靖子の望むヒト欠片

サイファイ・ララバイズ(第10話)

諏訪靖彦

小説

24,075文字

ヒトが性を捨てた時代、諏訪靖子の住む被差別部落に町から性奴隷がやってきた。靖子は性奴隷と触れ合ううちに、心の奥底から湧き上がる説明のつかない感情に苦悩する。

 諏訪靖子は湖に刻まれた蛇行状の白線に目を奪われていた。靖子の住む部落に面した湖は、冬の間一面氷で覆われる。湖に張られた氷は、昼夜の激しい寒暖差によって収縮と膨張を繰り返し、幾つかの条件が組み合わさると、氷面に亀裂がはしり、そこから柱のように氷がせり上がる。その現象は御神渡りと呼ばれていた。気象状況によって発現する年は限られるが、御神渡りが発現する年は農作物に恵まれるとされている。靖子の目には、岸からは沖に向けて伸びる御神渡りが、部落と対岸とを繋ぐ橋のように見えた。
 靖子は湖にワカサギを採りに来ていた。ヒトは生命活動を維持するために必要なカロリーの全てを、電力変換により賄える技術を得ていたが、靖子の住む部落では出来る限り有機物を摂取する食文化が形成されていた。米や蕎麦等の穀物を主食としてはいたが、山間地域で外界との交流が殆どない部落では、恒常的に採取できる動物性たんぱくが少ない。そのためイナゴや蜂の子などの昆虫、冬の間に採れるワカサギを保存のきくように加工し、動物性たんぱくを補っていた。
 靖子は上着のポケットから直径五センチメートルほどの球体を取り出すと、盛り上がった亀裂に沿い、湖の沖に向けて投げ入れた。靖子の放った球体は四十五度の角度で沖へと向かうと、運動エネルギーと重力との折り合い点で停止した。そして数秒間回転した後、ゆっくりと靖子の手に戻ってくる。靖子が投げた球体は『幌』という。幌には半径百メートルの範囲で全方位観測機能が備わっており、画像情報だけではなく空気組成や湿度等の大気状態、観測物の温度から放射性同位体崩壊間隔までスクリーニングすることができる。また、取得した観測情報はスケールを変更し三次元投射することが出来るため、靖子は家に戻った後、部屋一面に御神渡りを投射しようと考えていた。
 靖子は御神渡りをしばし眺めた後、ワカサギを繋いだ縄を右手に持ち、岸から離れようとしたところでヒトの気配を感じた。
「凄い景色だね。初めて見るよ」
 靖子が振り返ると、すぐそばにヒトがいた。そのヒトは靖子より十五センチほど背が高く、喉を壊しているのか幾分声のトーンが低い。
「そうね。私は何度か見たことがあるけど、今年の御神渡りは氷柱に高さがあって特別綺麗に見えるわね」
 靖子は話しかけてきたヒトを見上げながら言った。
「この自然現象は御神渡りって言うんだね」
 そのヒトは感心したように言った。御神渡りを知らないということは、この辺の部落のヒトではなのだろう。
「町から来たの?」
 そのヒトはしばし考えた後、靖子に言った。
「うん。町から来たんだ。いや、町から逃げてきたと言った方が正しいかな。ああ、そんな言い方をすると怪しいよね。私は関屋薫といいます」
 そのヒトは関屋と名乗った。そして町から逃げて来たとも言った。町の生活が嫌になり田舎暮らしを始めるヒトがいることは知っていたが、わざわざ雪深いこの地を選ぶヒトは少ない。しかもこの地には町のヒトが好んで足を踏み入れないもう一つの大きな理由があった。
「田舎暮らしをしたいなら、もっと適した土地があるでしょう。この地域の冬は厳しいし、特別日照時間が長いわけでもない。それに町にいたなら知っていると思うけど、この地区は被差別部落よ」
 世界保健機構が単性生殖者に人権を与えたことにより、表向き被差別部落は消滅したが、寛容主義社会では源流文化に固執する単性生殖者が受け入れられることは無く、部落に対する偏見は人権が与えられる前と何も変わっていなかった。
「その方が都合いいんだ」
 その言い方に靖子は関屋が町で問題を起こし逃げてきた犯罪者なのではないかと疑った。関屋が犯罪者であれば山間の部落に逃げてきたことは理解できる。しかし世界中に張り巡らされた世界保健機構のニューラルノードを掻い潜ることは部落内であっても不可能であり、一日と経たぬ間に憲兵に捕まるであろう。
「そう。だったら私は何も言わない。手助けもしないけど」
 そう言いうと靖子はその場を離れようとした。すると関屋が靖子を引き留める。
「あなたの名前を聞いてなかった。よかったら教えてくれないかな?」
「私は諏訪靖子。早くこれを干さなきゃいけないから」
 そう言うと靖子は右手に持ったワカサギの束をひょいと上げた。
 
「沢山とれた?」
 靖子が家に帰ると母親の愛子が待っていた。靖子の家は四世代が同居している。後天的遺伝子損傷以外、殆どの病を克服したヒトの寿命は百歳を超え、靖子の住む部落では数世代同居は当たり前となっていた。町ではゲノム交換で子孫を残すことを前提とした婚姻制度があり、結婚によりどちらかの家に入るか、新居を構えるのが普通だったが、単性生殖者部落では生まれた家で生涯を終えることが多い。それは世界保健機構により部落の外へ出ていくことを制限されているわけではなく、単性生殖者が自ら望んだ生き方だった。部落内の単性生殖者が源流文化に固執することを止め、他人のゲノムを受け入れるのであれば、町にいる寛容主義者達はその寛容精神から、喜んで受け入れてくれるだろう。しかし単性生殖者の子孫は単性生殖を選んだヒトの単性クロンである。自発的に部落を去ることなど無いと言ってよかった。
「いっぱいとれたよ」
 靖子は右手を上げワカサギの束を愛子に見せた。
「わあ大漁。靖子はワカサギ釣りの名人だね」
 愛子にそう言われ靖子は自慢げに胸を張った。靖子は今年で十四歳になる。部落内の中学校に通ってはいるが、町の学校に比べ教育水準は低く、中学校までの義務教育を果たした後、進学できる高等教育機関が部落の中にはなかった。しかしそのことに対して行政に訴え出る単性生殖者はいない。それは部落で生きていくうえで高等教育の必要性が薄く、学校で学ぶ知識より自給自足に必要な知識を母親から学ぶことの方が大切だからだ。
「下処理をしましょうね」
 そう言うと愛子は靖子の持つワカサギの束に手を伸ばした。すると靖子は突き出した右手をさっと引いた。
「お母さんは夕飯の支度があるでしょ? ワカサギは私が干しておくから。お塩とボウルだけ借りていくね」
 靖子はそう言って土間にワカサギの束を置くと、靴を脱ぎ台所に向う。台所から塩とボウルを持ってきた靖子は、土間でまた靴を履き、ワカサギの束をもって庭の水場へ向かった。水場に着くとボウルの中に採ってきたワカサギを広げ、塩を振ってもみ洗いする。するとワカサギの鱗が綺麗にはがれた。靖子は水道の蛇口をひねり、ボウルの中に水を入れ、じゃぶじゃぶと数回かきまぜた後、ボウルを傾けはがれた鱗と汚れを流す。それを数回繰り返して鱗のとれた透明な魚体をそばにあった竹ざるの上に扇状に並べた。採ってきたすべてのワカサギを干し終えたころ、愛子から食事の支度が出来たと靖子を呼ぶ声が聞こえてきた。靖子は手を洗い茶の間に向かった。
 
「御神渡りが見られたよ」
 靖子はイナゴの佃煮を頬張りながら言った。食卓には野沢菜のお焼きを主菜とし、キノコと山芋と人参の入った具沢山の味噌汁、そして幾つかの佃煮が並んでいた。
「へえ、そうなの。何年振りかしらね?」
 靖子の対面に座る祖母カレンが言った。カレンは六十を超えていたが、いまだ元気に農作業をしている。靖子の家ではそれぞれ役割が決まっており、母愛子は炊事洗濯を主に行い、曾祖母エレノアは裁縫などの比較的体力を使わなくても済む家事をおこなっている。そして靖子の役割は農作業と狩猟採取である。
「今年はきっといいことがあるよ」
 靖子の斜め向かいに座るエレノアがそう言った。靖子の家は祖母曾祖母と四世代同居であったが、それぞれに姉妹はいない。世界保健機構により単性生殖者が複数の単性クロンを残すことが禁じられているからだ。ヒトは子孫を残すと登記コードが付与される。それは出生時に埋め込まれる血液循環式記録媒体に書き込まれ、世界保健機構によって管理されていた。単性生殖者でなければ、ある程度自由に子孫を残すことが可能であったが、多様性を生まない単性生殖者が複数のクロンを残すことは出来ない。それは単性生殖を選んだ代償ともいえたが、そもそも単性生殖者は子孫を繁栄させたいとは思っていなかった。
「そうね。でも良い事って何かしらね」
 愛子がエレノアに向けて言った。するとエレノアは首をかしげ、宙を見つめて考え込んだ。それを見た靖子が二人の会話に割って入る。
「毎日良いことだらけだから、御神渡りの吉兆は、悪いことが起こらないってことなんだと思うよ。今日も沢山ワカサギが取れたし、みんなで一緒にご飯を食べることが出来てる。そしてなによりご飯がおいしい」
 靖子がそう言うと皆が笑った。部落内では淡々と時が過ぎる。良い事と言えば、料理が旨く出来たとか、収穫した農作物が面白い形をしていたとか、御神渡りが見られたとかその程度だった。外との交流が殆ど無い部落では幸福の尺度が町のヒトとは違うのだ。
「そう言えば、さっき湖の畔で町のヒトを見かけたよ」
 笑い声が収まると、靖子はお焼きに手を伸ばしながら何気なく言った。
「何しに来ていたの?」
 愛子が心配そうに靖子に聞く。外のヒトが部落に来ることは稀にあったが、そのほとんどが部落生活の物珍しさを冷やかしに来る輩だった。
「よくわからないけど、町から逃げてきたって言ってた」
「犯罪者かね? こんなところに逃げ込んだとしても、すぐに憲兵さんに捕まってしまうのに」
 エレノアが靖子に言った。世界保健機構によって監視されている世界において、犯罪者の逃亡は現実的選択肢ではなかった。世界保健機構は血液循環記録媒体の位置を瞬時に判断し、憲兵を送ることが出来る。
「憲兵さんは部落の中に足を踏み入れたくないのかも。臭いからって」
 靖子が自虐的にそう言うと、また笑いが起こった。外の世界では有機物の摂取により部落のヒトは独特の体臭がすると噂されていたが、それは寛容主義者たちによるたち悪いデマである。単性生殖者はゲノム編集によって汗腺に雑菌がたまることにより発生する体臭を完全に消し去っていた。体臭がなければ狩猟に便利であったし、なにより単性生殖者が生きていくうえで、体の臭いは必要ではなかった。しかし部落外のヒトは他者を惹きつける要素の一つと考え、体臭を消し去ることはしていない。靖子の発言は部落外のヒトの体臭を揶揄したものだった。
「皆さん食べ終わったかしら?」
 皆が今日あったことを報告し合い、箸が止まったところで愛子が言った。すると全員が手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
 靖子が最初に声を発し、一呼吸おいて愛子とカレン、エレノアが靖子の言葉をなぞる。食後のあいさつを終えた靖子は食器を台所のシンクに持っていき、食器を洗い終えると、自分の部屋に向かった。
 
 靖子の部屋は畳張りの六畳間に洋服箪笥と鏡台、そして勉強机が置いてあるだけの質素な部屋だ。部屋を飾るような装飾品や、町で使われている生活用品が世界保健機構から配給されることもがあるが、部落内ではそれらを持て余してしまうため、使わずに納屋にしまわれることが多い。しかし幾つかの情報端末は手元に置いてあった。その一つが幌だ。靖子はポケットから幌を取り出し部屋の中心に置く。そして親指とヒト差し指を擦り、摩擦で暖かくなった親指を幌の生体認証センサの上にのせた。すると三次元投射された操作盤が靖子の目の前に現れた。靖子は操作盤を操作し、先ほど観測した御神渡りを五十分の一スケールで天井に向け投射した。靖子は畳の上に寝そべり御神渡りを眺める。真上から見る御神渡りは岸から見る御神渡りとはまた違った趣があった。湖に刻まれた亀裂一つ一つに同じものはなく、ヒトの意志が介在しない自然現象の美しさに靖子は魅せられていた。
「あっ……」
 靖子の口から自然と声が漏れた。ホログラムに映る靖子の後ろに、先ほど出会った関屋が映り込んでいる。靖子は興味を覚え、関屋の情報を取得するため操作盤を動かす。身長百七十八センチメートル、体重七十二キログラム、表面体温三十六・七度……。次々と操作盤上の情報投射領域に観測データが表示された。部落内では大柄な体躯をしているが、背の高さは認められた範囲の編集可能領域のため、町ではそう珍しくもないのかもしれない。しかし体温がヒトの平均より一度近く高いのが気になった。感染症にでも罹っているのかもしれない。そうであれば、関屋と接触した自分も罹患している可能性がある。ヒトは病の殆どを克服したが、それによって抵抗力が著しく低下した。ウィルスや細菌耐性はゲノム編集によって改善できるものでは無く、生体までに抗体を作らなければ防ぐことが出来ない。町と隔絶された環境にあると言っていい部落では、町からもたらされる感染症に免疫がない。罹患したらすぐに原因を特定し、抗ウィルス薬や抗生物質を作成投与しなければ重症化する恐れがあった。靖子は勉強机の中から円筒形の検査キットを取り出し、蓋を開けると、その中に唾液を入れた。結果は即座に検査キット上のモニタに表示されたが、靖子の心配は杞憂であった。感染症原因となるウィルスや細菌は検出されなかった。考えにくいことだが、関屋は元々体温が高いのかもしれない。靖子がそう考えていると、愛子の声が聞こえてきた。
「靖子、お風呂が沸いたわよ」
 
 翌日も靖子は湖畔に向かった。関屋がまだいるのか気になっていたのだ。靖子が湖畔に着くと関屋は浜辺に腰を下ろし、焚火で暖を取っていた。焚火の周りには、ワカサギをくし刺しにした枝が幾つも並んでいる。関屋はこの場所で一夜を明かしたようだ。憲兵に捕まっていないということは、町で犯罪を起こして逃げているわけではないのだろう。靖子は関屋に話しかけることにした。
「町のヒトもお魚を食べるんだね」
 後ろから近づいて来た靖子に気が付いていなかった関屋は、突然声を掛けられたことに驚き、ビクッと肩を揺らした。そして靖子の方に振り返る。
「びっくりしたな。いつからいたの?」
「今来たばっかりだよ」
「そっか、それで何を言われたんだっけ? そうだ魚を食べるのかってことだよね。町ではほとんど電力でカロリーを賄っていたけど、私のいた環境ではたまに有機物の摂取も行っていたんだ。でも、魚を食べるのは初めてなんだ」
 町のヒトは有機物摂取を行わないと聞いていたので意外に思ったが、ヒトは電力でカロリーを賄えるようになるまで、部落内のヒトと同じように有機物からカロリーを摂取していた。有機物の味が恋しくなるヒトがいてもおかしくない。
「おいしかった?」
 靖子の問いに関屋は苦笑いを浮かべながら答えた。
「それが凄く生臭いんだ。生臭い味しかしないんだよ。もっと炙れば生臭さが消えるかと思ったんだけど、そしたら真っ黒になってボロボロに崩れちゃってさ。えっと、諏訪さん……だよね。諏訪さんはこんな生臭いものをいつも食べているの?」
「もしかして何も下処理してないの?」
「下処理ってなに?」
「鱗を落としてお塩を振って……」
「そんなことしてないよ。ただ採ってきたワカサギを炙っただけ。塩も持っていないし。しかしそんなに面倒なことをしないとワカサギは食べることが出来ないものなの? 町では誰もそんなこと教えてくれなかいから……」
 靖子は関屋の言い方が可笑しくてぷっと噴出した。関屋は何が面白いのか分からないようすだったが、靖子の笑いにつられて笑い出した。靖子は焚火の周りで黒焦げになっているワカサギを見て思う。町のヒトは自然の中で生きていく術を何も知らないのだろう。
「お塩は持ってきてないけど……」
 そう言いながら靖子は背負いカバンを前にずらして開くと、中から経木に包まれたおにぎりを取り出した。そしておにぎりを関屋に差し出す。
「炊いたお米を握った食べ物でおにぎりって言うの。町のヒトの口に合うかわからないけど、よかったらどうぞ」
「いいのかい?」
 そう言って関屋は靖子の方に身を乗り出してきた。関屋の胸元から嗅いだことのない匂いがする。靖子は関屋の体臭を獣の匂いに近いと感じたが、獣のそれとは違い嫌な匂いだとは感じなかった。この匂いが町のヒトの匂いなのかもしれない。
「……えっと、私は家に帰れば食べるもの沢山あるから、遠慮しないで食べて」
「それじゃあ」
 そう言うと関屋は靖子からおにぎりを受け取り食べ始めた。関屋はおにぎりの食べ方を知らないのか、三角に握られた角ではなく、平面から食べようとする。すると口を付けた周りが崩れ、塊となって地面に落ちた。関屋は地面に落ちた米の塊を素早く拾い上げると、手でさっと砂を払いのけ口の中に入れる。その一連の動作が面白く、靖子は関屋がおにぎりを食べる姿をじっと眺めていた。
「いやあおいしかった。諏訪さんたちはいつもこんなにおいしいものを食べているのかい?」
「お米は主食だからね、ほとんど毎日食べているよ。関屋さんはお米を食べたことないの?」
「食べたことないよ。小麦を練って焼いた物なら食べたことがあるけど、おにぎりの方がずっとおいしいね」
「町のヒトも電力に頼るばかりじゃなくて、お米を食べなきゃ。日本区源流文化の主食はお米だったのよ」
 そう言って靖子は笑った。すると関屋もつられて笑う。いつの間にか二人は打ち解けていた。町のヒトは部落のヒトを見下しているとばかり思っていたが、関屋のようなヒトもいるようだ。町のヒトに対する偏見は、町のヒトが部落のヒトに持っている偏見と変わらず、中身がないものかもしれないと靖子は思った。
「それじゃあ私は仕事があるから帰るけど、関屋さんはいつまでここにいるの?」
「さあどうだろう。町から離れることが出来れば思ってここまで来たけど、ここからどこに行こうとか、この先どうしようとかは考えていないんだ」
 この部落を目指して来たわけではなく、行き当たりばったりでここに来たようだ。湖の北岸周りにはいくつかの単性生殖者部落がある。町に戻るのでなければ、どこの部落に行くのも同じであろう。靖子は関屋に提案した。
「そう。だったらここで生活すればいいんじゃないかしら。町での対人関係に疲れて、単性生殖の道を選ぶ人もいるようだし」
 靖子は一般論としてそう言った。単性生殖者部落は部落によって特色が異なる。単性生殖者の人権獲得後に作られた部落は、外のヒトを受け入れることに対して概ね寛容的であったが、靖子の住む部落は多様性獲得政策以前から住んでいるヒトたちが多く、外の人に対して排他的態度をとる。人権獲得後に町からやって来たヒトもいたが、閉鎖的な部落の生活に慣れることが出来ず、その殆どが定住しなかった。
「でも迷惑じゃないかな?」
「迷惑な事をしなければ迷惑じゃないよ。部落のヒト達は他のヒトに興味がないから」
 単性生殖者は部落という共同体に住んではいたが、共同体意識はほとんど持っていない。単性生殖者にとって家族だけが本当の意味での共同体なのかもしれない。
「それじゃあここに住むことも考えてみようかな。でも……」
「でも?」
「諏訪さんは何でそんなに私に親切にしてくれるの? 部落のヒトたちは他のヒトに興味がないんだろ?」
 関屋の質問に靖子は考え込んでしまった。どうして自分はメリットをもたらさない関屋に親切に接しているのだろうか? どうして自分はデメリットをもたらすかも知れない関屋に興味を持ったのだろうか? 靖子は自分に問いかけたが、答えは返ってこなかった。靖子が返答に困っていると関屋が言った。
「親切にしてもらったヒトに対してする質問じゃなかったね。気を悪くしたらすまなかった。勘違いしないでほしいんだけど、部落のヒトに親切心が無いと思っているわけじゃないんだ……私は寛容主義に毒されているんだな」
 そう言って関屋は居心地が悪そうに笑った。
「そろそろゴボウの収穫をしなきゃいけないから帰るね。暫くここにいるなら、またおにぎり持ってくるよ」
「それは助かる。あんなにおいしいものを食べたことなかったから」
 靖子は焚き木から離れ畑に向けて歩き出した。すると後ろから関屋の声がした。
「それと、塩も一緒に持ってきてくれると嬉しいな」
 靖子は足を止め振り返ると関屋に言った。
「大丈夫。持っていくつもりだったよ」
 
 それから靖子は毎日仕事の合間に湖畔に足を運ぶようになった。しかし家族には関屋と合っていることは言っていない。言ったからといって、家族から犯罪者でもない関屋に会うなと注意されるとは思えなかったが、何故家族に対して黙っておこうと思ったのか、自分でもよく分からなかった。
 靖子が関屋のもとに通うようになって一週間ほどたったころ、関屋が建てたと言う家に案内された。その家は湖畔近くの林に建てられており、木々を加工して作った小さな小屋だったが、関屋が一人で、しかも一週間で作れるような代物には見えなかった。小屋にはきちんとした扉があり、室内の気密度も高く、寒さをしのぐには申し分なく見える。小屋の中にはテーブルや椅子、壁には窓まである。靖子の部落にある道具では、一週間で作ることは出来ないかもしれないが、関屋は町から来たヒトだ。町の道具を使えば一人でも作ることが出来るのかもしれない。そう考え靖子は自分を納得させた。
 靖子が小屋の中に入ると、関屋からテーブルの椅子に座るように促された。小屋の中はかすかに関屋の匂いがしている。
「コーヒーでいい?」
 戸棚には粉末コーヒーや茶葉がガラスケースに並んでいる。靖子は関屋がそれをどこから持ってきたのか疑問に思った。家の件もそうだが、たまに町に戻っているのだろうか? しかし町から逃げてきたヒトがそう簡単に町に戻るものなのだろうか?
「うん」
 靖子の家にもコーヒーはあった。生活用品は望めば殆どのものが配給される。それに対して世界保健機構は対価を求めない。世界保健機構は恒星エネルギーで賄えるほぼ全てのものを、無償で単性生殖者に提供していた。しかし例外もある。娯楽に関しては対価を支払って獲得しなければならない。支払う対価はその時によって違い、労働であったり治験であったりした。
 コーヒーを淹れる関屋を見て靖子はおやっと思った。関屋は暖かい小屋に入ったことにより、防寒着を脱いで薄着なっていた。薄着になった関屋は靖子に比べ鍛えられた体をしている。それ自体問題はないのだが、その鍛えられた体の胸の部分に、あるはずのふくらみがないのである。二十歳前後に見える関屋が二次性徴を迎えていないとは考えにくい。ヒトが単性生殖を獲得する以前は二次性徴後であっても、ほとんど胸が膨らまないヒトもいたと聞いたことがあるが、今ではすべてのヒトが大きな胸を持っている。それは装飾的改変の意味合いもあるが、なにより授乳に適しているという本来の役目を発展させ獲得したものだった。
「関屋さんはおっぱいを取っちゃったの? 腫瘍が出来ちゃったとかで」
 関屋は淹れたコーヒーをもってテーブルに近づいてきた。そして靖子のそばにコーヒーカップを置くと、靖子の対面の椅子に腰かける。
「取ってないよ。私にはもともと胸のふくらみが無いんだ。乳腺自体はあるけどね」
 生殖に必要な器官の退行改変は厳しく制限されている。多様性獲得能力のない単性生殖者は大目に見られる傾向にあったが、町のヒトに対して許可が下りるとは思えない。胚盤胞時に遺伝子損傷を受け、意図しない変更が発生した可能性もあったが、そうであれば生体せずに廃棄されるはずだ。靖子は関屋に言葉が信じられなかった。
「そんなことあり得ないよ」
「いや、あるんだよ。それは私が町から逃げてきた理由でもあるんだ」
 ヒトは身体的精神的障害を克服している。世界保健機構によって個体管理されているヒトは、子孫を残す時に卵細胞のフルスクリーニングが行われ障害可能性配列が見つかると編集されるか捨てられる。障害者が生体することは絶対に無いのである。
「どういうこと?」
 関屋は深刻そうな顔を靖子に向ける。そして靖子から目線を外すと席を立ち、靖子の側に近づいた。関屋の匂いが靖子の鼻腔をくすぐり、靖子の胸の上に何かがのしかかり圧迫されるような錯覚を覚えた。それは決して嫌な匂いではなく、むしろ心地の良い匂いだった。
「私は諏訪さんたち、いや現在のヒトにとって既知外の存在なんだ」
「キチガイ……それはどういう意味?」
 関屋は靖子の側を離れ室内を歩き始めた。関屋は歩きながら腕を組み、時折目を閉じる。関屋は靖子にどう説明しようか考えているようだ。
「そのままの意味だよ。諏訪さんたちが認知していない存在。と言っても宇宙人じゃないよ」
 そう言って関屋は笑うが、目は笑っていなかった。
「ヒトじゃないってこと?」
 靖子は関屋がAIなのではないかと疑ったが、すぐさまその可能性を打ち消す。人工体細胞組織はヒトのそれと見分けがつかないが、自律型思考を搭載しているAIは存在しないはずである。世界保健機構の基幹ニューラルネットワークですら自律思考は搭載されていない。
「いいや、ヒトだよ。私は諏訪さんと同じヒトだよ。もしかすると諏訪さんよりヒトらしいヒトなのかもしれない……」
 関屋はやはりヒトであるらしい。しかし何らかの理由により着床後検査をすり抜け、奇形として生体してしまったのだ。奇形に生まれてしまったゆえに町で生活することが難しくなったのだろう。靖子は関屋の乳房が無いことと、町から逃げてきたことを結び付け、そのような境遇にある関屋を哀れんだ。そして同時に奇形を許容しない町のヒトへの憎しみも湧いてきた。
「奇形に生まれたから町から逃げてきたの? 町の寛容主義者は奇形の関屋さんを寛容してくれないの? 寛容主義っていったい何なのよ!」
 靖子の怒気を含んだ言い方に、関屋はふっと笑うと立ち止まり、自分が座っていた椅子を引きながら言った。
「違うんだよ、諏訪さん。諏訪さんは勘違いしているよ。私は奇形じゃないし、町のヒトからつまはじきにされたわけでもないんだ」
「そうなら関屋さんの言っている意味が分からないよ。関屋さんがヒトであって奇形じゃないなら、キチガイなんかじゃないし、町から逃げてくる理由にならないよ」
 関屋は椅子に座るとカップを取りコーヒーをすすった。そして靖子の目を見据えると静かに語り始めた。
「私は性奴隷だったんだ」
 
 関屋の小屋を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。靖子はポケットから幌を取り出すと前方に向けて放り投げた。すると幌は靖子の五メートル前方で停止し、周辺を照らす。靖子は幌の先導で湖畔まで歩いていき、砂浜に腰を下ろした。そして幌によって照らされキラキラと反射する湖の波を眺めながら、小屋の中で関屋と話した内容について考える。関屋の話は靖子の理解を大きく超えていた。生殖行為を強制するヒトの心理も、される側の心理も靖子には理解することができない。関屋の言うところによると生殖行為を強制されるヒトを性奴隷と呼ぶらしいが、その単語すら初めて耳にするものだった。単性生殖者は一人の意思で単性クロンを残すが、町のヒトは、婚姻制度によるヒト同士の合意のもと、他者のゲノムを取り入れ子孫を残すはずだ。そこにどうして強制性が介入するのだろうか、強制した側はどんな利益があるのか、強制された側はどんな不利益があるのか。靖子には性奴隷という言葉の意味を正しく認識することが出来なかった。しかし関屋が強制された生殖行為に耐えることが出来ず、町から逃げだしたということは理解できる。自分は関屋に対して何をすべきなのか、性奴隷だったことにより傷ついた心を、どうすれば癒してあげることが出来るのか。目的は明確だが、方法が見つけられなかった。靖子はいくら考えても答えの出ない問いに、単性生殖者が他人と交流しない為、他者と接する方法を知らないからだと理由をつけ、自分を納得させることにした。
 単性生殖者は他者に対して無関心と言われている。靖子自身もそう思っていたが、関屋と出会ってから、それは寛容主義者が貼ったレッテルによって、単性生殖者自らがそう思い込んでしまっているのではないかと疑い始めていた。そうでなければ靖子が関屋対して抱く感情の説明が付かないからである。部落外のヒトからからすれば、靖子は関屋に恋をしていると簡単に説明することができるのだが、単性生殖者部落で育った靖子にはヒトに恋心を抱くという感情を理解することが出来なかった。
 靖子は立ち上がると関屋の小屋を見つめる。砂浜から林の中にある関屋の小屋までは木々を薙いで作った道が出来ており、靖子のいる湖畔から小屋を目視することが出来た。しばし小屋の灯りを見つめていると、窓明かりに関屋のものと思われる人影が見えた。靖子は人影に向かって手を振ると家路を急いだ。
 
 その後も靖子は関屋のもとへ通い続けた。農作物が沢山収穫できたからとか、佃煮を作りすぎたからとか、何らかの理由を付けて関屋のもとへ行ってはいたが、一番の理由は関屋に会いたいからである。関屋の小屋に通う中で、関屋の口から乳房がない理由も性奴隷になった経緯も語られることは無かったが、靖子から関屋に聞くこともしなかった。つらい記憶であれば思い出すことも苦痛であろうし、性奴隷だったと靖子に告白したこと自体、大変な思いで打ち明けたのであろう。靖子は関屋に当時の記憶を思い出させるようなことはしたくなかった。しかしいつか関屋の口から語られることがあるかもしれない。性奴隷だったことを告白された時には何もしてあげられなかったが、その時までには関屋の心を救ってあげる方法を見つけ、全力で関屋の心を癒してあげよう。それまでは話題にすることはせず、そっとしておこうと靖子は決めていた。
 性奴隷についてのこと以外、関屋は町での生活を靖子に話してくれた。それは生活様式や流行、政治についての話で、部落内で生活している靖子にとって、関屋の話す町の様子は新鮮で、靖子の好奇心を大いに刺激した。中でも興味を持ったのが、推定知性化星系に向けてヒトを送り出す計画についてだった。
「それでヒトは太陽系の外に目を向けることにしたんだ。靖子さんの行っている学校では教えてもらってないの?」
 関屋は靖子のことを名前で呼ぶようになっていた。多いところで六世代もの単性生殖者が同居している家がある部落内では、名字で呼ばれることは少ない。靖子は関屋に自分のことを名前で呼ぶように伝えていた。
「教わったかもしれないけど、憶えてないな。私あんまり授業聞いてないから……」
 靖子の通う学校でも外の世界ついて教わってはいたが、制度や体系について表面的に説明されるだけだったため、興味を覚えることなく聞き流していた。
「そうか。部落内では話題になってないかもしれないけど、町のヒトにとって宇宙開発は最大の関心事なんだ。どんな人が観測船に乗るのだろうかってね」
「薫さんはどんな人だと思う?」
 靖子も関屋のことを名前で呼ぶようになっていた。靖子は薫と声に出すたびに気恥ずかしさに似た感情を覚える。自分から下の名前で呼び合うように提案したが、何度呼んでも胸元が圧迫されるような感覚を覚えた。
「太陽系を代表するヒトだからね。きっと頭が良くて、協調性が有って、寛容的で、それと外見の美しさも重要になるかもね。だって異星系生命体にヒトが不細工だと思われたらいやだろ?」
 そう言って関屋は笑った。しかし関屋の答えを聞いて靖子は複雑な気分になる。最後の条件は別として、他に上げた全てが単性生殖者にはないものだったからだ。
「薫さんは全部備わっているじゃない。試験を受けたら通るかもしれないよ」
「私が観測船員に選ばれることはないよ。それに試験で観測船員を選ぶわけじゃないんだ。太陽系内のヒト全てのフルゲノムが世界保健機構によって管理されているのは知っているよね? 世界保健機構はゲノム配列から観測船員としてふさわしいヒトを選ぶんだ。だから私が選ばれることは絶対にないよ」
 関屋が観測船員に選ばれない理由は靖子にも想像できた。関屋を見やると悲しげな顔をしている。靖子は推定知性化星系への乗り入れについて興味があったが、望んでいない方向へ話が向かいそうだったため、他の話題はないものかと考えを巡らせていると、扉をノックする音が聞こえてきた。
「誰だろう。部落内の知り合いは靖子さんしかいないんだけどな。はい、今行きます」
 関屋は扉に向かってそう言うと席を立った。靖子は関屋の背中越しに扉を見つめる。関屋が扉を開けると知った顔が靖子の目に飛び込んできた。
「こんにちは。初めましてよね? 私は諏訪愛子と言います。娘の靖子がお邪魔してないかと思って」
 訪ねてきたのは靖子の母親だった。靖子は関屋の小屋に行くときにはいつも、誰にも見られていないことを確認してから来ていたが、愛子には知られていたようだ。
「ええ、いらっしゃってますよ。えっと……私は関屋薫と言います。どうぞ上がってください」
「あらいいの? じゃあそうさせてもらおうかしら」
 関屋は愛子を小屋の中にいれた。中に入った愛子は靖子を見つけると、優しく微笑んだ。そして関屋に促されるまま、靖子と関屋が向かい合って座っているテーブルの側面に置かれた椅子に腰を掛ける。
「これうちで漬けた野沢菜。お口に合うか分からないけど、よかったらどうぞ」
「野菜の保存食ですか? ありがとうございます」
「保存食じゃないから、なるべく早く食べてね。ああ、私が切ってきましょうか? お台所使わせてもらうわね」
 愛子はそう言うと小屋の中を見渡した。そして関屋の後ろに調理スペースがあるのを見つけると、席を立ちそこへ向かった。壁から突き出したテーブルと、その上に幾つかの調味料が並べられただけの、台所と言うには大げさな調理スペースを使い、愛子は持ってきた野沢菜を切り始めた。
「お母さんにここに来ていることを言ったの?」
 ザクザクと野沢菜を切る音が聞こえる中、関屋が小声で靖子に聞いた。
「ううん。言ってない。でも最近帰りが遅いことに心配している様子だったから、跡を付けてきたのかもしれない」
「そうか。でもいつか靖子さんのお母さんに挨拶しようと思っていたから丁度いいのかもしれないな」
 靖子が関屋の言った言葉の意味を考えていると、愛子が切った野沢菜を持って戻ってきた。
「これに盛り付けちゃったけど、よかったかしら?」
 そう言って愛子は野沢菜が詰まったコーヒーカップをテーブルに置いた。それを見た靖子と関屋は顔を見合わせ、笑い出した。
「だって適当なお皿が無かったんだもの。楊枝はあるのにね」
 ひとしきり笑い合った後、楊枝で野沢菜をつまみながら靖子が愛子に聞いた。
「お母さん、私の跡をつけたの?」
「そう。だって最近靖子の様子が変なんだもの。採ってくるお魚の量も減ったし、家にいる時もぼおっとしていることが多いじゃない。だからお母さん心配になって靖子の跡をつけることにしたの。ワカサギを採ってくると言った靖子の跡をつけていたら、湖について、本当にワカサギを採りに来たのかと思ったら、湖を通り過ぎて林の脇道に入って行くじゃない。お母さんも続いて行こうとしたけど、靖子の歩く先にこの小屋が見えたの。だからお母さんは一度家に戻って野沢菜を持ってまたきたのよ。だってヒト様の家に行くのに手ぶらじゃ失礼でしょ」
 確かに関屋の小屋に行くようになってから、魚や農作物の収穫量が減っていた。それに対して愛子から何度か理由を聞かれていたが、靖子は適当な言い訳をしてはぐらかしてきた。
「心配させてすみませんでした。靖子さんは頻繁に小屋に遊びに来ていました」
 関屋が頭を下げながらそう言った。
「いいのよ、理由が分かったから。町のヒトのようだけど、関屋さんは良いヒトのようだしね。だけど靖子、ちゃんとお母さんに言わなきゃダメじゃない」
 そう言って愛子は靖子を睨みつける。しかしそれは愛情のこもった優しい視線だった。
「ごめんなさい。そのうち言おうと思っていたんだけど、なかなか言いだせなくて」
「会っちゃダメとでも言うと思った? そんなことお母さんは言わないよ。だってお母さんは靖子でもあるんだから」
 それは単性生殖者の間で日常的に使われる言葉だった。単性クロンであっても成長と共に性格は変化するが、母親が娘を教育するときに、娘が母の単性クロンであることを明示した方が、何かと都合が良いのである。
「何とも思ってない? 関屋さんは町のヒトだよ」
「何とも思ってないことはないけど、町のヒトも部落のヒトもヒトでしょ。生活様式が違うだけで同じヒトだもの……」
 そう言って愛子は口ごもる。靖子が愛子の視線を追うと、関屋の上半身に向けられていた。
「どうかしましたか?」
 そう言った関屋は不思議そうな顔で愛子を見ている。愛子は視線を戻し関屋の目を見て言った。
「いえ、何でもないの。それで関屋さん」
「はい。何でしょう」
「関屋さんはこの部落に住むつもり?」
 愛子の唐突な質問に関屋は驚いた様子で少し考え、愛子に言った。
「それはまだ決めていません。しかし部落の方々がいいと言うなら暫くはここで生活してみようと思っています」
「町に家族はいないの?」
「それは……」
「ちょっとお母さん。初めて会ったのにそんなこと聞いたら失礼でしょ」
 口ごもる関屋を見て靖子は愛子を遮った。靖子の言葉を聞いて愛子は関屋に頭を下げた。
「ごめんなさいね、失礼なことを聞いちゃって。私たちはあまり他のヒトに興味を持たないけど、何故かしらね、どうして関屋さんが町から部落に来たのか気になって」
「そうですか……」
 関屋が居心地の悪そうな声で言った。靖子は気まずい雰囲気を何とか取り繕うと考えるが、適当な話題が見つからなかった。すると空気を読んだ愛子が靖子に声を掛けてきた。
「そろそろ私はおいとまするけど、靖子はどうする?」
「うん。私も帰る」
 そう言って靖子は関屋を見た。関屋は申し訳なさそうな顔を靖子に向けるが、靖子は関屋に向かって小さく首を振った。
「何のお構いも出来ませんで」
「いえいえ、私の方こそ立ち入ったことを聞いてしまってごめんなさいね」
 そう言うと愛子は席を立つ。続いて靖子も席を立つと一緒に扉に向けて歩いて行った。そして扉の前で立ち止まると関屋の方に振り返り、深々とお辞儀をしてから小屋を後にした。
 小屋を出ると二人は浜辺に向けて歩き出す。靖子はすぐに愛子が話しかけてくると思っていたが、愛子は何も言ってこない。靖子が愛子の顔をのぞき込むと、愛子はこわばった表情を浮かべていた。愛子は自分がそうであったように関屋の胸に乳房が無いことをいぶかしんでいるのかもしれない。その理由を問われても自分には答えることが出来ないと思った靖子は、自分から愛子に話しかけることはなかった。二人は無言のまま浜辺まで歩いた。そして関屋の小屋が見えなくなるところで愛子が立ち止まる。
「関屋さんのことだけど……」
 靖子も立ち止まり愛子に顔を向けた。愛子は深刻そうな顔で靖子を見つめる。
「おっぱいのことでしょ? 私にもよくわからないの。でも憲兵さんに捕まってないなら違法性がないんだよ。きっと腫瘍が出来て取っちゃったんだよ」
 それは関屋から否定されたことだったが、靖子はそう言って愛子を納得させようとした。しかし愛子が気になっていたのは乳房のことだけではなかった。
「おっぱいもそうだけど、体つきや匂いが私たちヒトとはちがうのよ。私は何度か町のヒトの匂いを嗅いだことがあるけど、関屋さんの匂いは町のヒトの匂いではないの。かといって自立型思考を持っているからAIじゃない。だからヒトなのは間違いないのだけれど……」
「じゃあなんだっていうの?」
 それは靖子の最も知りたいことだった。
「関屋さんはオトコだと思う。動物で言うオス。靖子は学校で教わってない?」
 靖子はヒトがかつて動物と同じようにオスとメスに分かれていたことは知っていた。しかしオトコという呼び名は初めて聞いた。それは小学校で教わることだったが、靖子の記憶には残っていなかった。
「私、あんまり授業を聞いていないから……」
「そう。私も学校の授業を真面目に受けてなかったけど、オトコについてははっきり憶えているわ。ヒトが進化するために邪魔だから切り捨てたって」
 愛子はオトコの存在が、ヒトが進化するうえで障害となったため、排除されたと言った。関屋がオトコだと納得したわけではないが、靖子には愛子の説明が関屋を貶めているように聞こえ、我慢ならなかった。
「でも薫さんはここにいるじゃない……オトコだったら、もうこの世に存在しないはずでしょ? ここにだっていないのよ! だから薫さんはオトコじゃないよ、ヒトだよ! 変なこと言わないでよお母さん!」
 靖子の言葉は最後の方では絶叫になっていた。愛子は靖子を鎮めようと靖子の肩に手を置くが、靖子に払いのけられた。そして靖子は砂を蹴って走り出す。愛子は靖子を追うが、靖子の走る速度についていけず、浜辺を抜けたところで立ち止まり、両手で肘をついて息をした。愛子は首を上げ靖子の走り去った方向を確認すると、自分の家の方向だと分かり安心した。
 
「靖子や、そろそろ出てきてちょうだい。お腹空いているでしょ。ひいばあちゃんが作った野沢菜のお焼きがあるよ。靖子好きだったでしょ。さあ、襖を開けて出ておいでよ」
 靖子は家に戻ってから食事もとらず、自分の部屋に閉じこもっていた。靖子の部屋の真ん中には幌で投射された実物大の関屋の姿がある。それをぼんやり眺めながらエレノアに返事を返した。
「誰とも話をしたくない。ごめんね、ひいおばあちゃん」
「お母さんからオトコのことを聞いたんでしょ? 私も今の時代にオトコがいるなんて思ってないわ。だってオトコがいたのは遠い遠い昔の話だもの。でも私は愛子よりオトコについて詳しいのよ。私の生きた時代にもオトコはいなかったけど、私のおばあちゃんはわたしにY世代のことをたくさん教えてくれたの。おばあちゃんですらY世代じゃないからきっと、Y世代の記憶が代々受け継がれてきたのね。聞いてみたくない? オトコがいた時代についてのこと。先生なんかよりずっとたくさん知っているわよ。もちろん愛子なんかよりずっと沢山のことを知っているよ」
 襖越しにそう訴えるエレノアの言葉を聞いて、靖子はオトコがどういうものなのか知りたくなった。エレノアにオトコについて詳しく教えて貰いたくなった。そして関屋がオトコではないと否定してもらいたかった。靖子は関屋のホログラムを消すと、襖を開けてエレノアを迎え入れた。
「お邪魔しますね」
 エレノアはそう言って入ってきた襖を締めると、靖子が座っている畳の隣に腰を下ろした。そして靖子に体を向けると話を切り出す。
「何から聞きたい?」
「何でオトコは切り捨てられちゃったの?」
 靖子はまず関屋について話すより、オトコについて聞いておきたかった。エレノアから関屋がオトコであると言われたときの心の準備をしておきたかったからである。
「私は難しい言葉は分からないから、上手に説明できるか分からないけど、おばあちゃんから聞いた言葉で話すわね。それとこれから話すことが全て正しいとは思わないでね。世界保健機構のライブラリに残る情報ではなく、私がお祖母ちゃんから聞いた伝聞に過ぎないのだから」
 そう前置きしてからエレノアは靖子にオトコが排除された理由を語り始めた。
「オトコが切り捨てられた理由はね、ヒトの社会にオトコがいる必要がなくなってしまったからなのよ」
「なってしまったってことは、昔は赤ちゃんを作る以外の役目があったってことよね? 今はその役目がなくなっちゃったの?」
「そう。靖子は頭がいいね。オトコは赤ちゃんを作る役目以外に、大きな役目があったの。それは家族を守ること。オトコはヒトより体も大きく筋肉もあって力が強かったそうよ。だからオトコはその力を使って家族を守ったの」
 エレノアの話を聞いて靖子は関屋の体躯を思い出した。確かにヒトの平均より背は高いし、鍛えられた体をしている。
「今だって家族を守らなきゃいけないことが……」
 靖子はそう言いながら、家族を腕力で守らなければいけない状況を考えるが、浮かんでこなかった。既に国家という枠組みを手放し、一種の宗教のような寛容主義時代を迎えている太陽系においても稀に、武力を伴う争いが行われる。しかしそれは身体能力によって解決できる範疇を超えるものだ。
「ないわよね。今では腕力によって家族を守らなきゃいけないことはない。だからヒトにとってオトコは必要なくなったそうよ。靖子も知っての通り、ヒトは一人で赤ちゃんを作れるでしょ? 町のヒトは好きになった他のヒトと結婚して、お互いのゲノムを交換して赤ちゃんを作るけど、体のつくりは単性生殖者と同じよね。でもオトコの生体構造では一人で赤ちゃんを作ることが出来なかったの。お腹の中で胎児を成長させることすらできなかったのよ」
「だからと言って排除するのはおかしいよ。そんなの寛容的じゃないよ」
 町のヒトからは、他人のゲノムを受け入れることを拒否した単性生殖者は原始主義の不寛容者だとレッテルを張られているが、単性生殖者であっても、寛容思想そのものが誤った道徳観だとは思っていない。
「オトコが排除された原因はもう一つあるの。それがオトコがこの世からいなくなった一番大きな要因だったと思う」
「お母さんがさっき、オトコはヒトの進化の障害になったと言っていたけど、そのこと?」
「そう。オトコは働かなくなったのよ。オトコの行動原理は性欲だったの。性欲というのは一種の生殖欲求だそうよ。オトコは農作物を育てるのも、ヒトを教育するのも、町のヒトのように研究機関で働くのも、対価として支払われる貨幣がほしかったからなの。何故なら貨幣交換をすることにより性欲を満たすことが出来たから。オトコは性欲に支配されていたと言っていいわね」
 オトコは性欲という鎖に繋がれ、働かされていたなんて可哀想だと考えていると、ふと関屋の言葉が脳裏に浮かんだ。
「それを性奴隷と言うの?」
「性奴隷って言葉はおばあちゃんから聞いたことがないから、性欲に縛られた状態のことを性奴隷と言うのかは分からない。そうかもしれないし、違うかもしれない」
 いや、関屋は生殖行為を強要されることを性奴隷だと言っていた。性欲に縛られ状態とは違うのだろう。
「そっか……話を戻すけど、オトコが労働による対価で性欲を満たしていたなら何で働かなくなったの? 働かなきゃ性欲を満たせないのよ」
「町のヒトは電力によってカロリーを賄っているでしょ。それがオトコの生活を一変させたの。ちょっと話が前後するけど、何と言ったかしらね、オリエンティクス工業だったかオリエンタル工業だったか忘れてしまったけど、オトコの性欲処理を研究していた機関があってね、そこが高性能人工体細胞組織を開発したの。のちに世界保健機構が禁止したけど、禁止したころには、ほぼすべてのオトコが手に入れてしまった後だったみたい。その製品はオトコが性欲の対象とするオンナと見分けがつかなかったらしいわ。カロリーを自活できるようになったオトコが、オリエント工業の製品を手に入れたらどうなると思う?」
「働かなくなる」
「そう。オトコは家に閉じこもり外に出なくなってしまったの。世界中があわてたそうよ。当時のヒトはオトコがいなければ赤ちゃんを作ることが出来なかったからね。そこで世界保健機構はオトコがいなくても赤ちゃんを作れるようヒトを編集したの。合わせてオトコが生まれないようにもしたの。性欲に振り回されるオトコはヒトの進化の障害になると言ってね。ここから先は靖子も知っているわね?」
「うん……」
 確かにオトコが生まないようにしたことで、オトコはヒトから排除されたと言えるが、自発的に消えていったともとれる。そうであれば自業自得とも思えたが、靖子は性欲に縛られていたオトコを哀れむ気持ちの方が強かった。
「私の知っていることはこれくらい。オトコの外見についてもおばあちゃんから聞いているけど、その関屋さんって人の観測データはある?」
 オトコがどうしてヒトの社会から排除されたかや、オトコの精神構造について概ね理解した靖子は、エレノアに言われた通り幌を取り出し、関屋を原寸大で三次元投射した。するとエレノアは大きな声を上げる。
「これが関屋さんなのね。随分詳細に観測しているじゃない」
 靖子は関屋と会うなかで何度か幌を使って関屋を観測した。当初関屋は嫌がっていたが、頼み込むうちに許してくれた。靖子は関屋のスクリーニングが終わると、毎日、いや日に何度も、部屋の中心に関屋を等身大投射し、眺め見るようになっていた。
「ひいおばあちゃん、よくみて。オトコじゃないでしょ? 関屋さんはヒトでしょ?」
 エレノアは関屋のホログラムを眺めた。
「そうね、どうかしら。背が高くて角の立つ輪郭をしているし、私がおばあちゃんから聞いたオトコと似ているけど、まだよくわからないわね。靖子、サーモ照射に切り替えて」
 エレノアからそう言われて靖子は操作盤をはじく。すると関屋の体がサーモグラフィーで投射された。エレノアは立ち上がると、嘗め回すように関屋をみつめる。するとエレノアの目線がある場所で止まった。
「靖子この場所を十倍スケールで投射して」
 靖子は言われた通りする。エレノアは拡大されたそれを観察すると、悲しそうな目で靖子に言った。
「残念だけど、関屋さんはオトコよ。私がおばあちゃんから聞いた男の特徴と同じものを関屋さんは持っている。この拡大された突起物を見て。ヒトのその部分の構造とは違うでしょ? 名前はなんと言ったかしら、はっきり思い出せないけど、たしか……」
 
 エレノアが部屋から出て行った後も靖子の気持ちは沈んだままだった。エレノアは関屋をオトコだと言った。関屋の体に付いている器官に何の役割があるのかまでは分からなかったが、その器官のある場所はヒトのそれとは異なるのだ。それを認めないわけにはいかない。関屋はオトコなのだ。靖子の頬に一筋の涙が伝った。
 ひとしきり泣いた後、靖子は袖で涙をぬぐう。そしてこれからのことを考え始めた。エレノアからオトコの精神構造や肉体的特徴は聞いた。それをヒントに、関屋がなぜ部落内に来たのか分かるかもしれない。関屋は性奴隷だったと言っていた。ヒトから排除される以前のオトコはヒトと生殖行為を行っていたのだから、関屋はヒトと生殖行為を行う能力がある。しかし何故それを強要されたのかが理解できない。生殖行為を強制されそうになっても、あなたとはゲノム交換したくありませんと断ればいいだけではないか。そこで靖子はオトコの精神構造に思い当たる。そうか、オトコは性欲という鎖に縛られているんだ。関屋を性奴隷にしたヒトは、オトコの性欲を利用して無理やり性行為をしなければいけない状況を作ったんだ。町のヒトは関屋の性欲を満足させる代わりにヒトとの生殖行為を強要したんだ。関屋がどうやって鎖を断ち切ったのかわからないが、生殖行為を強制したヒトから逃げてこの部落にやって来た。そう考えれば合点がいった。
 関屋の境遇を知り、またオトコとして認識したうえで、自分の気持に変化はあるのだろうか? 前と同じように自分は関屋に好意を持っているのだろうか? 靖子は自分に問いかけるが、その答えは考えるまでもなく、自然に靖子の口からこぼれ落ちた。
「私は薫さんが好き……」
 自分が発した言葉に心が揺さぶられる。この言葉をずっと心の奥底に閉じ込めていた。単性生殖者であるから抱いてはいけない感情なんてないんだ。自分自身をだますことはもう出来ない。自分は今でも変わらず関屋のことが好きなのだ。関屋がオトコであってもヒトではなくても、自分は関屋のことが好きなんだ。そう考えると靖子の心から悲壮感が姿を消し、代わりに高揚感が湧き上がってきた。関屋に会いたい。今すぐにでも会いたい。会って性奴隷によって傷ついた心を癒してあげたい。関屋と一緒にいたい。関屋を縛る性欲を満足させてあげたい。なにより関屋の突起物に触れてみたい。
 靖子はいてもたってもいられず家を飛び出した。
 
 靖子は家を出ると湖畔に向けて走り出した。すっかり辺りは暗くなっていたが、幌が放つ光は明るく、障害物にぶつかることや、道に迷うことはなく、湖畔に向けて走ることが出来た。靖子が湖畔に着くと、砂浜で焚火をする関屋の姿が見えた。関屋は靖子が関屋を見つけるより先に、靖子の存在に気が付いていたようで、寂しげな目線をよこしている。靖子は立ち止まり、深呼吸をしてから関屋に近づいた。焚火に着くまでの間にまた、靖子の頬を涙が伝う。それは部屋で流した涙とは違い、関屋に会えたことからくる喜びだった。靖子は涙をぬぐうことはせず、関屋のそばまで歩み寄ると、関屋の座る横に静かに腰を下ろした。そして関屋に顔を向ける。関屋は靖子の涙に気付き、手のひらを靖子の顔に這わせると親指でそっと涙をぬぐった。靖子は言葉を発しようとするが、うまく言葉が出てこない。あんなに会いたいと思っていたのにいざ関屋の前に来ると、なんて言い出せばいいか分からなくなってしまったのだ。
「来ると思っていたよ」
 先に声を発したのは関屋だった。
「どうして?」
「靖子さんのお母さんが、私の体について気が付いた様子だったからね。お母さんは私のことをなんて言ってた?」
「薫さんがオトコだって。それからひいおばあちゃんも薫さんのことをオトコだと言ってた。薫さんはオトコの身体的特徴を持っているって」
 そう言って靖子はエレノアから教わった突起物の場所に目を向ける。すると靖子の目線に気が付いた関屋が言った。
「これのことかな?」
 関屋は靖子の見つめる先にあるオトコの証を覆っている布をずり下げた。すると突起物が露になる。靖子はそれをしばらく眺めてから関屋に言った。
「触ってもいい?」
「どうぞ。でもあまり強く触らないでね」
 靖子は右手を伸ばし関屋の隆起した突起部に触る。そして上下にさすると内部で何かが動いているような感覚が靖子の手に伝わった。その行為に関屋は小さな声を上げた。
「あっ……靖子さんの手が冷たいから、驚いちゃったよ」
 靖子は関屋の体にある突起物をさすり続ける。
「これはなんていう器官なの?」
 靖子はもう関屋がオトコだということに疑いは持っていなかった。オトコだと理解したうえで、オトコのことをもっと知りたいと言う感情が芽生えていた。
「これはね日本区でも地域によって呼び名が違ったみたいなんだけど」
「一般的にはなんて言うの?」
「これは、喉仏と言うんだ。オトコは二次性徴を向けえるとこの部分が隆起してくるんだ。それで声が低くなる。靖子さんに比べて私の声はずっと低いだろ」
 そう言って関屋は喉元を覆い隠す着衣を上に押し戻した。靖子は関屋の声が低いのは喉を壊していたからだと思っていたが、オトコ特有の声のトーンなのだと理解した。
「触らせてくれてありがとう。触らせてと言ったのは薫さんのことをもっと知りたかったから。私は薫さんがオトコだって理解したよ。でもね、薫さんに対する気持ちは変わらない。だから教えてほしいの、薫さんは何故オトコとして生体したの? オトコは進化の邪魔になったから排除されたって聞いたよ」
 関屋は誰かに見られてはいないか気にしている様子で辺りを見渡した。そしてまた靖子に視線を戻すと話し始めた。
「Y染色体を持っていることをオトコと定義するならば、私はオトコと言えるかもしれない。けれど、正確にはオトコではなくて、XXYクリンフェルなんだ。生殖行為は行えるし、外見上オトコと見分けがつかないけど、自然生殖能力は持ってない。靖子さんに詳しい説明をすることは出来ないけど、私は世界保健機構によって認められた存在なんだ。だから生体することが出来たし、ヒトと違う容姿であっても生活の保護を受け、この歳まで成長することが出来た」
 関屋は自分のことをXXYクリンフェルだと言った。その言葉を靖子は知らなかったが、それが靖子の心持を変化させるものでは無かった。オトコであってもXXYクリンフェルであっても関屋という個を受け入れる気持ちに変化はなかった。しかも世界保健機構が管理しているのであれば、関屋が奇形であっても違法性は無く堂々としていられる。
「薫さんがなんだっていいよ。私は薫さんと一緒にいたいの。部落の目が気になるのなら町に出たっていい。町じゃなくても他の部落だっていい。だって世界保健機構から認められている存在なんでしょ? 私は薫さんと一緒にいたいの……」
 やっと言いたいことを口にすることが出来た靖子の目からは、大粒の涙が流れだした。それを見た関屋は靖子を強く抱きしめる。靖子には関屋の匂いが心地よかった。暫くの間靖子を抱いていた関屋は、靖子から離れると静かに言った。
「それは出来ない。私には役目があるんだ。しなければいけない事があるんだ」
 靖子はてっきり関屋が同調してくれると思っていた。しかし関屋の口から出てきた言葉は拒絶だった。何故拒絶されてしまったのか、靖子は嗚咽の収まらない声のまま関屋に問いかける。
「……どういうこと……やる事ってなによ……前に言っていた性奴隷のこと?」
 自分の口から性奴隷のことは言わないでおこうと決めていた靖子だったが、思わず口に出してしまった。それを聞いた関屋は悲しげに笑うと靖子に向かって言った。
「靖子さんは私を性奴隷にしなかったね。それにこんな私に優しくしてくれる。町のヒトなんかよりずっと寛容的だよ。ありがとう。さあ……」
 そう言うと関屋は立ち上がり靖子の両脇を掴んだ。そして靖子を立ち上がらせると、砂の付いた尻をはたく。靖子が関屋の顔を覗き込むと、目に涙を浮かべているように見えた。
「今日はもう帰らないと愛子さんたちが心配するよ」
 自分が何か言うことでこの状況が変化することはないと分かっていたが、何とかしなければいけないとの思いが靖子の胸を押しつぶす。しかし靖子には関屋を引き留める言葉を持ち合わせていなかった。
「でも……」
 関屋は自分の袖で靖子の涙をぬぐう。その一挙手一投足が大切な時間のように感じ、靖子は歩み出すことが出来なかった。そんな靖子を見て関屋は、せかすようなことは言わず、黙って靖子の言葉を待っていた。
「今日は帰るけど……明日も、明後日も、薫さんに会えるよね?」
 関屋はしっかりと靖子を見据え、微笑みながら言った。
「会えるとも」
 
 翌日関屋は姿を消した。関屋の住んでいた小屋をはじめ、湖畔にあった全ての痕跡が消えていた。時を同じくし、湖から御神渡りも姿を消した。それが自然現象によるものなのか、関屋と同じ理由で消えたのか判断することは出来なかった。しかし御神渡りも関屋の存在も、靖子とその家族の記憶の中に刻まれ、消えることはなかった。
 関屋が姿を消してから一か月後、靖子のもとに一通の手紙が届いた。ヒトの社会では、紙に文字を書き入れ、相手に意思を伝える通信方式は姿を消していたが、子供たちの間で遊戯として残っていた。靖子に届いた手紙はその原始的通信方式であったが、子供の悪戯にしては綺麗な封筒に入れられており、封蝋すらしてあった。
 靖子は手紙を受け取るとすぐにそれが関屋からの連絡だと思った。手紙には関屋のいる場所や、共に生活することが出来る場所が記されていると考えた。それほど毎日、関屋の事を思い続けていたのである。靖子は紙に書かれた関屋の言葉が聞けることを期待して封を切るが、そこに書かれていたのは靖子の期待していたものでは無かった。手紙に書かれていたのは世界保健機構航空宇宙軍有人恒星間航行開発部門日本支部からの出頭命令だった。

2019年1月5日公開

作品集『サイファイ・ララバイズ』第10話 (全12話)

サイファイ・ララバイズ

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© 2019 諏訪靖彦

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