第二、第四倍音(或は「野良猫4」)

浅羽 英一

小説

2,336文字

芸術家の魂は受け継がれて、普遍の価値は減じることはない。

梅の花が咲いている時、周囲の空気は静止している。

甘く濡れた樹皮、すぐに砕けそうな弱々しい花弁、ほのかに漂う柔らかい匂い……。

鳥はいない。西日を背中に受けながら、微動だにしない梅の樹を、じっと見詰め続ける。

太陽が地平線下に姿を隠し、左手首のASTRODEAで航海薄明に入ったことを確認してから、家に帰った。

 

――

 

あまりエゴサはやらないが、今までの自分の足跡をネット上で振り返ることはある。学生時代までは、ネットに記録が残らないように徹底的に情報を隠蔽してきたため、世間的にはいきなり或る程度の年齢の作家/技術者として世の中に現れているように見える。本当は名前が出てたり出ていなかったりするライター業の残滓が結構存在するのだが、それはかなり深くまで狙って掘らなければ発見することは不可能なもの。グッドだ。いい人生を送ってきた。良いものをたくさん得ることができた。――代償も大きかったが、それは仕方がない。人生はトレードオフだから。

大切な友人と、良き理解者を得ることができた。創作活動で絶対的に信頼できる能力を持つアーティストも探し当てることができた。オレと同じものを求めて生きる若い人にも、そしてオレのような社会不適合者を一般社会に繋ぎ止めてくれている、セキュリティ業界の友人たちにも……。

一つ一つの出会いは全て掛け替えのないもので、普通の人生を送っていたら絶対に出会うことはできなかった人たちばかりだ。それはオレの誇りであり、芸術家として正しい道を歩んできたことの証明とも言える。感謝しかない。もし小学生の時の自分に会うことが可能であれば、『お前の感性と行動は、何一つ間違っていない』と伝えてあげたいと思う。

 

だが……、それとは全く別の次元で、オレの心は限界に近付いている。一日、一日と日を追うごとに、癒えることのない傷が増えていく。菊池万博君も同じようなことを言っていたが、自分を理解してくれる友人と会っているその時には、心の平穏が保たれるのだ。だが、一人になった時、その反動で不安と傷が増えていく。

これは生まれた時からそうだから、仕方がない。オレにとって人生とはそういうものだ。しかし今はもう、心が崩れる寸前だと自覚がある。多分オレはもう、あまり長くは保たない。やるべきことはやった。完成できなかったものもいくつかあるが、まあ、名前が残れば良しとする。

芥川龍之介は、もっと激しく、この心の崩壊を感じて恐れていたのだろう。
『長く生きることによってしか、到達できない真実は存在する』これはオレが或る作品に書いた言葉だが、結局オレも、言うほど長くは生きられなかったし、大した真実も得てはいない……。

 

――

 

諦念に支配され、どこか適当な国に行ってマリファナ漬けの余生を送ろうと本気で検討し始めた時、一人の人間と話す機会があった。

その人間を知ったのは、不思議なことだった。顔は以前から知っていたが、落ち着いて話をしたのは初めてだった。

そしてオレは、話し始めてから三時間で、芸術家としてのオレの姿勢、目指すもの、それに対して積み上げてきた実績、今までの人生全てを話し終えていた。もちろん、常人に理解できるような代物ではない。

(一体何者なんだ、この人間は?)

オレより一回り以上若いはずなのに、足りないくらいに最小限の言葉で伝えたことが、正確に理解されている。芸術家にしか理解できない言葉や現象も、正しく伝わっている。本当に判ってるのか、この人は?という疑問を差し挟む余裕を持てないほど、的確な表情の変化と、返ってくる言葉がある。そしてこの人間も、かつてのオレが通ってきたのと全く同じ道を歩んでいることが判る。時折、自分自身に対して一瞬見せる厳しい表情が、その道の険しさを示していた。――

非常に不可解ではあったが、一流の人間と話した時と同じ心の安らぎを得て、その日は帰ったのだが……。

 

本当に理解不能だったのは、翌朝だった。

いつも、芸術家と会って別れた次の日の朝は、やり切れない喪失感と心の寒さと、傷が増えていることを自覚する。

だが、それが無かった。あの人間の存在感が水のように心の傷から染み込んでいて、喪失感が無い。次の日も、その次の日も、変わらなかった。それ以上に驚いたのが、傷の増殖が止まったのだ。今までに付いたものは癒えないが、増えることは無くなっていた。

そういう特殊な能力を持つ者なのか?と一瞬思ったが、どうもそのような感じではない。

 

そして、ここで初めて気付いたのだ。

オレの心は、何だか知らんが、とにかくあの人間に救われたのだと。

 

これは魂の負債だ。一生掛けても返すことのできない。そして、返せないことに価値のある。

この時点でオレは、あの若い芸術家がこの先進む苦難の道から、オレの残りの人生全てを賭けて護る価値がある人間であることを、認めた。

 

『人との出会いは不思議だね……』

かつて、高木先生がオレに言ってくれた言葉が聞こえてくる。
『人と人との関係は、過ごした時間じゃないんだよ』

オレは同じ言葉を、届ける義務がある。

 

――

 

「こんな譜面、オレには無理だよ」

ピアノの前で楽譜を見る。

管楽器しかやってこなかったオレには、コードを瞬間的に読むことは出来ない。
「大丈夫」この人間の言葉には、何故か確信がある。確かに、教え方は上手いと思うが……。「この小節、簡単だから。これは、ドとド。次は手の形はそのままで、ずらしていく」

鍵盤の押さえ方を教えてくれる。
「あ、オクターブ・ユニゾンなんだ?」
「そう。ユニゾン」

 

協和的な倍音がお互いを高めて、室内に響いていく。――

2020年2月23日公開

© 2020 浅羽 英一

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