文芸部の冊子が出来上がったとの連絡を受け、ぼくは私鉄に乗って約一ヵ月ぶりに大学にむかった。受取りを拒否するという選択肢もあったし、ぼくがその選択をするだろうとの想定のもとに行われた連絡であるのはあきらかだったが、あえて向こうの術中に嵌まってやる謂われなんぞこちらにはない。なんとなれば、ぼくの所為で部内の雰囲気が悪くなったという指摘は言いがかりでしかなく、としごろの男女がひとところにいて、それが恋仲に発展し、挙句に終焉を迎えたとすれば、これはまったくしぜんなことであり、そうほう言い分もあるだろうし、げんにある。どちらかが一方的に悪いということもないし、そもそも善悪の区別をここに持って来ること自体、たわけた話である。終わったことは終わったことだ。少なくともぼくには終わったと思う権利があるし、そう思い込んだとして、それに対し、やめろという権利は誰にもない。それでもぼくに言いがかりをつけてくる奴が部内に一定数いるのは、ユリが文芸部の紅一点であり……、まァ、紅一点だという以上の理由はないだろう。ぼくの審美眼に照らしても、彼女は決して美しくなく、否、美しいかどうか問われたとして、それを真剣に考えること自体を早々に放棄してしまうだろう。考える時間が勿体ないからだ。少なくともユリは女であり、女でしかなく、しかし男十人の中に女一人となると、女でしかないことが途端に輝くのだ。げんにこのぼくにも輝いて見えた。むろん、それは幻想でしかないし、実際に同衾して、その場限りはなるほど輝いて見えたとしても、次の日の朝、サイダーで溶かしたような朝日に照らされたユリの顔面は、はっきり枯れていた。いや、たとえ咲いたところで、という感じであった。物理的に光がある自動販売機であればまだしも言い訳が利くが、居酒屋の光の下で咲いた輝きは、たんに嘘である。そもそもぼくはそれを知っていたはずだった。だが、生ビールをかこんだテーブルの上で彼女を取り合う戦いが目のまえで繰り広げられていたとすれば、しぜんとぼくもそれに参加せざるを得ない心持になるのはこれ仕方なく、それは単にただ呑むだけでは暇だからと理由をつけても良いが、たしかにそのときユリは輝いていた。輝いて見えたわけである。しこうして、ぼくは戦い、勝利した。ユリを勝ち取って、その戦後処理のごたごたが三ヵ月経ったいまも尚つづいているというわけだ――と、電車が大学の最寄り駅に止まった。降りると、目の前に宮本が立っていたのでさすがにギョッとした。それは宮本も同じであったらしい。一秒ほどぼくの方が気持をととのえる時間を多く得たことにより、先手を打つことが出来た。すなわち、ぼくは彼に向かって、「おう、ひさしぶり」と声をかけることに成功したのであった。宮本は、おお、とかなんとかことばになっていないことを言い、どうしてよいものか、ともかくは目線をはずした。ぼくの腕時計は四時を少し回ったところをしめしている。「あれ。今日部活ないの」とぼくは問うた。「いや、あることはあるよ」と、電車に乗り込むことがかなわなかった文芸部員はこたえた。そうして、「ただ、ちょっと行きづらくて」とつづけた。「なんでお前が行きづらいんだよ」と問うと、「いや、ちょっと、ユリと……」と言って、後は察してくれということらしかった。「まあ、あれだよ、お前と一緒だよ」。そう言って宮本は貝のごとく押し黙った。なんということだろう。ぼくは適当に別れの言葉を言って駅をあとにし、大学までの長い坂を行き、部活棟に足を踏み入れた。いつにもましてそこの空気は澱んでいた。が、ユリが輝いて見えたのと同じくそれが幻想であるのは間違いなかった。ただそんなふうに感じただけのことである。しばらく奥に進み、ぼくは文芸部の部室の扉を開けた――が、次の瞬間、ぼくの目に飛び込んできたのは、まさしくユリ。ユリただ一人であった。貧弱なテーブルの上に冊子を重ねて、そのうちの一冊をパラパラとめくっている。「あ、鴨下くんだー」と、彼女はバカな声を出した。バカでブスであった。「おお、冊子を貰いに来たんだよ」とぼくは吐き捨てるように言った。「それなら、はい、これ、」とユリは言って、いままさにパラパラめくっていたところの一冊をぼくに差し出した。ぼくはそれを拒否し、「いや、それ以外が好い」と言った。ユリはそれを受けて、「じゃあ、これ、はい」、と言い、重ねた冊子の一番上のものをぼくに差し出した。ぼくはそれも拒否した。「その下のやつをくれないかな」。ユリは無言でぼくの指定した冊子をぼくに差し出した。ぼくはそれを受け取った。「駅で宮本に会ったよ」とぼくは言った。「あー、宮本くんね」。ユリの表情に揺れはない。「最近誰も部室に来てくれないんだよね、もうみんな不真面目すぎ」。
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