ハンナは空の目の下 (十)

ハンナは空の目の下(第11話)

尾見怜

小説

9,892文字

狂ったように一気に書くか、毎日こつこつやるのか、どっちもやるけどどっちもうまくいかない

五年後、ハンナは十八になったが、髪も小汚い金色のままだし、勉強もせず飲酒をし、暇さえあればジョルジを伴ってシネマクイント渋谷とかに映画を観にいったり、星のカービィをうまく描く練習をしたりして無為に日を消していた。
空の眼は一部の人間を自殺に追い込んだだけで、月と同じ軌道で毎日晴れた日は空を出たり入ったりしていた。すでに地球に住む人も動物も植物も、慣れてしまって生活の一部となった。同様に、蒔岡邸には爆弾を乗せたドローンが時々降ってきて、時々下人が爆散して死ぬなどした。ハンナは爆弾にも慣れてしまったが、母はいつまでも怯えていた。怯える母は周囲が心配せざるを得ないほどものすごいかわいそうな感じを出すので、いつも義父やエリクがちやほやした。そのためハンナはどこか気に入らない、と醜い嫉妬をした。義父は空の眼の話をしなくなった。外出が減り、部屋にこもりがちになり、月同様昼間でも空の眼は季節によって見えるので、明るいうちからカーテンを閉めるようになり、暗い蒔岡邸が更に暗くなった。
ハンナ東京でもアホ寄りの女子高に進学したため、蒔岡のお嬢のくせにオツムが悪い、と下人共から常に馬鹿にされているように感じていて、もうこの家を出たいわよ、とおもっていた。とはいえ職をさがすのもなんかだるいしそういう外へ向かうエナジー的なものが出ない。どうしましょう。マジで。

そんなモラトリアムなハンナが高校の教室でたまごサンドイッチを食べるなどしていたとある昼時、同窓の味噌山モミジという娘が急に声をかけてきた。味噌山はクラスの中でもとりわけ派手で、遊んでいる感じを出しており、それでいてアホでガンダム試作2号機みたいな顔をしたブスなのだが、唯一の長所として字がわりと上手い、というだけの女子生徒である。味噌山はおしゃべりすぎて若干クラスで浮いており、無口と退廃がコンセプトのハンナとは対極にあるといっていい。趣味は深夜ラジオへの投稿で、ラジオネームは「カマボコもぐもぐ」であるが、センスが無いのかあまり読まれないのが悩みだった。
そんな味噌山が目も合わせずに話しかけてきた。
「蒔岡さん、ライブとか好きかな、ロックの」彼女の精神はまだ自分の醜形を受け入れられない。ハンナはかねてからその嫉妬の香りを察知し、味噌山に関わらないようにしていた。
「ライブはいったことないなあ。家で聴くのは好きだけど」「今度一緒に行かない? つぎの土曜」「うーん」「いこうよ。おもしろいよ」「わかった。お母さんに訊いてみるわね」「やったぁ。じゃあよろしくねーん」「おいすー」
みたいな極めて表面的なやりとりのあと、味噌山は最後に目を合わせてきたので、極めてフレンドリーにハンナは微笑んだ。醜女である彼女には辛い微笑みであった。
ハンナは、今のはなんだったのか、と思考した。
まったく仲が良くないのに誘ってくるということは、自分が行くことによって味噌山に利益をもたらすなにかがある、という事である。自分の利用価値といえば外見しかないので、おそらくは、味噌山に美人の友達が必要になったということだ。ロックでもジャズでもライブに行くのは初めてだが、若者として一度経験しておきたくもある。その経験はエリクにも母にもないものだろう。そもそもあたしはわりと音楽がすきなのだ。昔のバンドで言えばジュディマリとか、真部脩一が居た頃の相対性理論とかね。古いか。
まあどんな音楽でも生で聴ければええやんけ、という思考に至り、結局次の土曜日に味噌山と渋谷のライブハウス「飯時」にいくことにした。
一匹だけカラスが汚い声で鳴いていた。それを聞いてハンナは汚い声だなぁ、とおもった。

土曜日、昼間の渋谷はあいかわらず若者だらけで、日本中の若者がここにいるような感じ感を感じた。ハンナは上はロックっぽい写真がプリントされた黒のタンクトップにデニムジャケット、下はフリフリのスカート、素足にパンプスといういわゆる甘辛、上半身はロック感出してるけど下はガーリィな感じなのよ、みたいな複雑な主張を秘めるファッションで向かった。自宅から車で渋谷駅ハチ公口まで五分、ジョルジに送ってもらい、そこから約束のライブハウス現地集合である。ハチ公はいつ見てもハチ公なのだが、周囲になぜか人が絶えない。ハチ公像を作った人はこうなるのを想定していたのかしら。なんて無駄な脳の使い方をしつつ、スクランブル交差点をしゃかしゃか渡り、109を横目にセンター街を経て道玄坂。不埒なかっこうの若者が増え、まあまあきつい坂になり、いかがわしい店も増えてくる。ハンナのプレイスポットである。
坂に面したラブホテルと映画館の間の建物にそのライブハウスはあった。地下1階である。この界隈でよくあそんでるくせに、ハンナは入りにくいなぁ、と六回ほどおもった。ライブハウスとはなぜこんな新参を拒むような入口をしているのか。掃除していないであろうせまくてきったない階段、左右の壁には落書きが偏執的なまでに書き込まれており、その上にぜったいに売れなさそうな不細工バンドのポスター、対バンの予告、同じく売れ無さそうな劇団の公演ポスター、なぜか外しで新宿末廣亭の落語番組表などが貼られていた。十八歳女子的には重たいドアの向こうからは案の定四つ打ちのキックがかすかに漏れてくる。キック音のたびにポスターがびりびりゆれる。ハンナはこれから我が耳の鼓膜がこのわけのわからぬポスターのようにびりびりしなければならないのだ、と考え憂鬱になった。基本的におおきな音や強い光などの刺激に弱いハンナは、二の足を踏んでいた。あたしうるさいの苦手だったわ。いっけねー忘れてた。入りたくねぇな……急にめんどくさくなっちったな……、とおもい、近くにある吉野家という牛丼屋チェーン店舗を見る。ハンナにとってはライブハウスの十倍くらい入りやすい。
ハンナが吉野家を海岸にたたずむ清純派女優のような切ない表情でみつめていると、遠くから、まきおかさぁん、という豚に似た声が聞こえた。おお助かったわ、と振り向くと、あまりにも拙劣な外見をした味噌山モミジが駆け寄ってきた。ダサエロいと形容するのがベストであろうか。胸元がざっくりとしたセーターを着ているが、味噌山は太っている割に乳房部分のメリハリが貧しいので常にパカパカしたブラジャーが見える状態、むしろ見せブラという感じだろうか、そして破れすぎなジーンズを履いて、致命傷がピンクのピンヒールであった。ダメージジーンズと絶望的に合っていない。化粧も濃いしヘタ。醜い豚。
ハンナは周りを見渡した。こいつと一緒に居るのをドローンにも監視衛星にも見られたくない。すぐにでもライブハウスの暗がりに移動しなければならない。
ふたりは挨拶もそこそこに、ダンゴムシかなにかのように慌てて地下の暗がりへ駆け込んだ。

味噌山から知らないバンドのワンマンライブと書いてあるらしいチケットをもらい、鉄格子みたいなロック感を醸す入口を抜け、スタッフにクソ高いけど一杯だけ無料のカクテルをもらうと、中へと向かった。味噌山がモスコミュールを頼んでいたので、私のジントニックと交換いたしましょう、みたいなやり取りをしたのだが、明らかに同じ味だった。恐らくガキに味など判らないだろうとなめられているのだ。
銀色で重たい扉をあけてライブ会場にはいる。
案の定めちゃめちゃうるさい。
バレー部の人にアタックを四方から受けてる感じだった。いじめられたことないけど、いじめられたらこんなかんじかしら、という印象。要するにうるさすぎる。入って三秒即しんどい。味噌山をちらりと見ると、目をつぶって早気持ちいい感じになりゆれていた。いくらなんでもそれは嘘だろう、と言いたくなったがもはや、言語によるコミュニケーションは不可能なほどの爆音、このライブハウスは上下前後左右すべてにスピーカーがあるらしく、サブウーファー含めて8.1chであるらしい。子宮が震える低音、なんてしょうもない表現があるけども、誇張ではなく単に物理的に身体の中で震えていないところが無いくらいの爆音である。これは未経験だわ、ほんたうにありがとうございました、みたいな感覚ではあったのだが、味噌山の手前帰るのは若干厳しく、どうしよー、なんて逡巡しているうちに味噌山お目当てのバンドが下手から現れた。割れんばかりの嬌声。うるさすぎて死ぬ。味噌山も忘我な表情で手を振っている。そこでハンナは気付いた。そういやあたしが今まで参っていたのは、演奏ではなく只のライブ前のたかが前菜的な音楽である。落語の出囃子に近い。それでさえ刺激過多だと感じていたのに、実際に演奏をされたらどうなってしまうのか。たぶん具合悪くなる。帰りてぇ。
味噌山は呆然としているハンナの手を取り、我々は出来得る限りステージの手前、客席の前方に移動しなければならない、といった趣旨のことを喋った。だがハンナには豚語にしか聞こえなかった。手を握り嬌声をあげる娘たちをかき分け、ブルドーザーのように前列へ向かい突進していく味噌山。俊敏ではないが圧のある推進力で体幹の弱いバンギャルたちをおしのけおしのけ、手をつないでるハンナもその後に続き、ふっとばされたバンギャルの怒りの視線を浴びつつ前列へ着いた。ハンナは「プライベートライアン」のオマハビーチ上陸のシーンをおもいだしていた。ステージは目の前。味噌山はチビでデブなので後ろだと顔が見えないのであろう(ピンヒールを履いてもぺたんこの靴を履いたハンナより低い)、前列でもまあうなずけるが、ハンナはかなり長身である。首もすらっと長い。ぐんぐん背伸びしている後ろのバンギャルたちが哀れであった。彼女らはステージが観たいのである。なぜなら、ギターのチューニングやらなんやら機械をうちゃうちゃやっているボーカルらしき男の顔がCGやアバターで作られたがごとく美男で、バンギャルたちはその男の顔を見たそうだったからである。なぜなら彼女らにとって音楽などは対して問題にしておらず、彼女たちの生活圏の中に居る芋のような男性群とははるかに別の次元、顔面カーストの上の上の上におるだろう、ボーカルの男の顔面を堪能するのが大目的であった。そんなにわか丸出しの感じなので、彼がたとえフォークギターもって反原発叫ぼうが軍歌演ろうが構わずに熱狂するだろう。彼女らにとってはいつもネット動画で見ている、バーチャルの世界が目の前に顕現したわけだ。ハンナはもちろん知らなかったので気にも留めなかったが、となりにいる味噌山も目の前の男から目を離さずにぐんぐんしているので同様だろう。頭一つ高いハンナだからこそわかる周囲の女どものぐんぐん度は、ギターボーカルの男が些細な動きを見せるたびにたかまっていった。
暗転、音楽が止み、のち開演。静まり返る。
かっこいいでしょう、と味噌山が主語を省いてハンナに小声で話しかけた。なぜ主語を省くかというと、彼女の世界でかっこいいといえば、目の前でギターを構えているボーカルの男以外ないのであって、頭悪そうなドラマーでもギタリストの女性でも地味なベーシストでもなかった。
ハンナは、まあね、と言って気のない感じを丸出しにした。興味を持ちすぎると味噌山が警戒心を抱くと考えたからである。こんなところでアホ女相手にいい気になっている男を、このあたしが好きになるわけが無いじゃん。このあたしだよ。世界で二番目に美しいこのあたしが。まあ確かにあの男、顔はきれいではあるけどもね。それは認めてあげようかしら。そんな傲慢なことを考えていると、ボーカルの男がマイクテストを始めた。ヘイヘイヘイヘイ、てすとわんつー。まいくちぇっくわんつー。へいへいへい。へーい。へぇーい! へいへい。ひー。ひいひいひいひい。てすとわんつー。つつつつつ。
くすぐるような声でマイクテストをするボーカルの男は確かに美しかった。ブラッド・ピットを甘露煮にしたような顔だち。化粧をしているのだろうが、表情もなんだかアンニュイな感じでハンナは親近感を覚えた。ありゃあ演技だな、と同族を見つけた気がしたのである。
そしてMCが始まった。MCの内容はしょうもないので耳に入ってこなかった。この場合、声と外見と言葉の音感だけが重要なのだ。なにも演奏していないのに長々と最近あった面白いことなど消化器系疾患患者の屁のように垂れ流し続けるボーカルの男は自らが髪のようにふるまっていた。それに対してハンナの周囲に居るバンギャル共はめちゃめちゃ笑う。
MCを聴くのが苦痛なので、ハンナの興味はギタリストの女性のほうに移った。
ピンスポットを浴びてくっちゃべるボーカルの男の向かって右隣で、自閉的にうつむいている。自分で切ったの丸出しのへたくそなおかっぱ頭の女性だ。抱えるように持っているギターはクリーム色のフェンダージャズマスターである。拾ってきたような黒いTシャツに白いストラップが、意外におおきな胸の間に挟まっている。細くちいさな体の後ろには一際でかいオレンジ色のアンプ、足元には大量のエフェクターとシールド。ときどき頭をガリガリかいている。長い前髪に隠された顔がちらりと見え、おそらくすっぴんであるその顔は地味地味。味噌山を正反対にしたような外見に、ハンナは好感を持った。
MCが終わったらしく、室内の照明がうわっと全力を出し、ニルヴァーナのパクリみたいなグランジ風の曲がじゃかじゃあーん、とはじまった。ハンナはその八方から体を叩く音の塊に身をこわばらせた。曲がいいとか悪いとか以前の問題で、その音量にうるさっ、とおもい帰りたくなったが、ハンナの首のちょっと下あたりで髪を振り乱している女共が邪魔で身動き取れない。そのだれかの躍動する髪がちょうど目に入り、ハンナはうぎゃあーと言って悶絶した。うるさいし痛いしうっとうしい。あと歌も下手。最悪。味噌山も判を押したように同様の髪を振り乱すアクトをしている。ヒールにより足元が心もとないためあの肥満体が今にも転びそうでみていて怖い。このように髪を振るのは決まりなのかしら、とハンナは考え自身も振ってみようかと考えたのだが、あまりにもアホらしくてできない。客席後方を振り返ると髪を振っている人はおらず、中年男性たちが髪を振り乱している前方の女性群をにやにやしながら明らかにバカにした目で見ている。おそらくは彼らの事務所関係者であろう。髪を振り乱す連中は着衣も乱れなかなかに淫靡だったので男性にとってはそれなりに見れる代物であった。その湿った視線を含めたなにもかもがいやだったので、ハンナは味噌山を放置し後方へと戦略的撤退をキメた。
持っているジントニックをこぼさないように慎重に移動し、後方の男どものぬらぬらした性欲の混じった視線も肌で感じつつ、ドア横に比較的落ち着けそうな場所を発見、一息ついた。結局ジントニックはだいぶこぼしてしまったがまずいからまあいいか。
ステージではボーカルの男が一生懸命なにやら威勢のいいことをさけんでいる。このしがらみに満ちたセカイをぶっ壊すぜ、的な。間奏のギターソロだけは色っぽくていい感じである。それ以外は素人であるハンナから見ても悲惨であった。
「まわれ、まわれ、まわれ」
ギターソロで暇になったボーカルの男が手をくるくるしながらそういうと、前方の女共が髪振りをやめ、左足を軸にその場で回転し始めた。軍隊の集団行動のように統制された動きであったが、味噌山の動きは多少鈍く見えた。まあまあのスピードである。酒も入った頭でグルグル回らされたら、自律神経の脆弱なハンナなら倒れてしまうだろう。それにしてもばかばかしい光景だ。いい感じに渋いギターソロなのに回ってたら良さがわからないだろう。
「とまれ、とまれ、とまれ」ボーカルの男が言った。
すると全員が同じタイミングでぴたっと回るのをやめ、またおなじ首を痛めそうな髪振りに戻る。しばらくすると、「まわれ、まわれ、まわれ」。「は・ん・た・い」なんていうと逆時計回りに回る。
ハンナはこれを見て、帰ろう、と決意した。いやなものをみた、とおもった。許されるなら回っている女共を片っ端から頭をウクレレで殴ってやりたい、とおもった。
ジントニックがもったいないのであとちょっとで飲み終わる、とゴロゴロした氷の冷たさと格闘していると、ニルヴァーナのパクリっぽい曲が終わった。次の曲はしゃらくさいアシッドジャズであった。都会的で倦怠的なクールな雰囲気。音量も抑えめ。俺達自然体だけどちょっとひねったグルーブ発してるでしょ、といわんばかりのオフビート。前方の女共も曲調の変化に合わせゆらゆらし始めた。激しい曲とはうって変わって弛緩した雰囲気である。前方の女共が先ほどの首振りで乱れきった髪を、一斉に手櫛で整え始める様は、ちょっと官能的だった。
洒落たリフを機械のように繰り返しているギタリストの女の子に目をやると、表情がどこか極限まで集中した一流のポイントガードや終盤の棋士のそれに近く、ハンナは好感を持った。あたしはスポーツや将棋などの魅力は勝敗には無く、集中した人間の顔にあるとおもう。彼女は雰囲気に酩酊していない。あの娘だけがこのライブハウスのなかで救いだわ。
二曲目も中盤にさしかかり、ハンナは「あれ」がやってくる気配を感じた。
まずい。こんなところで。
やっぱり帰ればよかった。
こんな人が大勢いるところで具合悪くなったら目立ってしまうな。ハンナはそんな未来を想像していやだなぁ、とおもった。トイレにこもって一人で耐えよう、と決めたときのことだった。
ハンナがジントニックを飲み干すと同時に、やや曲調に変化が見られた。スカスカで小生意気なリフを繰り返し、都会の倦怠を表現していたギタリストの女の子が、リフをやめてストロークに、ディストーションとリバーブをかけまくった爆音に変更したのだった。いっきにきづかれぬよう、細心の注意を持って進行していた。徐々にギターのボリュームがあがっていく。会場にいるすべての人間を欺く音だった。洪水と形容すべきだったかもしれない。
ハンナはトイレに行こうとした足を止めた。おもわず、ギターの女の子の方を見た。
じゃあじゃあじゃあじゃあじゃあじゃあという音の裏に、ぎゅううううううううううという音が混ざっており、更にぶううんぶううんぶううんという音がうねるようについてくる。その音はデカすぎてボーカルもリズム隊もすべてかき消していった。肉体、精神、社会、病気、年金、すべてのしがらみを吹き飛ばす何かを発していて、ハンナはどうしようもなく惹かれた。しびれるような生理的快感であった。その音は事実ハンナの「あれ」を吹き飛ばした。ボーカルやリズム隊が作り出した上品なアシッド・ジャズを何十台ものブルドーザーや戦車やら恐竜やらが踏みつぶしているような、そんな感じがした。黒Tにジーンズの女性ギタリストは中央で大量のアンプを背負って足元にエフェクターを従えた花嫁だった。地味なTシャツを着ていても、クリーム色のフェンダー・ジャズマスターとトレモロアームを使って、観る人を呆然とさせ、音の塊によって思考停止にし、ボーカルの小賢しいMCを虐殺し、工業機械の騒音の様なのに不思議な快楽を秘めたノイズをゆらゆらさせていた。その他バンドメンバーは自らの音を無様にかき消されながら、必死でリズムを刻んで、肉体的な拍子をアピールしているのだけれども、女は微動だにせず、足元のエフェクターだけを見つめながら、手以外は不動でストロークを繰り返していた。前方に居たバンギャルたちも自失した様子でゆらゆらしていた。彼女らの絶対的な軸足であったボーカルの顔面への執着以上の快楽をこの音に見出したのである。
二十年使い続けた業務用エアコンの唸り声の様な音から、何万匹のハエと何百台のフォーミュラワンカーが自分の周囲をグルグル回っているみたいな音場へ変わった。
音がループバックして、右から左、上に言ったかとおもえば足元から、襲いかかってくるような臨場感である。スタッフも異常事態だと把握しているんだろうが、この不思議な音によってなにかやるために必要な精神力を奪われてふわふわしていた。
上下左右をスピーカーとサブウーファーに囲まれ、LEDバーが五百十二本つかわれており、すべての客に平等に届くように二百十八本もののスピーカーを使用している8.1chライブハウスだからこそできる異空間で、ノイズロックなどをひととおり通過してきたおっさんロックマニアならくだらないと一蹴するかもしれないが、ここにいる感性がぴちぴちに若い者たちにとっては半端なドラッグよりもぶっ飛ぶことができた。
ハンナもその場を動けなくなっていた。これは例外的にきもちいい。これがライブの快楽か。ハンナはおもった。音自体はそれこそ人間が許容できるぎりぎりの爆音であったが、不思議と不快ではなくむしろ音にやさしく包まれているようで、反復そのものに快楽があった。ハンナの「あれ」は、目前のちいさな女の子がギター一本と大量の機械群で作り出した爆音にすっ飛ばされた。日々の不安も倦怠感もまとめて消去してくれるような、圧倒的な解決を提示してくれるような音であった。
その音はバンドのライブとしては予定していない、つまりギタリストの女ひとりによるテロ行為だったらしく、女ギタリストは演奏の途中でスタッフに連れていかれた。ちょっと時間がたって代役のギタリストがあらわれ、目立たず無難にこなして、ライブは印象薄くさらさらと流れ終了した。彼女のギター以上に印象的なものはその後登場しなかったのである。もしかしたらほとんどの観客にとって、今日のライブを最後にこれ以上の生理的興奮をもたらすものは皆無だったかもしれない。

その後ハンナは味噌山に誘われ、ライブハウス近くの和風居酒屋に移動した。
バンドの打ち上げに参加したのである。
ハンナは居酒屋の二十人ほどの座敷のはしっこで、味噌山と、バンドメンバーと、スタッフたちに囲まれた。
どうやら味噌山の狙いは、目立つハンナを餌に、バンドの打ち上げに誘われる事であったらしい。ハンナはあのめちゃくちゃな音を出したギタリストの女の子が来るだろうか、と期待して参加したが、結局来なかった。怒られて家でシュンとしているのだろうか。
味噌山は上手くいってうれしかった。ついに憧れのボーカルの男と話すことができる。彼女はこの日のために周到に準備をしていた。自分の容姿は正直いって悪い。ブスである。そんな悲しい自覚をしていた為、作戦を練った。当面の目標はバンドメンバーの誰かとセックスをすること。バンドにおける共有物となり、最終的にボーカルであるブラピの甘露煮男と同衾するのが夢であった。いわばこのバンドにおいていつでもやれる都合のいい女になるのである。おのずと、みんなやってんだから俺も、って感じで敷居の高そうなボーカルともやれる。あの美しい顔面を持つ男に抱かれるという事は、想像だに出来ぬほどの達成感および幸福を自らにもたらすであろう。バンギャルカーストにおける涅槃の境地に私は行くのだ。ここ数年全くいいことが無かった。毎年2キログラムずつコンスタントに体重が増えるし、このまえ5歳になったばかりの最愛の弟に「キモデブ」と言われたり。そんな人生を少しでも改善したい。そんな半ば狂った思考の果てに、完全にメンヘラであるのをあえて隠し、彼女はハンナにはかなうはずがないのでかわいい路線を捨てて、おもろい女として注目される戦略を採った。日々のラジオ視聴により磨かれたセンスを今ここに。ヘドバンのし過ぎで首が激烈に痛いが頑張る。
「そういえばこの間学校でぇ……」
彼女のお気に入りである女芸人のラジオみたいな口調で喋りまくった。時折はいる露骨な下ネタで男たちを飽きさせない工夫が凝らしてある一級のネタだった。憧れのバンドメンバーたちがうんうん、とうなずいて時々笑ってくれている。ハマってる。彼女は高揚した。受けてる。社会とつながっている。この時点で周りが見えなくなっていた。
ハンナも、酒肴として出てきたしめ鯖の旨味が激烈に豊かだったので、処女のガキの癖に吟醸酒をあおりにあおった。味噌山は何とかボーカルの男に近づこうとしたが、他のスタッフが周りを固めており、それを突破するのは十八歳であり年相応に乙女な味噌山には無理であった。そこが彼女の努力の限界であった。

2021年3月24日公開

作品集『ハンナは空の目の下』第11話 (全22話)

© 2021 尾見怜

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