閻魔

応募作品

沖灘貴

小説

3,987文字

2019年5月合評会「善悪と金」応募作。

 岸壁から翠色の鮮やかな海に飛び込んで、海底の浅いところにあった岩礁に体を打ち付けるなんて滑稽にもほどがある。頭も全身も強く打ったから、俺の命は風前の灯火であることを自分自身、途切れ途切れの意識の中で思っていた。医者は俺の体にメスを入れて輸血や手術を施し、命の営みを続けるための最善を尽くしているが、そのマスク越しの顔に諦めがあることが手に取るように分かる。
 事の始まりは祖母の言葉を悪友に話したことだ。父方の祖母は事あるごとに俺に「男子の一言金鉄の如し」と言って日頃の行いを窘めた。初めてこの言葉を聞いたと自覚しているのはおおよそ十五年前の小学一年の夏休み。どういうことかと俺は聞いた。
「あたしの家は金がなくて、十の頃に親類に売られたのさ。そう、あんたの知ってるあそこだよ。六年。六年そこの大叔母と客たちにいいようにされて、あたしは年端もいかないあの頃、死ぬことばかりを考えていたね。なにもかも限界だったさ。そんなときあんたのじさまがやってきてね、あたしを指名した。いつものことと思ったさ。けれどね、じさまは言ったのさ。『明朝俺はお前を娶りに来る。こんな吹き溜まりなんぞ俺と一緒に出て行かないか』。男子の一言、あたしには金言だった」
 有言実行とか生ぬるい話ではなかった。祖母に溺愛された俺は、その言葉で人並みに約束は守ったし、『男子の一言金鉄の如し』を座右の銘に生きてきた。クラスから浮いていた斎藤に対しては「飯食い行かね?」と誘ってからずっとダチでいるし、その頃できた彼女には結婚するまで手を出さないと誓って、未だに俺は童貞だし。彼女を俺に紹介したのが斎藤。その斎藤は当時、未成年に許されないものに手を出していたが、それに理由があるならば、ダチである俺がそれを否定することは悪なのだ、と思っていた。こいつは俺の友達、は俺の金鉄だったから。
 酔った俺は男子のおふざけの延長で「海に飛び込んだら彼女には結婚を申し込む」と宣言した。男子の一言は、口に出せば金言だ。それで飛び込んで死んだなどとは、あの世で待つ祖父には死んでも言えない。
「しっかりしろ、このままじゃ結婚の申し込みなんて出来ねぇぞ」
 意識が飛ぶ瞬間に斎藤が強い口調で肩を揺さぶり、俺の頭を強く抑えている。病院へ搬送された時斎藤と彼女だけが一緒だった。その二人だけが、俺が海に飛び込むのを止めた。その二人を無視して飛び込んだくせ、俺は周りの友人が救急車を呼んだり声をかけたりするのを聞くので精一杯だった。『男子の一言金鉄の如し』を歪曲して解釈した自分は愚かで悪らしい。彼女と婚前交渉をしない約束や友の契りを口に出して交わし、それを堅く守ることが正しいのであって、自分自身のみに課した言葉は鉄クズだ。結婚の申し込みなんて軽々しく口に出すからこうなる。こんな今際の時に、祖母の言葉を理解するなど、こんなに馬鹿らしいことはあるだろうか。
 でも、俺の解釈が歪んだ理由もいくつか思い当たる。

 父親には「地獄の沙汰も金次第」と教わった。世の中金があればどんなところでもいい身分でいられるのだ、端的に金がすべてだ、という言葉だ。父親の会社の経営は合法的とはいえ、あまりに敵を作って金を集めていたことを幼心ながらに感じていた。そのせいで金銭面に困ったことは一度もないのがその言葉の救いであり、それは一族の業でもあった。
 父親に金以外の教育をされた記憶は全くなかった。立ち小便の仕方を除けば、ではあるが。祖母のありがたいお言葉とは反して、俺は親から教育された二つの言葉がやけに印象深いものとして消えゆく記憶に残っている。
 俺が小学生の頃、好きだった女の子にちょっかいを出して頬に深い傷をつけさせてしまったことがある。ませた彼女が嫌がるのを承知で、木の棒を振り回して林の中を追いかけた。そのうち追いかける事ばかりに夢中になっていた俺は、足元の木の根に足を躓かせ盛大に転んだ。まさに、うっかりだ。その拍子に枝はぽーんと投げ出されて女の子の足元に転がって、女の子は足を絡ませて木に激突。頬から垂れる血で服を真っ赤に染め上げて、女の子は悲鳴を上げた。
 この件に関して、俺は怒られた記憶も謝った記憶も、学校で不遇な目に遭った記憶も全くない。女の子は一週間ほどでどこか俺の知らないところへ転校していった。クラスの女子はしばらく悲しむそぶりを見せていたが、夏休み後に東京から転校してきた垢抜けた男の子を見るや元気を取り戻したようだった。
 要は父親が女の子の家族に大金を支払って不問に付せさせたらしい。何桁の金額だったのかは分からないが、女の子の顔を傷付けると慰謝料が馬鹿高いと聞いたことがあるから相当だったろう。そうそう。東京から来た感じの男の子の父親は、俺の父親の会社で働くことになっていた。借金から逃げてきたのだと父親から聞いた。地獄の沙汰も金次第。その言葉の意味を知ったのは、多分あの日だ。
「おい。床に寝転べ」
 東京から来たやつの名前など、覚えるに足らなかった。親が俺の父親の会社に勤めていることだけで十分だった。取り巻きに顔を蹴らせることにした。「鞠を蹴るように」と指示した。鞠を知らないガキだったから、馬鹿な友達は思い思いに顔や体を蹴った。放課後の教室に西陽が長く伸びる頃、俺は見ているのに飽きて、転校生の服を脱がして窓から捨てさせた。
「お前ら、俺の言うことならなんでも聞くんだな」
 と正直に言った。全員が目を逸らして、そして転校生の赤黒く膨らんだ顔に目をやった。
「ひでえことするよな」
 その全員の親が俺の父親の会社で働いていた。あの時の俺には金こそなかったが、代わりに権力があった。小さな村の大きな企業の社長の息子という権力は、鬱屈な小さな地獄の学校で殺人未遂まで起こしても揉消すほど強大だった。俺の一言はその頃、出来損ないの馬鹿どもの金鉄だった。
 同じようにして、あの女の子も金をもらってどこかに引っ越さざるを得なかったのだろう。俺の初恋だったのに。
 母親は金が大嫌いだった。でも金がないと生活していけないから、その程度くらいは金を愛していたことは断っておく。生活費と父親の使う金とに大きな差異を感じていて、後者の方に激しい嫌悪を抱いていたに違いない。
 転校生に罰を与えた翌日だったと思うが、学校から帰宅するなり頬を打たれた。母にとって金とは権力そのものであり、その権力を振りかざすことは最も汚いことだと思っていた。耳を劈くような悲鳴染みた折檻、虐待に似た暴力、それらは逆から言えば母親という権力の横暴だったろう。俺がやった最悪の事件のたびに父親は金を使って揉み消し、それを母親はゴミを扱うように俺の中身を殺しめた。俺が自覚した権力の行使、父親の金、母親からの制裁が繰り返し繰り返し、中学まで続いた。単純に、母親がその頃出ていったから終わっただけだ。
 母親との最後の会話でよく覚えているのは次の言葉だ。
「金と塵は積もるほど汚いのよ」
 母が出て行くと言ったその日の夜だ。部屋の外から聞こえる父親と母親の口論が終わった後、俺は母の部屋に向かった。人非人と俺を蔑んだ。母に充てがわれていた部屋は離れの四畳半だったが、部屋の床が一万円札で覆い隠されていた。俺が起こした被害者家族にも、父親はこんな行いをしたに違いない。
「金もあなたも大嫌いよ」
 どこで教育を間違えたのかしら、なんて安い言葉は言わなかった。金は父親、塵は俺だと母親は言って、床に散乱する一万円札を力任せに数枚毟り取り、戸棚に積もった埃を思い切り拭き取って、めちゃくちゃに破り捨てた。その目に涙も怒りも悪も道も何もなく、ただただ狂気のように札を破り捨て、母親は部屋から出て行った。親の離婚の引き金となった俺は悪いのだろうか、なんて馬鹿なことは微塵も思わなかった。俺がいて崩れるようなものはもとから崩れる。
 それから父親の会社は、俺が中学を卒業すると同時に二回目の不渡りを出し、手元からはあっけなく金がなくなった。俺たちは逃げるように都内に移り住んで、最初の朝日を見たとき、金に塗れた悪い何かから解放された気持ちが沸き起こった。そういえば、祖母はとっくに死んでいた。

 悪い人生ではなかった。
 他人の人生をすこし狂わせた実感はあるが、事実自分の人生に影響はない。人を殺したわけじゃないし、女の子を辱めたわけでもない。それに、斎藤や彼女は間違いなく大切にした自信がある。体が冷たくなっていくのが感覚で分かった。この感覚とやらはいつまで続くのだろう。
 斎藤はいい友達だったし、彼女とはキスまでしかしてなかったが、海に飛び込まなきゃ両方とも死ぬまで一緒だったろう。人は思いのほか馬鹿な理由で死ぬ。金は思いのほか簡単に人を殺す。死ぬのも殺されるのも馬鹿な人間だ。
 そういえば先週か先々週くらいに、あまり興味がなくてよく覚えていないのだが、父親が首を吊ったらしい。一緒に住んでいなかったし、遺体の受け取りも拒否したから、遺書の受け取りだけした。会社を潰すくらいだから残っている遺産なんてあるはずもなく、そこにはこの世に対する恨みつらみが書き連ねられていた。いつもあいつが言っていた「地獄の沙汰も金次第」。その言葉を愛したあいつが地獄に行ったことは確定だろう。それなのに金はないから、文字通り地獄の責め苦を味わっているに違いない。俺も地獄に行くのだろうか、いや、友人たちに施した友情や彼女への愛情を評価されて、天国に行くかもしれない。まあ、死んだら行くのは無だろうが。
 閻魔は俺をどっちの道に裁くだろう。多分もう心臓が止まって脳も死んで、身体から全ての生命反応が消える。何も見えないし何も感じないし、こうやって言葉を紡ぐことも難しくなってきた。閻魔は人生の善悪の所業を以ってして、死後の行き先を決めるらしい。さあ、裁け。地獄の沙汰も金次第なんだろ。

2019年5月16日公開

© 2019 沖灘貴

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純文学

"閻魔"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2019-05-23 14:14

    まだすべてを読んだわけではないが、最もストレートにお題に向き合った作品ではないかと思う。ただ無為に死ぬ青年の走馬灯をネガティブに描く。そこに教訓などはない。家族への恨みつらみだけがぐるぐると回り、毒を吐きながら死ぬ。主人公の死に際しての潔さがすがすがしい。

  • 投稿者 | 2019-05-26 10:08

    怨念が最後吹っ切れるところがいいと思いました。肉親へ向けて半生の呪詛の言葉が痛快でもあるな、とも思いました。

  • 投稿者 | 2019-05-26 14:19

    とても読みやすく、完成された作品だと思います。
    三世代に渡ってのストーリーの分配といい、技術力の高さを感じました。ただ、タイトルと冒頭で最後のオチが分かってしまったのでもったいないなと思いました。それと幼少期の主人公の歪み具合を鑑みると、ちょっと貞操観念や友情への考えの転換ぶりが少し嘘くさく感じてしまいました。

  • 投稿者 | 2019-05-26 16:40

    私も終わり方が良いなと思いました。
    ひとつひとつのエピソードは子細なのに、制限枚数できれいにまとまっていて、内容もまさしく<善悪と金>ですね。個人的には「俺」のような人間が彼女へ愛情を注げるものなのかなと思う部分はありましたが、そういう二面性のようなものも含めて人間らしさになっているのかなとも思いました。(そしてそのへんをちゃんと書こうとしたらきっと枚数オーバーですよね。むずかしいですね。)

  • 投稿者 | 2019-05-26 17:02

    諺をベースにお話を展開していく、というのは考えもよらなかったので、おおっすごい、と思いながら読みました。
    波野さんの仰るとおり、最もお題にストレートに向き合った作品だと思います。
    正直に言うと「祖母はとっくに死んでいた」から善へと向かおうとする加速度に戸惑いはしたものの、内外ともに金と悪にまみれていた子供時代から解き放たれていつかの祖母の言葉に沿うように生きた挙句、不慮で死んでしまう羽目になり閻魔に「さあ、裁け」というのは凄みがあります。
    私がいちばん感情移入したのは母親です。資本主義では金はすべての始まりであり、終わりでもある。そんなことを感じていたに違いないと思います。良心と金のはざまでずっと揺れて、最後には金を捨ててしまった。でもそれで、良心だけで飛び出して、彼女はどうなったんだろう、そんなことも考えさせられました。

  • 投稿者 | 2019-05-26 23:17

    独白体の異様な文体も手伝って、うわっ、ひどい話だと思いました。
    地方の有力者のドラ息子が遊び半分で海に飛び込んだ、という体を取りつつ、自身の内部の葛藤や家族関係の醜さに子供の頃から疲れていたのを一気に清算してしまったのかなと感じました。
    閻魔様はどう裁くのでしょう? 彼自身が醜い金とけち臭い日常の悪に振り回されたのをくみ取って、無間地獄に落とすことはないと信じたいです。

  • 投稿者 | 2019-05-27 02:52

    善悪と金、まさしくお題に真摯に取り組んだ作品かと思います。
    文章に投げやりな主人公の気質がしっかり落とし込まれていて、それがそのままラストに繋がっていくので構成としてとてもよく出来てると思いました。
    結論を出す形ではなく、物語の行方を決定づけずに終わるので読後に考えさせられるところがすごく好きです。
    ただ人物描写として、アンビバレンスな側面を併せ持っていたり、父母に対するドライな向き合い方だったりがすこしいきなり出てき過ぎた感じもありました。もちろん物語を考えれば「そういうこともあるだろうな」となるのですが、それをダイレクトに感じることは出来なかった感じです。
    駿瀬天馬さんが仰るように、そこらへんをしっかり書こうとしたら枚数が足りないんだろうな、と思うとやっぱり難しいなぁ。

  • 投稿者 | 2019-05-27 05:56

    現在(小学1年の約15年後だから21、2歳くらい?)と過去の主人公の人物造型が大きく違っていて、話の途中がすっぽり抜けている印象を受けた。小学校から中学校時代の「俺」はまるで『リリイ・シュシュのすべて』に出てきそうな陰湿ないじめっ子。一方、現在の「俺」はアッカトーネ風の愛すべきバカな若者で友人もそこそこいる。東京に出てきたときは父親と夜逃げしてくるほど貧しかったはずなのに、今では父親とはとっくに別居していて昼間から友達やガールフレンドと酒を飲んで翠色の鮮やかな海に飛び込むような気楽な身分(私は、ウェイ系大学生だと推測した)。字数の関係で夜逃げ以降の物語を大幅にカットしたのではないか?

  • 投稿者 | 2019-05-27 22:05

    昔と今で主人公の性格が変わりきっているのはなぜだろうと思った。初恋の子には追いかけ回して怪我させるぐらいなのに今は「彼女には結婚するまで手を出さないと誓って」と大変革をとげている。ここにいたるまでには、やりすぎて自分で自分が怖くなった、だから手を出さなくなった、みたいなエピソードが必要ではないか?

  • 投稿者 | 2019-05-28 00:58

    金でも権力でもなく、主人公は他者の(家族の)言葉に縛られていたように感じました。誰かの言葉が誰かの人生を大きく揺るがす。主人公の人物造形の変容、実際には思春期のグレのようなものかもしれませが、それはまさにその時期に何の言葉に縛られていたのかが表されているのだと思いました。
    数々の言葉が出てきて、結局「地獄の沙汰も金次第」という言葉に縛られ終わってゆくラストは美しく、しかしとても悲しいものです。僕はこのラストに、他者の言葉に縛られ続けたまま、すべてを諦め、自らの言葉を失ってゆく絶望を感じました。
    とても良い作品でした。

  • 編集者 | 2019-05-28 02:00

    中々身に染みるところのある小説だった。
    タイトルの閻魔は、あるいは最後の審判とでもいうものは、しかし最後まで出てこない。主人公は裁きを気にしているが、それが無いまま自然に還る可能性もあるということか。それもそれで絶望かも知れないが。

  • 投稿者 | 2019-05-28 14:19

    情報量の多さに圧倒されつつ、このお題では仕方ないことなのだろうと読み進めました。しかし、きっちりと「善悪と金」を昇華させており、善悪の基準を、あくまで自然に受け手にゆだねる方法論も私は好ましく思えました。私小説のような生々しさを感じました。

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