三年半
ハツが暮らす母屋と畑の間にある、サビの浮いたトタン小屋=おれの寝ぐら。玄関脇につながれている雑種犬=ハナコと変わらない暮らし。
ぎしぎしいう扉を開け、取っ手に引っかけておいたランドセルを放りこむ。丸一日そこにあった冷たい空気と小さな気配がおれを迎える。
泥まみれの長靴を脱いで扉を閉めると、今まで好き勝手していたにちがいない小さな気配が部屋の隅へと散っていった。みかん箱をまたぎ、ため息をつき、逃げ後れたこおろぎの一匹を足で払う。そうして敷きっぱなしにしてあるせんべい布団の上へ倒れこむと、おれのくだらない一日は終わる。
晩飯はない。ハツがおれに与えてくる食いものは朝の冷や飯だけ。さっきみたいなことがあった次の日はそれすらなくなる。学校給食がつなぐおれの命。その金=給食費にしたって自分で稼ぐのがここじゃ決まりになっていた。学年費や教材の金、遠足や見学にかかるそれにしても同じ。理由がどうあれ、誰かがおれに金をよこしてくることはない。自分のことは自分でやれ――そいつがこの家のルール。
おれは前の学校での失敗を活かし、脅し取らない代わりにものを買わせるやり方で金を稼いだ。こづかいをたくさんもらってそうな五、六年生を相手に、そいつらが欲しがっているものを聞きだし、どこかでそれをかっぱらってくる。半額かそこらでお目当てのそれを売ってやると、やつらはありがたがってまたいろんなものを頼んできた。おれは野良仕事なんかより、かっぱらいに精を出すべきだった。
上半身を起こし、ぶっ潰れたランドセルを引っぱりよせた。中身を床へぶちまける――失敗。なにがどこにあるのか、暗さのせいでまるでわからない。小屋の隅に向かって右腕を目一杯に伸ばし、開けっぱなしになっている行李へ手を突っこんだ。覚えのある位置を手探りする――アルコールランプ。理科室からかっぱらってきたそれとマッチを取りだす。
ランプを振ってみた。液体の音はほとんどしていない。油を食わなくするための調整が必要だった。
せんべい布団の上よりはいくらかまだ明るい小窓の下へそいつを持っていって、火を灯す部分を短くなおした。電気の使えない暮らしは手間がかかってしかたがない。
ベニヤの床へランプを置き、こすったマッチの先を芯に乗せる。小指の爪ほどの炎がおれのまわりをぼんやり照らした。ぶちまけた学用品の山から筆箱を取りだし、なかに折りたたんでおいたノートの切れっぱし――赤いクーピーペンシルで殴り書きしてあるそれの文字を炎にかざして確認する。
デジタル時計つきのシャープペンシル、資生堂MG5、東京マルイのモデルガン、なめ猫の免許とブロマイドが十数枚。ほかにDrスランプとキン肉マンの最新巻をそれぞれ三冊ずつと、あとはザクとかいうロボットのプラモデルにチョロQを何種類か。しめて八千円の盗み――四千円にはなる。それでも学費の払いにはまだあと半分足りなかった。早いとこ注文をやっつけないことには昼飯も堂々と食えない。遅くとも来週の木曜までには、これと同じ金額になるだけのかっぱらいをもう一回やる必要があった。
かっぱらいをサボれば注文は減っていく。サボらずにやれば、ひと月に一万ちょっとの金を手にできる――盗みなしには成り立たないおれの暮らし。学費を払ったらいくらも残らない計算だったが、そのいくらも残らない金で多少の飲み食いもできた。ギリギリでもないよりはマシ。なければおれは行き詰まる。
「単行本だけでもかっぱらってくるか……」
どう考えてもサボりすぎた今月。おれは今、詰まりかけていた。
毎月決まっただけの金を稼ぐために新聞配達も考えたが、そんな生徒はうちの学校にひとりもいないという理由で校長のハゲが許可をくれなかった。それを学校へ願い出たことがみぐさいとハツにいわれ、小突きまわされたあげくに熱湯風呂へもぶちこまれた。
真っ当なやり方がだめなら、あとは脅すか盗むかして金を手に入れるしかない。生きていくには――いや、死なないためにはどうしたって金がいる。『この国はなにをするにもお金が必要。資本経済とはそういうものだ』と社会の時間に担任の岩倉もいっていた。難しいことはわからないが、要するにタダじゃ腹はふくれてくれないということだ。
甘えられる大人がいるガキどもはともかく、そうじゃないガキは必死になって金を集めなくちゃならない。勉強よりも金。遊びよりも明日の飯。死んで地獄へ落ちるのはかまわないが、生きてる間までそいつを味わうのはごめんだ。
こおろぎたちに混じっていよいよ腹の虫も鳴きだした。昼間、誰かになにかもらったのを思いだし、そいつをしまった場所=ランドセルのポケットへ手を突っこんだ――三本セットの丸金ゼリー。しらけた気分でそいつの頭をひん剥いてすする。腹の足しにもならない、つるんとした菓子が喉を滑り落ちていく。立て続けに三本やっつけた後でペンギンの絵が描かれた包みを剥いた――昔は嫌いだったクールミントガム。もちろんこれだってかっぱらってきたもの。六十円とはいえ、こんなところに金など使っていられない。
せんべい布団の下からAMしか聞けないぼろいラジオを取りだし、ボリュームのスイッチをひねった。
大昔の歌が耳に飛びこんでくる――毎日の暮らしに嫌けが差した鯛焼きのぐち。いやになっちまうのはこっちだ。その大昔に父さんがおれにいってきた言葉をふと思いだす――いいから顎を鍛えろ。
千葉にいた頃、父さんはガキのおれを連れて、よくパチンコ屋へ出かけた。遊び人といわれていた父さんはそういわれているだけあって、銀玉の箱をいつだってビルのように積みあげていた。そして帰りになると馬鹿みたいな数の銀玉は馬鹿みたいな数のタバコと交換され、タバコになれなかった余りの玉はこいつ=ペンギンのガムと換えてもらうのがお決まりのパターンだった。
《人間は飯を食えなくなったら死ぬ》
――知ってるよ、そんなの。それよりコーラ飲みたい。
《これを食え》
またこれか――ペンギンのガムを渡されるたびにいつもそう思っていた。甘いわけじゃなし、腹の足しになるわけでもない、スースーするだけの薄っぺらい食いもの。おれは父さんにそのことでよく文句をいった。
《食いものはうまいもんばかりじゃない。まずくたってなんだって、文句をいわずに食えるやつが最後の最後まで生き残る。馬鹿も利口も関係ない。食ってさえいれば人間、大抵のことはなんとかなる》
――でも、これからい。
《いいから食え。とにかく噛め。顎を鍛えるんだ》
ガキのおれにはまるでとんちんかんだった話も今じゃ身にしみていた。父さんのいいつけを守ったおかげで強くなったこの顎は、今日みたいに飯抜きの刑をいい渡されたときにこそ威力を発揮する。生の芋、干した大根、大豆、小豆、そら豆、クルミ。そんなものを噛み潰すのはわけもないこと。おれは口のなかのものをペンギンの包みへ吐いて丸め、ポケットに忍ばせておいたじゃが芋をかじった。炊いた飯にはほど遠い味だが、喉を通っちまえば一緒。今日の昼に食ったハムカツの味を思いだし、頭のなかでふたつを混ぜあわせた。
明日の昼飯が気になった。ぶちまけられた学用品の山へ手を突っこみ、図工の教科書を探り当てる。
「まいったな……」
最初のページに挟んでおいた給食の献立表を見てがっくりきた――明日が土曜日だということをすっかり忘れていたおれ。もしかすると月曜のチキンライスにありつくまで、この口にはじゃが芋しか入らないかもしれない。おれはこれ以上腹が減らないことと、金にならない野良仕事が続かないことを祈りながら目をつぶった。
――つまんねえな。
くだらない暮らし。ろくでもない毎日。いいことがなんにもないおれの人生。こんなところはすぐにでも出ていきたかったが、それをするには今どうにかできている金以上の金が必要だった。
――なんとかならねえかな、金……。
新聞配達、牛乳配達、かっぱらい、カツアゲ、銀行強盗、身代金目的の誘拐。まともな考えとそうじゃない考えが頭のなかを満ぱんにする――整理。
奴隷の考えごと、その一/働いて稼ぐ――声変わりもしていない十二才のガキを内緒で使ってくれるところなんかありっこない。まともな考え、消滅。
その二/かっぱらいとカツアゲのダブル作戦――どこかおかしい。ものを売りつけたうえに金を巻きあげるなんて話は聞いたことがない。これで四つめまでのアイデアが消えた。
その三/銀行強盗をもしやるならピストルがいるし車もいる。誘拐のほうは……強盗よりも馬鹿げている気がした。
結局、どれもこれもぱっとしない。舌打ちをし、ため息をつき、後ろへそっくり返って天井を睨む――トタンの破れめからのぞく黒い空。おれは頭の位置を動かし、自分と闇の間に星を挟みこんだ。
「こんな星に生まれなきゃよかった」
鉄郎みたく自由に宇宙を旅することができたら、どれだけいいだろうと思った。
「くそだな、地球は」
なんにでも金が必要なくせに、それを自由にできるのが大人だけという、ガキには納得いかない仕組みの青い星。金がいるのはガキだって同じなのに、お前らの仕事は勉強だとかほざく大人どもは頭がぶっ壊れているか、うそつきにちがいなかった。
いつだったかそんなことをくっちゃべっていた教師に『勉強が仕事なら金になるはずだ』といってぶん殴られたことがあったが、あれはでたらめを口にしていることがみんなにバレそうになったからだ。だいたい勉強なんてものは、したいやつらだけで勝手にやっていればいいもの。おれがそいつをいくらがんばったところでなんの得も意味もない。
金を稼ぎたかった。働いてでもなんでも、とにかく稼いで自分の好きに生きたかった。だが、そのためには三年半という途方もない時間=義務教育というやつをなんとかしなくちゃいけない。時間が売れるものならとっとと売っぱらって――なんならタダでも持っていってほしいぐらいだ。
三年半後までやることがなにもないおれはヤッケの上へ体育ジャージを着こみ、顔だけ出してせんべい布団へくるまった。
「今すぐ大人になれりゃいいのにな……」
千回いっても叶わないことを口にする。どうにもならないことをどうにかならないか考える。小屋のなかがふいに暗くなった=ランプの燃料切れ。おれは役に立たなくなったそいつを、つま先でみかん箱のほうへ押しやった。
ラジオはいつの間にか野球中継に変わっていた――日本シリーズ。パ・リーグのペナントを制したファイターズはここまで二勝三敗。先発は間柴だった。
「大丈夫かよ」
このピッチャーはこないだの登板で負けている。今夜の一戦をファイターズが落とせば、シリーズ優勝は残念ながら巨人のもの。おれはどっちのファンでもなかったが、いろいろあって優勝はファイターズに決めてもらいたいと思っている。
二回表、間柴は馬鹿みたいに打たれまくった。まずはホワイトにデッドボール。柴田にレフトフライ。こともあろうに井上がこいつをヒットにしちまった。続く原の内野安打でノーアウトフルベースにされたあげく、篠塚にもセンター前を許した。なにをやっているのか。しまいには江川のバントまでヒットにしちまう親切さだ。
「ぼろぼろじゃねえか」
今夜のファイターズはもうだめだろう。間柴が河埜に押しだしのフォアボールを与えたところで、おれはラジオをぶん投げた。
つまらない試合にため息とあくびが二回、くしゃみが三回出た。暗がりのなかの退屈は自然と眠けに変わる。そのせいでまわらなくなった脳みそが勝手に岡崎聖香の思いでをなぞりはじめた。
夏の朝、かったるい全校朝礼をふたりして抜けだしたこと。一時間目の本鈴を聞きながらプールの脇でキスしたこと。まとめていた髪を解いたらそれが背中の真ん中まであったこと。そのときにもらった髪留め=紫色をしたゴムに聖香のぬくもりがかすかに残っていたこと。かっぱらってきたイモ欽トリオのレコードを聖香の誕生日にプレゼントして喜ばれたこと。次の日にそいつがバレて引っぱたかれたこと。そのときから三か月近くも口を利いてもらっていないこと。目すら合わせてもらえないこと。
《わたし、悪いことする人嫌いなの。大っ嫌いなの。そういう人、絶対好きになれない》
そうならそうとはじめにいってくれ。そしたらおれだって――ため息と涙が同時に出た。
手首にはめた髪留めをくるくるまわしながら思う。おれはきっと頭が狂っているにちがいない。おれは――おれの人生はすべてがぶっ壊れている。
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