実木彦、ハーレムに生まれて

合評会2019年09月応募作品

久永実木彦

小説

1,861文字

真実は、虐げられる側にある。 – マルコムX

実木彦には故郷と呼べる土地がない。

生まれてすぐにいろいろなところを転々としたから、どこで生まれたのかさえよくわかっていない。調べればわかることだとは思うけれど、面倒だから調べない。わかったところで、心が何かを見つけることはないように思う。

三歳から十一歳までは、福岡にいた。だから少年期の思い出のほとんどが、福岡にある。けれど、どちらかといえば嫌な思い出のほうが多いかもしれない。詳しくは述べないが、福岡にいたころ、実木彦の家族は壊れてしまったのだから。

実木彦は、ほかの同年代のこどもとは比較にならないくらい――ある意味で異常なほど――本を読むのが好きだった。三歳で『指輪物語』を読み、四歳で『カラマーゾフの兄弟』を読んだ。それは家という現実からの逃避だったのかもしれないと、ときどき思う。だから実木彦の原風景は現実の景色よりも、中つ国の色とりどりの草木や、シベリアの永久凍土により近い。いくつかの美しい思い出が福岡にあったとしても、だ。

 

おとなになって困るのは故郷/地元はどこですか? と聞かれることだ。時候の挨拶がわりに、そう尋ねるものは多い。ここまで書いたような内容を説明するのは面倒だし、どこで生まれたのかよく知らないと言うと、余計な勘ぐりを生んでしまう。

だから実木彦は「ハーレム、ニューヨーク市」と応えることにしている。マンハッタンの北部に位置するハーレムは、ジャズやソウル・ミュージックといったアフリカ系アメリカ人文化発祥の地だ。絵画と音楽のあふれるストリートの片隅で、実木彦は生まれた。
「What’s up 実木彦?!」
「Just chillin’ 実木彦!」

けっして治安のいい町ではない。けれど、ひとの心は温かい。トランペットの奏でる旋律に、実木彦の魂は踊る。

ちなみに映画『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』で、スパイダーマンの出身地がクイーンズだと聞いたキャプテン・アメリカが、笑顔で「(おれは)ブルックリン」と言うシーンがありますが、これは単に「へえ、近所じゃん」というだけでなく、キャプテン・アメリカのちょっとした上から目線が含まれています。ブルックリンが下北沢だとすれば、クイーンズは八王子みたいなもんだからです。その基準に照らすとハーレムはだいたい練馬あたりになります。

 

出身地をハーレムにしてから、実木彦はひとづきあいで背負う重荷をひとつ下ろすことができた。

ハーレム出身と応えると、たいていのひとが「ほう、あのゴスペルの?」だとか「おお、モータウン・サウンド!」などと反応する(モータウンはデトロイトです)。だから実木彦は「アポロ・シアターがゆりかごでね」とか言っておけば、それでよかったのだ。

しかし、ハーレム・メソッドが通用しなかった人物がひとりだけいる。実木彦が大学時代にアルバイトをした、イタリアン・レストランのババアだ。ババアはかなりの美人だったが、口が悪いのが玉に瑕だった。なかでも、相手の出身地に応じた毒舌が得意で、多くの新人がその犠牲になった。たとえば「京都です」と応えると「どうりで性格悪いね!」などと、理不尽きわまりないことを言われるのである。

その日、ババアの標的になったのは入店から二週間に満たない実木彦だった。厨房でじゃがいもの皮を剥く実木彦に、ババアは聞いた。
「あんた、出身はどこなんだい?」
「ハーレム、ニューヨーク市」
「そんなわけないだろ。本当はどこなんだい!?」

ババアは設定のあらをつくでもなく、シンプルに否定した。こういう手合いには、理論など通用しない。
「あっ、あの、少年時代は福岡で過ごしたんですけど」
「じゃあ、福岡出身なのかい?」
「いえ、それがどこで生まれたのか、よくわからなくて」
「そうかい……」

厨房に沈黙が降りた。ババアの美しい睫毛は下を向いたまま動かず、実木彦は返すべき言葉を持たなかった。正直、意外だったのだ。どこで生まれたのかよくわからないなどと言えば、当然「ボーッと生きてんじゃないよ!」と国営放送よろしくツッコまれるものと思っていたからだ。ババアは黙って唐辛子を刻み、実木彦も黙ってじゃがいもを剥いた。

そして仕込みの時間が終わるころ、ババアは言った。
「まあ、あれだよ。この店を故郷だと思いな」

さすがに無理な注文だと思った。注文の無理なレストラン。だいたい、この店はババアのものじゃないし。ババアもバイトだし――実木彦は涙を硫化アリルのせいにした。
「じゃがいもにゃ、含まれてないよ!」

ババアのツッコミが、軽やかに故郷を飛ぶ。

 

2019年9月18日公開

© 2019 久永実木彦

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"実木彦、ハーレムに生まれて"へのコメント 30

  • 投稿者 | 2019-09-24 20:34

    ババアのキャラクターが強烈で楽しく読めた。彼女の背景についてもっと知りたくなった。短さにちょっと物足りなさを感じたくらいだ。

    • 投稿者 | 2019-09-25 00:10

      コメントありがとうございます。ババアは東欧系ハーフっぽい美人でしたが、それ以外は謎に包まれているという謎に包まれたババアでした。また、ババアというのは影でバイトたちが親しみをこめて(だとしても失礼ですが)呼んでいたあだ名ですが、実際はおそらく五〇歳前後で、実木彦は普通に付き合ってもいいなと思っていました。

      著者
  • 投稿者 | 2019-09-25 13:36

    ババアの温かみに触れて、妙に落ち着きました。東欧系は好物ですが、流石に五〇は母親と同い年ぐらいなのでやめておきます。

    • 投稿者 | 2019-09-25 17:22

      コメントありがとうございます。実木彦のすきなケイト・ブランシェット、草刈民代のおふたりは、いずれも五〇歳を超えておられます。おわかりください。

      著者
  • 投稿者 | 2019-09-26 02:47

    さわやかさを感じました。趣味のいいセンスと光るユーモアとリズム。幼少期に転校をしまくったりすると「出身は東日本」とか言ったりするらしいですがハーレムはそれを上回ってて最高ですね。でもそこには少しさびしさも混じってるんですもんね。いいお話です。

    • 投稿者 | 2019-09-26 06:51

      コメントありがとうございます。実木彦の生まれ持ったさわやかさが出てしまっていましたね。小説はある種のセラピーなのかもしれないですね、実木彦にとって。

      著者
  • 投稿者 | 2019-09-27 19:51

    著者自ら拝読しました。冒頭で「故郷と呼べる土地はない」と現在形で断定しつつ、結びでレストランを故郷に数えているのは矛盾ではないでしょうか。何も考えずに書き始めていることが手に取るようにわかります。また、少年時代の複雑な家庭の事情を匂わせて同情を買い、その後の虚偽の故郷申告を許容させようという作者の人格にも問題を感じます。それに、Twitterで読者の質問に「ほとんど事実である」と答えていたのですから、ジャンルは『小説』ではなく『エセー』が適切だったのではないでしょうか。0点とさせていただきます。

    著者
  • 投稿者 | 2019-09-28 00:17

    優しい物語でした。好きです。
    故郷がわからないとか、一家離散とか、そういうものを恨みではなくユーモアに変換して笑い飛ばす優しさが全編に満ちていて、読んでいてすごく優しい気持ちになれました。ナラトロジーでいうところの要約法的な軽快なリズムで進んでいく文章が感傷よりも明るさを際立たせて、作品と文脈が結びついて生まれるところの「文体」ってこういうものだよなぁとおもったり。
    あああ人恋しい! と思ったときにまた読みたいです。

    • 投稿者 | 2019-09-28 08:44

      コメントありがとうございます。実木彦の生まれ持った優しさが出てしまいました。けれど、もしかしたら恨みが深いぶん、ユーモアに交換するしかなかったのかもしれないなとも思います。奈良県でもひと悶着ありましたので、いずれ奈良三部作(ナラトリロジー)として書けたらと思います。

      著者
  • 投稿者 | 2019-09-28 01:29

    もうなにが現実なのかわかりません。ババアが好きです

    • 投稿者 | 2019-09-28 08:45

      コメントありがとうございます。ほぼすべて事実です。

      著者
  • 投稿者 | 2019-09-28 21:45

    馴染みになりつつあった居酒屋のマスターに、「そうかい、お父ちゃんがいないのかい、なら俺のことを親父と思いなよ」と言われたことを思い出しました。出会ってからさほどの月日が経っていないのに、平気で距離を詰めて来てそれが心地よい人っていますよね。「ババア」って良いニュアンスで聞いたことがなかったのですけど、この作品では良い呼び名だと思えました。これが事実だとしたら素敵だし、創作だとしたら想像力に敬服します。

    • 投稿者 | 2019-09-28 23:37

      コメントありがとうございます。ほぼすべて創作です。ババアのこと好きになってくれて嬉しいです。

      著者
  • 編集者 | 2019-09-28 23:40

    とても面白く読みました。この長さでもしっかりとババアのキャラが立っていて、やっぱり人の観察力が並外れているんだろうな、と思いました。ハーレムを練馬に例えるくだりが好きでした。

    • 投稿者 | 2019-09-28 23:42

      コメントありがとうございます。ちなみにデトロイトは神戸だと思います。

      著者
  • 投稿者 | 2019-09-29 03:11

    めちゃめちゃ好きですずるいです。大学時代にお世話になっていた「こっちのお母さん」に作家になったら蟹と牡蠣を大量に送るという約束をしていることを思い出しました。いつになることやら。とりあえず久しぶりにラインしましたありがとうございます。

    • 投稿者 | 2019-09-29 06:45

      コメントありがとうございます。おおおお、ラインいいですね。そういうの実木彦も嬉しくなります。

      著者
  • 編集者 | 2019-09-29 03:46

    おまえのようなババアがいるか!拳王のt……いてほしい。とりあえず、ほぼ実話として読むことにした。
    軽い言葉の様でありながら、新しい故郷を引き受けてくれる、こんな人はそうそういないだろう。そんな人に出会えるなら、ジャガイモが玉葱の様になっても十分な出来事じゃあないだろうか。ババアだけでなく、「主人公」にもそう言わせるほどの何かがあるのだろう。そう思いたい。

    • 投稿者 | 2019-09-29 06:50

      コメントありがとうございます。そうともよ、その首拳王s……実木彦の生まれ持ったそう言わせる何かが出てしまいましたね。なお、ほぼすべて実話です。

      著者
  • 投稿者 | 2019-09-29 07:45

    ババいいやつだなあ。出身地をネタに軽口を叩くも、出生地が分からない実木彦(呼び捨てすみません)を弄るのが憚れたのかとたんに優しくなる。いや、元々優しいババアだったのでしょう。
    しかし合評会には実生活ではあまり聞かない「ババア」という言葉がよく出てきますね笑

    • 投稿者 | 2019-09-29 10:22

      コメントありがとうございます。実木彦と呼び捨てにされると、村上春樹のことを春樹って呼ぶやつみたいで嬉しいです。ババアの人気がすごくてだんだんこわくなってきました。優しい人なんですが、口は本当に悪いんですよ。

      著者
  • 投稿者 | 2019-09-29 23:45

    まったりした雰囲気から最後のオチで、ほっこりしました。
    口の悪い奴は愛情が溢れてるんだけど、優しさの使い方が不器用なんですよね。

    • 投稿者 | 2019-09-30 01:34

      コメントありがとうございます。不器用、たしかにそのとおりかもしれませんね。ほっこりしてもらえて嬉しいです。

      著者
  • 投稿者 | 2019-09-30 10:13

    生来の年上好きなのでババァがぶっ刺さりました。オチも見事であふんとなります。

    • 投稿者 | 2019-09-30 10:48

      コメントありがとうございます。気が合いますね!!! 至高はマクゴナガル先生です。

      著者
  • 編集長 | 2019-09-30 15:44

    嘘で軽やかに地元を粉飾するババアの率直さ、見事である。マンハッタンの件を2行ぐらいにして全部ババアでも良かった。

    • 投稿者 | 2019-09-30 17:06

      コメントありがとうございます。ババアはマンハッタンより強し。ご指摘を糧に邁進いたします!

      著者
  • 投稿者 | 2019-09-30 19:36

    文章のリズムがとても好みでした。なんだか悔しいです。上手いです。

    • 投稿者 | 2019-09-30 19:43

      コメントありがとうございます。一希さんの越境にもまったく同じ感想を抱きました。実木彦のハンカチは噛み締めすぎてボロボロです。

      著者
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