少年は河川敷の橋脚下で、ボロボロにされたランドセルと、バカギリなどと落書きされぐちゃぐちゃにされた教科書達を干しながら、頬や足に出来た痣を撫でつつ密かに泣きつつ座っていた。家に帰る気はしない。誰も慰めて等くれない。学校にも家にも居場所はない。その時、上でかすかにポンと音がした。ゆっくり見上げると、堤防のタイルの間から生えた枝木に、赤い風船が引っかかっている。少年は泣き止み、傾斜のきつい堤防をどうにか上って、赤い風船に手を伸ばした。
風船を持ちながら橋脚の下を出ると、いつの間にか夕焼け空が広がり、その彼方に口を開けて笑っているクジラの様な、大きな雲がごろんと横たわっている。少年は、風船に掴まってどこまでも飛んでいきたかったが、風に揺れる風船を見て、静かに離してやることに決めた。あの雲は色々な夢を、たくさんの人の夢を叶えてくれそうだ。クジラ雲の方へ向け、夢が込められ、赤い風船が放たれる。どこまでもどこまでも飛んでいく……。
その時、バァンと乾いた音がして、風船は飛び散った。自然に割れたのではない。少年は呆然として、ふと対岸を見ると、タキシードを着た高学年の男児が、ライフルを空に向けていた。その後ろには黒塗りの車と運転手が控えている。
「まあー風船を! お見事です、シンゾー坊っちゃん」
「……」
「アメリカから取り寄せたんでございましょう、良い音がなさいますね。本物の銃みたいで。あ、でも人は撃っちゃいけませんよ」
シンゾーと呼ばれた男児は、運転手の見え透いたおべっかに振り向かず、ただ顔元から重い玩具のライフルを下げた。あの赤い風船が割れる様子には不思議な感慨があった。思えば、風船など持ったことがない。運転手がまた何か言ってきた。
「そろそろお帰りになりませんか。お爺さまもお待ちでしょう」
割れた赤いゴムが川に流れて消えていく。シンゾーは、対岸の少年には目もくれず、遠くの都市の風景を眺めた。
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男は、淡い照明の下で、窓の向こうに写る、夕方の官庁街を眺めながら、四十年以上前のことを不意に思い出していた。官庁街のガラスは赤い夕陽を鈍く反射している。
「ボク、もう、イヤになったんだよね……」
「シンゾー……」
シンゾーは背後の女性に振り向くことなく、夕焼けの中に見え始めた点々とした光から目を離さなかった。
「アキ……ボク、この国が、嫌いなんだよね……嫌いで、仕方ないんだよね……」
「シンゾー、もう聞いた」
薄い笑みを浮べながら、カジュアルな姿のシンゾーは振り向いてゆっくりと歩き、ソファに横たわるファーストレディのアキの顎に手を伸ばして撫でた。アキは、顔をやや背け、ツンとくる香りの煙をポッと吐いた。
「ボクよりHEMPが好きなのかな」
「どっちも、どっちで好きなの」
シンゾーは長いソファの、アキが横たわった余りの部分に腰掛けた。目の前のガラステーブルの上には、祖父の代から引き継いだ、大げさな真空管ラジオが置かれている。インテリアではあるが、実際に使うことも出来る。シンゾーはラジオのスイッチを入れた。ラジオからはニュースらしき不安定な音声の断片が聞こえる。
『……コロナ……っと!緊急事態宣言に……従わない集団が……国会前から憲政記念館一帯を占拠……』
「ラジオが良く聞こえないな」
『要請に従い……都知事は宣言に……各県も現在従う方向で検討……』
「ラジオが貴方に伝えたいことと伝えたくないことを分けているのよ……」
「それもHEMPの知恵かい……」
アキはなお煙を燻らせ、返事をしなかった。
「ここから、そう遠くない、いやほんの一区画向こうで、今も、ガンバッテるんだよ、あの人たちは……蛮勇だけど、尊敬しちゃうよね……」
「報道陣の前でそう言えば良かったじゃない」
「いや、分ってくれないからさ、ボクと国民のぶつかり合いの粋を……」
その時、部屋の電話が鳴り、シンゾーはやや顔を歪めながら、デスクの上の固定電話に向かった。そして数度空返事をすると、すぐに電話を切った。
「どなた?」
「いや、警備がね、万が一の時には催涙弾を撃つかもしれないから、風向きの問題もあるし窓を固定したってさ……」
「ま、仕方ないね……」
戻ろうとするシンゾーの向こうで、アキはソファから細い足を延ばし、足先で器用にラジオの周波数を回した。
「おじいちゃんのラジオ、大切にしてくれよ」
「ラジオ、繊細なんだね。貴方と同じ……」
「そうかな……」
シンゾーはソファの前に立つと、ゆっくりと手を伸ばし、アキの手からタバコのような物を取った。
「貴方、吸ったっけ」
「今日は、そう言う気分なんだよね……」
口紅の付いたそれを吸い、シンゾーも煙を燻らせた。煙は天井まで届き、いつしか消えていく。
「君の、HEMPに関する言い分、ボクも分かる」
「日本の伝統なの……」
互いに少しずつ煙を出し合う。空中で煙はぶつかり合い、そして曖昧になっていく。言葉を発することも無くなったシンゾーとアキは、互いに壮年の顔の隅々をちらちらと眺め合っていたが、次第に互いの目じりが下がっていった。
「ボク、『もーっと!緊急事態宣言!』で、もう夢の90%叶えちゃったんだよね。知事に認めさせるってのが癪だけど、まあ東京はもう認めたし。あとの10%は、まあ憲法だけどそれももうすぐだし」
「……いいじゃない。セレブレーションファック、しようか」
照明を落とし、かすかに人の凹凸が照らし出される。デスクに上半身を乗せ、下半身を突き出したアキの腰つきを見ながら、シンゾーは、ズボンを脱ぐのではなく、腕をまくり上げた。
「アキ。ボク、左だったっけ」
「貴方の利き腕」
「ああ……」
シンゾーは拳を固め腕を何度か屈折させた。その腕先は、弾頭の様だった。そして、弾頭が使われる戦争といえば、戦犯被疑者になった、いやさせられた祖父を必ず思い出す。
「おじいちゃん……ノブスケ・ザ・グレートだったら、この状況にどう対処してるかな……ボクよりずっと良かったかもしれない」
「そんなことないよ」
オマンコをヒクつかせながら、口では慰める。二重構造者のアキの顔に、シンゾーは無表情でただ頷き、その背後に周った。
「いくよ……フィストファック」
人差し指、中指、薬指、小指、親指、拳、そして腕までもが、どんどんオマンコに吸い込まれていく。
「コーイケ・ザ・都知事ちゃん、指が三本しか入らないんだって、それで三膣おっとっと三密なんだって……」
「あっ、イイ」
「初めて、こうしたのは、いつだったかな……」
「貴方が最初にここに来た時にはもうして、たァッ」
手首のやや先から力を込める必要が出てくる。アキの息遣いをつぶさに聞き取りながら、一ミリ、また一ミリとシンゾーの手はアキのオマンコにめり込んでいった。
「アキのここも、緊急事態だよね……モリトモみたいに埋蔵物があるんじゃない?」
「シンゾーのそれだって……!」
「エイブ・フィストを、許さない?」
「許しちゃう……!」
グポッ、と何かが許される音がした。
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「ですからね、止めて下さいよ!」
「いいややりますよ! 止めないで下さいよ! これ単なるパフォーマンス以上の意味があるんだよ!」
ある河川敷の原っぱで押し問答する、飛行服姿の男と、数名の刑事と更に市の民生委員を、何局かの報道陣が取り囲んでいた。幾十人かの野次馬もあちこちから眺めていたが、マスクをした制服姿の警察官が手を払って追いやろうとしている。そしてその向こうでは、いくつかの風船が浮かんでいた。
「私はね、世界平和をやりたいの! ね! もう三年も暴れてるコロナウイルスに勝つ方法、それは夢! ドリーム! 分る!?」
「分かろうが分るまいがダメなの! ね!」
この得体の知れない男の口調は、すぐに刑事に伝染した。野次馬たちの、嘲笑交じりの騒めきの中で、男と刑事たちの声は尚更張りあがり、民生委員の視線は下がっていった。
「何がダメなんだ!」
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