私にはできないこと

応募作品

沖灘貴

小説

3,822文字

2019年5月合評会「猫」応募作。(catとcan’tをかけてみました)

 世界の冷たい優しさに甘えようとする鳴き声に気が付いたのは、二十時前のことだった。ニャァニャァと仔猫が外で鳴いている。どこからその鳴き声が聞こえてくるのだろう。私は西と南にある窓から顔を出して、その鳴き声のする方を探った。その間も猫の心配そうな鳴き声はすぐ近くから聞こえている。
 どうやら南の窓、通りに面した方から聞こえてくるようだ。仔猫はまだニャァニャァと鳴いている。喉が破れるのではないかと心配するほど、何度も何度も、母猫が自分を見つけ出してくれることを祈るように、その鳴き声はずっと聞こえていた。
 二十一時。持って帰ってきた仕事を片付けた私は、狭い浴槽にお湯を張る間にレーズンパンを二つかじるだけの簡単な夕飯を済ませた。パンの袋を輪ゴムでぐるぐると閉じる音に、仔猫の鳴き声が重なる。そのあと半身浴をしながらエッセイを一章分読んで風呂から上がり、寝支度を整えベッドに腰掛けたときにも、まだ仔猫は鳴いていた。
 零時過ぎ。とうとう私は寝巻きにカーディガンを羽織り、外へ出た。深夜ゆえに、その鳴き声はとても響いていた。私はマンションのエントランスから出て鳴き声のする方へ歩いていく。ニャァニャァ、それがどうしても私へ助けを求める訴えに聞こえてしまう。「どこにいるの?」私は返事をするように、西の方へ歩いていく。
 私の部屋の南窓から、すぐ右斜め前の住宅の敷地内からそれは聞こえていた。ただし住宅の裏手、夜でも目立つ鮮やかな色の煉瓦塀に囲まれたあたり。ニャァニャァ。ニャァニャァ。すぐそばで鳴いている。私は胸ほどの高さのそれを乗り越えるようにしてそちらを覗き込んで、様子を見てみた。室外機の下の空洞のあたりにそれらしい影があり、私は周囲に人がいないことを確認してからスマホのライトでそれを照らした。
 ニャァ、光に反応したのか、仔猫は一瞬鳴くのをやめた。私はやはりまた周囲の人を確認して、まるで犯罪を名乗り出るかのように声をかけた。
「大丈夫かい?」
 馬鹿な。自分の放った言葉に絶望していると、仔猫は再びニャァニャァと鳴き出して私は慌てる。スマホを動かして室外機のあたりをいろいろな方向から照らして見たが、仔猫の姿は見当たらない。侵入して捕まえることもできないし、あいにく今猫が好きそうなものも手元にない。どこかの窓がガラガラと音を立てて開いた音がして、私は肩をビクつかせてその場から逃げた。諦めるしかなかった。私にはどうすることもできないことだ。
「はい、成増警察署です」
 疲れたような口調の男性が電話口で私の電話に応答した。外からは、仔猫は輪をかけたように悲壮な鳴き声を上げて、母猫が帰ってきてくれることを願っている。私は眠れずに、警察署に電話をした。
「夜分にすみません。近所で仔猫が鳴いていて、その、保護してもらえないかなと思いまして」
「猫ですか?親猫は近くにいないの?」
「分からないんですけど、仔猫だし心配で」
 電話の向こうで警察官が迷惑そうな顔をするのが眼に浮かぶ。「夜中でうるさいですし」私はしぶしぶその言葉を付け足す。
「担当の部署に変わりますんで。今ね、事件起きてるからそっちで手一杯なんですよ。何時になるか分かんないですけど、警察官行かせますんで」
 その後地域課とかいうところに、住所と連絡先を事務的に伝えた。何時に警官が来るのか、うちに来るのか来ないのか、何も伝えられずに電話は切られた。また猫が鳴いている。
 一時頃にチャイムが鳴った。
「成増警察署から参りました」
 私はインターホンで制服を確認したが、チェーンを付けてドアを開いた。
「大田さんのお宅ですか?」
「はい」
「猫の件で来たのですが」
「はい、少し待っててください」
 私生活が覗かれては困る。私だって女なのだから、隠したい秘密はある。一度ドアを閉めて、リビングに繋がる引き戸を閉めたあとで、私はチェーンを外して今度こそ警察官と対面した。
「こんばんは、夜分遅くにすみません」
「私こそすみません。事件もあって忙しいと聞きました」
「それはこちらの話ですから。それで、電話で対応した者から話は大まかに聞きました。来る時鳴いているのを聞いたのですが、一応詳しいことを、と思いまして」
「ええ。気が付いたのは今日の二十時くらいのことで」
「それが、もう何日も前から鳴いているそうなんですよ」
 えっ、と私は驚いた。弱々しい鳴き声とはいえ、夜にはよく響く。二日ほど前にやはり通報があり、目の前の警察官が捕獲を試みたらしかった。
「元気に逃げ回って、捕まえられなかったんですよ」悲しそうな、迷惑をかけてすまないというような、複雑な顔を警察官は浮かべている。
「元気ならいいんです」
 私は本当のことを言った。
「ただ、このままだと親猫と会えずに、餓死、なんてしたら嫌で」
 案の定また猫が鳴き出すのが聞こえた。「心配なんですよ」
 悲しげというよりも、甘えるような、という鳴き声だ。
「失礼ですが、こちらのマンションはペットを飼えるところなんでしょうか?」
「うちでは無理です。どういう意味で?」
「いえ」とは言うものの、何か言いたげな顔である。
「私が通報したんです。何かあったら伺いたいです」
「例えば本官が保護したとするじゃないですか。そうしたら我々としては保健所に預けるほかないんですよ」
 あっ、殺処分。目の前の警察官が言いたいことが伝わってくる。猫好きな身としても、殺処分される猫の数が年間何万もいることくらい知っている。しかし、すぐに保健所だとは。それから、この警察官の言いたげなことのもう一方を察する。
「保健所に預けた後のこと、おっしゃりたいことは分かります。それに」
 私は一瞬部屋のことを気にして、言いよどむ。
「お巡りさんが捕まえるけど、名目上は私が捕まえたことにして、保護したらどうか、と」
 警察官は目を泳がせる。「例えば公園とかに誘き出したことにして」と私は警察官の考えを推測する。
「そしたら不法侵入にもならないですもんね」
 私が捕まえるというのであれば、私は斜め前の土地に不法侵入したことになる。公園にやってきた迷子の仔猫を保護することは、おそらくなんの罪にも問われない。
「本官からはなんとも」
 ニャァニャァ、再び仔猫が鳴き出す。「鳴いてますね」「そうですね」ママはどこ、ボクはどうしたらいいの。単調に繰り返すそんな鳴き声はエレジーのようにさえ聞こえる。
「心配、なんですよ」
 警察官が困ったような顔をしてゆっくりと口を開く。
「とりあえずもう一度捕獲を試みます。このマンションのエントランスの、斜め向かいの家の塀の向こうで鳴いているのは、数日前の時点で確認してますので」
「お願いします」
「ただ、あちらの家の敷地内のことなので、ご自宅に声を掛けなければいけなくて。夜中ですし、お休みになられていることもあると思うので、今日確実に、というわけにはいかないことだけご了承ください」
「それは、はい」
 私は続ける。「すみません」
「いえ、情報の提供ありがとうございました」
 警察官がぺこりと頭を下げる。上がった顔に諦念の色。
「お巡りさんも猫好きなんですね」
「はい、個人的に。しかし公務中ですので、個人的な事情は理由になりません。できる限りのことはいたします。よろしくお願いいたします」
 私は思わず握手を求めてしまった。「お願いします」警察官の顔に違う色が浮かび上がる。色目を使ったつもりはない。
 部屋に戻った私は部屋の電気を全て消して、気配を殺してベランダに佇む。エントランスから出てくる警察官は私の部屋の方に一瞥をくれることもなく、勇敢な背中を見せながら件の一軒家に挑む。深呼吸をしたかと思うとすぐにドアに手を伸ばし、十秒もしないうちに一つの窓の灯りがついて、一分後には玄関の扉が開いた。何やら事情を話しているようだが、私のベランダからはその様子は見えない。警察官の横顔を見るに、いやこんな時間の来訪者に苛立つ家主は想像に易い。警察官が頭を下げ、玄関が閉まる。玄関先には警察官だけ。まだ猫は鳴いている。
 どこから持ってきたのか、警察官の手には網。そして猫用の籠。細い隙間に入っていった警察官は、結局網を使わずに仔猫を捕まえた。弱っていたのかもしれない。よかった。通報してよかった。警察官は仔猫を籠に入れてやり、鳴くこともしなくなった仔猫に言った。
「もう大丈夫だからな」
 再び一軒家の前に立ち、出てきた家主にお礼を言い、警察官は仔猫と共に自転車を押しながら帰っていった。しばらくすると家の電気も消えた。静かになった街に、遠くから聞こえてくる車の音。私たちはやっと満足する。
 にゃぁん。また猫が鳴く。
 私の足元に擦り寄り甘えてくる飼い猫だ。
「リオ、ベランダに出てきちゃだめって言ったでしょう。うちのマンション、猫ちゃんだめなんだから」
 私はリオを抱きかかえて頬ずりする。毛並みが美しくて触り心地がいい。ああ、なんて心地がいいのだろう。
「もう大丈夫だからね」
 私はカーテンを閉めながら、リオを部屋の中に放つ。私を誘うようにベッドの上に陣取ったリオは、甘えた声で鳴いた。
「あの子はうちに来ないよ。私はリオだけのものだからね。もう心配いらないよ」
 私の猫なで声に満足したのか、リオはまた甘い声で鳴き、私に寝ることを急かした。私にはできないこと。それを私は知っている。だからこそ、できることも知っている。
「あの子どうなるのかなぁ?」
 そんなこと、私たちの生活を脅かされることに比べたら、些末なことだ。

2019年7月16日公開

© 2019 沖灘貴

これはの応募作品です。
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"私にはできないこと"へのコメント 13

  • 投稿者 | 2019-07-26 13:52

    猫をモロに主題に置いたド直球な作品。主人公の独白でありながらリオの存在を完全に隠匿したアンフェアさが、語り手のサイコパス度の高さを醸し出していて、好きな演出だった。警官はたぶん入室時に匂いで気づいたんではないかと思うが、そこ織り込み済みなんだろう。

  • 投稿者 | 2019-07-27 03:52

    殺伐とした印象を受けた。ちょっとザラっとするような。面白かったです。今回はこのような猫の舌でザラザラ舐められるようなトーンの作品が多い気がするのは自分だけだろうか。猫は人間のそういう面をあぶりだすのだろうか。

  • 投稿者 | 2019-07-27 14:26

    単純に話作りが上手かった。夜中鳴いてる猫のことでそんなに気にして警察を呼ぶかなと思ってましたがすっきり落とされ、上手なミステリを読まされました。僕はいつまでもミステリの良き読者で上手に騙されるのです。ありがとうございました。

  • 投稿者 | 2019-07-27 16:10

    伏線に全く気付けずにアンフェアだなあと思いましたが、波野さんのコメントを見て読み返して幾つか伏線を張っているのに気が付きました。こういった雰囲気の作品は大好物です。若干地の文の比喩表現や会話文に不自然さがあったかな。

  • 投稿者 | 2019-07-27 22:44

    優しく微笑ましい物語なのか、「なんだこの女」的な身勝手女の独白なのか。両方を兼ね備えているところが猫のテーマらしくて、うまくしてやられました。

    ここで鳴き声について。
    仔猫のうんと小さいのは「ミィー、ミィー」と鳴きます。このくらいだと二日も放置されたら生き延びられません。
    次の段階で口がうまく開けられるようになるので「ミャーミャー」鳴くようになります。
    歯が生え揃ったら「ニャー」と鳴き始めます。離乳食も食べられるので野良になってもなんとか数日は生きられるかも。かなり大きくなった仔猫だったのでしょうか。

    • 投稿者 | 2019-07-28 17:47

      ありがとうございます。
      猫の鳴き声、そこまで考えておりませんでした。
      実際に近所で起きた出来事に脚色を加えて書いたもので、鳴き声がニャァニャァだったものでなんの疑いもなく仔猫はニャァニャァと鳴くものだと思っていました。
      僕が聞いた鳴き声の主は大きい仔猫だったんでしょうかね??謎です。

      著者
      • 投稿者 | 2019-07-28 22:46

        鳴き声については聞きようで変わるものですのでお気になさらず。
        まあ、聞いただけで仔猫だと分かったからにはそれらしい特徴があったと思います。

  • 投稿者 | 2019-07-28 16:03

    自分も猫が飼えないアパートに住んでいた幼少期に近所の猫を夜な夜な餌付けしていた淡い記憶が蘇りました。

    一読して少しわかりづらかったのですが、二度目に理解できました。最後の導入が突然過ぎたので時間が経過したものと思い込んでいたもので。そういう意味でも、女性宅に何かあるという伏線がもう少し欲しかったのが実感です。

  • 投稿者 | 2019-07-28 17:13

    街の警官というのはここまで真摯に接してくれるのか?
    という疑問が残った。
    そして、ここまで心配しておき、かつ、
    殺処分を恐れて警官に話をしていたのに
    案外あっさりと「(猫の)その後は知らない」
    といいきるのであれば、女の何かサイコパス的な
    ものの描写(前提)がなければ、
    ただの異常者になってしまうが、
    それが作者の想定した読まれ方なのだろうか?

    • 投稿者 | 2019-07-28 17:52

      ありがとうございます。
      ほぼ実話なのですが、実際に対応してくださった街の警官は結構親切でした。
      仰る通り、確かにそういった前提がなければ異常者ですね。殺処分を求めているというより、いなくなれ、を願っている主人公だったので、そこのところをもっと分かりやすく書くべきでした。

      著者
  • 投稿者 | 2019-07-28 22:27

    警察24時に扱われそうな純情警察官だなあと思いました。

  • 編集者 | 2019-07-29 16:16

    確かに俺も少し読み返して気付いた。しかし、「ペット」が思い入れであることを考えれば、この女の対応もそう突き放せるものではないのだろう。余韻の残る作品だった。

  • 投稿者 | 2019-07-29 19:57

    主人公と警官のやりとりが実際にありそうな会話でリアリティがあった。オチにもっと驚きが欲しい。

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