野良猫2

浅羽 英一

小説

11,893文字

人生を見失った、かつては若かった者の旅路の果て。

秋風は涼やかに、街路樹の葉を振るわせる。風に揺られた金色の銀杏の葉が、キラキラと舞って輝いた。

八王子セレオ北館を通り抜け、タクシー乗り場を左に向かう。思い直して地下の成城石井に寄ってサンテミリオンのボトルとキットカットを買い、くまざわ書店を通り過ぎ、東急スクエア前の信号を左折。ここはいつぞやの都知事選で、鳥越俊太郎が街頭演説を行っていた場所だ。現実的でない夢のようなことばかり並べ立てて、こんな者が立候補するくらいに東京都の政治は腐っているのかと悲しくなった。街路樹は銀杏ではなくポプラに変わる。椋鳥避けのため、鳥が樹に留まる度に『ジギャギャギャギャ』と不快な騒音を立てる。しかも、街路樹は緑・赤・青の煌びやかな電飾に彩られていた。
「うるさい、派手、悪趣味な街……」浅羽は呟く。数年前に出張で訪れた、北京市街の毒々しい原色を思い出した。(xxxと感性が同じだ)

放射線通りを、昔は長崎屋だったドン・キホーテ方向に進む。docomoショップを右に曲がり、怪しい一畳露店を過ぎてすぐ。

テナントリストに“Jazz Bar & cafe ROMAN”と書かれた看板のあるビルの、地下へ向かう階段を降りる。途中の電光掲示板には『Lunch Time』云々。
(time is illusion. lunch time, doubly so. 『時間なんて幻想だ。昼飯時は特にね』)銀河ヒッチハイク・ガイドの格言を思い出す。気配を消して階段を降りきり、開かない自動ドアを手動で開けて中に入る。客は二組。オーナーの高木はカウンター席に座って、iMacで何か作業をしている。意外とハイテクな男だ。
(フッ、……)浅羽は心の中で笑った。高木は店を構えた接客業のため、姿は見えなくとも階段上でなんやかやしている客の気配には敏感だ。その高木の気配察知能力を掻い潜り、今、気付かれないまま高木の背後に立ったのだ。(勝った!)
「……」無言で高木がこちらを見る。「うおおおお!」
「こんちゃ」
「気付かねーよ、そういうのやめてくれマジで!」高木はめっちゃ驚いている。「そんなだから毎回うちのアンジーに吠えられんだよ!」
「あはは、そりゃ失礼」浅羽は高木の隣の席に座った。「どうっすか?」
「ああ、結構ネットから注文入ってるよ。この間もさ、種子島から注文があって、ロケットで届けないといけないのかと思ったよ」高木はiMacに目を戻す。
「確かに種子島っていうとロケットか火縄銃しか思い付きませんね」そう言えば参議院議員会館で、椎名先生もMacを使っていたな、と浅羽はセンチメンタリズムに襲われた。
「オレはそれ以前に△△△で配送できるのかって方が心配だったね。だってただの島だからさ」
「人が住んでた事実の方がびっくりだね」
「あ、悪いけど」高木は、浅羽が椅子に置いたフルートバッグを指差す。「今日はお客さん多いからさ、どっか裏にでも適当に置いといてよ」
「多いの?お客さんが?」浅羽は訝しげに訊ねる。「こんなカウンター席まで埋まるくらい?」
「ああ、かなり目一杯くるよ」
「へー、……」浅羽は前回のライブ風景を思い起こした。ジャズギターのMさんと高木先生とのデュオで、客は三組くらいしかいなかった。この二人の演奏は掛け値なしに世界最高クラスなのだが、どんなことでも、実力と世間の評価は比例しないものだ。そのおかげで、エクセレントな音楽を静かに堪能できるのがこの店なのに。「……珍しいね」
「……そのさ、たまにボソッと本音が出てくるのやめてよ。傷付くからさ」
「あ、ごめん」浅羽は笑う。「だってめずらし、……いや、そんなに集めるなんてさすが高木先生」
「ふふん」高木は笑った。

 

高木と浅羽が出会ってから、次の月末で丁度一年だ。一年前のハロウィンパーティで、……いや、その日は浅羽が会社の忘年会の幹事を押し付けられ、場所を探していたのだ……。

浅羽は、どうせ会社のお金でやるなら好き勝手やろうと、楽器の演奏が可能な場所を探していた。会社の連中との下らない会話で人生の貴重な時間を無駄にするくらいなら、楽器を演奏していた方が一億倍マシだという心だった。

初めて高木の店に入った時、浅羽は楽譜とYAMAHAのトランペット・原朋直モデルしか持っていなかった。幹事などどうでもいい。
「こんにちは」ドアを開けて店に入ると、中にはカウンターの横のテーブルで書類を書いている格好いいお兄さん一人だけだった。
「いらっしゃい」外見年齢三十代半ば、痩せ形、女性のような細い肩に神経質そうな指、厨房用の黒いシャツ、緩くウェーブの掛かった長めの髪、色の入った眼鏡、……。
(ん?)外見的な特徴はともかく、浅羽は何よりも、高木の纏っている気配というか雰囲気というか、それに惹かれた。(似ている……)
「手紙くれた浅羽さんでしょ?まあ、座ってくれ」高木はコーヒーを煎れに席を立った。
(……)浅羽はトランペットケースを床に置き、楽器を出した。生まれてから四十年近く、浅羽は自分が、今までに出会ったどんな人間にも似ていないと認識していた。だが、目の前の男は、あまりにも似ているのだ。顔とかではなく、雰囲気や言葉の使い方が自分に似すぎている。このオレに?いや、有り得ない……。浅羽はウォーミングアップもしないで、いきなりメロディを吹いた。ベートーベンの献堂式序曲、ファンファーレ。
「……」高木が、驚いたような何か別のものを見るような、心許ない微妙な表情で浅羽を見詰めた。「……いい音色だね」

これが、高木と浅羽の出会いである。

或る友人と出会った時にも、人間的な相性の良さやお互いの心の抵抗感の無さを自覚して驚いたものだが、高木の場合はまた違う話で、自分とほぼ同一の人間に見えた。
(もしオレがこの人と何かを作り上げようとした場合、視線が同じだから、同じところで躓くことになるんだろうな)などと、変な心配までしてしまう程だった。

その後、高木は浅羽の音楽理論の師となり、また、浅羽にとって初めて出会った同じタイプの真実の探求者、同じタイプの芸術家、大切な友人となった。

 

「人との出会いは不思議だね」閉店後の店で二人でワインを飲みながら、屡々、高木は言った。「人との仲は、過ごした時間じゃないんだよ」
「ほんとにね……」浅羽は、時間も何もかもが静止したような心の平穏を感じながら、グラスを傾けていた。

 

――

 

大学の頃、偶々某誌の関東大震災特集(表紙も無く、ページも継ぎはぎ状態だったので本当にその雑誌なのか判らないが)を手に入れた。それまでは、昔大きな地震があったという認識しか無かった震災だが、冗談のように人が死に、紙のように街が燃え尽きたということを知った。しかしそれよりも、はぐれた娘と会えた喜びで発狂した親とか、どさくさに紛れて少女達を拉致する海賊とか、そういうエピソードに惹かれた。

極限状態における人間の醜さは後世に書き遺す価値がある。浅羽は直感的に判断した。昔からの文献を調べたが、今まで浅羽の手に入れた題材を使って書いているものは何もなく、現在も他の誰も書く気配がないので、自分で書くことに決めたのだ。そしてこの時点でタイトルを『xxxx』と名付けた。

それから二十年。関東大震災から九十二年。未だ、同じ題材を書く者は現れない。浅羽はこの作品を完成させること以外に、何も興味が無かった。勿論、周りの人間の理解を得られることも無かった。両親や弟や祖父母や、そういうものとは相容れなかった。社会的、就職、結婚、そんなような平凡で安っぽい、無価値な言葉が常に渦巻いていたように思う。しかし浅羽は、よくある中途半端に夢を追うニート紛いのようになる筈もなく、一歩ずつ前に這い進んでいた。自分の意志と運命の強さは自覚していたが、周りの人間の安っぽい好意や下らない人生論を踏み台にして、自身の力を蓄えることだけに専念した。

よくある、孤独との闘いだった。しかし、孤独という言葉の真の意味を理解することができた。そして、自分に足りない能力、ロジカルな思考力と判断力を身に付けるため、技術者としての仕事をしはじめた。フリーライターで日銭を稼いでいた浅羽が、中堅企業のR&Dセンターに入ってから、最初の二年間は二度と体験したくない苦痛の日々だった。

しかし文章で碌な収入を得られない以上、別の手段でお金を稼ぐしか方法は無いのだ。幸い、株式投資がうまくいった時期があって、生活費と取材費用の他に数本の楽器を買う程度の金銭的余裕はできた。そして数年後には、当初の目的であった、徹底的に無駄な表現を省くシャープな思考能力も身に付いた。

 

普遍の価値、真実の美、この世で最も美しいもの、……いつから、これらの存在を知っていたのだろう?いや、最初からだ。浅羽にはこの生き方しかできない。生まれた時から、そうだったのだ。

一体何度、この作品を書き直したことか。自分の文章の完成度は、人間的な完成度と比例する。つまりオレは、人格がフィックスする時期である不惑の歳辺りまで、自分の納得する文章、つまり自分のスタイルを確立できないのではないか?この疑念はずっと付きまとっていた。そして実際、自分で納得のいく文章を書けたのは、三十七才になってからだった。

しかし、出版してくれる出版社はなく、その理由を平均・要約すると『文章のレベルは高く題材的な意義もあるが、現代の小説の文法に則っていないので、売れない』。

 

――

 

九月、吉原神社。
境内の掲示板に貼られている、震災時の遊廓の地図を指差しながら、浅羽はギタリストのM氏と、色々のことを話していた。
「角海老、稲本、これが大文字。最も格式の高い大籬と呼ばれていました」浅羽の説明に、M氏は静かに頷いていた。

M氏は天才を持ったギタリストであるが、有名とは言えなかった。音楽やジャズに対する深遠な理解と演奏技術、そして何よりも普遍の価値を持つ音色は他の追随を許さないが、高すぎるレベルと愛想の無さは、一般のミュージシャンからは敬遠されているらしかった。彼は神社仏閣、古い慣習や記憶、名もなく死んでいった人々というようなものを尊重する心の持ち主で、この日は浅羽も彼に誘われて三ノ輪近辺を散策していた。

境内を出て、観音像へ向かう。震災時、廓内で死んだ者達を弔うために建てられたものだ。常に悲しみに似た静かな雰囲気に湛えられていて、時々は明らかに何かの意思を感じることもある。

 

――

 

昨年の四月、丁度xxxxを書き上げて懸賞に応募し、その報告にここを訪れた時。そもそも、xxxxに吉原の一節を含めようと思ったのは、四・五年ほど前に初めてこの観音像を見た時だった。吉原の惨状は話には聞いていたが、遊廓や風俗店などにはあまり興味が無かった浅羽は、書く気も調べる気も無かった。だが、この観音像の前に初めて立った時、何かに腕や脚を掴まれる感覚と、尋常でない背筋の寒気、その他の異様な感覚に襲われた。その瞬間、吉原の惨状が想像を超えるものだということを理解したのだ。
(判った、書き遺そう)これが発端。
(書き終えた)これが昨年。線香に火を点け、目を閉じていた。(あまりうまくは書けていないかもしれない。だがオレは、どんな境遇でもその中で毎日を必死に生きる、普通の女性を描きたかった)

心の中で呟いて目を開ける。すると、青く晴れた空に浅羽の周囲だけ、ザーッ、と透明な雨が降りしきる。そして一瞬遅れて、雨水に打たれた周囲の桜の花びらが、バサッ、と落ちてきた。

 

――

 

「今は、何か感じるの?」M氏が訊ねる。ここに来る前に訪れてきた浄閑寺で、やはり何かにまとわりつかれる感覚と寒気に支配されていたからだ。
「いえ、今は特に……」浅羽は応えた。
「そう」
(古い記憶、思念。百年近く経っても、人の遺志は残るのか。……本当に?)これが今年、先月の初め。

 

――

 

浅羽は『xxxx』を出版することに決めた。結果的に、或る友人の影響で……。

その友人は、大学の同級生だった。偶然ではあったが。しかしその偶然によって、浅羽は嫉妬や羨望も少し含んだ、何かの感情に苛まれることになった。友人は音楽を生活の糧にできている。だがオレは、――

勿論、浅羽は友人の音楽を、恐らく誰よりも好んでいた。しかしその分、自身の作家としての境遇に、劣等感に近いものを感じていた。
「どんな小さなことでもいいから、自分の足跡を残しながら生きるべきだ」友人と自分の人生を比較してしまう浅羽に、高木は良く言った。「才能があればいつかは大きく世に出るだろう。だが、それでも小さな足跡を残しながら日々を送ることが大切なんだ。オレの経験ではね」

 

浅羽はxxxxを出版すると決めてからも、実際に世に出すまでには時間を必要とした。特にxxxxは、デリケートな問題である災害や事件の話を書くので、そういった意味ではリリース前に、己の良識や筆禍の恐怖と向き合う時間が必要だった。作家として、少なくともお金を払って読んでくれる読者が存在する以上、プロとして自分の文章に社会的な責任を負わねばならない。

また、努力が見える文章は素人のものだという信念も、躊躇させる一因だった。物事は結果が全てで、過程や事情は不要だ。オレの書く文章に、そこまでの力はあるのだろうか……。

 

しかしそんな浅羽に、物事を為し遂げようとする過程にのみ存在する普遍の価値、というものを教えてくれたのはその友人だった。結果とはやはり過程を包含するものなのだということを、自身の生き方を以て教えてくれた。これは当たり前のことなのかもしれない。しかし、当たり前ではない。

こういった意識の微妙な変化は、文体に直接影響を及ぼす。浅羽の文体は変化した。もう以前のような文章は書けない。もう、『xxxx』は二度と書けないのだ。

音楽はその場だけの時間で消えてしまうものだが、文章はその場だけの時間によって固定される。文章は永遠に残る。書いたものが死した後も、永遠に。――

 

――

 

浅羽はxxxxを世に出す時、初めて電話回線からインターネットに接続した時と同じ感覚を味わった。『世界に繋がる』という、自分の前に永遠に通じる新しい道が開けたようだった。

xxxxは売れなかった。しかし、想定の通りには売れた。一定の割合で、何らかの要因で細々と読まれ続けていた。つまり、本当にこの本を必要としている人達に、確実に届いていることが判った。
(これでいい。いや、上々だ)浅羽は一人、満足する。(これは、五十年・百年と読まれ続けて残る売れ方だ。オレはそれだけの価値のあるものを、既に作ってしまった。――)

 

xxxxの売れ行きを暫くの期間眺め、もうこの作品は浅羽の手を離れて、放っておいても後世に残るということを理解した時、浅羽は生まれて初めて、持っている全ての力を抜いて立ち止まった。何も考えず、何も向上させず、何も求めない。四十近くになって、今、やっと、一度立ち止まって自分の人生を振り返ってみる心の余裕ができたのだ。そして改めて自分が歩んできた道と、費やしてきた対価を冷静に見つめ直してみて、今まで目に入らなかった恐ろしさを感じ始めていた。

 

――二十年という期間は長すぎた。

 

ここで、初めて気付いたのだ。失ってきた若さと、健康と、自分が傷付けてきた人達と、無くした多くの信頼と、……

 

独りで街を歩きながら、目に付いた名も知らぬビストロに入り、テラス席で遅い昼食を摂る。忙しなく行き交う通行人を眺めながら、ワイングラスを傾けて物思いに耽る。今までの人生で、数えきれない程繰り返してきたことだ。しかし、――浅羽の目に映る光景は、何かが変わってしまっていた。制服の着方が汚ない女子高生、言葉の乱れた大学生、みすぼらしいスーツ姿のサラリーマン、節操なく肥えた中年、特筆すべきことのない大したことない人生のさらに残り滓の老人、……

彼等には平凡で詰まらない人生しか無い。しかし、彼等はそれ以外に人生を知らないのだ。疑問を持つこともなく、何かを作り出すこともなく、他の誰かが作ったものを享受して無駄な時間を潰す。そして毎日、誰にでも代わりの利く、仕事のようなことをして無為に日を過ごす。誰かが作った組織のお金や設備を使って、組織の言う通りに行ったことを、自分の成した大きな仕事だと錯覚しているのだ。そこにはクリエイティブな要素は何もない。

しかし、と浅羽は考える。それが一番、幸せな生き方なのではないだろうか。平凡で詰まらない普通の人生が、一番人間のあるべき姿で、一番幸せなことなんじゃないか、……

ラタトゥイユをフォークで玩びながら、目の前を通る人間に再び視線を移す。輝くような若い恋人同士、飛び跳ねる子供を中心とした家族連れ、お互いを支え合っている老夫婦、――

今まで、あれほど見下して拒絶してきたものが、こんなに美しく感じたことは無かった。そしてそれは、オレにはもう永遠に手に入らない。オレが作り出して、そしてこれからも作り出していく作品に、これらの幸せと引き換えにしたほどの価値があったのだろうか?

浅羽は自分の心に揺らぎを感じながら、残ったワインを飲み干した。

 

――

 

新宿。南口改札を出て、ミロードを歩いていく。ハロウィン柄のエキセントリックなカットソーが飾られている紫色のANNA SUIの反対側、中が見えないようにパーティションで区切られた細道に入る。

O百貨店、従業員出入口。

百貨店は、……特に鉄道系の百貨店は、全体的に社員の人間的な質が低く、あまり関わりたくないところだ。ただでさえ百貨店は商人の世界で、社員はお金のことを毎日考えるのが仕事のため、幸薄い人相の者ばかりである。こういう者達と関わるとこちらの運気まで吸いとられるので、可能な限り近付かない方が良い領域である。だが、そうとばかりも言っていられない状況はある。特に浅羽は、作家を生業としている。イレギュラーな事態は常に起こり得るのだ。――

 

「私はね」Y美が当たり前のように言おうとする。しかしその言葉には、長い時間を掛けて得られた確信があるだろう。Y美もまた、真実の探求者なのだ。「そうやって自分のスタイルがあって、自信を持って活動している人たちが、ちゃんと正当な評価を受けられるようになって欲しいと心から思ってる」
「そうだね」浅羽は目を閉じ、少し物思いに沈む。「それは、そうなんだ」
「小湊くんはね、すごく才能があって色々なことをやっているけど、オークラウロの復刻を任されたり、嵐の和楽器を任されたり、ちゃんと評価されて実力に応じたものを得ているの。本当にすごいなって」
「そっか、羨ましいね……」浅羽は腕を組む。
「Mさんは、他の人とはレベルが違いすぎる」Y美はM氏のバンド『R――』のメンバーだ。山田流教授で、盲検校・宮城道雄の開発した化け物楽器『十七絃』の使い手でもある。「政志さんは他の人達に声を掛けられて一緒にやっても、明らかに他の人より演奏が良すぎて目立っちゃうから、段々声を掛けられなくなったりとか、そういうことたくさんあるんだよ」
「そっか……」浅羽はM氏の音色を思い起こした。「Mさんの音色は、私が知る限りのギタリストの中では最も美しい音色です。ただ美しいだけじゃなくて、普遍の価値、普遍の美を求める者に特有の響きがある」
「そうやって、判ってくれる人がいて良かった」
「いえ、私も嬉しいです」浅羽はY美の茶色の瞳を見た。「思うんだけど、 」
「うん?」
「Mさんって、今のジャズミュージシャン達とは関わりたくないんじゃないかな?レベルが違いすぎてつまらないんじゃない?」横を向き、通路を行き交う人々を眺める。「私もMさんと同じタイプの人間だから、判るんだ」
「そうかもしれない。先人たちと会話しちゃってるからね」
「そうだね、――」言い掛けて、通行人が一人、こちらへ歩いてくることに気付いた。
「あの……、八王子の?」浅羽より少し歳上くらいの女性。生活感にまみれているので、パート帰りの兼業主婦、といったところか。顔に見覚えはない。
「うちをご存知でしたか?ありがとうございます」話を始めると人が集まってくるので、ついでに説明しておく。「この『煮かつサンド』は八王子の名物で、五十年前から地元では愛されているんですよ。味も普通のソースカツのサンドイッチとは全然違って、醤油ベースでコクと深みのある味わいの、全く別の食べ物です。正直、これを食べたら他のカツサンドは食べられなくなります」

とりあえず、浅羽は接客しておいた。

 

――

 

雨。お気に入りの傘が手許にあれば雨もまた心の潤いになるのだが、十年以上使っていたゴルチエの傘は数年前に無くし、その後愛用していたやはりゴルチエの(握りが頭骸骨で可愛かった)折り畳み傘は、本当に唐突に行方不明になってしまった。
「憂鬱だ……」コンビニで買った五百円のビニール傘を眺め、浅羽は顔を曇らせる。「もう、会社はイヤだな……」
「辞めちゃいな」キッチンで玉子焼きを作りながら、あっさりと高木が言う。「それでウチで働きなよ。ただで」
「……ひでーこと言う」
「あはっ」高木が笑う。「でも、よくそんな会社員なんて続けてられると思うよ。マジで」
「オレもそう思う。会社員なんて何もいいことないよ?」
「そうだよ。会社員なんて、ずっと続ける訳にはいかないんだからさ、いつか辞めるなら、今辞めても同じさ」高木が昼休みと思われるサラリーマンの客も気にしないで言う。「会社員なんて会社の意向で動くしかないんだから。クリエイティブの欠片もない。プアなんだよ、生き方が」
「ま、そうだよね」浅羽は全面的に同意する。「オレは技術者だからまだマシだけど、……」ワイングラスを傾ける。今日のワインは近くのセブンイレブンで買った千円くらいのチリワインだが、値段の割には飲める。「それでも、会社の資産を使って会社の指示で作ったものなんて、オレの力で作ったものじゃない。オレの人生にとっては何の価値もない」
「そりゃそうさ……」
「でも、それだけが自分の仕事だと信じていて、人生の全てである人間の方が、圧倒的大多数なのが現実だ。本当に下らない。下らないけど、そういう人達を否定してはならない。彼等は何も知らないだけなんだ」高木のスマートフォンを一緒に見せて貰って、天気予報を確認する。「まあ、オレはそんな奴等の平凡な人生なんて、片っ端から否定してやるけどね」
「まあな、――」高木が表の階段を見詰める。誰かの気配を感じたらしい。
「だからオレはさ、高木先生がそうやって、ああいう人達と普通に接していられるのが不思議でね」高木の視線の先から、一人の男が階段を降りてくる。高木の店を担当している、銀行員だった。
「ま、大切な取引先さ」高木は静かに微笑んだ。

 

――

 

不恰好な拳銃。

第一印象はそれだった。大きめの口径にやや短い印象のバレル、何よりもがっちりした感じのフレームに対してグリップが小さく、足の短い象のような印象を受ける。しかも話には聞いていたが内部機構が露出していて、トリガーを引かなくてもシアーバーを押し込めばハンマーが落ちる。「なんだこれは?」が見た目からの感想だ。

しかし、だ。この拳銃は、一度手に持つと印象が激変する。見事に掌に馴染むグリップ。日本刀の握り心地を目指したと言われる十四年式のグリップも素晴らしかったが、この九四式は全く別の感覚だ。上質なチョコレートの口溶けのように、滑らかで泡のような、手に溶け込んで持っていることを忘れかけてしまう。重量バランスも良く、手にしっかりと固定される。そして通常の拳銃とは逆の、フレーム内に収納されたスライド機構と、外部に露出したシアーバー。ラッチが下がるのが外から見えるショートリコイル機構。重いトリガープル、マガジンを抜くとトリガーを固定する安全機構。手に持たれることを意識したデザインと、繊細なメカの動きを動かしながら観察できる機構設計。美しい。インダストリアル・デザインとしても最高クラス。優美で女性的な二十六年式に対して、武骨で男性的だがナイーブな九四式。日本の拳銃は美しい。軍刀にはトランペット、拳銃にはフルートが良く似合う。

 

――

 

蕨OurDelight。天井がコンクリート吹き抜けになっているライブハウスだ。客席も少なく、落ち着いて時間を過ごせる。

日本屈指のトランペッター・Hが時々演奏をしている場でもある。

高木曰く「H君とは何回か一緒にやったことあるよ。すごくちゃんとした演奏をするトランペッターで、すごくいい人」

M氏曰く「現代には珍しく、ちゃんとしたトランペットを吹く人」

二人とも、申し合わせたように『ちゃんとした』という単語で表現し、しかも珍しく、掛け値なしに誉めるのだ。そして浅羽の認識としては「世界最高の、素晴らしい楽器を開発した人」。YAMAHA YTR-8335GH。コルネット奏者だった浅羽が何の気なしに楽器店で試奏して、一撃で脳髄を殴られたような衝撃を受け、その場で買った楽器だった。その時はまだ原のことは名前も知らなかったのだが、その後色々あって顔見知りになっていた。
「H先生、こんばんは」浅羽にとっては師の師にあたり、かつ、高木の友人なので敬称は先生となる。普段はそういうことは全く気にしないのだが、トランペットの師には色々迷惑を掛けたので気を遣っている。尤も、高木を先生と呼んでいるのは『なんとなく』であり、M氏をさん付けで呼んでいるのは『友達だから』である。高木とM氏と或る友人の三人は、浅羽にとって特別なのだ。三人とも、浅羽がフルートを手にしてから出逢った。つまりこの一年で三人も、心から大切だと思える人に巡り会えたのだ。今までの人生で気に入った奴や友人や恋人は存在したにせよ、人間を大切だと思ったことなんか一度も無いのに、……
「良く来てくれたね、ありがとう」Hは気さくである。「楽しんでいってね」
「はい」ステージに立つHを浅羽は見送る。(H先生の楽器は、H先生が使うのが一番良い音がする。当たり前だが)

コンクリートの壁に、指向性を持って遠鳴りするHの音色が響く。以前はHもオーバーブロー気味に吹いていたが、今はアンブシュアを研究したらしく、ピアニシモに近い音で遠くまで響かせる。と、トランペットの師が言っていた。
(オレもこういう音を出せるようにならないと)

 

ライブが終わった後、商店街をぼんやりと歩いていると、不思議な既視感に囚われる。
(そうだ、……この街は)五・六年前に付き合っていた女性が経営していた店がこの街の、ここからすぐの場所だった。(よく覚えていないが、どのへんだったか?それ以前に、どんな人だった?ダメだ、思い出せない)

しかし、『私のことを考えてくれない』『他人の気持ちを判ろうとしない』と言われて振られたような記憶はある。
(そりゃそうだ。オレはxxxxを書くことしか考えていなかった。それ以外に興味は無かった。人には言えないが、それが本音だ……)

浅羽はふと、路地を曲がる。
(このフェンスに看板、見覚えがある。このビルだったような気がするな)

何となく、外からビルを見上げる。すると中のエレベーターのドアが開き、一人の女性が三歳くらいの女の子を連れて外に出てくる。

「パパは?」子供が女性に訊ねる。
「本屋さんで待ってるって」女性が答え、女の子の手を取って浅羽の前を通り過ぎる。

 

浅羽は、トランペットケースを握り締めて、駅へ向かう。

 

――

 

一体、どうしてこんな人生を歩むことになってしまったんだろう?
「人は常に、小さなジャッジを繰り返して日々を過ごしている。どこかで必ず、その時その時で最善と思われる決断をしているんだ。だから、後悔をする必要はない」高木は言う。

先生、オレにもそれはよくわかるよ、だけど、――
「自分は間違っていない。それは間違いない、と信じるしかないね」言いながら高木はコカ・コーラを飲んだ。

だが、オレは今になったから判る。平凡で人並みの幸せほど、大切なものはない。オレは、オレ以外の誰も持っていないものを手に入れつつある。その代償として、オレ以外の皆が持っているものを、永遠に喪ってしまった、……

 

早朝、四時。眠れないままに一人、失われた青春時代をフラッシュバックさせる。大学を出た年に出版した短編集、あれがオレの若さと血の代償であり、全てのプロトタイプだった。あれが当時のオレの全力だった。もう印刷した本は全て知人に配ってしまって、残っていない。だが、オレの青春時代と引き換えにあれを作って、小さいが社会の歴史に刻み付けたのだ。それが、社会に対するオレの最初の実績だ。あの短編集が無ければ、今のオレはない。

一太郎の文書データをバックアップしていた3.5インチフロッピーを探し出し、USBのFDDに入れた。
(これが、オレの大学時代の全てなのか……。そして、オレのプロトタイプ)

自分の原点を見詰めるため、忘れ去っていた言葉を手繰る。――

 

(2016.10.17)

2019年7月7日公開

© 2019 浅羽 英一

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