愛別離苦

サイファイ・ララバイズ(第8話)

諏訪靖彦

小説

11,871文字

 宮澤靖子の原子卵胞内に非展開記憶を残したキチガイが天皇陵で寿命を迎える。

 海野優人は妻、靖子の行動に不信感を抱いていた。二人はどこにでもある結婚をして、ごく普通の結婚生活をおくり、優人が定年退職してからは、働いていた時の貯えを切り崩しながら、贅沢をしなければ不自由ない生活を送れている。女ばかりだったが三人の子宝にも恵まれた。娘たちは非行に走ることなく順調に成長していき、去年の暮れに最後の娘が嫁いでいった。娘たちが売れ残ることなく家を出ていったのは喜ばしい事だが、二人だけの生活は少々寂しく、その寂しさを埋めるべく趣味を見つけ、それなりに楽しんではいるが、やはり一番の楽しみは、時々娘たちが孫を連れて遊びに来てくれることだった。そんなどこにでもある隠居生活を送っている優人だったが、最近気になることがある。靖子の様子がおかしいのである。
 優人は退職を機に、靖子が高校を卒業するまで住んでいた地方に隠居用の家を買った。優人は幼いころ両親を亡くし、故郷というものを持たない身だったため、靖子の好きな場所に家を買うことにしたのだが、靖子が選んだ場所は靖子の実家近くではなく、靖子が幼少期を過ごしたという関西地方の田舎町だった。靖子は友達が多く住んでいるからと言っていたが、引っ越してから靖子が当時の友達と会っているのを優人は見たことがなかった。
隠居用に買った家には寝室が二つあり、娘家族が孫を連れて帰ってくるとき以外は、二人別々の寝室で寝ているのだが、優人が寝ていると、まれに隣の寝室から靖子の声が聞こえてくることがある。最初は寝言か独り言かと思っていたが、靖子は独り言の後、家を出ていくことがあるのだ。それも優人に気づかれないように、そっと、極力音を出さないようドアを開け閉めして外に出ていくのである。そして帰ってくると決まってシャワーを浴びている。
 優人は靖子の浮気を疑っていた。靖子とは大きなけんかをすることもなく、結婚してからこの歳になるまで一緒に暮らしてきた。知り合いの夫婦と比べると、自分たちは比較的仲の良い夫婦だと思っていたのだが、気持ちが離れるというのは、普段の生活態度や会話からでは計り知れないものなのかもしれない。恋だとか愛だとかいう感情は、最初の子供が生まれてから始まるまばたきをするだけで過ぎ去る時間と、それを何とか引き戻そうとする日々の中で、自然に忘れていったが、その感情は言葉を変えて、死ぬまで添い遂げようという気持ち変化していった。靖子も同じ気持ちでいるとばかり思っていたが、そうではないのかもしれない。最近は熟年離婚とやらが流行っているらしいが、自分もそんな憂き目にあうのかと思うと、優人は心配でならなかった。趣味で通っている文化センターから帰ってきたら、離婚届がテーブルの上に置いてあったらどうしようとか、朝起きたらテーブルの上に朝食と一緒に離婚届が置いてあったらどうしようなどと、考えれば考えるほど思考が悪い方向に持っていかれ、出口の見えない底なしの沼にはまっていく。優人は思い悩んでも仕方ないと思い、行動を起こすことにした。
 その日は市民センターの蕎麦打ち講習の日だった。蕎麦打ちは六十五歳の優人にとって、結構な重労働なのだが、作り手によってこれほど味の変わる食材はなく、単純だが奥の深い蕎麦打ちに魅了されていた。優人は蕎麦打ち講習から戻ると、風呂に入り、講習で打ってきた蕎麦を茹でる。そして酒を飲みながら靖子と二人で蕎麦の出来について品評し合った。風味がどうのとか、コシがどうの言いながら、二人で蕎麦を食べ終えると、靖子は台所へ行き野沢菜を切って出してくれる。それから二時間ほど野沢菜と蕎麦掻を肴に二人でテレビを見ながら酒を飲んでいたが、そのうち靖子が寝室に入っていった。優人は不自然に思われないように、しばらく間をおいてから自分の寝室へ行き、靖子の寝室側の壁に耳を押し当てる。すると靖子の声が聞こえてきた。
「優人のお蕎麦……だいぶ上達し……おいしいのよ……」
 靖子は優人が打った蕎麦について誰かと話しているようだ。浮気相手に旦那の打った蕎麦の事など話すものなのかと訝しながら聞き耳を立てる。
「……そう……うん……これから……大丈夫だか……」
 「これから」という言葉に優人は靖子が外に出るのではないかと思った。思った通り、靖子の声が聞こえなくなって数秒後、部屋の扉が開く音が聞こえてきた。優人は部屋の入り口まで行きドアに耳を当てる。そして靖子の足音が廊下から遠ざかるのを確認してから寝室を出た。足音を立てぬように廊下を進むと、台所に明かりの下に靖子の姿があった。今日は台所に飲み物でも取りに来ただけで、外に出る事はないのかと思いながら靖子を見ていると、靖子は冷蔵庫から何かを取り出し、ビニール袋に入れた。そして台所の明かりを消して玄関に向けて歩いて行った。優人は靖子に見つからないよう息を殺し、柱の陰に隠れて様子を見る。玄関まで来た靖子は、下駄箱から運動靴を取り出した。そして運動靴を履くと、音をたてないように玄関の扉のカギ開けて外へ出ていった。靖子の履いた運動靴はウォーキング用に買ったもので、靖子は気が向いたときにそれを履いてウォークキングしているようだが、この辺は街灯が少なく、夜中にウォーキングやジョギングをする人はいない。
 優人は急いで運動靴に履き替えると、あまり間を置かずに家を出た。靖子との距離が近いと見つかってしまう危険性もあったが、この暗闇の中、靖子と距離をとると見失ってしまう可能性の方が高いと思ったからだ。優人は外に出ると、周りを見渡す。すると住宅街を抜けた先のT字路を左に曲がる靖子の姿を見つけた。あの先は小学校の校舎裏になっていて、その先には神社ぐらいしかなかった筈だと訝しみながら、優人は靖子を見失わないように急ぎ足で追いかけた。T字路まで着くと左に曲がる。曲がった先に靖子の姿が確認できない。もしかすると左折ではなく右折したではないかと考えながら振り向いた時だった。トラックのヘッドライトが目をくらまし、凄まじい衝撃が優人の右半身を襲った。優人はトラックに右半身を撥ねられ、逆時計回りに回転しながら二十メート前方に弾き飛ばされる。優人は宙を舞いながら、これなら三百六十度見渡せるから靖子を探しやすいなと考えていると、すぐに地面にたたきつけられ、後頭部を引きずりながら数メートル進んだ。優人を撥ねたトラックの運転手は、トラックを止め運転席から降りると、優人の傍まで近付いたが、優人の怪我の深刻さに慄き、慌ててトラックに戻ると走り去っていった。仰向けの状態で放置された優人は、眼前に広がる星空を眺めながら思った。妻の浮気を疑って尾行している最中にひき逃げに会うなんて、俺らしい最後じゃないか。優人はこのまま星空を眺めていたいと思ったが、頭を支える首の筋力が、重力に抗うことができなくなり、だらりと左に向いた。すると優人の目に神社の表参道が見えた。神様に見守られながら死んでいくのもいいかもしれない。そう考えながらぼんやり見ていた視線の先に、鳥居に続く階段の途中で立ち尽くす靖子の姿が見えた。そして靖子と目が合う。優人は靖子が助けに来てくれると思ったが、靖子は優人に駆け寄ることはせず、駆け足で階段を登って行った。靖子にまで逃げられるとは思っていなかった優人は、茫然と靖子の後姿を眺め、そして意識を失った。
 
 靖子は優人が跡を付けて来ていることに気付いていた。靖子はT字路を左に曲がった後、本来であればまっすぐ道を進み、小学校の校舎裏を抜けて目的地に向かう予定だったが、優人の尾行を撒くため、駆け足で校舎裏まで行くと、神社の鳥居に続く表参道の階段を登り、木々によって道路からは見えない場所で、優人が校舎裏を通り過ぎるのを待った。靖子は優人がきょろきょろとあたりを見渡しながらやってくると思っていたが、校舎裏にやってきた優人は、仰向けに寝そべり、ものすごい勢いで後頭部を引きずりながらシャーと音を立てて平行移動してきた。靖子は唖然としてその様子を眺めていると、視線に覆いかぶさるようにトラックが通り過ぎていく。靖子はトラックが走り去って行った事により、優人がトラックに轢かれたことを悟った。
 靖子は優人に駆け寄ろうとするが、キチガイからの思念がそれを止めた。
――優人は生命活動を止めようとしています。このまま靖子が救急車を呼び、病院に運ばれたとしても、数時間の延命はできるかもしれませんが、助かる可能性はほとんどないでしょう。
「じゃあどうすればいいのよ」
 靖子は声を出してキチガイに言った。するとキチガイは靖子に提案する。
――私のもとまで優人を運んできてください。靖子も知っての通り、私はそちらに出向くことができません。今から四十三分以内に私のもとに運んでくれば、優人を助けることが出来ます。このままにしておけば四十一分後に優人の脳は完全に機能を停止します。
「優人にキチガイさんのことを言わなきゃならないじゃない」
 キチガイと話す靖子の姿をもし誰かに見られていれば、夜中の神社で独り言をしゃべる痴ほう老人に見られ、通報されるかもしれないが、幸い周りに人はいなかった。
――大丈夫です靖子。五十六年前に靖子に対して行ったように、優人の記憶を操作します。それは容易い事です。
「分かった。優人をそっちに運ぶ。でもどうやって運べばいいかしら?」
 優人を背負うことは出来るかもしれないが、若いころならまだしも、現在の体力ではキチガイのいる場所まで運ぶのは不可能だ。家に戻り車を取ってくることも考えたが、二十年以上車の運転をしていない靖子は、事故を起こさずキチガイのもとまで行く自信がなかった。
――森本を運んだ時のように、手押し車を使いましょう。手押し車は境内の物置にあります。手押し車に優人を乗せて運んでくるのが一番安全な方法です。
 そう聞いた靖子は表参道の階段を駆け上がり、境内の物置へ向かった。物置の形は当時と大きく変わっていたが、相変わらずカギは掛かっていない。靖子は物置の扉をスライドさせ、中にある手押し車を取り出した。手押し車の形は森本を運んだ時とほとんど変わっておらず、あれから五十年以上たっているのに、当時のままの形をとどめているのは、それだけ合理的な形をしているからなのだろう、などと考えながら靖子は手押し車を押していく。鳥居の下まで手押し車を移動すると、取っ手の部分を階段側に向け、階段の下から取っ手を掴み、手押し車を支えるようにガタガタと階段を下りて行った。階段の下まで来ると、靖子は優人の傍に手押し車を置き、優人の四肢を取り荷台に乗せやすいように動かした。そして手押し車を傾けて、丸まった優人の体を荷台に乗せると、急いでキチガイのもとへ向かった。
 キチガイの住む古墳は当時の状態を保っており、相変わらず入り口には宮内庁の立て看板が立っている。靖子は手押し車を押しながら看板の横を通り過ぎ、古墳内に侵入すると、古墳外周を歩いていく。森本を運んだ当時と違い、古墳周辺には幾つかの植物プラントが立ち並び、そのプラントには明かりも確認できたが、古墳自体を照らす明かりはなく、外から靖子の姿を見られる心配はなかった。靖子は石室入り口まで来ると、手押し車を倒し、優人を荷台から地面に下ろす。そして手に持っていたビニール袋を優人の腕に括り付けると、優人の頭を入り口に向け、勢いよく中へ押した。優人の体はシャーと音を立てながら石室へ続く羨道を進んでいく。続いて靖子も羨道に入り、優人の足を掴み、押し出しながら羨道を進んでいった。羨道を抜け石室内に入ると、靖子は泥だらけになった服を払いながら辺りを見渡す。しかしキチガイの姿が見当たらない。
「キチガイさん。優人を連れてきたよ。どこにいるの?」
――三十八分で来ましたね、靖子。私はヨグソフホートの傍にいます。
 靖子は優人の腕からビニール袋を外し手に持つと、石棺の奥で放射状の青光を放っているヨグソフホートの近くまで歩いて行った。キチガイはヨグソフホートの横で壁を背に首をだらりと下げた状態で座っていた。
「大丈夫?」
 靖子は壁にもたれかかるキチガイに言った。
――この体の事を指しているなら大丈夫ではありません。あと十九日で生命活動を停止します。ですから私は生体機能を使い、靖子からの思念を受け取ることが出来なくなりました。靖子が発声することによって生ずる空気振動をセンサで拾い、ヨグソフホートにより思念化して取得していますが、技術的な説明を靖子は望んでいますか?
 靖子にはキチガイにとっての死と、ヒトの死の違いを理解することが出来ない。ヒトの死に際がそうであるように、キチガイの小さな口からは、苦しそうに息を吐く音が漏れていた。
「ううん、説明はいらないよ。それより、苦しくはないの?」
――生体機能維持に必要な酸素取得は出来ていますが、うまく循環できないため、息が荒くなっています。しかし、痛覚を感じぬよう調整しているので私が苦しい思いをしていることはありません。ですから靖子は心配しなくても大丈夫です。それより優人を修理しなくてはなりません。優人の体を石棺の間に収めてください。頭は私の方へ向け、うつぶせの状態で後頭部を露出させてください。
 靖子は持っていたビニール袋を石棺に置くと、優人が寝そべっている場所まで戻り、脇を掴んで石棺の間まで引っ張る。石棺の間に優人の体が収まると、靖子は優人の肩とわき腹を掴み持ち上げた。すると優人の体はくるりと回転し、キチガイが指示した格好になる。
「これでいいかしら?」
――問題ありません靖子。これから開頭し修理を行います。それは靖子にとって気分の悪くなる光景でしょう。ですから私は、優人を修理する場面を靖子が観察しないことを勧めます。修理が終わったら思念で連絡します。それは十五分程度の時間です。
「うん。そうする。外にいるね」
 そう言うと靖子は羨道を抜け石室の外に出た。そして古墳の斜面を登ると磐座の上に腰をかける。そこは靖子のお気に入りの場所だった。木々の生い茂る古墳内において、何故か磐座の上空だけが開けているのだ。靖子は首を上げ夜空を眺める。そこには満天の星空が見えた。靖子が初めてこの地に足を踏み入れた時、古墳の周囲は田んぼや畑ばかりだったが、今では天然栽培は殆ど姿を消し、代わりに植物プラントが並んでいる。プラントが外に向けて発する光は星空を覆い隠すような光量ではなく、見えるのは住宅街から洩れるわずかな光ぐらいで、都会化に取り残されたこの町では、今でも綺麗な星空を眺めることができる。靖子はキチガイにこの星空を見せてあげたいと思った。キチガイは自分を心配させぬよう、死ぬこと自体大した事ではないと言うが、故郷に帰れず、仲間もいないこの星で、一人死を迎える事を望んではいないはずだ。あの狭い空間でひっそりと死を迎えさせるのは忍びなく、出来れば外に連れ出してやりたかったが、キチガイはほとんど歩けない状態だという。可能かどうかわからないが、自分がキチガイを引きずってここまで運び、最後の瞬間を星空の下で迎えさせてあげたい。もしかするとこの星々の中にキチガイの来た星があるかもしれない。靖子がそう考えているとキチガイからの思念が割り込んできた。
――修復が完了しました。しかし大変な状況です。すぐに戻ってきてください。
 靖子はキチガイの思念を聞いて、優人の治療が上手くいかなかったのかと思った。しかしキチガイは修復が完了したと言っている。とにかく急いで石室に戻らなくてはいけない。
「わかった。すぐいくね」
 靖子は古墳頭頂部から滑り降りると、石室に向かった。そして羨道に入ると、急いで石室に向かう。窮屈な羨道ではしゃがんで進まなくてはいけないため、走ることができない。膝を抱えるような姿勢で歩みを進めていると、奥から優人の声が聞こえてきた。
「この蕎麦泥棒! 俺の蕎麦を盗んだのはお前か!」
 優人がキチガイを見たときの反応は、ある程度予想していたが、まさか、キチガイを蕎麦泥棒だと言うとは思っていなかった。
「いいえ……この食料は私が盗んだものではありません……」
 キチガイの消え入りそうな声は言い訳をしているようにも聞こえる。
「言い訳なんか出来ないぞ! そこにある蕎麦は俺の打った蕎麦だ。自分の打った蕎麦は香りで分かるんだよ!」
 早く優人に説明しなければ。靖子は頭部を擦りながらも出来る限りの速度で進んだ。そして石室に出ると優人に向かって叫んだ。
「キチガイさんは蕎麦泥棒ではありません!」
 優人はびくりと肩を揺らすと振り返った。そして靖子の姿を不思議そうに見つめ口を開いた。
「どこに行っていたんだ? 頭に砂が付いているぞ。それに服も泥だらけだ」
 靖子は泥を払いながら優人に言う。
「星を見に行っていたのよ」
「そうか。あんまり遅くに外に出るなよ。心配するから。それで何の話だったか、そうだ、靖子の言う通りこいつは気違いだ。だから俺の蕎麦を盗んだんだ!」
 そう言って優人はキチガイを指さす。キチガイは靖子の持ってきたビニール袋を手に、どうしていいか分からず靖子を見つめている。靖子は優人がなぜこうなってしまったのかキチガイに聞こうとしたが、それが優人に聞かれて良いものか判断が出来なかった。そこで靖子はキチガイの方に向いている優人を指さした後、自分の頭の上にその指を持っていき、くるくると回す。そして脇を閉め、両手のひらを上にあげる仕草で、どうしてこうなったかの説明をキチガイに求めた。
――優人は自分が置かれている状況を理解することが出来ず、せん妄状態に陥りました。せん妄は一次的なものなので、後遺症にはなりません。しかしこの場を収めなければなりません。私には収めることが出来ません。私にはこの状況を収めるすべがないのです。ですからこの場を収めることは靖子にしか出来ません。
 せん妄とは一時的な精神錯乱だと聞いたことがある。靖子はなるべく相手の話に合わせてこの場を取り繕い、石室から離れるように仕向けようと考えた。
「あれは大きなトカゲよ。トカゲが君の打った蕎麦を食べようとしていたの。蕎麦泥棒には違いないけど、トカゲなんだから許してあげて」
 キチガイに一番似ている生物はトカゲだった。靖子はキチガイの事をヒトよりもトカゲと説明した方が、優人が信じてくれると思ったのだ。
「トカゲなのか……あの大きさからするとコモド・ドラゴンかな? 最近沖縄が熱帯地方指定されたばかりだ。であればこの地域は亜熱帯と言ってもいいだろう。亜熱帯とは正式に使われる気象用語ではないが、それは問題ではない。便宜上使う亜熱帯地域にコドモ・ドラゴンがいてもおかしくはないな。でもコモド・ドラゴンがしゃべるなんて聞いたことがないぞ」
 優人はキチガイと会話している。なんと言い訳しようか考えているとキチガイが口を開いた。
「キューキュルキュル、キュー」
 キチガイが話を合わせてくれた。しかしキュルキュルは小動物であれば納得出来る鳴き声だが、コモド・ドラゴンがそんな鳴き声を発するとは思えない。
「……言葉をしゃべったと思ったのは気のせいだったのか。まあコモド・ドラゴンなら俺の蕎麦を持っていったのも納得できる。おれの蕎麦が気に入ったのならしょうがない。コモド・ドラゴンだもんな」
 するとキチガイは体を横に倒し、石棺の陰に隠れた。靖子はこんな子供だましな手口で優人が納得することに驚いた。恐らく、せん妄状態によって冷静な判断が出来なくなっているのだろう。
「さて、コモド・ドラゴンがいなくなったところで、お家に帰りましょう」
 優人は不思議そうな顔して靖子を見た。そして笑いながら言った。
「どこに行くって言うんだ? ここが家だろ。靖子はさっき泥だらけで帰ってきたところじゃないか、シャワーで泥を落としてさっさと寝よう。眠くなってきたので俺は先に寝室に行っているよ」
 そう言うと優人は二つ並んだ石棺の左側に入っていった。
「あっ……そこはダメ」
 靖子は思わず声を出した。そこは千六百年前の天皇が眠っている石室なのだ。しかし靖子の声は優人に届かず、優人は石棺内で足を伸ばした。
「何だが布団が固いけど、これはこれでいいな」
 そう言うと優人は天皇の遺骨の上で寝息を立て始めた。それを見たキチガイは体を起こすと、優人の瞼を押し開き、細長いチューブのようなものを眼球の裏に押し込んだ。
――これで優人は十日間眠り続けます。十日間としたのは優人の脳機能が完全に回復するまでの期間です。脳機能が完全に回復すれば優人は今日の出来事を全て忘れています。ですから私の不名誉な呼称は優人の記憶に残りません。
 優人は古代の天皇の遺骨の上で寝息を立てている。靖子は弛緩した優人の体を、なんとか石棺から引きずり出すと、両肩を掴み石室出口に移動する。優人を羨道入口に据えると、靖子はキチガイに近づいて言った。
「身体が大変な状態なのに優人の治療をしてくれてありがとう。優人に死なれたら困るもの」
――いえ、靖子の有用は私の有用でもあります。そして靖子の子孫や、そのまた子孫にとって、優人が長生きすることが有用でもあります。優人が長生きすることは私の非展開記憶の拡散に少なからず影響します。
 キチガイは自分の利益のために優人を生かしたことを強調するが、長い付き合いの中で、靖子はキチガイに感情があることを知っていた。キチガイはヒトではないが、ヒトの気持ちを思い図る事が出来る。それがあってこそ、これまでキチガイと友好的と言える関係を続けてこれたのだ。
「キチガイさんが亡くなる日にまた来るからね」
――私の体が生命活動を停止するときに石室内に靖子が来ることは問題ないですが、靖子は何もすることがありません。
「いいの。私はキチガイさんの死を見届ける必要がある気がするの。今まで色々助けてもらえたからこそ、優人と知り合えたし、娘も生まれ孫にも会うことができたのよ。森本君を殺してしまった時にキチガイさんに会っていなければ、きっと違う人生を歩んでいたと思うの。それは今のように幸せな人生ではなく、過酷なものだったと思う」
――今とは違う人生を歩んでいたことに間違いはありません。靖子が今の状態を幸せだと感じているならば、それは私との取引が良いものであったという事です。私も靖子も当時思い描いた未来に近い状態になれたという事です。それは双方の利害が一致した公平で公正な取引だったことを意味します。
 いつもの公平公正説法が始まった。その話を聞くのは苦ではないが、キチガイが靖子に思念を送ることで多くのエネルギーを使ってしまわないか心配し、靖子は話を切り上げることにした。
「良い取引だったことは間違いないわね。それじゃあまた来るね」
――はい。生命活動を停止する二十分前に靖子に思念を送ります。二十分前としたのは靖子が靖子の住居から石室に入るまでの時間です。靖子は丁度私が生命活動を停止するときに居合わすことができます。
 それでは最期の時にキチガイと話すことが出来ない。靖子はキチガイに時間の変更を願い出る。
「一時間前には教えて」
――わかりました。生命活動を停止する一時間前に靖子に思念を送ります。
「うん。それじゃあ帰るわね。またその時に」
 靖子はキチガイにそう言うと優人のもとに歩いて行った。そして優人の両足を掴んだところで、石室に来た元々の理由を思い出した。
「あ、忘れてた。キチガイさんの持ってるビニール袋に優人が打ったお蕎麦が入っているの。前に持ってきたときよりおいしくなってるから、食べてみてね」
 
 海野優人は妻靖子の行動に不信感を抱いていた。優人と靖子は別々の寝室で寝ているのだが、時折靖子の寝室から話声が聞こえてくる。最初は寝言か独り言かと思っていたが、声が聞こえなくなった後、靖子は家を出ていくのだ。それも極力音を出さないように外に出ていくのである。
―――中略―――
 靖子の寝室から声が聞こえなくなると、寝室を出ていく音がした。優人は靖子に気づかないよう、跡を付けることにした。
 
 靖子は事前に知らされていた通り、キチガイが死ぬ一時間前にキチガイからの思念を受け取った。連絡を受けた靖子は急いで支度をすると、神社の境内で手押し車を拝借し、キチガイのいる石室に向かった。石室に入るとキチガイはヨグソフホートにもたれかかり、ピクリとも動かぬ状態であった。しかしキチガイはまだ生きているようで、靖子に思念を送ってくる。
――八分程遅かったです。靖子は身体の調子が悪いのですか?
「私は健康よ。それより外に出ましょう」
 そう言うと靖子は、キチガイを仰向けに寝かせ腕を取り、引きずりながら羨道を抜ける。キチガイの身長は二メートルを優に超えているが、体重は靖子より軽いのではないかと思えるほどやせ細っていた。靖子は神社から持ってきた手押し車の荷台にキチガイを乗せると、古墳の斜面を登っていく。キチガイの体重が軽いこともあり、苦労せず磐座までキチガイを押して来れた。靖子が磐座に腰を下ろすと、キチガイが思念を送ってきた。
――靖子はこの星空を見せるために、私を運んできたのですか?
「そう。だってこんなに綺麗なんだもの。キチガイさんの来た星も見えるかもしれないじゃない」
 靖子はそう言いながら顔を上げる。そこには先日と同じように満天の星空が広がっていた。靖子は手押し車の荷台の上に寝そべるキチガイを見る。キチガイも同じく星空を眺めていた。
――私の来た星系はこの地域から見渡せる角度にありません。もし観測域に入っていたとしても目視することは出来ません。ですが私も動ける頃、この場所によく座っていました。木々を切り開き星空を見えるようにしたのです。私は靖子と出会った後、ほとんどの時間を古墳内で過ごしました。そして星空が見える夜は靖子の腰かける磐座に座っていました。
 靖子はキチガイと初めて出会った時のことを思い出す。すると自然と涙がこぼれて来た。
「キチガイさんは死んだらどうなるの? 私の孫に受け継がれているキチガイさんの記憶は生き続けるけど、今いるキチガイさんは死んでしまうのでしょ?」
 キチガイとは生死観が異なっている事を理解はしていたが、それをどうとらえていいのか靖子には分からなかった。しかしキチガイの死が二人を分かつ事実は変わらない。
――この体はヒトと同じように土壌分解されます。そして私の非展開記憶は靖子の子孫に継承されます。この個体は生命活動を停止しますが、私の記憶は新たな器を得て、生き続けるのです。それは今の私と変わらぬ意識です。正確には靖子の原始卵胞編集時の意識です。ですから靖子が悲しむ必要はありません。
「でも、もうキチガイさんに会うことが出来なくなるじゃない」
 靖子の声は震えていた。靖子にとってキチガイを亡くすという事は、配偶者を亡くすというより、親を亡くすような心境に近かった。
――靖子に会うことは出来ませんが、靖子の子孫の中で私は生き続けます。
「そう言われても……」
 靖子は言い返そうとしたが、言葉を引っ込めた。これ以上は堂々巡りになってしまう。余計な事を考えずにキチガイの死を見守ろうと思った。
――質問は終わりましたか?
「ええ、もうキチガイさんに聞くことは無いわ。静かに最後の時を迎えましょう」
――ではこちらから伝えたいことがあります。先ほど優人が生命活動を停止しました。優人の生命反応が消えたのは磐座に着いた頃でした。
 一瞬靖子はキチガイが何を言っているのか理解できなかった。
「え?」
――ですから優人は生命活動を停止したのです。
 キチガイから二度、優人が死んだと聞かされても靖子には理解できなかった。優人は先日キチガイによって命を取り留めたばかりではないか。もしや完全に治っておらず、後遺症が残っていたのだろうか。いや、キチガイは完全に元の状態に戻ったと言っていたではないか。
「何を言ってるの? 優人は治ったんでしょ?」
――私の行った修復処置は完ぺきなものでした。優人は事故前と全く変わらぬ状態に回復しました。しかし先ほど靖子の尾行中に車に轢かれ、救急車の中で生命活動を停止しました。
 優人がまた私をつけていた? それで優人が車に轢かれて死んだ? こないだと同じように轢かれたの? 靖子はパニックに陥った。
「なんでもっと早く言わなかったのよ! 轢かれてすぐであれば、この間みたいに助かったかもしれないじゃない!」
 靖子はキチガイにまくしたてた。
――それは靖子が話を止めなかったからです。靖子の話を最後まで聞き、意見するのが私の義務だと考えたからです。靖子の話が終わるのを確認し、私は靖子に優人の死を伝えました。そして三秒後、私の体は生命活動を停止します。
 靖子は唖然とキチガイの亡骸を見つめる。そういえば先ほどからサイレンの音が鳴っているような気がしていたが、キチガイとの会話に夢中だったため、気に留めていなかった。

2019年1月3日公開

作品集『サイファイ・ララバイズ』第8話 (全12話)

© 2019 諏訪靖彦

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

SF ファンタジー

"愛別離苦"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る