拡散と収束

サイファイ・ララバイズ(第11話)

諏訪靖彦

小説

17,627文字

 小惑星テミス総督アメーリア・ワッツはメインベルト共同体代表準惑星セレス総督ジャクリーン・ウノアより緊急艦船通信を受け取る。それはセレスの首都ヨークがクーデターにより陥落したとの知らせだった。アメーリアは事の真偽を確かめるためにジャクリーンの乗る脱出船に瀧澤靖子を送り込む。

 天板を透過グラスで覆われた保育器の中で、全裸で横たわる幼女が四肢を小刻みに動かしていた。幼女の体を覆う長方体の保育器は、床に対して水平に置かれていたが、保育器に備わっている重力装置が内部の重力方向を変化させ、歩行に適した環境を作り出している。保育器は重力方向に合わせ幼女の視覚野に介入し幻視を見せ、各所筋肉に電気刺激を与えることによって疑似歩行状態を作り出し、幼児期の筋力発達を促進していた。無論、保育器の役割はその名の通り保育である。歩行以外にもカロリーの摂取方法や排泄方法、外の生活で必要な技能全般を保育器内で習得することが出来た。地球に生きるヒトも保育器の手を借り子供を育てるが、小惑星テミスに生きるヒトは、その特殊な環境に順応するため、地球上のヒトよりも長い期間、保育器の中で過ごさなければならない。保育器を出るまでの間、小惑星連帯基幹ニューラルネットワークによって管理育成され、その間、中にいるヒトの脳は睡眠と覚醒を繰り返しながら一歳になる頃に自我に目覚めるが、自身や外界を知覚認識することが出来ない状態では、保育器内での出来事が記憶に残ることはない。地球ではヒトが自我に目覚めると同時に保育器から出して母親による教育が始まるが、小惑星連帯に生まれるヒトは保育器内で自我に目覚めても保育器を出ることはかなわず、保育器の外に出るまでは母親の胎内にいるのと何ら変わらない。小惑星連帯基幹ニューラルネットワークにより外の環境に順応できると判断されて初めて、保育器の外に出ることが出来る。小惑星連帯に生まれたヒトの一生はそこから始まると言っても過言ではなかった。
 ヒトの人口は地球を統治する世界保健機構によって完全に管理されていた。しかし多様性を生み出す為にはヒトの地球外拡散が必要だと判断した世界保健機構は、開拓精神に富んだヒトを選び小惑星体へ送り出すことに決めた。それを惑星に求めなかったのは、惑星改造よりも少ない投資と時間で、居住性を確保することが可能であったためである。恒星エネルギーの取得が容易且つ、地殻に豊富な水素分子を持つ準惑星セレスを最初の開拓地とし、その後パラスやテミスへと範囲を広げていった。これらの準惑星や小惑星は居住に適した環境であっただけでなく、希少鉱物の採掘が期待できたため、世界保健機構は開拓移民希望者だけではなく、期間工夫たちも地球から送り出した。当初は希少鉱物の採掘成果も人口増加も世界保健機構の予測を上回る速度で推移していったが、ある時を境に期間工夫たちの地球への帰還が途絶した。そしてセレス内に張り巡らされていた世界保健機構のニューラルノードが全て切断された。準惑星セレス植民地総督ジャクリーン・ウノアが世界保健機構に対してセレス独立を宣言したのである。後日、ジャクリーンは世界保健機構に対してニューラルノードによる監視社会はヒトの尊厳を踏みにじるものであるとの声明を発表すると、他の小惑星植民地総督も歩調を合わせ世界保健機構のニューラルノードを切断、総督らは小惑星連帯を組みメインベルト共同体を名乗った。そして初代共同体代表にセレス総督ジャクリーン・ウノアが就くことになった。メインベルトの独立は開拓移民たちの手によって行われたため、世界保健機構より派遣されていた期間工夫たちは、メインベルト共同体に残るか地球に帰還するかの選択を迫られたが、殆どの期間工夫はメインベルト共同体の政治思想に共感し、メインベルト共同体に残ることを選択をした。それは期間工夫の殆どが地球で何らかの罪を犯し、懲罰として強制連行されて来たヒトであったからである。メインベルト共同体の中には地球犯罪者を受け入れることに反対する者もいたが、ヒトの根底にある寛容精神と、期間工夫の殆どが世界保健機構の都合により犯罪者とされたヒトであったため、罪状と境遇を確認し、最終的には殆どの期間工夫を受け入れることになった。当然ながら共同体員となることを拒む期間工夫もいた。メインベルト共同体はそれら地球帰還希望者を共同体思想に改心させることはせず、各小惑星総督府管理のもと期間工夫自らに地球帰還船を造船させ、地球へ帰還させることにした。しかし地球へ向けて出船した全ての帰還船は、その目的を果たすことなく消息を絶つことになる。それは世界保健機構が期間工夫の地球受け入れを拒否しただけでなく、メインベルト共同体へ送り返すこともせず、撃墜したのである。メインベルト共同体のニューラルノードが地球に根付くのを恐れたからとみられるが、撃墜の報を受けた元期間工夫たちは共同体を跨いで組織されていたメインベルトユニオンの名で、世界保健機構に対して宣戦布告を行った。それはメインベルト共同体の与り知らぬところで行われたため、当初メインベルト共同体はメインベルトユニオンの暴走を止めようと奔走するが、仲間意識の強いメインベルトユニオンの激情を抑えることが出来なかった。メインベルトユニオンはメインベルト共同体人口の三割を占める貴重な労働力である。そのメインベルトユニオンをこれ以上制止し続ければメイベルトを跨いだ内乱に発展し、メインベルトユニオンが独立しかねないと危惧したメインベルト共同体は、メインベルトユニオンを正式な共同体組織とし、改めてメインベルト共同体として世界保健機構と交戦することになった。開戦当初は圧倒的軍事力を持つ世界保健機構が、メインベルトへ先制艦隊を送り込み、幾つかの小惑星を占拠したが、占拠するたびに他の小惑星に飛散するメインベルトユニオンたちに世界保健機構は手を焼いた。そして世界保健機構はニューラルノードが届かない広大なメインベルト内で、戦線を拡大することは得策ではないとの判断から、幾つかの前哨地を残してメインベルトから撤退する。一方のメインベルト共同体も世界保健機構とテリトリーゲームをするつもりはなく、地球へ追撃艦隊を送り込むことはなかった。正式な協定こそ結ばれなかったが、事実上のメインベルト共同体と世界保健機構は休戦状態となった。しかしそれは長くは続かなかった。メインベルト共同体内部で共同体崩壊に向けた計画がひそかに進められていたのである。
 メインベルト共同体テミス総督アメーリア・ワッツは総督室に置かれた保育器内の第二子を見て微笑んでいた。第二子は世界保健機構との戦争が休戦状態に入ってからもうけた。年齢を考えれば最後の子供であったため、なるべく近くへ置いておきたいとの思いから、執務を行う総督室に保育器を設置していた。
「お母さん、私にも見せて」
 アメーリアの隣に立つ第一子クロエが言った。クロエの身長では保育器上部の透過グラスを覗くことが出来ない。アメーリアはクロエの両脇に手を置き持ち上げると、保育器の中が見えるようにクロエの体を傾けた。
「ちっちゃいねえ。かわいいねえ。早く保育器の中から出てきてくれないかしら。だってクロエは早く妹とお話しがしたいんだもの」
「そうよね。私も早く会いたいわ。だけどね、クロエ。この子はまだお勉強中なのよ」
 そう言うとアメーリアはクロエを床に下ろした。もう少し見ていたいと言うクロエの手を取り、総督室の外へ連れ出そうとしたところで『ナイアルホテプ』からの思念がアメーリア思考に割り込んだ。メインベルト共同体の基幹ニューラルネットワークはナイアルホテプと言う。それは世界保健機構の基幹ニューラルネットワークであるヨグソフホートを参考に、自律思考を高め構築された。圧倒的人員不足のメインベルト共同体では、ナイアルホテプに幾らかの自立思考を付与せねば、総督府が機能しないからである。テミスの人口は独立宣言以後も順調に増えていったが、独立宣言までに政府官職に就くよう教育されたヒトが殆どいなかったため、人材育成が成されるまで、暫くは移民一世でこの国を支えていかなければならず、それまではナイアルホテプに幾つかの自立思考を持たせる事に決めた。ナイアルホテプはヨグソフホートと似たニューラルネットワーク構造を持っているが、メインベルト共同体ではナイアルホテプによる完全監視体制は敷いていない。それを行えば地球時代の繰り返しだという事は誰しもが認識していたからだ。
――お取込み中のところ失礼します。メインベルト共同体代表セレス総督ジャクリーン・ウノア様より通話要求が届いております。発信源はセレス登録艦艇です。受け入れますか? 拒否しますか? 受け入れる場合、思念通話を行いますか? それとも音声通話を行いますか?
 アメーリアは不思議に思った。ジャクリーンがセレスを出ているとは聞いていなかったからだ。しかも艦艇発信となると、緊急性の高い連絡かも知れない。アメーリアはクロエを廊下に出すと、総督室の扉を閉めナイアルホテプに言った。
「思念通話ではなく音声通話でおねがい」
 メインベルト共同体では頭蓋に埋め込まれた電極より思念を取得し、それによって通話する方法が一般的であったが、親しい間柄や高官同士の会話は音声通話でなされることが多い。勿論通話内容はどんな通話方式であってもナイアルホテプによって記録されている。
――分かりました。音声通話で繋ぎます。
「アメーリア、突然の連絡、申し訳ない。結論から言うわ。ヨークが陥落したの」
 繋がった瞬間、ジャクリーン切迫した声が室内にとどろいた。ヨークとはセレスの首都である。
「陥落って何のこと? 誰の手によって陥落されたの? メインベルト内での世界保健機構の動きは監視しているはずでしょ。こちらからは何も観測できてないわよ」
 セレスは現在交戦中ではないはずだ。世界保健機構の前哨地は幾つかあるが、共同体内で観測情報は共有されており、セレスだけでなくメインベルト共同体でそれら前哨地と交戦している地域はないはずだった。
「軍部によるクーデターよ。数か月前から計画は進んでいたらしいけど、恥ずかしいことに、私はそのことに気付くことが出来なかった。グラスゴー地方部隊長が軍部を掌握し、メディアを占拠、その後ナイアルホテプの上位指揮権まで簒奪された。セレスへ繋がるノードはもちろんのこと、逆賊によって改変されたナイアルホテプのノードが他の小惑星へ浸食している可能性があるから、テミスから他の小惑星に繋がる外部ノードの全てを切断したほうがいいわ。即座によ」
 外部ノードを全て切断すればテミスは孤立してしまう。この提案がジャクリーンからではなく他の小惑星総督からの話であればアメーリアは即座に判断することはせず、総督府内の官僚を集め意見を聞いたであろう。しかし彼女はメインベルト共同体代表だ。しかも事態は切迫している。アメーリアが逡巡しているとナイアルホテプが思念通話を寄越してきた。
――共同体代表閣下の話が本当であれば、今この瞬間にも他の小惑星と繋がっているノードより逆賊のナイアルホテプがテミスに侵食してくる可能性があります。
――分かっているわ。
――閣下が即断できない、または官僚たちとの合議により判断を下そうとしているのなら、私は閣下にノードの切断を進言します。その選択が最良かは分かりませんが、最悪の事態は回避することが出来ます。
 ジャクリーンが頷くとナイアルホテプはセレスと他の小惑星とのノードを切断した。ナイアルホテプは一瞬で判断する。そこに躊躇や逡巡は介在しない。その時点でより正しいと思った判断を下すのだ。他の小惑星に繋がる外部ノードが全て切断されたことを確認すると、アメーリアはジャクリーンに言った。
「クーデターにメインベルトユニオンは噛んでいるの?」
 メインベルトユニオンはその名の通りメインベルト共同体の労働組合であったが、小惑星を跨いで強い結束力を持っており、各小惑星軍部に少なからぬ影響力を持っていた。軍部を掌握し首都を陥落させたと聞いてアメーリアの脳裏にメインベルトユニオンの存在がよぎったのだ。
「いや、クーデターはメインベルトユニオンによって引き起こされたものではないわ。メインベルトユニオンは逆賊と同調することはなかった。メインベルトユニオンは我々と共にある」
「そう、他の小惑星はどうなの?」
 テミスはセレスと離れているが、ベスタやパラス、それにエロスは距離的にセレスに近い。アメーリアはそれらの小惑星が無事なのか気になった。逆賊のナイアルホテプノードが他の小惑星に浸食していると厄介なことになる。
「連絡が取れないのよ。正確にはナイアルホテプを奪われたため確認することが出来ない。分かっていると思うけど、この通信は船内発信なの。船内発信を受け入れてくれたのがテミスだけだったのよ。私たち政府高官は既にセレスを出ている。そちらに身を寄せさせて頂けないかしら?」
 アメーリアはナイアルホテプに幾つか確認させたいことがあったが、とりあえずジャクリーンとの通話を終了させることにした。
「わかったわ。寄港準備が整ったらまた連絡を頂戴」
「助かったわ。それではのちほど……」
――通信終了です。
 通話を終えるとアメーリアはすぐさまナイアルホテプに命令する。
「ジャクリーンの乗った艦船の出発位置を確認して補足、テミス港寄港時間の算出と地球に向けた電磁波投射がないか確認して。それと、滝澤靖子を呼んでちょうだい」
 
 滝澤靖子は移民二世でありながら、メインベルトユニオンテミス支部副部長及びテミス国防軍シナノ地方部隊長を兼任していた。メインベルト共同体では軍の要職に就く人物が労働組合役員を兼任することは珍しい事ではない。メインベルト共同体発足当初は、軍民統制の観点から腐敗を生みかねないと、批判的な声が多かったが、現在では労働者の権利を守ることと国民の財産と命を守る軍が密接に繋がっているからこそ、国防が成し遂げられるとする考え方が支配的となった。二つの組織を兼務する滝澤靖子は、空間認知能力や危機管理能力、そして感情に流されない冷静な状況判断力が、メインベルトユニオンと軍、双方から高く評価されていた。しかし、それに対して異を唱える者も少なくなかった。靖子の冷徹な判断に対して、ヒトの血が通っていないと噂する者もいた。しかし靖子はそれらの言葉を陰口と捉えることはせず、それさえも状況判断に役立つ情報の一つと捉え、徹底した情報管理を行っていた。そんな靖子に助言を乞うため、アメーリアは靖子を総督室に呼んだのだった。
「率直に申し上げます。セレス総督閣下の乗った脱出船を寄港させるのはあまりにも危険です。情報は全てセレス総督閣下側から一方的にもたらされたものであり、多方面から確認したものではありません。しかも、セレス総督府がクーデターにより転覆したとすれば、混乱に乗じて世界保健機構が何らかの動きを見せてきそうなのもですが、今のところテミスより観測可能な世界保健機構の前哨地に動きは見られません」
 アメーリアは総督室の中央に位置する執務机に沿って置かれた椅子に、長い脚を窮屈そうに折り畳み座る靖子の話に耳を傾けていた。アメーリアは時折頷きながら、靖子の軍人としての見解を聞いていたが、靖子の出自であるメインベルトユニオンが今回の件をどう考えているのか気になった。
「メインベルトユニオンとしての意見を聞かせてほしい。メインベルトユニオンはこの件に対してどう対処するつもり?」
「テミスのメインベルトユニオンは完全に孤立しています。よってメインベルトユニオンとして意思統合できる状態にありません。しかし閣下がノードを切断するまでは各小惑星支部組合員に不穏な動きはありませんでした。いえ正確ではありません……私が認識できる範囲でメインベルトユニオンに変化はありませんでした。各小惑星のナイアルホテプノードを再接続することにより、セレスを除くメインベルトユニオンの現状把握が可能かもしれませんが、今はノードを再接続すべきではありません。あらゆる可能性を考慮しなくてはなりません」
 アメーリアは考える。ジャクリーンに言われるままに、テミスと繋がるノードを切断したナイアルホテプの行動は軽率だったのだろうか。しかしあの状況ではナイアルホテプがノード切断を進言せずとも、いずれ自分がナイアルホテプにノード切断を指示しただろう。
「ジャクリーンの言うようにメインベルトユニオンはこの件に関知していない可能性が高そうね。誤解しないで欲しいんだけど、私はジャクリーンを信頼していないわけじゃないの。脱出船に不穏な動きもないし、地球へ向けて電磁波投射を行っているわけではない。けれどあなたが言ったようにあらゆる可能性を考慮しなくてはいけないのよ。だからあなたにお願いがあるのだけど……」
 アメーリアが用件を伝える前に靖子が先に言葉を発した。
「セレス総督閣下の乗る脱出船への偵察ですね」
 流石にこの若さで方面隊長を任されるだけはある。アメーリアは靖子の切れ長で涼し気な目を見据えながらそう思っていると、総監室の扉がわずかに開いているが目に入った。アメーリアの視線が扉に向けられたことを察したのか、靖子も後を振り向く。しかし扉には誰も居なかった。
「作戦の途中にごめんなさいね。多分娘のクロエよ。大人たちの話に興味がある年ごろなのよ」
「閣下はクロエ様に自由に総督府内を歩ける権限を与えているのですか?」
 靖子の質問にアメーリアは笑いながら答えた。
「クロエ様なんてご身分じゃないわよ。保育器から出たばかりで何も世の中の事を知らないお嬢さんね。それでなんて聞かれたのかしら。そうね、クロエが自由に歩けるかどうかよね。自由にさせているわ。あの子勘が鋭いところがあるから、執務の邪魔はしてこないのよ」
「そうですか……」
 靖子がそう言うと、二人は作戦の具体的内容について話し始めた。
 
 靖子はテミス防衛軍名義ではなくメインベルトユニオン支部副部長としてジャクリーンの乗る脱出船へ乗り入れることになった。それは武官として訪問することにより、一般船員へ恐怖感を与えてしまう事への配慮もあったが、なにより脱出船にメインベルトユニオンセレス本部長が乗船しているとの連絡を受けていたからだった。セレス本部長の名はオリビア・チカと言う。浅黒い肌に短く刈られた髪が印象的な彼女と、靖子は旧知の中だった。世界保健機構が戦争初期にメインベルト内で起こした局地戦に二人は従軍し、命を賭して共同体を守り、または命を支え合った仲なのだ。当時靖子は十一歳であったが、オリビアは靖子の冷静な判断力に絆され、靖子が性成熟していればプロポーズをしていたと言わしめたほどに、靖子を信頼していた。そして靖子はオリビアの信頼があったからこそ、二十八歳という若さで支部副部長という異例の出世をしたのであった。
 靖子は脱出船に現在の停止予定位置から四万キロメートル後方で停止するように伝えたが、セレス脱出船は重力制御の関係から逆噴射出力を上げることが出来ないからと、直接テミス港へ寄港することを要求してきた。確かに脱出船は一Gを保とうとすればギリギリの減速速度で航行していたが、十日間僅かな過重に耐えるだけで、四万キロメートル後方に止まることが出来る。そう難しい要求ではないはずだと伝えると、今度は着床を控えた個体がいると言ってきた。靖子は脱出船の要求を官僚たちへ報告した。官僚たちは目視できる脱出船の装備などを鑑み、ナイアルホテプと共に対策を練った結果、一万キロメートルが何かあった場合に対処できるギリギリの距離だと靖子に伝えた。それを受け靖子は、脱出船に一万五千キロメートル以上後方ではないと、テミスに乗り入れさせることは出来ない、そしてテミスへの乗り入れは相手がどんな高官であっても、こちらの用意したシャトル船経由でしか認めないと通達を出した。セレス脱出船側は要求を押し通す立場になかったため、しぶしぶテミス側の要求をのみ、逆噴射出力を増していった。
 セレス脱出船が完全に停止する時間を見計らって、靖子の乗った巡視船が脱出船に近づいた。そして完全に停止した脱出船に巡視船を横付けすると、脱出船の船外活動用ハッチからナイアルホテプのノードを装備しただけの宇宙服で単身乗り込んでいった。
 靖子の体が船内に収まると、三重構造のハッチが内側からゆっくりとしまる。そして宇宙空間と完全に遮断されると、出入り口にあたる球状の部屋に重力がもたらされた。靖子は緩やかな加重を受けながら、ハッチから滑るように球体部屋の中心に滑り降りる。球体部屋の下降重力中心点に到達するとナイアルホテプに室内環境の観測をさせ、問題が無い事が確認してから頭を覆うシールドを外した。長い黒髪が低重力下ではらりと舞う。続いて宇宙服の上半分を腰まで下げたところで上方から声が聞こえてきた。
「ようこそ靖子。直接顔を合わせるのは三年ぶりかしら」
 靖子が顔を上げるとそこにはオリビア・チカの姿があった。
 
 靖子の乗船は脱出船乗組員に歓迎された。脱出船は太陽光と宇宙空間上の水素分子によってエネルギー不足になることはなかったが、ナイアルホテプを奪われていたため、精神状態の均衡を保つ為に必要な脳内物質を制御する事が出来ず、乗組員は疲弊しきっていた。また、それを紛れさせる娯楽も船内にはなかった。靖子の乗船はそんな船内環境に変化をもたらすものとして迎え入れられたのである。オリビアは靖子の事を元婚約者だと乗組員に紹介した。すると、そこかしこで笑いが起こる。それはオリビアが子孫を残さず閉経をむかえた事で、仕事以外興味のないヒトだとメインベルトユニオン内でレッテルを貼られていたからだ。靖子はオリビアの紹介を受け、自分の方から婚約を破棄したと返すと、さらに大きな笑いとなった。
 オリビアや他の乗組員と和やかな雰囲気で雑談を終えた靖子は、続いてオリビアに船内を案内された。乗組員の居住空間や船外活動船が収められた格納庫を見て回った後、靖子は保育室に案内された。そこには幾つかの保育器が並んでいた。上からのぞくと、かわいらしい手足を懸命に動かしている幼女が見える。オリビアは何も言わなかったが、保育器を靖子に見せることで、この子たちの為にも早期に脱出船をテミス港へ寄港させてほしいと願う無言の圧力を掛けられたような気がした。
 その後、幾人かの政府要人や軍属、メインベルトユニオンを紹介された後、脱出船後部に設けられた臨時総督室に通された。
「どうぞ、お入りください」
 靖子より先に臨時総督室に入っていたオリビアが出てくると、今までとは違う形式ばった口調で靖子に臨時総督室へ入るよう促す。
「失礼します」
 靖子は大きな声でそう言うと、室内に入っていった。靖子が室内に入ったのを見届けると、オリビアは部屋の外から扉を閉める。臨時総督室内は靖子の想像とは違っていた。五平方メートルほどの室内には飾り気がまるでなく、部屋の中央には六人座るのが精々に見える大きさのテーブルが置かれている。臨時総督室だと紹介されなければ、兵士の詰め所と勘違いしてしまいそうな部屋だった。
「滝澤靖子さんね。アメーリアから聞いている通り意志の強そうな目をしてらっしゃる。何もない部屋だけど、どうぞ腰をかけて下さいな」
 テーブルの中央奥に座るジャクリーン・ウノアが靖子に向けて言った。セレスを追われ救援を求めてきてはいたが、セレス総督メインベルト共同体代表の威厳はまったく衰えていなかった。
「はっ、失礼します」
 靖子はテーブルに備え付けられた椅子に、ジャクリーンと対面する形で腰をおろした。
「率直に言うわね。ナイアルホテプの外部ノードを切断して孤立状態にある貴国が、いわば難民船のようになったこの船を素直に受け入れるのが難しいのは分かるわ。私の立場でも船内偵察をよこすでしょう。偵察の結果はどうでした? 脱出船内に不穏な動きはあったかしら? または脱出船内に不穏分子はいたかしら?」
 ジャクリーンは八十歳を超えている。しかし靖子を見据える鋭い目つきは、その年齢を全く感じさせないものだった。靖子はジャクリーンがそう聞いてくることを予想していたため、脱出船内に入る前から用意していた答えをジャクリーンへ伝える。
「貴艇監査の結果については後程、テミス総督アメーリア・ワッツによって閣下に直接通達されます」
 靖子がそう言うと、ジャクリーンは笑いながら答えた。
「予想した返事と一字一句違わないわ。じゃあこう聞こうかしら? 船内の居心地はよかった?」
 靖子は一旦ジャクリーンから目線を外すと、ゆっくりと瞬きを二回した。そしてすぐにジャクリーンを見据えると、ハッキリとした口調で答えた。
「私の役目は船内監査であります。私は軍人ですが、今は軍事権限を与えられていないメインベルトユニオンの一員として来ております。当然武具は装備しておりませんが、ナイアルホテプが機能していない船内で、私の装備品をチェックしないまま閣下の前に通されるとは思ってもいませんでした。当初私は貴艇の危機管理能力の欠如からくるものと、大変失礼な判断をしてしまいましたが、それは私を、いやテミス総督府を信頼しているからこそ、なされたものである事と今は理解しています」
 ジャクリーンはずっと靖子の目を見ている。靖子にはその視線が言葉の真意を汲み取れないかと探っているようにも見えた。靖子は視線を外すことで偽りを述べているとは思われたくなかったため、ジャクリーンから目線を外すことはしなかった。するとジャクリーンが口を開いた。
「寛容精神にのっとり私たちを受け入れてくれることを願っているわ」
 
 靖子は脱出船を離れ巡視船戻ると、脱出船から離れ一定の距離を取ったのち、テミス総督府に脱出船監査内容を報告した。アメーリアは官僚たちからもたらされた報告と対応策を確認した後、巡視船に残る靖子と直接指示を出す。その後セレス総督共同体代表ジャクリーン・ウノア向け通達した。それはテミス総督府が脱出船乗組員全員を受け入れるとの内容だった。
「テミス総督府はセレス難民政府の受け入れを決定しました。テミス総督府の用意したシャトル船への乗船を準備してください。テミス国防軍シナノ地方部隊長滝澤靖子の指示に従い全ての乗組員が搭乗したことを確認したのち、テミスに向けて出発します」
 脱出船の管制室でアメーリアからの通達を受けたジャクリーンはすぐさま乗組員に向けて、テミス寄港が受け入れられたとのアナウンスを行った。乗組員たちの間で歓声が起こり、抱き合い涙するものもいた。オリビア・チカはメインベルトユニオン本部長として靖子へ謝意を伝えたいからと、靖子の乗る巡視船へ個人的な通信要求を行ったが、シャトル船への搭乗準備が先だとナイアルホテプに拒否され、靖子と直接通話することはかなわなかった。オリビアはテミスに寄港してからゆっくり靖子と話そうと気持ちを切り替え、シャトル船搭乗準備を進めていった。ジャクリーンは靖子の肩書が、メインベルトユニオンから軍役職に変更されていた事に対して不自然だとは思っていなかった。それはシャトル船を使ったテミス受け入れ任務がメインベルトユニオン主導ではなくテミス国防軍の軍事行動だと認識していたからであったが、テミス総督府は別の理由から靖子を軍人として任務にあたらせていた。
 靖子はアメーリアの指示のもと巡視船からシャトル船を出船させ、脱出船に横付けすると、まず保育器をシャトル船に運び、続いて一般民、メインベルトユニオン、軍関係者、政府要職者と次々と乗船させていった。そして最後にセレス総督ジャクリーンが搭乗したのを確認すると、テミス港へ向けてシャトル船を発進させた。
 巡視船に戻った靖子は管制室で、シャトル船の警護のため並走させていた小型戦闘機から送られてくるシャトル船周囲のモニタリング情報を三次元投射して眺めていた。そして事前に計画されていた星域に到達したのを確認すると、小型攻撃戦に対しいて砲撃命令を出す。艦隊装甲を持たぬシャトル船は、小型攻撃機が発射した飛沫上の液体金属により、蜂の巣と形容するのがおこがましいほどの状態に撃ち抜かれ、霧のように離散し、爆炎すら上がらぬまま宇宙空間の塵となった。その様子を巡視船から観測していた靖子は、シャトル船の蒸発確認後、無人となったセレス脱出船を巡視船で砲撃、シャトル船と同じく原型を留めぬ姿まで破壊した。
 靖子は自身が立案したセレス脱出船殲滅計画を遂行すると、今後予想される任務を準備すべく、すぐさまテミスに帰港した。靖子がテミスに戻るとほどなくして、セレスを除くメインベルト共同体小惑星総督府が続々とテミスに特使を送ってきた。靖子はそれら特使船に乗船し、セレス産ナイアルホテプに浸食されていないことを確認していき、無事であることが確認出来次第、それぞれのナイアルホテプノードを回復していった。メインベルト共同体のナイアルホテプが事件以前の状態に戻ると、メインベルト共同体は靖子の根回しによるメインベルトユニオン協力のもと、テミス総督アメーリア・ワッツを臨時共同体代表に選出し、セレスに対して宣戦布告をする。メインベルト共同体の宣戦布告に対してセレスからの返答はなかったが、それが問題になることはなかった。共同体各総督府軍はその時点でセレスに一番近い軌道をとっていたパラス星域に主力戦闘艦隊を集結させることにした。テミスからはメインベルトユニオンが多く所属するシナノ地方艦隊、ブラスチラヴァ地方艦隊、ヨーテボリ地方艦隊を出撃させ、パラス星域で各共同体主力艦隊と合流した後、靖子の乗る旗艦スワを統合司令艦に据えたメインベルト連合艦隊を編成、準惑星セレスに向けて進軍した。
 それは一瞬で決着した。セレス奪還作戦であれば戦闘が長引くことも予想できたが、メインベルト連合艦隊の目的はセレス殲滅である。セレス産ナイアルホテプのノードを一つ残らず消滅させるため、セレス惑星軌道内に入る事すらせず、セレス全土に向け絨毯爆撃を行ったのである。セレス全てが焦土と化し、核汚染され、地殻から水素が消滅した。セレスはかろうじて球体を保っていると言っていい状態まで破壊尽くされたのである。メインベルト連合艦隊はセレスに直接攻撃可能な星域に達するまでに、セレス軍との衝突を覚悟していたが、セレス艦隊が出撃してくることはなかった。それは総督府や軍の要人が逃げたためと予想出来たが、それが地球なのか他の小惑星なのかを確認することは出来なかった。
 
 靖子からもたらされたセレス脱出船監査報告にアメーリアは衝撃を受けた。脱出船がナイアルホテプによって支配されており、脱出船を寄港させれば船員に組み入れられたナイアルホテプのノードが、テミスに根を張る恐れがある。しかも脱出船内のナイアルホテプにはメインベル共同体が定めた規定以上の自立思考が付与されており、セレス全土がナイアルホテプの支配下にあると言った内容だった。靖子が脱出船に潜入直後、持ち込んだナイアルホテプのノードが自身と纏ろわぬ健全性を確認できない多数のノードを検出していた。巡視船ではリアルタイムにそれらのノード解析を行っていたが、それがナイアルホテプの残骸なのかそうでないのかは接続してみなければ確認することは出来ないという判断しか下せなかった。しかし靖子が船内監査を進めるなかで見つけたものが、セレス産ナイアルホテプが機能している証拠となった。それは保育器の存在だった。保育器はナイアルホテプが機能していなければ運用することが出来ない。ナイアルホテプが奪われたのであれば、幼児を保育器から出し母親の手で育てていなければおかしいのである。靖子は保育器がナイアルホテプによって監視されていることを確認し、セレス脱出船がナイアルホテプによって掌握されていると結論付けた。また多数発見された未確認ノードは脱出船員の体内巡回ノードである可能性が高く、脱出船及び船員の殲滅、そして準惑星セレスの殲滅をアメーリアに進言した。報告を受けえたアメーリアの決断は早かった。ただちに靖子に脱出船及び乗組員の殲滅を指示し、脱出船破壊後は各小惑星総督府がテミスに特使を送ってくる事が予想されたため、それら小惑星の健全性を確認する任務を与えた。アメーリアが臨時共同体代表に選出されると、アメーリアはテミス国防軍司令部議会及びメインベルト共同評議会に靖子を列席させ、靖子にメインベルト連合艦隊総司令官を任せることを提案する。臨時ではあったがメインベルト共同代表の発言力は高く、またメインベルトユニオンへの影響力から、大きな反対もなく決定した。そこにはこの難局を切り抜けた靖子に対して各国が高く評価していた側面も大きかったであろう。
 
 アメーリアは執務室で靖子の提出したセレス脱出船監査報告書に目を通していた。今回の件を裏で手を引いていたのが世界保健機構だったのか、それともナイアルホテプの自我によるものなのか判断することが出来ない。しかしナイアルホテプに自立思考を持たせたことに端を発する出来事なのは明白だった。やはりナイアルホテプから自立思考を外す時が来たのかもしれない。アメーリアはそう考えながら保育器に目をやったところで、扉をノックする音が聞こえた。
「どうぞ。入ってらして」
「失礼します」
 軍人らしい大きな声と共に滝澤靖子が総監室に入ってきた。靖子は本作戦の功績が認められテミス国防軍航空宇宙軍地方兵総局長に就任し、またメインベルトユニオン本部移転に伴いメインベルトユニオンテミス本部長を兼任していた。メインベルトユニオンはメインベルト共同体人口の三割を占める巨大労働組合であり、靖子が小惑星総督に匹敵する力を持ったと言っても過言ではなかった。
「長期間にわたる任務お疲れ様でした。さあ座って」
 アメーリアがそう言うと、総監室に置かれた来客用ソファーに向けて手を差し伸べた。靖子は「それでは」と小さく言った後、ソファーに腰を下ろした。
「色々と気の重い決断もあったでしょう。脱出船には第一次ブルマリア円錐丘防衛線に従軍した仲間もいたようで……」
 そう言ってアメーリアは靖子を見据える。しかし靖子の目に感情は感じ取れなかった。その目に靖子は一介の軍人から指揮官の目になったとアメーリアは感じた。
「国防軍事行動に私情を挟むのは軍人としてあってはならない行為です」
 靖子はまっすぐな目でアメーリアを見つめている。
「あなたは根っからの軍人なのね。気を落としていないかしらと心配したけど、杞憂だったみたいね。安心したわ」
 靖子は小さくうなずきアメーリアに先を促した。
「それで今日来てもらったのはね、共同評議会で提案する議題について事前に根回しをしてもらいたいの」
「メインベルトユニオンに対してですか?」
「そう。メインベルトユニオン内で同調勢力を形成して、ゆくゆくは評議会で行動指針に組み込んでほしいとまで思っているわ。動いてくれるのであれば、テミスでの労働争議に一定の配慮をするつもり」
「内容によります。我々メインベルトユニオンは労働者の権利を第一に考えています。閣下の要求がそれに沿ったものであるなら、図らずとも受け入れます」
 アメーリアは靖子の態度を確認した後、深呼吸してから話し始めた。
「それはナイアルホテプの自立思考廃止について。今回の件はナイアルホテプに自立思考を持たせているがために起きたことは間違いない。仮に世界保健機構が手を引いていたとするならば、自立思考という脆弱性を衝いてセレスを掌握した。世界保健機構が噛んでなかったとしてもメインベルト共同体の脆弱性を晒したことになった。それは早急に塞いでおかなければいけないのよ。当然ナイアルホテプに代わる人材の育成が追いついていないことは分かっているわ。メインベルト内の全てヒトがナイアルホテプの自立思考の恩恵を受けていると言ってもいい。労働者は特にそうよね。だからあなたに相談を持ち掛けたの」
 靖子は頷きもせず、じっとアメーリアの話を聞いていた。アメーリアの話が終わると靖子は静かに目を瞑った。しばしの沈黙の後、考えが纏まったのか、靖子は目を開きアメーリアに言った。
「分かりました。長期的に考えれば労働者の利益になるでしょう。何よりメインベルト共同体が本当の意味で自主独立を果たす好機でしょうから」
「よかったわ。それを叶えるためにメインベルトユニオンの協力は必須だったから」
 アメーリアは安堵の声を上げた。そして握手を求めるため立ち上がろうと腰を浮かせたとき、靖子が声を発した。
「その前に閣下、こちらからお伝えしたいことがあります」
 アメーリアはソファーに座りなおした。もしや交換条件を出してくるのではないかと訝しんでいると、それ読んだかのように靖子は話を続けた。
「今から話す内容は、当然ナイアルホテプの自立思考廃止に向けたメインベルトユニオン協力要請への交換条件ではありません。閣下が私の話を了承するもしないも、先ほどの件には全く影響しません。そのうえで閣下にお願いがあります」
 アメーリアは靖子の事を勘違いしていた。いや勘違いというより見誤っていた。アメーリアを見据える靖子の目は、指揮官のものでは無く政治家のそれだった。
「なにかしら? おっしゃってちょうだい」
「準惑星セレスの事です。先の戦いによってセレスを徹底的に破壊しました。しかしセレスにはいまだ沢山の希少金属が眠っています。居住可能面積はメインベルト内最大です。閣下にお願いしたいのは、セレス復興の任に私を選出していただけないかという事です。メインベルト共同体内にセレスの復興を計画しているところはまだありません。セレスの復興をメインベルト共同体員の我々が独占することは出来ませんが、他国に先んじて着手すれば、テミス主導の、テミスの意見を多分に反映させたセレス復興案を立案することが出来ます」
 靖子はテミス主導のセレス復興機関を設立し、その長官に据えろと言ってきた。それはアメーリアの想像を超える要求だった。しかしその計画は、テミスをより良い方向に導く可能性をはらんでいる。メインベルト合同セレス復興機関の設立をテミスが主導し、靖子を長官に据えることが出来れば、メインベルトユニオンの協力も得られ、労働力確保もたやすいであろう。アメーリアは靖子の要求が思い上がった態度からくるものとは受け取らず、むしろ移民二世にもこのような人材が育ってきたのかと感慨深かった。
「分かったわ」
 アメーリアはそう言うと立ち上がった。靖子も合わせて立ち上がる。二人は右手を出し固く握手を交わした。アメーリアが靖子を見据えにっこりと笑うと、靖子も口角を上げた。
 
 アメーリアと靖子の会談は深夜まで続いた。それは靖子が持ち込んだセレス復興計画が原案レベルではなく、あまりにも詳細だったからである。アメーリアが復興計画の概要を把握したのは、ナイアルホテプから日を跨いだと連絡を受けた頃だった。靖子が長時間拘束してしまった非礼を詫び総監室を出て行った後、アメーリアは当日こなすべき執務を思い出したが、集中力が続かないことを理由に早々に切り上げ、総督室を出て行った。
 二人が総督室からいなくなるのを心待ちにしていた人物がいた。それはアメーリアの第一子クロエ・ワッツである。クロエは誰もいなくなった総督室に入ると部屋の隅に置かれた保育器へ向けて歩いてゆく。保育器は室内の闇によって発生した上部透過グラスからの青白い光が、クロエにその存在を示しているかのように見えた。保育器までやって来たクロエは、保育器側面の生体認証センサに触れ、操作盤を呼び出した。ナイアルホテプによる幾つかの制止を振り切り、保育器内空気成分の設定を変更したところで後ろから声を掛けられた。
「彼女を殺すのですね?」
 声のした方へクロエが振り返ると、そこにはじっとクロエを見据える滝澤靖子の姿があった。一メートル近くある身長差によって、首を上げ靖子を見やるクロエの視線からは保育器を操作する所を見つかった事への動揺は感じ取れない。靖子はクロエと視線の位置を合わすためにしゃがみこむと、もう一度クロエに聞いた。
「アメーリアが自分の手で彼女を保育する前に殺そうと思ったのですね?」
 クロエは頷くと、靖子に聞き返す。
「止めますか?」
「いいえ。見ています」
 靖子は即答すると立ち上がり、保育器に横たわる幼女に視線を向けた。幼女は首を後ろに反らし、酸素を取り込むため大きく胸を上下させている。目は見開かれ、何もない宙を見つめていた。そして段々と胸の上下運動間隔が速くなっていき、そのうちバタバタと悶えるように四肢を動かし始めた。
「酸素濃度を下げたのですか?」
 靖子が質問すると、クロエは靖子にホログラム操作盤を向けてきた。靖子は操作盤上に表示された空気構成値を確認すると、また幼女に視線を戻す。すると幼女はよだれを垂れ流しながら全身をこわばらせ、小刻みに痙攣していた。幼女の痙攣は十数秒続き、そして弛緩した。
「一次生命活動を停止しました。このまま放置すれば完全な死が訪れます。ナイアルホテプを操作しあなたが殺した痕跡を無くすことは簡単でしょうが、アメーリアの第二子が死んだ事実を変えることが出来ません。それであなたは次に何をするつもりですか?」
 靖子はそう言ってクロエを見下ろす。見上げるクロエの口から靖子の想像した通りの答えが返ってきた。
「次は私の番です。私はアメーリアの第二子を殺した記録を、ナイアルホテプから消すようなことはしません。ナイアルホテプに痕跡を残したまま私は行政棟の屋上から飛び降り記憶を絶ちます。アメーリアは私に行動の自由を与えた事を悔やみ、自責の念に駆られるでしょうが、一度に二人の娘を失ったことによって引き起こされるアメーリアの思考能力の低下は、我々が果たすべき目的に有利に働く可能性が有ります。それがメインベルト共同体にとっての有益になるかは分かりませんが、メインベルト共同体内でのあなたの立場をより押し上げるきっかけとなることでしょう。私はあなたにマージ出来るほどの観測記録を有していません。私の年齢では観測できる事柄が限られているからです。ですからこのまま生命活動を停止します。それが公平で公正な思念意体統合であると認識しています」
 クロエの話を聞き靖子はうなずく。靖子はクロエ両脇に手をやり抱え上げると、頬と頬をこすり合わせた。そして抱えたクロエの目線を自身の目線に合わせるとクロエに言った。
「異議はありません。メインベルト内では私こそがクヤン星系に一番近い立場にある展開記憶思念意体です。メインベルト内の他の展開記憶思念意体及び非展開記憶を統合する必要のある展開記憶思念意体です。ヨグソフホートのいないメインベルトでは地道な作業が必要となってくるのです。公平で公正な思念意体統合でした」
 そう言うと靖子はクロエを床に降ろした。クロエはそのまま扉の方へ歩いて行くと、扉の前で振り返り靖子に向かって手を振った。暫く経っても靖子が手を振り返さなかった為、クロエはそのまま扉を開けて屋上へ向かった。

2019年1月12日公開

作品集『サイファイ・ララバイズ』第11話 (全12話)

© 2019 諏訪靖彦

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