ないです。大切なのは関係性を断ち切って移動することです。あなたが唯一できないことです。わたしは、ここでも向こうでもないところに行きます。
最後の最後に、ほんとうにずうずうしいお願いですが、おかあさんには時々でいいからやさしくしてあげてください。
さようなら。
蒔岡ハンナ
ひどい文章だ、とエリクはおもった。メンヘラ女のポエムを読むことほど時間の無駄なことはない。バカの癖に何を知ったような口をきいているのか。ちゃんと合理的に体系立てた勉強をしていない人間の文章は自己陶酔的で酷い。最後までこの義妹とのコミニュケーションは不能だった。ただ、おもいだすのは初めて会った時、初めて兄になったときのふたりで蒔岡の庭で雨宿りをしている時の彼女の不安気な顔であった。なにか複雑なものに絡み取られているようだった。彼女は結局、蒔岡のせいで人生を棒に振った。いや、彼女自身がもともと持っていた性格と蒔岡家は最悪の相性だった、と考えるべきかもしれない。
ぼくもあなたが大好きだよ。ハンナ。
エリクはそれだけ返信した。
嘘であった。
ハンナのことはどちらかといえばバカだし嫌いであった。顔や肉体に魅力を感じることはままあったが、内面はクソの塊。出来そこないの人間だ、とおもっていた。彼のメッセージは今まで正直に生きて来たエリクが初めて作り出した、大衆のための幻想であった。最も身近で最も愚かな者への気遣いであった。いわゆるサービス業だ、とエリクはおもった。
恋愛だの思想だの、聖書の時代から人間のおもちゃで嗜好品として機能してきたが、やればやるほどこんがらがり二次系のカオスと化す。一番賢いのは、複雑な情報を認識こそすれ、遠目から眺めるにとどめて自意識の迷路に入り込まない事だ。
エリクはハンナの身の上が悲しかった。なにをずっとわけのわからんことを言っているきもちよくなっているのだ、とおもった。父を殺したのはなんか意味があったのか。コロコロ意見を変えて、勝手なことをたれながしているが、ちゃんと説明してほしい。何がしたいのだ。狂人の方がまだ誠実に現実を捉えている、とおもった。この女と義母は、彼の人生で最も意図不明な二人であった。だが、自分にこの二人を引き合わせたのは、間違いなく父蒔岡リュウゾウであった。
「ある愚劣さは別の愚劣さで圧倒するしかない」
そんな父の言葉をおもいだした。
今日の惨状もハンナの行動も、すべて父の想定通りな気がしてならなかった。そんな予感めいた想いがエリクの脳裏によぎった。もしそうであれば、到底自分が及ぶところではない。その真偽も自分に分かるはずもない。
デモの連中もハンナも、同じ現実を生きているように感じなかった。確実に知能が、自分や父より何段か劣っていた。父が自分の為に用意した、成長を促すための要素のひとつにすぎない、と早くから理解していたからだった。社会の維持のためには変化が必要だった。父自身も、自らをレガシーとみなし削除することを選んだ。日本国のシステムは、今やエリクの手にゆだねられていた。エリクにとって世界は、自分だけが車を運転するので酔っぱらってはいけない飲み会みたいなもんで、あらゆる幻想を疑わなければならなかった。ハンナや民主主義者を代表とする愚民たちは、恋愛や思想、通貨や音楽、性欲、気候、文化などに酔っぱらって楽しそうに好き勝手しているが、自分だけは素面で居なければいけないのだった。現在日本国は経済、軍事、社会共に相当に危なっかしいバランスで成り立っており、衆愚政治などではとても維持できない。人力ではなく機械以上に高級な機械でなくてはならなかった。気分の上下を楽しんでいる場合では無かった。俺は愚行権が無い唯一の日本人。自分のクオリティーの維持のためなら、どんな犠牲も払わなければならなかった。これからも民主主義者たちは自分に攻撃をしてくるだろう。対立構造や誰かが作り出した物語に酔っぱらって。いずれ、義母も自分もバカ達に殺されるかもしれない。それでも、前に進むしか許されていなかった。万が一自分が殺された時のバックアッププランを考えなければならなかった。ひとまずだれかと子供を数パターンかつくらなければ、と考えた。ハンナと母で免疫ができているので、どんな女でも自分は大丈夫だろう、とおもった。重要なシステムほど冗長性と可用性の確保は大事だ。
しかし蒔岡の犠牲になるのはいつも女だな、とエリクは苦笑した。
自分が際限の無い地獄にいる、というのは同意見だった。日本中の暇なバカ達がエリクを嫉妬、嫌悪していた。それを死ぬまで受け止め続ける。かつての父のように。かつての母のように。
エリクは空の眼を見上げた。変わらずおそろしかった。確実に存在している正体不明だった。毎日現れる理不尽の塊だった。今にも落ちてくるような気がしていた。空の眼は地球上のすべてを陳腐なものへと変換している様だった。
恋愛だの政治だのエンタメだのすべては幻想であり目的たり得ない。次の時代には邪魔な産物だ。先んずるのはテクノロジー。好むと好まざるにかかわらず、人間はテクノロジーから離れては暮らせない。大事なのは人間がテクノロジーに合わせること。
デモや壁の向こうの渋谷の街が実態のない蜃気楼に見えた。崩壊したデモ隊や渋谷のどこかに逃げたハンナやなにもかもが、透明で退屈な、質量のないデータである、と実感した。絶対的な規範などは無い。
エリクははじめて父の気持ちが分かるような気がしていた。
その後、蒔岡家は数十代にわたって日本の社会における行政システムを管理運営し続けた。初代リュウゾウ、二代目エリクのふたりは自らの思考プロセスをAIに形を変え、半永久的に生き続けた。
エーコは道玄坂の方にハンナを抱えて走った。ふたりは女子としても体力は無いほうなので、お互いにもたれあいへなへなの情けない足取りで共に汗だくであった。
「ハンナちゃん、出来る限りでいいから走って。とにかく人の目がないほうに逃げるんだよ」
そう言われたハンナは、しょうがないなぁ、だるいなぁ、とおもいつつ、力をふりしぼって煙の中行く手の見えぬ広い坂を駆け上がった。
エーコはハンナと身体を必要以上に密着させることによってどぎまぎしつつ喜んでおり、ハンナはその様子をシンプルにキモいとおもった。
エリクからハンナの端末にメッセージが届いた。
「ぼくもあなたが大好きだよ。ハンナ」
それを読んだハンナはおもわずにやけた。そして義兄からのメッセージに対して反射的にうれしくなってしまう自分を恥ずかしくおもった。さっきまで死ぬくらい激烈にへこんでいたのになんにも変わっちゃいない。さっきまであんなに死にたかったのに。ろくなことが無いのに。自分の感情の上下があまりにも簡単で情けなかった。
ちょっとした風がビョウ、と二人の汗がしたる足元に吹いた。
「あっ、すずしい」とハンナは言った。
それを聞いたエーコはなんだかおかしくなって、ふっ、とわらった。しょうもない女だ、とおもった。でもふたり一緒ならどうにでもなるよな、とおもった。
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