まず最初に目に飛び込んでくるのは、澱んだ河べりの様子。昨今の環境整備や緑化事業など、まるで嘲笑いでもするように汚濁し、川面全体が澱んで流れる気配さえ見せぬ河が土手に沿って伸びている。
空は厚い雲によって覆われ、地上では日差しはまるで感じられなくなっていた。土手は橋によって遮られ、その橋をミシミシいわせながら、運送業者のトラックが今、渡りつつあった。運送業者の男は寝不足とストレスのためにイライラし、いつか大勢の人間のいる場所に車ごと突っ込んでやりたいとか、まだあどけない女の子や男の子に性的ないたずらや嫌らしいことを散々してやりたいとかいった人前ではとても口にできない衝動を抱えているに違いないだろう。
そんな河べりの彼方に視線をやるよりも、もっと身近に暗い衝動を抱えた人物はいくらもいた。土手のすぐ下は茂みになっていて、その茂みに隠れて少年たちが集まっていた。少年たちは十代半ば。この世でもっとも理解されず疎外される年代の人たちが、ぼんやり河向こうに視線をやりながら、勝手な妄想に耽っていた。彼らの心境を表象するような鉛色の雲が日差しを遮って、彼らに明るさや温かみをもたらしそうなものはまるで見つからない。
彼ら十代の少年たちの眼を覗き込めば、誰もが青臭い思い出とともに思い出される、夢見るように自分の内側にばかり向かっている、そんな眼差しに出くわすはずだ。ぼんやりしたようなその目には明確なものは何一つ映っていないようで、すぐ目の前の対象すら見えているのかさえ怪しい。それにそもそもの話、この汚れきった河べりに見るべきものなど何もないのだ。
少年たちの年頃には、誰もが容易に思い描けるように、内面的で強烈な自意識や葛藤を抱え込んでいるものだ。その上に、肉体的に急激な成長、第二次性徴期の欲動──そうした諸々のエネルギーやら活力を持て余し、シュールで執拗な妄想力があるのだ。
「俺、決めたよ」
少年のうち真ん中に座った美沢が唐突に言葉を発した。
「決めたって、何を」
おずおず答えたのは左側にいた園部──仲間内ではそのままソノベと呼び捨てられ、本人はむしろゾノとか呼ばれてみたかった──だった。
「俺、プロのベースボール・プレーヤーになるよ」
美沢はいつもと変わらない口調で言った。園部の反対側にいた田中がちょっとびっくりしたような、軽蔑するような眼差しになって美沢を見返した。美沢は学校の野球部にも所属しておらず、身長も百六十センチ代で、そのくせ体重は八十キロ超のデブだった。美沢の両脇の二人は、胡散臭そうな表情で相手を見返しながら、お前みたいなただのデブがプロなんて無理だと思ったが、あえて何も言わなかった。豚もおだてりゃ木にもマウンドにも登る──学校で学んだはずの格言を田中はぼんやり思い出した。
当の美沢はまるで夢に酔ったような眼差しをして「プロのベースボーラーだ」と言い足して、意味不明なニヤツキを浮かべた。それから、
「お前ら、知ってるか? やきゅとベースボールは違うんだぜ」
美沢はなぜか、野球と言わず「やきゅ」と縮めて発音した。何か特別な意味があるようだったが、ただ彼が勝手にそう記憶していただけだった。
「どう違うんだい」
園部がやはり怖気づいたような口調で聞き返した。ソノベのやつは気弱なくせに、やたらと好奇心を持ちたがる、それがこいつの最大の欠点だな、と田中は冷静に考えた。こいつとはいやらしい猥談なんてとてもできない、田中は心の中でさらに冷静に考えを進めながら、話を聞いていた。
「やきゅは日本伝統の武士道が戦後に、球技として発達したものなのに対し、ベースボールはカリブ海の原住民の野蛮な祝祭がソフィステケートされてアメリカに輸入されたものだよ。お前ら、知ってたか?」
「さあな。そんな話を聞いた気もするが、はっきりとは知らなかった」
田中はつまらなそうに答えた。野球とベースボールの違いなんてどうでもいい、俺が今どうしても話したいのはいやらしい猥談なんだ、そう田中は相手の顔に唾を飛ばして言ってやりたかった。
「本当かよ。……でも、俺もそんな話を聞いた気もするよ。ワールドベースボールクラシックの日本代表もサムライだったもんな。だとすると、これはまったく別な文化の偶然の一致であり、大会そのものが異文化交流とか異文化同士の衝突ということになるわけだな」
園部がなぜかひどく興奮して話に食いついてきた。美沢と田中は、園部の興奮の原因がよく分からずに、内心動揺してしまった。美沢はその動揺を取り繕うように「そうだ」とだけ返した。
「いつか、野球の試合から戦争に発展するなあ。ジャパニーズ・サムライ・プレーヤーの活躍と大リーグが支払う高額な年俸に、アメリカ市民全体が猛反発してさ。日米両政府が軍事介入する事態になる」
興奮した園部は、二人の存在を無視して断言するように言った。他の二人は完全にしらけてしまった。それからしばらく三人は、以前と同様、自身の内面に籠もり貝になったように黙り込んだ。
まるで石像のように、前方に視線を向けた虚ろな表情のまま、自身の妄想に浸り切ってしまったのだった。
澱み切った河の、腐臭とも思える悪臭に必死で堪えながら、男はスポーツ紙を読んで行き場のない憎悪をたぎらせていた。スポーツ紙の一面から三面には、今年のスポーツ大賞の表彰場面と高額な年俸予想の記事が掲載されていた。
加瀬という名前のその男は、ほとんど一日橋の下で拾ってきた古いスポーツ紙を読み耽っていた。橋の下は、地元のホームレスからも見捨てられるような寒々とした場所だ。夏場なら河の水で暑さを凌げもするが、秋から冬にかけては日差しの温もりも感じられない劣悪な環境になる。その上、この場所ではホームレスが集団で惨殺されるという、傷ましい事件があったばかりだ。犯人はいまだに捕まっていなかった。警察の手抜きとか、初動捜査の手抜かりとか言われているが、実のところはよく分からない。橋の周辺はちょうど警察同士の管轄があいまいな境界地で、捜査の担当がはっきりしないのも原因だという鋭い指摘もあった。
橋の近隣では、不景気とデフレの影響をモロに受けた「内こもり族」が増加し、住宅から大量の生活廃水や屎尿が河に流れ込んでいた。そのため、河はなんとも言えぬ腐ったような悪臭がたちこめていた。しっかりとした行政サービスがあれば避けることのできるこの種の悪臭には、それなりの原因があった。実は、この地区の下水工事を請け負った業者がいい加減で、下水が河に直接流れ込んでいたのだ。工事の業者は市長と金銭で癒着し、工事用の資材と時間をケチって、手抜き工事をしたのだった。そのため生活廃水も下水も、ほとんど全て河に流れ込むようになってしまったのだった。住民からの苦情を恐れた業者は、市長や市議に工事費の一部を着服させて苦情そのものを無視するようにした。
この橋の近隣の住民は互いに陰気で、社会性に乏しい上に、大半が年金生活者か生活保護を受けているような人たちだった。最低限の生活も維持できるかどうかの連中は、きっと臭覚に異常があるに違いない、と加瀬はにらんでいた。生活を切り詰めた結果、ある種の栄養素を十分に摂れていない人間は知覚が鈍くなってしまう。なかでも、真っ先に繊細な臭覚が失われてしまうそうだ。そんな話を加瀬は学校の保健体育の授業で聞いた覚えがあった。
加瀬は鼻が今にも曲がってしまいそうな悪臭に堪えながら、ひたすら一週間以上遅れた新聞紙を眺め続けていた。加瀬は一ヶ月ほど前に会社をクビになっていた。会社の金を使い込んだのだった。金はギャンブルと夜の女に使ってしまって残っていなかった。ハローワークの事務所で失業保険の申請をしたが、受け取れるのは二月も先になる、と担当者に言い渡されていた。
「ねえ、なんとかなりませんか、妻と二人の子供だっているんですよ。クリスマスと奥さんの誕生日が同じ月にあってプレゼントを二度しないと、家に入れてもらえないんです」
加瀬は担当者に泣き落としをかけた。
「そう言われてもねえ。……規則と順番があるんだから」
担当者の男は嗜虐的な笑みさえ浮かべて言った。加瀬には、その笑みの裏に何か別の意味が隠されているように思われた。哀れな失職者に対して、この男は性的な嫌がらせやパワハラを仕掛けたいのに違いない、日頃からこんなつまらない業務ばかりやっていれば、ストレスがたまって人格も変わってしまうのだろう。加瀬は内心で同情すらして相手の顔をじっと見つめた。それから、実は二年近くも前に家を出ていった女房のことを少し考えた。あいつも俺に対して、それなりに不満やストレスがあったんだろうなあ。加瀬はなぜか、自分のことより他人の境遇に同情したい気分になった。俺には、きっと慈善的な事業の才能があるのかもしれないな、きっとそうだ。事業の実現のためにはそれなりに金がいるし、俺も食べなくちゃならないぞ。加瀬は不意に生きる意欲がむくむくと湧くのを感じた。
加瀬は子供の生活を守るために、どうしても生活費が必要なのだと泣き落としを続けた。実は加瀬には、子供もいなかった。妻が作りたがらなかったのだ、加瀬本人は最低五人は欲しかったのに。嘘を自覚しながらも、これは将来の慈善的な事業のためなのだと自分の中で割り切って担当者にしつこく粘り強く説得を続けた。加瀬は切々と相手の同情を買うため窮状を訴え、ついには行政と政府の批判さえ始めた。
「そこまで言うんなら、国を相手に裁判でもしかけたらいい」
微妙に関西弁のイントネーションの入った言い方で、担当の中年男は加瀬を突き放した。加瀬は相手に対して、自分の事業プランや野望について語ろうかと思ったが、やめた。将来、この男に恩をきせられては困る。こんなニセ関西人にパートナー面をされては何もかもうまくいかなくなるだろう。
担当の中年男──首から下げた名札には松山巌と、ブロック体で書いてある──は、どことなく、関西の大御所鶴瓶師匠に似ていた。M字に禿げ上がった額や細くて笑っているように見えるが、その実まったく陰険そうな眼差しが。松山巌本人は鶴瓶のことが大嫌いだった。泥酔し無邪気そうな笑みを浮かべ、公共の電波を使ったテレビで男性器を露出する、放送コード無視のパンクでもあった大物芸人なんて、早くくたばってしまえと心の底から思っていた。その鶴瓶似の担当者を、加瀬は何かを問いかけるようにじっとにらんでいた。
──にらんでもあきませんがな。そう松山巌が言うと思い込んでいた加瀬だったが、担当の中年男は書類ファイルを閉じて、ただ黙り込んだ。
「なんとかしてください。こっちも困っているんだし」
加瀬はあっさりと降参して、ふてくされたように言った。
「じゃあ、ちゃんと求人票を窓口に提出してから手続きして。それから話し合いましょう」
相手は鶴瓶そっくりな慇懃な笑みを浮かべ、加瀬を相談ブースから追い出した。
あの時の鶴瓶みたいな担当者の息も、このドブ河みたいに臭かった。どうやったら、あんなにひどい呼気を発して平気でいられたりするんだろう。加瀬は屈辱と悔しさとともに、相手のことを思い出していた。
手に持ったスポーツ紙は、紙面が硬くごわついていた。たぶん、前に拾ったやつか誰かが濃厚な唾液や精液を付けていって、それが乾いてごわついているんだろう、と加瀬は想像したが、不思議に汚いとか気持ちが悪いとかいう感情は湧いてこなかった。寒さと河の悪臭が感覚の一部を麻痺させてしまったとか、これまでの苦悩や苦痛が脳のネジを馬鹿にしてしまって衛生観念とか倫理観をおかしくしてしまったのだろう。
今の自分なら、通りを行きかう無垢な大衆を無差別虐殺して、豪快に笑ってやることができるかもしれない。加瀬は自分の狂った妄想の膨らむのを、なんとなく嬉しくさえ思った。ただ、その死人のような土気色の顔にはハローワークの担当者のような笑みが浮かぶことはなかったが。
暗い室内で男が一人、まんじりともせず壁の方をにらんでいる。地階にある部屋には日差しが射さず、照明もライトも点いていないのでほとんど物の輪郭も分からぬような暗さだった。
奥行きも長さも知れぬ閉じた空間。そこで男はずっとソファに腰掛けて壁のあるらしい方角に視線を向けていた。男は時折身体の向きを変えることもあるが、たいていはソファに横になってほとんど身動きもしなかった。その上、意味不明な「くそっ」とかいう短い呪詛の言葉を吐くこの男は、俺だった。
俺は仕事もなく、暗いこの部屋に閉じこもっていた。随分以前からこんな感じだったと思うが、どのくらい前からなのかはよく分からなかった。数ヶ月、あるいは数年かもしれないが、俺にとって時間はほとんど意味を持たなくなってしまっていた。そもそも俺がどうしてこんな暗い場所にいるのか? 理由はあったんだろうし、適当に捏造しても一向に構わない。たとえばの話、誰かに拉致されたっていうのはありそうな感じがした。誰か、よく知らない相手の手で俺は暗いこの部屋に閉じ込められたのだ。そう思ってみると、俺の心のどこかが妙に落ち着くような気もする。
確かに、俺は誰かに閉じ込められた。同時に、俺の心に他者への異様な憎悪と、破壊への欲望が萌してくる。俺は相手も知らぬままに、勝手な妄想と欲望をたぎらせていった。俺はこれまで、大して他人に関心を持たなかった人間だったように思う。その俺が他者への憎悪なり殺意といった明確な感情を持てたことに俺自身、少し驚きもし、不思議な喜びと満足も湧いてきた。
知りもしない他人に危害をくわえてみたいという衝動が、何も見分けることのできない真っ暗な室内でぼんやり移ろっていく。それは時にレイプや虐殺といった、およそ今の俺にはできそうもないものだったり、逆に俺自身が他者からいたぶられたり危害をくわえられるような場面が俺の心に浮かんだりもした。俺は自分が奇妙に倒錯した妄想や気分に流されているのを感じていた。俺自身のもやもやした破壊衝動が、俺のちっぽけな脳の中で変形され倒錯的な願望が生まれるのだった。その一方で、暴力や破壊への衝動は薄まるどころか、ますます昂進してくるようだった。
「くそ野郎。死ね死ね死ね死ね死ね死ね……」
俺は周囲を気にすることもなく、ありったけの声を振り絞ってわめいた。わめき声に呪詛の言葉が混じり、それから意味不明な叫び声や雄叫びで気分が盛り上がってきた。こんな風に地上で騒いだら、誰かに捕まるか注意されるだろう、しかし、この部屋は完全防音でどのような音声も外に漏れる心配はないのだった。
俺は気をよくして、ソファの上で手足をじたばたさせてわめき続けた。ソファの素材はとても柔らかなので、俺はまるで母親に包まれているような感じさえした。その上で、死ね死ね、死んぢまえ、死ね死ね……とか、殺す殺す殺す殺す……とか、そういう単純な殺意の言葉をまるで節でもつけるようにしてわめいた。俺は散々わめき、やがて大笑いする。俺の豪快な笑い声が狭い部屋全体に反響する。
俺は俺自身の声の反響を聞きながら、まったく、俺はなんてチャーミングなやつなんだろうと、うっとりしてしまう。まったくもって素晴らしい、グレート・エクセレントだ。格闘系ゲームの複雑な入力コマンドがばっちりはまった時のような快感が俺を包んでいた。
俺は地下に閉じこもった。部屋の壁には、実は外に通じる重い扉があって、施錠もされていないことを俺は知っていた。俺はいま、そうした事情の全てを思い出し、なんとなくしらけた気分にもなった。ソファに横になったまま、体を抱くようにうずくまってみた。俺の手足には、むき出しになった俺自身の肌・スキンが触れた。暗くて忘れていたが、俺はまったくのネイキッド・裸だった。
地下に閉じこもっていたせいで、俺の肌はしっとりと柔らかなままだった。俺は自身を慰めるように、己の肉の表面を撫ぜてみた。俺の脳裡に、忘れていたはずの官能の炎が甦るようだった。俺はそのまま目蓋を閉じた、目蓋の裏側に奇妙で陰鬱な風景が浮かんできた。……
むき出しにされた土の上で、ゴルフクラブを振るうのはどこか官能的な嗜虐性を刺激する。そう思いながら、相川はクラブを握る手にぎゅっと力をこめた。
相川は週末になると、河川敷でクラブを振るうのを日課としてきた。河川敷にはグリーンやブッシュはおろか、きめの細かい砂を入れたバンカーさえ設えられていた。それらは全て、相川が自分で作ったものだった。雑草だらけの河川敷に芝を植え替えて手入れをし、スコップで穴を掘って砂を入れ替え、こつこつと作り上げたものだった。
河川敷のゴルフ場は本物のゴルフ場に比べると、スケールも大きさも遠く及ばなかった。その上、相川お手製のミニ・ゴルフコースに対して、住民は違法で危険だと再三苦情を入れてきたし、役所からも撤去勧告がなされていた。おそらく、こんな勝手な土地利用は軽犯罪法に違反している。俺だって、たっぷりと金と暇があればちゃんとしたゴルフ会員権を取得して、すき放題にゴルフをしてやるんだよ。相川は、目の前にいない役人に言い訳しながら、砂場でクラブを振るった。ゴフッ。だふった、球は戻ってくる。まるで蟻地獄のような、目玉状の砂の真ん中にボールが戻ってきた。ボールはまるで意志があってそこに落ち着きたいようだった。相川は心の中で、自分の気の弱さをしかった。俺はゴルフがやりたいんだよ、ちょっとくらいいいじゃないか。相川はやはり心の中で弁解した。
クラブを入れておくキャリイバッグだって、満足に持っていない、そう相川は自分自身に弁解した。相川が金属製のクラブを入れておくのは、中学の時から使っているボストンバッグだった。バッグの中に無造作に入れられたチタンや合金製の道具は金属同士がぶつかり合う、がちゃがちゃというやかましい音を立てた。相川が所有するクラブはどれも、プロ仕様の値のはる代物ばかりだった。飛距離と正確さを要求される道具に、相川は妥協を許さなかった。ただ、それらは無造作にバッグに入れられていたため、互いに擦れぶつかり合うので表面が削れたり傷になってしまっていたが。
道具と技術の追求に妥協を一切許さぬくせに、河川敷でゴルフ練習する男──相川を一目見た人は誰でも、その異様な容貌を忘れることができなくなるはずだ。脂性の上に、ろくに手入れされていない長い髪が肩まで伸びて、遠くから見た感じはまるで落ち武者のようだった。さらに額が大きく禿げ上がり、頭のてっぺんは出来損なった鳥の巣のように寂しくなっていた。特に河川敷でゴルフに打ち込んでいるとき、相川は加齢臭のする汗と脂にまみれ、汚れたタオルで顔をたまに拭くくらいしかしなかった。
確かに、ゴルフクラブを熱心に振るう相川の様子には畏怖すべき気迫が感じられたが、そのヘアースタイルのだらしなさと悪臭には誰もが嫌悪を抱かずにはいられなかった。顔をぬぐうタオルだけでも悪臭はかなりのもので、脂とそこに繁殖した雑菌の発する酸っぱい臭いには耐え難いものがあった。頬骨が突き出た、アジアモンゴロイド種の遺伝子の特徴をあまりにもはっきり受け継いだ顔つき。まだ三十代なのに、見た感じで五十代以上のおっさんに見える肌には、張りもうるおいもなかった。さらに、頑固で意地悪そうな細い目。その目をうっかり覗き込んだ人は、その小さな瞳の奥に冷酷で残忍な光が宿っていることに気付くだろう。その眼差しがあまりにも執拗な感じなので、まるで悪霊とかに──いやむしろ激しい狂気に取り憑かれているように感じられることもあった。しかも、手足が異様に短い上にがに股だった。
そんな奇妙な風体の相川だったが、女性に不自由するようなことはこれまで、まったくと言っていいほどなかった。相川は、自分の欲望というものを抑えることがまったく苦手で、女と見れば誰彼かまわず声をかけ、露骨にセックスを匂わす会話を仕掛け、ホテルに行くまでもなく屋外でのセックスに持ち込んだ。河川敷でのゴルフの練習の後にも、三人の女性と会う約束を取り付けていた。
ゴルフクラブを砂のバンカーにめり込ませるたびに、相川はそこに性的な興奮を覚えていった。それに、クラブによって作られた砂の山は、どこか勃起した男性器を想像させる。相川の脳裡に、エロティックでありながらアカデミックな言葉が浮かんだ。相川が女性に拒まれない理由の一つには、繊細な感覚と言葉遣いがあった。相川が一方で洗練さとはほど遠い野蛮なオスのフェロモンを発散させていることと、繊細な言葉遣いのギャップが女性を虜にするのだった。
どこか農耕馬や家畜の、無目的な「労役」を思わせるゴルフレッスンを続けながら、相川は、
「俺は、これまで本能の赴くままに生きてきた、だがこれからはそれをすっかり改めるべきだな」
ベージュ色のおっさん臭いズボンの股間を膨らませたまま、真剣な表情で独り言ちた。
相川はそれからも、軽犯罪法違反である河川敷でのゴルフスイングを繰り返した。相川が持ち込んだ砂は粒子がきわめて細かく、どのように力をこめてクラブを打ち込んでも、ボールは飛んではくれなかった。その上、砂は湿気を含んで黒ずみ、クラブを振りぬけないくらいに重かった。
相川は乏しい頭髪を振り乱しながら、砂とボールと格闘し続けた。まるでブラックホールのように、どうしてもボールが抜け出せないバンカー。相川は、何度も執拗にクラブを振り続けた。あたかも、砂場に大きな穴を作るように砂を巻き上げ、砂だらけになってクラブを振った。
バンカーから脱出するには、肩の力を抜きクラブ全体を振りぬくように、というようなゴルフ初心者へのアドバイスなんて、相川ははなから無視していた。というか、これは世に流布するゴルフはかくあるべしという作法や流儀、イデオロギー的な教条主義へのアンチテーゼだった。相川はさらに、全身に力をこめ、飛び出さんばかりに充血した目を剥いてクラブを砂にぶつけるように振り込んだ。
相川の全身は砂と汗にまみれ、上着とズボンを脱いでパンツ一つになってクラブを振り続けた。実は先ほどから、市の担当者が河川敷ゴルファーを取り締まるべく見回りにやってきていた。役所の担当者は、これまでのように言い逃れできないように、茂みに隠れたまま、ずっと相川の様子をうかがっていた。濡れて透けたパンツ一つでゴルフに興じる、相川の鬼気迫るような様子に役人は、いつしか一種の感動のようなものを覚えていた。俺が学生だった頃、俺はあんな風にバンド活動にのめり込んでいた、大学を卒業したとき、俺はその本来やりたかったことを封印して公務員になった。俺は本当にこんなことをしていていいんだろうか、今すぐにこっぱ役人なんて辞めて、やりたいバンド活動を再開し、あの破壊的で破滅的なサウンドに我が身を捧げるべきではないだろうか?
役人はそっと、河川敷を後にして役所に戻り、辞表を書き上げて上司に提出した。
そういう事情もあって、相川の河川敷でのゴルフ練習は誰にも邪魔されずに続けられてきた。近所の住民はしばらく迷惑したが、相川がゴルフなどという退屈なスポーツに飽きて、手入れがされなくなると河川敷は元の陰鬱な荒地に戻った。
──工場での単純労働は、人間性の破壊であり冒涜だ。内海はプラスチック工場で製品検査の仕事をしながら、自らに語りかけた。
人間性云々などという言葉は、駅前の古本を立ち読みして仕入れた知識にすぎなかった。内海は大量生産される製品を見すぎて疲れた目を上げて、ぼんやりラインの向こうに視線をやった。向こうでは、カップルになったばかりのラブラブ状態の若い男女がいちゃつきながら製品を箱に詰めていた。二人は製品よりも互いに興味があるようで、箱に詰める手つきはだいぶいい加減だった。
生産ラインのリーダーも、このカップルの底抜けに明るく卑猥な乳くり合いの様子に毒気を抜かれ、暗く孤独な内海らばかりを注意していた。内海は今年三十になる、彼女も自分の家庭もなく孤独で、今の契約が切れると先の仕事は未定だった。
内海は、こんな不平等で非個性的な職場にはうんざりしていた。しかし、こんな単純でつまらない仕事でもあるだけましで、仕事を自ら辞めてしまっては食べる道を見つけるのは難しかった。
プラスチックの製品の表面を清潔に保つため、工員は全員髪の隠れる帽子とマスクの着用が義務付けられている。そうした決まりごとにも関わらず、若くて傲慢そうなカップルはさっきからマスクを外し耳にぶらさげたまま、べちゃくちゃと唾を飛ばしてしゃべり続けていた。これではマスクの効果が失われ、きっと多くの製品が唾気とか汗、毛髪などで汚れてしまっているに違いなかった。だが、労働者たちは互いに注意しあうことも、生産意識を向上させるといった共通意識を持つこともなく、黙々と自分の作業に没頭し終業のサイレンが鳴るのをひたすら待ち続けていた。
「お前さ、ちょっとは本気だして気合を入れて作業しろよな」
なぜか知らないが、派遣社員で最年長の永井が内海の近くにきて注意した。内海はちらと永井の目を見返したが、無視した。
「おい、無視すんなよ」
永井は年下に無視されて頭にきたらしく、醜く顔をゆがませて、内海に迫った。内海は無視を決め込んだ。こんなやつと喧嘩をしてもくたびれるだけだ。ラインの向こうでは、カップルが何か言って突然大笑いを始めた。
「おい、お前らさっきからいい加減にしろよ。何笑ってんだ」
すっかり頭にきたらしい永井はカップルにも食って掛かった。実は永井はカップルの卑猥さにしっかり欲情していたのだが、その鬱憤もあって余計に顔を赤らめて注意した。
小柄な永井さんが怒っている様は、たこ坊主に似ている、内海は手足の短い永井をぼんやり見つめてそう思った。カップルのうち、女の方が永井さんに近づいてきた。永井さんは顔を赤らめてむきになったような、ちょっとからかってみたくなるような表情をして、逆に一歩近づいた。なんだ、女のくせに。やるのか、とまで永井さんは言うことができなかった。にやついた若い女の表情が一瞬、強張ったと思ったら、永井さんの鳩尾に強烈な膝蹴りをくわせていた。
永井さんはゆでられた海老のように身体を丸めて地面に転がった。そのまま苦しそうにうめいてうずくまり、動かなくなった。永井さんに膝蹴りをくわせた女は、何事もなかったように元の場所に戻っていった。戻る途中、なぜか内海に向かって中指を立て、キュートなウィンクをして見せた。
内海はただぼんやりと黙っていた。カップルにも、うずくまる永井にもまったく関心がなかったのだ。ただ、工場のラインが永井さんのせいで人手が減り、その分だけ内海は忙しくなった。
工場の休憩中、永井は内海に向かって、工場の待遇の悪さと風紀の乱れについて散々不満をぶちまけた。永井は普段おとなしい内海なら何を言ってもいいだろうと思っているようだった。内海は永井の話など聞いてはいなかった。ただ、永井の臭い息と唾気が飛んでくるのには辟易していたが。
長時間睡眠や休みをとらないと、人間ははらわたが腐ってくるのかもしれない。内海は永井さんの臭い息にうんざりしながら、ぼんやり考えた。──それとも、悪玉の腸内細菌が蔓延り、胃や腸の細胞膜を破壊し崩してこういうゴミ溜めのような臭い息になっているのかもしれない。こいつの内側は、もうすっかり腐りきって、ちょっと力を込めて殴ればハリボテみたいに崩れてしまうのかもしれないな、と内海は感じていた。
「なあ、この工場は完全に腐りきっているよ、俺も永年働いてきたが、こんな腐っている職場は初めてだ」
永井さんは話の脈絡の見えないところで、こう発言した。内海は内海で、年長の永井さんに向かって「作業の合理化と効率化のために、俺たちで団結しようぜ」と、意味不明なにやつきさえ見せて言ってやった。内海は自分で話したことの意味がまるで分からないまま──そうだ、団結だよ。この工場を占拠して賃上げと待遇の向上を求めて闘争しよう。必要なら武装蜂起して、妥協は一切しないぞ。と、これまた本の受け売りなのだが、永井さんの手を取って一方的に宣言した。
永井さんは目が点になった。どうして、気に入らないやつの悪口から、ストや武装闘争に発展するんだ? 俺はただ、若いやつがムカつくだけなのに。と、不思議に思い、内海の視線から黙って目を逸らした。
内海は自身もひどく臭い息を発しているのを自覚しながら、再び、ここは腐りきってるよ。と強い口調で言い、休憩所の椅子やテーブルをひっくり返して回った。
ファストフード店のカウンターに設えられたテレビモニターには、宇宙船内の映像がうつっていた。
早朝のニュース番組を見ながら、内海は早割りのバーガーメニューを食べていた。このファストフード店は年内に閉鎖になる。デフレ不況とライバル他店との過当競争に曝されたための致し方ないリストラ策の一環だった。内海の勤める工場の近辺には、飲食店はここ以外は汚い定食屋が一軒あるきりで、この時間帯から営業している店はここだけだった。ここがなくなれば、内海は朝食をアパートで自炊するかコンビニのおにぎりで済ますしかなくなるだろう。
ここがなくなれば、随分とさみしくなるな、などというステロタイプな感慨は内海にはまるで湧いてこなかった。自分でもどうして、そういう人間的な自然な感情が湧いてこないのか不思議だったが、湧かないものはしょうがなかった。内海は古書店で五十円で購入した文庫本に目を通しながら、朝食限定メニューのホットパイを口にした。しつこい脂の味がまず、口中全体に広がり味の繊細な感覚を破壊する。この店の脂は、アメリカでは販売を禁止されている健康に悪いものだという話だ。日本ではまだ表示義務もないことをいいことに大量に使用し、日本人の平均寿命を下げるつもりらしい。近年の若年性脳梗塞や心臓疾患の原因の多くは、この店で使用する脂が主な原因であるという消費者団体の報告もあった。幸い、内海はそんなことを気にするような人種ではなかった。胃袋さえ充たされればそれでよいのだった。
内海は読むのと食べるのを中断して、テレビの宇宙飛行士のニュースに目を向けた。宇宙飛行士は生中継のテレビ番組で、テレビキャスターからいろいろな質問を受けているところだった。無精髭が疎らに生えた宇宙飛行士の丸顔は、どこか夏に食べるスイカを思わせた。宇宙の無重力空間では、血液が身体全体に隈なく行き渡るので、日頃萎んでしまっている末端が膨脹してしまう傾向があるそうだ。内海は中学の理科の教諭の冗談めかした話をぼんやりと思い出した。朝勃ちがすごいそうだぞお。中学生の、性に対する強い興味を掻きたてるように、教諭は内海ら生徒に話して聞かせてくれた。いつもより大きく膨れたペニスを持った宇宙飛行士は、性欲の処理にかなり苦労するのかもしれないな、と内海はぼんやりテレビを見ながら考えた。
スイカのような顔をした宇宙飛行士は、同僚(最近のブルース・ウィリスみたいに頭が完全に禿げた白人の男性)といっしょに、にこやかな表情で質問に答えていた。店内のやかましいポップミュージックのため、質問や応答の声はまるで聞き取れなかったが。
モニターに映る宇宙飛行士はにこやかな表情のままなので、音声が聞こえないとずっと同じビデオを見せられているようだった。このスイカみたいな頭が突然、破裂でもしたら、キャスターはどんなコメントを吐くだろうか。内海は機械油をお湯で薄めたみたいな、まずいモーニングコーヒーをすすりながら想像した。
咄嗟の機転がきく、訓練されたタフな人間というものは少ない。ニュースキャスターは悲鳴を上げたり絶叫して実況という本来の仕事を忘れてしまうかもしれない。内海は冷静に考えを進めながら、スイカのように真っ赤な肉片が無重力の船内に漂う様を想像した。赤い肉片──しかし、人間の身体の部位はスイカみたいに赤いばかりではない、内臓は赤黒いだろうし、脳や脊髄はどちらかというと灰色をしているという話だ。しかも、宇宙飛行士のように厳しい訓練や学習を繰り返してきた優秀な脳は一般の人間よりも灰白色の部分が多くなる傾向があるらしい。記憶を司る部位ほど、発達してそういう色になって、色がほとんど白い部位は奥深い記憶や欲望と関連があるらしい。
宇宙飛行士の脳の奥には、度重なる生の苦悩やストレスの記憶がしまい込まれていた。宇宙飛行士は、宇宙船でのミッションを遂行するため、多くの障害やストレスにさらされ、それらに冷静に対処できるよう訓練されてきた。そうはいっても、宇宙飛行士も人間である。ストレスや人間的な欲望のあれこれを自身の内に無意識に溜め込み我慢してきた。まるで、クリスマスプレゼントが欲しくてたまらないくせに、親の経済力を気にして黙っている子供みたいに。そんな生活を宇宙飛行士は二十年近くにわたって続けてきた。途中、宇宙ロケットの開発失敗や爆発事故のせいもあって、彼の打ち上げが延期されてきたからだ。その間、宇宙飛行士は馴れない英語をしっかり勉強し、どなっている早口のネイティブに口答えできるまでになった。汚い言葉を吐かれても、冷静に受け流し心の中でそれ以上に汚い言葉で罵ることを覚えた。
訓練は正に過酷を極めた。遠心力を利用したGに耐える訓練や、飛行機での訓練、船外活動を行うための水中訓練。その訓練のいずれにおいても、冷静かつ正確な対応と的確な判断力が試され、成績と評価が訓練ミッションごとに記録された。
宇宙飛行士は地球を代表する、選ばれたエリートだ。あらゆる周囲やマスコミの期待に応え、常に人当たりの良い完璧なアイドルであり続けなければならない。宇宙飛行士のこの男は、有能な人間には少なからず存在するはずだが、自然な悪意が顔に出てしまうタイプの人間だった。テレビに出ている著名人であるとなしとに関わらず、人の不幸とか戦場の死傷者の様子なんかを見ると意地悪そうな笑みが自然と漏れてしまう。悲しむべき状況だと脳が判断するより先に、自然に悪意たっぷりの笑みが浮かんでしまうのだ。国の宇宙開発機構はいくつかの心理テストによって彼のこの厄介な性向を見つけ出し、強引に矯正しにかかった。
彼はそれによって、ほぼ毎日、顔を固定する特殊な器具を装着されたまま悲惨で残酷な映像や画像を見せられ、自然に浮かぶ意地悪そうな笑みが無表情にかわるまで条件付けをされたのだった。これは実は、ベトナム戦争で開発され、湾岸・テロ戦争で応用された最新の心理トレーニングで、多大なストレスを緩和するためにモルヒネ様の薬剤を定期的に投与された。
薬物の成果もあって、宇宙飛行士の男はどのような心理的な刺激に対しても、無表情に応じることができ、状況に応じて悲しそうな表情や優しそうな表情を顔に浮かべることに成功した。特に大事なのは、優しそうで威厳に満ちた自然な笑みであったため、筋肉と神経をバランスよく緩める薬剤が処方された。テレビやインタビューの席で、この薬を飲むことが宇宙飛行士の秘密約款に明記されていた。
筋肉と神経が適度に弛緩すると、いかにも優しそうで包容力にあふれた笑みが表れた。これは人種や性別、年齢にかかわりなく、あらゆる人間に共通する自然な反応で、唯一の問題は足腰の神経も弛んで満足に歩けなくなることくらいだった。しかし、この副作用も宇宙から帰ったばかりの宇宙飛行士はこういうものなのだという、マスコミによる宣伝で問題とはならなかった。
ストレスや苦しみを人為的にコントロールされ、恐怖や不安、あるいは殺意といったネガティブで任務に差し障りのある感情は訓練と薬物で意識の底に圧し込まれた。その抑え込まれた苦悩やストレスの記憶が不意の一撃によって解放されてしまった。頭を吹き飛ばされた時、宇宙飛行士には痛みや苦痛以上に、解放された喜びが勝っていたに違いない。……
内海はそんな勝手な妄想を作り出す自分に満足と一種の陶酔感を覚えていた。人が見れば引いてしまいそうな、意地悪そうな笑みが自然に漏れてしまう。内海は笑顔を隠すために、百パーセント・ビーフのバンズをはさんだハンバーグを口一杯に頬張った。
宇宙飛行士のニュースが切り替わると、政府による景気見通しが過去最低となり財政破綻が避けられそうにない自治体のニュースが流された。宇宙飛行士の目出度いニュースと不景気なニュース──アメとムチ。甘さと辛さをブレンドする、テレビ局の絶妙なニュースの配合具合に内海は心から満足を覚えた。悲惨なニュースはその後も続いたが、内海はおいしく早割りメニューを完食することができた。
ファストフード店の別の席では、派手な揉め事が起こっていた。椅子が飛び、頭でそれを受けた男は血しぶきを上げた。内海は音に反応し、ぼんやりそちらに視線を向けた。血しぶきの上がっていく軌跡がはっきりと、まるでスローモーションでも見るように見えた。真っ赤な血しぶきの上がる様子に、女性店員がギャーッという悲鳴を上げた。
内海が古書店で購入してテーブルに置いていた文庫本に、血の滴が掛かった。彼は自分の顔に、あの意地悪そうな自然なにやつきが浮かぶのを自制しようとはしなかった。
年内には閉店が決まっているファストフード店の前には、汚れた格好をした加瀬が立っていた。
加瀬は上着や身体全体からひどい悪臭を漂わせてぶつぶつ、気味の悪い独り言を繰り返していた。多くの通行人が加瀬の血走っている目を見ると、遠くからでも「あっ」と声を発して来た方角を変えて、別な通りや向い側に足を向けた。ファストフード店の前には、ファンシーなマスコットキャラクターをペイントした運送用のトラックが停車していた。トラックの業者は、加瀬がかつて配送ドライバーとして勤務していた会社だった。
当時、このファンキーでキュートなマスコットキャラクターは全国の女子高生の人気を集め、この熊のようなキャラクターの尻尾や大きく広げた手にタッチすることができれば、その日一日幸運に過ごせ、好きな相手から告られたり試験で成功するというクチコミや動画ブログが世間にあふれた。そのように、全国区の人気を獲得していった新進の運輸業者だったが、勤務はそれなりに過酷だったことは言うまでもない。
加瀬本人は正確に把握してなかったが、月のサービス残業は軽く百時間を超え、それでも足りないくらいだった。ほとんど毎日出社して、加瀬は全国の支店や業者に品物を配送した。トラックの計器には無線付きセンサーが組み込まれ、加瀬の運転と燃費の状況が営業所にデータ送信され、パソコンに記録・集計されていた。
業務課の上司は、加瀬に向かってデータ・シートを示しながら「あきませんな」とか「どないなっとんねん」となぜか大阪弁で注意した。やがて、勤務シフトが過酷になってくると、上司は加瀬に対して「ノロマ野郎」とか「もうさっさと死ね」などとボロカスに言ったが、疲れきり死人のような顔色の加瀬は返すこともできなかった。
毎月給料が減額される加瀬に対して、奥さんは色々と愚痴を述べたてた。加瀬の奥さんは、会社のファンシーな熊のマスコットキャラクターの一ファンだった、かつての女子高生だった。奥さんになって、知り合ったばかりの頃の瑞々しい面影はもう見る影もなくなっていたが。
「あんた、もっとちゃんと上司の人に事情を説明して、せめて一人前の給料くらいもらってきなさいよ」
かつて女子高生だった妻は加瀬を嗾けるように言った。内職で疲れた妻の充血した眼差しは、会社の熊のファンシーなマスコットのそれによく似ていた。
妻の言うことはもっともだった。加瀬も、これ以上の時短や燃費向上はほとんど不可能であることを会社に分かってもらいたいと思っていた。しかし、上司は聞き入れてはくれなかった。上司としても、社員を効率よくこき使っていることを、会社側にアピールしなければクビになるのだった。
しかも、上司は陰気な加瀬を内心で嫌ってもいた。それで、会社の権力をかさにいいたい放題、やりたい放題を繰り返したのだった。
そんなことがあって、加瀬は内気で陰気な自分を変えたいと思うようになった。そこで加瀬は、休暇や休み時間に空手を学ぶことにした。とりあえず、加瀬は近所の古書店で「実戦!ケンカ十段のスーパーカラテテクニック」という書物を買ってきて、お金をかけずに自習することにした。
「真理はみなさんが目にしている現実の中にこそあり、体系化し硬直した競技や武術の型の中にあるわけではありません」
書物の著者は丁寧な口調で、型を訓練する前の心得を説いていた。著者は本の中で、訓練と同時に現実に立ち返ることを繰り返し強調していた。
武術における攻防においては、頭で考えてから動作をしては間に合わない。攻防の中では、相手に左右されず技が自由に出る程度までレベルを高めなければならない。当然、そのためには型の反復が大切である。型を繰り返すことによって技は無意識的な動きにまで高まり、超ハイスピードの情報処理と高度な対応が可能になる。 型は誰がやっても同一になるべき不変のものであるが、それを習得することで各人がそれを応用し、独自の術技を生み出すことができるようになる。基本となるものが確立していてこそ高度な応用が可能になる。これを自分の形を作るという。組手や試合では型の動きがそのまま使えるわけではない。型を実際に使うためには技を型の中から引き出して自分の形を作り上げる必要がある。
さらに、相手と力と力でぶつかり合うのではなく、力を衝突させずに相手を制することが大事なのだという。現実の相手の出方に調和し対処する。そうすることで、スピードや反射神経に頼らずに相手に対応できる。それゆえ、武術の究極においては、あらゆる現実の相手を無力化し、死に体とすることも可能である。それが可能となった暁には、もはや相手の意識と脳の働きがシャットダウンされることになる。……
加瀬は本にすっかり感化され、冬の早朝でもパンツ一枚の裸になって空手の突きや蹴り、サバキの鍛錬を繰り返した。本の著者によると、心と技と身体がひとつになった統一体を最も効率よい動作に導くものを身体脳と呼び、その身体脳の開発のためには、身体が余計なもので覆われない状態──すなわち裸での鍛錬が有効である。加瀬は著者の言葉に忠実に従っていた。
型の反復は、神経組織や筋肉に条件付けを課すと同時に、型そのものを打ち破る、新たな現実、真の自分への扉である。反復によって新たな境地に達すれば、その時こそ新たな現実や自己と出会うことになるであろう。それゆえ、稽古は型の反復が目標ではなく、現実を如何様に眺め、それを如何様に受け入れ対処しうるようになるか──それは逆に言えば、新たに手に入れた現実に応じた自己存在のより高次な段階に踏み入るという、スリリングな作業でもある。
本の著者はこのように述べていたが、加瀬本人は毎朝の裸の鍛錬によって、近隣住民ばかりか家族からも疎んじられることになってしまった。その頃の加瀬は自分が新たな存在に完全に生まれ変われるという、本の宣伝文句にすっかり騙され、周りのことが何一つ見えていなかったのかもしれない。結果から言えば、加瀬は一昔も前の空手の宣伝本になど感化されるべきではなかったのだ。グローバル化とシニシズムの進んだ管理社会で、空手家の説くような理想や理念など、もはやファッションや流行のように大衆消費されるか、見捨てられ忘れ去られるかするしかないのだ。……
しばらく前から、加瀬はかつて自分が運転していたトラックの前で、全裸になって空手の突きを繰り出してみたいという、意味不明な強い衝動に囚われていた。そればかりでなく、あの本の述べたことを検証すべく、当たり構わずに通行人を殴ったり蹴飛ばしたりしてみたいと思っていた。
いつしか、シッシッシッシッシッシッという、空手独特の気合が加瀬の耳元に幻聴となって聞こえてきた。掛け声の幻聴は、加瀬の暴力的衝動と性的な欲求がない交ぜになった欲望を高め、抑えられないまでにしていた。シッシッシッシッシッシッシッシッ……
加瀬はトラックにやっていた視線を下の地面に向けて、ぶつぶつと気合のような独り言を繰り返した。通行人やファストフード店から出てきた人たちは、加瀬の存在をなるべく無視するように視線を逸らして遠巻きに離れていった。
そこに、ファストフード店から出てきた内海が行き合った。内海は若者らしく、薄気味悪い加瀬を一撃のもとに殴り倒し、唾を吐き捨てるとすっきりした様子で通りの向こうに消えていった。
"指導層の歴史認識における絶対的断絶(1)"へのコメント 0件