母の記憶

浅羽 英一

小説

6,459文字

母に関する記憶を、私の脳機能が保たれている間に記録しておく。

――

 

三歳くらいの時だと思う。

小さなアパートの二階に、母と父と私の三人で過ごしていた。

月に一度、向かいのお寿司屋さんに食事に行くのが母の楽しみで、私が卵焼きを喜んで食べているのを見て、幸せだったらしい。

 

――

 

半年くらいで、父の実家へ引っ越した。理由は判らない。

父の家は元は領地に下ってきた武家とのことだが、今は半官半農の田舎農民だ。N社の社長令嬢であった母が、薄汚い野良作業服に泥だらけで農作業をしている姿は、後から考えれば屈辱的なことだったのだろう。

文化的な生活を忘れないよう、洋裁などは教室に通って習っていたようだ。後年、再び引っ越して以降、父の実家で出されていた料理類を母が作ったのは、二回しか見たことが無い。

 

――

 

父の転勤で、何度か住む家が変わった。

小学校への入学と同時に、S市へと移った。父に関しての精神分析は時間の無駄なので避けるが、母と私に対する暴力と心理的虐待が延々と繰り返されていた。

これは私の記憶には無く聞いた話だが、小学一年の時に私は母に向かって『父さんも、父さんと結婚した母さんも早く死んで欲しい』と本気で訴えたらしい。母は私をカウンセリングに連れて行って、心のケアを試みたようだ。結果は聞いていないが、未だに同じことを思うので無駄だったのだろう。

 

数ヶ月後、父の暴力に耐え切れなくなった母は鞄一つを持って、私と家を出た。

駅に向かう途中、私が『父さんは一人で生きられるの?』と聞いてしまい、母は父を捨てられず、結局夜には家に戻ってきてしまった。父親が仕事から帰ってきたのはそれよりも後で、私も口止めをされていたから、父親は死ぬまでこのことを知らなかったはずだ。

もしこの時、私が余計なことを言っていなければ、母と私の人生は少なくとも今よりはマシなものになっていたと思う。これだけが、私の人生で唯一後悔している点だ。人生は常に小さなジャッジを繰り返していて、その時その時で最善の判断を選択しているはずだから、後悔という概念に本来は意味は無い。しかし、これだけは断言できる。この選択は間違っていた。

この時、母親を逃がせていれば、或いは今頃は、――

 

――

 

小学三年の時、弟が生まれた。市役所から誕生記念にモチノキの苗が贈られ、庭先に植えられた。
弟は年も離れていて可愛かったし、母親は弟を産む時に子供が出来ない身体になったから、大切にしなければならないと思ったことを憶えている。

しかし当然、父と、父と離れられない母とを両親として生まれてきて、不運な人間だと思ってもいた。

そしてそんな両親を憎んでいる、私のような兄の存在も。

 

――

 

母は、何故かこの家にいる時が一番心が落ち着くらしかった。

母は自分の理想として描いている家庭、――恐らく自分の実家の雰囲気に、この家庭を近付けるのを人生の仕事と感じている節があった。それは丁度、何も知らない少女が、おままごとの登場人物に役割を強いている印象が強かった。

私は最後まで、母に対してこの印象を拭うことが出来なかった。

 

弟は少しずつ言葉を覚えてきて、会話も成り立つようになってきた。

アパートの庭から先には、高い建物の無い平地が続いていて、建設途中の渋川伊香保ICを超えて遠く赤城まで見渡せた。私は毎年夏になると、長く広がる山の中腹にある銃弾型のサージタンクと、陽の光を反射する山頂の観測所が一緒に入るように、弟のモチノキを写真に収めていた。

それは学研の科学の付録の、小さなインスタントカメラだった。付属の印画紙は五枚。私は正確に毎年一枚ずつ、写真を撮っていた。モチノキの生長は想像よりも早かった。だが、先端の少し曲がった部分は、いつまでも変わることは無かった。

 

――

 

中学の時、C県へと移った。アパートは引き払ったが、弟のモチノキはそのままにされた。

母は相変わらずだった。家族ごっこを演じながら、田舎の無教養なご夫人連と些細な話をするのが楽しいらしかった。

弟は小学校に通い始めた。彼の読書量の少なさと知識の無さに内心驚いていたが、母曰く、これが普通らしい。

 

――

 

高校の頃に一度、母に詰問したことがある。
『何故、あのような男と結婚したのか。結婚するのは勝手だが、作られた子供は迷惑だ』と。

それに対する母の返答は、次の通りだった。
『子供ができれば、変わると思ったから――』

 

何十年生きているのか知らないが、人間の成熟と発達心理に対してその程度の認識しか持てないのか、貴女の教養は?

この時以降、私は人生や将来について、母と話をすることを止めた。

 

――

 

大学の時、父に言った。
『これまでのことも含めて、今の発言は絶対に許すわけにはいかない。今後、テメーが倒れて寝た切りになろうがどうなろうが、オレは知らない。葬式にも出るつもりはない。この国に法律があることが残念だ。何故ここまで侮辱されて、オレがテメーを殺すことが許されないんだ』

そして、母に言った。
『今のこいつとオレの言葉、聞いた?こいつの葬式に呼んだら、永遠に恨むからね』
『分かった』母は動揺しながら言った。

父は、無様にブルブルと震えながら、怒りの形相で無言だった。

 

――

 

社会に出てからは、母とほぼ接触は無かった。

三年に一度くらい、何かがあった時だけ会っていたように思う。逆算すると、私が完全に両親の家を出てから母が死ぬまでに、四、五回しか会わなかった計算になる。恐らく、その数値は正しい。

だが母は、私が母や父とどんな仲になっても、どこか根底では繋がっていて、信頼関係は途切れないとずっと信じていたようだ。

 

――家族だから。言葉には出さなかったが、母の態度を見ていて、痛いほどそれが分かった。

 

しかし精神的な信頼関係など最初から無いし、家族などという根拠のない想像は私には理解できなかった。

相手の人格や才能を否定し、自尊心を傷付ける言葉を繰り返し繰り返し言い続けて、子供の心に消えることの無い深い傷と自己否定のループと憎しみを植え付けることが、家族の信頼関係というものなのか……。なるほど。
『貴女の結婚生活はオレには興味ない。オレは貴女の仲間じゃない。オレを巻き込むな。貴女の旦那は結婚した責任で貴女が勝手にどうとでもしろ。自分の力でね』

人の心は言葉にしなければ、絶対に伝わらない。言わなくても分かりあえるなど、思い上がりも甚だしい。

はっきりと母を拒絶する言葉を口にした時、彼女は微笑んでいた。しかし、彼女の中で何かが終わったような、……母と私の間の、目に見えない何かが切れたのが、感じられた。多分、傷付いたのだろう。

 

――

 

何かの手続きで両親の家に呼ばれたある時、たまたま稽古着を持ってきていたことがあった。特にすることも無かったので着替えて帯刀し、姿勢を正す稽古をしていたら、母に写真を一枚撮られた。

しかし、その写真は残っていない。何かが写っていて、処分したらしい。

 

別のある時、母と話していたら、母の鞄に取り付けられていた金具が、スルッと落ちてガチャリと音を立てた。構造的に人の手で外せる物では無く、壊れた形跡も無かった。

やはり母と話している時に、テーブルの上のコップがいきなり、カシャッと半分に割れたこともあった。

私はそういった現象は完全に無視するようにしていたが、確かに何かが母と私が会うことを望んでいないような、あるいは母と私が心の底から反発し合っているような、そんな感覚は以前から感じていた。

どちらも台所での話だから、多少心配したことも覚えている。家庭の主婦を呪う場合、台所に影響が出るからだ。母親ではなく、またあの父親が、人の憎しみを買ったのではないだろうか、と。私の知ったことでは無いが。

 

――

 

それでも母は私に対して、信頼を失わなかったことが一つあった。弟のことだ。

私は、弟は可愛がっていた。だが、彼はものを知らなすぎるため、心を開いて会話したことは一度も無かった。

母は、私が父と母を嫌う代わりに、弟を大切にしていることは安心しているようだった。

弟は両親のことを好きらしい。どうやら父は、私の子育てに失敗した経験から、弟は虐待してこなかったようだ。もっとも、母は何も変わっていないのだろうが……。

 

――

 

二十代が終わりかけていた頃、母が末期ガンで入退院を繰り返していると聞いた。

何故、父よりも母が先なのだ?というのが率直な感想だった。父は、今さら人が変わったように母に献身的に看病しているらしい。夫婦のゴチャゴチャや確執は適当によろしくやってくれればいいが、その下らない家族ごっこに巻き込まれて傷付けられた子供は何を考え、今後生きていくのか……。そこに思い至らないのが、世の中の親というものなのだろう。

 

――

 

母が一度目の大きな手術をして、しばらく自宅療養していた時、だったと思う。

しばらく会っていなかった母は痩せ細り、肌から生気が抜け、放っている気もザラザラとノイズの乗ったような、明らかに死が近付いてきていることを感じ取れる様相だった。

以前に医療系雑誌に関わっていた私は、五年生存率がどうとか寛解後の投薬の継続がどうとかセカンドオピニオンがどうとか、専門的な知識を母に共有しようとした。恐らく、その時の母が必要としていたものは全くそんなことではなかっただろう。しかし、他には何も話すことが無かったのだ。今思えば、私もライターとしていくつかの資料や記事を作っていたので、そういうものを見せれば喜んでくれたのかもしれない。しかし当時は、幼少期から両親に散々否定され続けてきた才能による実績を彼等に見せるなど、本気で吐き気がしたのだ。

 

その夜、母が料理を作ってくれた。

茹でて粉吹き状にしたジャガイモを丁寧にすり潰し、牛乳を混ぜてタマネギのみじん切りを炒めて衣を作って、と、恐ろしく手間の掛かるただのコロッケなのだが、私は小さな頃からこのコロッケが好きだった。

母はこねたコロッケの種を溶き卵にくぐらせたり衣をつけて油に落としたりしながら、無言・無表情のまま、瞳の奥にずっと諦めに近い微笑みを伏せていた。

 

私にはその無表情の微笑みの意味が分かった。

これが私に作る最後の料理になる、と知っていたのだ。こればかりはどうしようもない、分かるのだ。本人も、私にも……。

 

こんがりとキツネ色に揚がったコロッケに薄緑色のキャベツの千切りを添えられたお皿が私の前に置かれた時、私は突然『最後』という二文字を突き付けられたように思った。

母との関係は、もう少し、うまくやれなかったのだろうか?

いや、仕方が無かったのだ。母には母の人生があるし、私には私の人生がある。私たちは別個の人格なのだ。
『美味しい』
『良かった』

身体が痛むから、と寝室に戻る母を見送り、テーブルの上に視線を戻して食べかけの料理や普段使いの調味料が視界に入ると、急に涙が溢れて止まらなくなった。

 

――

 

母が腰を痛めて、医者に行ったが、ぎっくり腰だったらしい。特に心配は無いが、偶には顔を見せてくれ、云々。

 

恐らく初めて、父からメールを受信した。誰が教えたのか知らないが、後で携帯を解約しておく。

それはともかく、相変わらず知能の低い男だ。状況から判断して、骨転移に決まっている。

 

――

 

古ぼけた、ネット評判の最悪の病院に、母は入院させられていた。

筋肉の無い手足は縮こまり、ほとんど硬直している。壊れた笛のような呼吸音、うつろな表情の顔はまともに見られない。恐らく絶え間ない全身の痛みと、それ以外のあらゆる身体的苦痛に苛まれているのだろう。しかし呼び掛けには反応があり、酸素マスクを苦しがって避けようとする。意識が清明なのが分かる……。最悪の状態だ。

これが、同じ人間なのだろうか?何故こんな病院を選んだ?そもそも、何故いつまでもこのような文明から阻害された辺境地に居を構えていたのだ、テメーらは……。

 

それは、一人の人間が受け得る全ての肉体の苦痛を具現化した姿だったと、今でも私は思い出す。

 

――

 

こんな夢を見た。

どこかの河原で、白い着物を着た母が、無表情のまま私を見詰めている。その姿は若く、肌も白く瑞々しく、写真でしか見たことのない二十代の頃の長い髪型で、私を無感情に見詰めていた。

私は何か言おうとしたが、口を突いて出てきた言葉は、父と結婚して子供を産んだことを責める言葉だけだった。そんなことを今さら言いたくは無かったのだが、綺麗事ではなく、私の心の底でずっとその感情だけは消せなかった。

母は私の言葉を聞くと、何の感情も見せずに無言で背を向けて、川の方に歩いて行った。

 

『母さん!』

 

手を伸ばして届かなかったところで目が醒めた。

その日、仕事中に、母が亡くなったと連絡を受けた。

 

――

 

母の死に顔は、綺麗だった。それだけが安心した。苦痛の色と共に、人間的な世俗の濁った汚れも落ちたように清らかだった。
『綺麗ね』誰かが言った。人の死に顔に対して、それ以上の褒め言葉は無いだろう。

元々、育ちの良い、教養ある美しい女性だったのだ。それは知っていたのだが……。

 

――

 

数年経って、たまたま昔住んでいた家、――弟が生まれた時の家の前を通ったことがある。

小さな古ぼけたアパートだが、外観だけでも残っていたのは奇跡的だった。しかも洗濯物が干してあるところを見ると、誰か人間が住んでいるらしい。

庭先に植えられていた弟のモチノキは、跡形も無くなっていたが。

 

――

 

二年前、父が死んだ。遅すぎる。

両親との約束があったので関わる気は無かったが、弟がわざわざ電話をしてきたので、仕方なく参列した。

 

弟の言動は、いつしか父親のコピーそのものになっていた。

いや、それはずっと前からだ。いつからそれに気付いていたのだろう?弟が高校くらいの頃か。

特に、弟の自身のご夫人に対する態度や言動は、父と寸分変わっていない……。

 

――

 

こんな夢を見た。

私と弟が、食卓に向かい合って座っている。

私は弟よりも他に話をしたい友人がたくさんいるので席を立ちたいのだが、母が食事の用意をしてくれている。仕方なく、待つしか無かった。

母はゆっくりとお箸やお膳を私と弟の前に置いていく。しかし母は無言で、顔は私からは見えない角度になっている。

 

夢から醒めて数日経ってから、ふと気が付いた。

人は、自分の涙を見せないように隠そうとすると、あの顔の角度になるのだ、と。

 

――

 

弟と連絡を切ってから、一ヶ月ほど経った日。

古い書籍で調べ事をしていると、部屋の中から女性のすすり泣く声が聞こえる。

最初はどこかのカーテンがずれたか何か落ちたか、あまり気に止めていなかったが、その泣き声は部屋の中を動き回りながら私の近くにいるのだ。

書籍を解読するのに集中力が必要だったし、害は無さそうなので無視していたが、心当たりが無かったので少し意識を割いて泣き声の聞こえる理由を考えた。

そして思い出したのだ、この日が、母親の誕生日だったことを。

私と弟が関係を絶って、一番悲しんでいるのは母親に間違いは無いだろう。

 

『ハッピー・バースデー』

 

声を掛けると、部屋は元通り、静かな独りの空間に戻った。

 

――

 

母に関する私の記憶は、人前に書けるものはこのくらいしかない。

今後これ以上増えることはないであろうから、この場を借りて記録させていただく。

2019年8月15日公開

© 2019 浅羽 英一

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