野良仕事
きらびやかなネオン。そびえ立つビルたち。その隙間からひと筋の光が夜空へ向かって延びていく。銀河鉄道999=夢の列車。そうだ、おれもあれに乗ろう。あの列車に乗ってここじゃないどこかへ行こう。聖香も一緒がいい。だけどついてきてくれるかな。子供のおれにはまだ無理かな。祖母さんに水をぶっかけられた。
畑の手伝い。やりたくないことの一番手=この家に置いてもらうための条件。キャベツ、じゃが芋、長ねぎ、野沢菜。十月は収穫するものがやたらと多い。うんざりだったがしかたがなかった。
「なにもこんなときにやらなくたっていいだろ」
昨日、一日降り続いた雨のせいで畑はかなりぬかるんでいた。十月も下旬の弱い日の光じゃ土だってそう簡単には乾いちゃくれない。こんな田んぼのような畑でやる野良仕事になんの意味があるのか。おれはばかばかしい思いを味の薄くなったガムと一緒に噛み潰した。
わざわざ盛りあげてある土=畝を蹴っ飛ばそうとして背が縮んだ。足もとに目をやる。ぶかぶかの長靴がほとんど泥といっていい土のなかへめりこんでいくところだった。
おれにはどうにも合わない野良仕事。舌打ちをしながら右膝をあげる――足の裏が涼しくなった。同時に今度は左足がさっきの二の舞。手に持っていたスコップをぶん投げ、尻を濡らさないように地面へ両腕を突いた――今日、三度めのへま。額から垂れてくる汗だか水だか泥だかを、できそこないのウインクでやり過ごす。
長靴のなかで足首をこねくりまわすたびにぬかるみが変な音=下痢をしたときに尻の穴がやるそれを鳴らしてきた。
「くそ」
ムキになればなるほどまぬけな音が派手になる。笑いがこみあげてきたおれは、そいつでリズムを取りながら鼻歌で沢田研二の歌をやった。
勝手にしやがれ、ダーリング、カサブランカ・ダンディ――畑がステージのワンマンショー。観客は土の下のもぐら。聞きわけのない女のほっぺたを張り倒したところで、いきなりの土砂降りに見舞われた。
「ちょんこづいてじゃね!」
せっかくの気分を台なしにするしゃがれ声。祖母さん=安西ハツの放水攻撃。老いぼれのくせに耳だけはいい。
「ちょんこづいてなんかねえよ」
口を動かさずにいった。声のしたほうを盗み見る。ハツは長ねぎと野沢菜の向こうで小豆を打っていた。見ているだけでうっぷんが溜まる。おれは土にめりこみっぱなしになっている、もう片っぽの長靴へ右足を差し入れ、その格好のままじゃが芋を引っこ抜いているふりをはじめた。
びしょ濡れの背中にやっとの思いで熱を伝えてくる貧弱な日射し。拾いあげたスコップを自分の影のみぞおちに突き立てる――くそ!
くだらなかった。つまらなかった。どう考えてもおれだけが幸せじゃなかった。いや、幸せじゃなくてもいい。せめて普通の暮らし――たとえば友だちを家へ呼んだり、少年野球の試合や練習に出たり、そういうことができる暮らしがしたかった。武田みたいに家が大金持ちじゃなくてもよかったし、松本みたいに勉強ができて、べらぼうに野球がうまくなくてもおれはたぶん、満足している。
じゃが芋とはまるで関係のない穴をひたすら広げていく。意味のない時間を意味のない行動で埋めていくのはいつものパターンだった。今までの人生を、おれはほとんどこのやり方で塗り潰してきている。
スコップを突き刺すスピードをあげた。息が弾む。雨水をたらふく吸いこんだ土はいくらでも掘り返すことができた――くそ、くそ、くそ!
いつになったら奴隷の暮らしをやめられるのか。じゃが芋の列を飛び越え、キャベツのところまで伸びた影を睨みつけながら考える――いつもと同じ答えが浮かぶだけだった。
山の側から吹いてきたひどく冷たい風がキャベツとじゃが芋とおれの顔を引っぱたいていく。また、うっぷんが溜まった。スコップを右手に持ち替え、今度は反対側へと穴を広げていく――くそ、くそ、くそ、くそ!
〈おまえはしぬまでどれい〉
てるてる坊主のような格好をした誰か=いつからかおれの心に住み着いたそいつがいう。
――いつまでも奴隷じゃねえよ……。
〈どれいはしぬまでどれい。うまれかわってもまたどれい〉
白いそいつが髪を振り乱して喚く。
――次は奴隷になんか生まれてこねえよ。
〈どれいだ! どれいだ! どれいだ!〉
顔のないそいつ=女が素足をばたつかせて叫ぶ。奴隷じゃないなら――
女の顔が化けものになった。
「ふざけるな!」
自分の声で我に返った。ゆっくりと首をひねり、長ねぎと野沢菜の先へそれとなく目を向ける。ハツはおっさんがやるようなあぐらをかいて、さっきと同じことをしていた。心がうっぷんだらけになっていく。
前を向き、舌打ちをし、なんの味もしなくなったガムを掘った穴へ吐き捨てる――作業再開。
スコップの先が硬いなにかにぶつかった。感触としては石。そうじゃなきゃ瓦くず。体を前へ倒して穴のなかをのぞきこむ。
「馬鹿だな、お前」
ムチのようにしならせた体で絶対に敵いっこない鉄のスコップを引っぱたいている赤黒い生きもの。たかが眠りを邪魔されたぐらいで腹なんか立てていたら、とても長生きなんてできない。瓦くずの上のこいつは自分の運がとびきり悪いことに一ミリも気づいちゃいなかった。
「運のつきって言葉、知らないだろう」
自然と吊りあがっていくおれの口もと。ミミズの世界じゃでかくてえらいのかもしれないこいつを、人間の世界じゃ最低のおれ=奴隷のうっぷん晴らしにつきあわせる。尻を潰し、腹を潰した。どろどろしたものを撒き散らしながら穴のなかをのたくりまわる弱々しい生きもの。なにもいえず、なにもできず、ただされるがままのミミズは昔のおれだった。
弱い者はいつだって強い者の好きにされるのがこの世のルールだ――頭を潰しながらいってやった。鉄のスコップになったおれに敵うものはない。
「お前に選べる道なんてもんは――」
背中に衝撃。肺から押しだされた空気が咳になる。
「べと、えのくってじゃね! こんがきゃ!」
ミミズの立場に逆戻りするおれ。振り返るのが面倒くさかった。二発めの衝撃でしかたなく後ろを向く。いびつになったハツの顔――つまらなかった。
「よた者のせがれが! はあ、かっけしてくれるわ!」
塊割の背で容赦なくおれをぶちのめしているつもりの老いぼれ。明治生まれのばばあの暴力など、痛みに慣れているこの体には屁でもない。それでも痛がってやらないわけにはいかなかった。
「なにが痛てもんか!」
いつもの猿芝居=くそつまらない時間。おれの尻を叩き、頭を小突いていい気になっている死に損ないのうさ晴らし。ハツの唾が顔にかかる。殺してもいい理由になると思った。
「殺生やっちゃいけねせってだずに! やんなら、へえ、刑務所入ってるてめの親父やれ!」
まぶたをきつく閉じる。ハツをぶち殺したくてうずうずしているおれと、それをためらうおれが話しあいをはじめる。
「げえもねえことばっかしゃあがって! こんがきゃ!」
話しあいの結果が出る前に体から心だけを切り離す――去年、あの冬の晩に覚えた技。今ではそいつがくせになっている。自分がまだ死なずに済んでいるのはこいつのおかげだということをハツはわかっていない。
痛めつけられているおれの体を、ハツの後ろへまわりこんで見ているおれの心。老いぼれの後ろ姿がどこかのガキのそれに変わる。ズームアップ――傷だらけの背中。切り離された心が行き当たりばったりで迷いこんだ場所。ガキの横で突っ立っている女には顔がなかった。左手にはバットが握られている。
三年前の冬、沢村静恵は父さんと離婚をした。おれは父さんと千葉へ残りたかったが、ヒステリー持ちの静恵がそれを許すはずもなかった。おれという動くおもちゃを、そう簡単に手放したりしないこともわかっていた。
冬休み中の急な出来事によって、お別れ会すら開かれずに終わった千葉での暮らし。静恵の兄が運転する車へ乗せられ、馬鹿寒い長野へ連れてこられたおれはその晩、自分の運のなさに泣いた。
沢村静恵はすぐに安西静恵になったが、おれの苗字はそのままだった。父さんとのつながりをかろうじて残されたことはせめてもの救いだったし、それを大事にしたいとも思った。
前の学校では暴れまくり、力で友だちを押さえつけていたおれは転入した先でも同じやり方をためした――すぐに袋叩きにされた。もちろん次の日からは無視に嫌がらせのお決まりコース。どこの学校でもパターンは同じ。堪らなくなったおれはクラスのボスを、そいつの塾帰りに闇討ちした。二度と歯向かってこないようにしつこく、骨の髄まで、徹底的に。
そいつの取り巻きがそのことを学校中にいいふらしてまわると、それまでの無視はおべっかに変わり、前のボスの悪口を手みやげに近よってきたやつらが、おれのことを『さん』づけで呼びはじめた。
おれはそいつらとグループを作り、縄張りをほかのクラスにまで広げた。家が金持ちそうなやつを狙ってはいじめ、それがいやなら金やものを持ってこいといった。そうして集めた金をおれたちは買い食いやゲームセンターへ入り浸るために使った。
仲間のへまとちくりで担任がこのことを知ると、おれはたちまち問題児のレッテルを貼られ、なにをするにも誰かの目がついてまわるようになった。金を手に入れることができなくなったおれは誰の目も届かないところまで出かけていって、ものをかっぱらうことを覚えた。
二月の雪の晩だった。勤めを終えた静恵が知らない男を連れてきて、そいつを新しい家族だといった。今日から一緒に暮らす、ともいった。ただでさえ狭い六畳二間のぼろアパートにこれ以上人が増えるなんて冗談じゃないと抗議をしたが、それはおれがふたりにぶちのめされる理由にしかならなかった。心が『おれじゃないおれ』を見たのはこのときが最初だ。
静恵の苗字が安西から出脇に変わると、じきにおれは畑しかないこの家へ放りこまれた。同時に二度めの転校。新しい学校で問題児とされていたやつとその役まわりを交代するのに、前の半分もかからなかった。
「ずくやんでじゃねぞ! だもはたかれっだ! こん、やくなしが!」
切り離していた心を体へ戻す――いつもに比べて少ないダメージ。農道を行く誰かの顔がこっちに向いていた。ハツは外面を気にする。おれはいつでも息の根を止めてやれる老いぼれに、ごめんなさいと頭を垂れた。
弱者の残がいを土へ返し、しゃかりきになってじゃが芋を引っこ抜く。たまに出くわすミミズはもう相手にしない。引っこ抜いた芋のまわりについている土を払い落とし、畝の脇へと転がしていく。種芋からちぎれて置き去りになっているものがないか、スコップの背を使って探す。それが済んだらとなりへ移って同じことを繰り返し、一列やっつけ終わったところで、今度は転がしておいたじゃが芋を発泡スチロールの箱に詰めていく=馬鹿でもできる単純作業。
なにも考えなければ体は動く。考えはじめると途端に動かなくなる。おれの脳みそはふたつのことを同時にこなせない。それはつまり、馬鹿ということだった。
頭の足りないガキには奴隷がふさわしい。奴隷になったからには考えごとなんかしちゃいけない。考えたとおりに、もし生きたいと思うなら、今すぐここを飛びだして奴隷をやめることだ。
二列めのじゃが芋に手をかける。芋掘り専用の馬鹿になるために、おれは考えごとをやめた。
「はあ、しまえや。スチロパール、こっち入れとけ」
スチロパール=発泡スチロール。長野の言葉はめちゃくちゃだった。返事をする代わりに大げさな動きで伸びをし、ついでに空も見あげる。群青色に揺れる星の光が、ほんの少しだけうっぷんを和らげた。
「オレァこれから伊勢乃へ出てくる。晩くなっから、おめは寝とけ」
ハツは自分のことをオレという。『伊勢乃』は街の中心に近い呉服屋で、ここからは少し離れていた。どんな用事でそこへ行くのかは知らない。おれは乾いて白くなりかけている指の土をGパンの太ももで払い、それから腰をあげた。
「そのまま一生帰ってくんなよ」
いそいそと片づけをはじめる老いぼれの背中に向かって、おれはまた口を動かさずにいった。
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