指導層の歴史認識における絶対的断絶(2)

宇治茶

小説

17,477文字

行き場のない少年や浮浪者、フリーターたちが繰り広げる、悪意の歴史的な変貌を多視点にて描いた小説

暗い無表情のまま、美沢は機械が吐き出す印刷された厚紙をまとめてダンボールに入れた。

プロのベースボーラーになる、という野望を周囲に明かした彼は、用具や将来のアメリカ渡航の費用捻出のため、深夜の印刷工場でバイトに励んでいた。

深夜の印刷工場は、有機溶剤の鼻が曲がるような臭いが充満し、得体の知れない顔料や薄め液が機械に流し込まれていた。美沢の担当した機械からは、贈答用の商品を入れる上等な箱になる厚紙が大量に印刷されて出てきた。美沢は作業服に安全靴、手には軍手をはめて作業していた。軍手をはめた手で厚紙を百枚単位で束ねて納品用のダンボール箱に入れるのだ。機械によって裁断されたばかりの厚紙の縁はナイフのように切れるので、軍手は欠かせなかった。

厚紙一枚の重さは大したことはなかったが、百枚単位になると大変だった。厚紙の縁をきちんとそろえて滑らかにしないと、納品ダンボールに規定枚数通りに入ってくれないのだ。紙をそろえるには、力ではなくちょっとしたコツが必要だった。それを美沢に教えたのは、相川さんだった。

「紙ってのは、力ずくでやっても駄目なんだよ。こう、紙同士の隙間に空気を入れて、その空気の上を滑らせるように扱うんだ」

サングラスをした相川さんは、丁寧な態度で教えてくれた。もっとも、美沢はその充血し血走ったような目をまともに見れなかったのだが。

相川さんは、紙の扱い方では達人だった。しかし、紙以外でどうなのかはよく分からない。たとえば彼のかけているサングラスからは、あまりセンスの良くない印象が感じられる。目を完全に隠すような真っ黒なのでなく、どちらかというとうす茶色のサングラスから覗く目はどこか冷酷的で執拗な感じを与える。小さな目はむしろ、弱気な印象を与えるのだが、実はよく見るとひどく血走っているので、そういう感じに見えてくるのだ。そんな相沢さんだから、やはりこのサングラスの選択はありえない、むしろもっと黒い、表情全体を隠してしまえるようなのがいい。あるいは何もかけないか、だ。目は心の鏡ともいう、つまり人は目を見ることでその人の性格や人となりを判断するのだ。

相川さんがかけているサングラスはけして、安物ではなかった。ハリウッドの品の良いセレブ御用達のべっ甲の縁の、値の張る商品だった。にも関わらずこうまで、悪い印象を与えてしまうのは、きっと彼の他の部分が影響しているのだろう。たとえば、彼の毛髪はだいぶうすくなって汚れている。うすい頭や禿げた頭はいくらもあるが、それがきちんと手入れされていないと、他人はどうしてもその人を悪人か、そうでなくともいい感じの人には見ないものだ。だから、相川さんはもっと髪型や髪の手入れに注意すべきだと思われた。

美沢だけでなく、工場の人間はみんな相川さんの頭髪やセレブ風サングラスが気になっていた。しかし、それをきちんと指摘するチャンスがこれまでなかったのだ。紙を扱うことにかけては達人の域にある相川さんに、意見できる人間が印刷工場にはいなかったこともある。

それに、紙とインクを扱う職業だけにどうしても有機溶剤や有害な気体にさらされるのもよくなかったかもしれない。気化した有機溶剤は知らぬ間に肌や毛髪の細胞を破壊し、キューティクルや表面をぼろぼろにしてしまう。工員たちはみんな家で風呂に入ると、ひどい垢やフケに悩まされた。相川さんも例外ではないに違いなかった。

そうした悲惨な見た目にも関わらず、相川さんは紙を扱うことにかけてはやはり大変な技術を身につけていた。彼にかかると、何キロにもなりそうな分厚い紙の束が大した力もくわえないのに、あっさりと端をそろえられ納品用のダンボールに収まっていく。紙の端をそろえながら、相川さんは印刷のわずかな乱れや裁断の不具合を見逃さず不良品としてはね、厳格な規格にあった良品だけを箱に詰めた。

わずかな実務経験にもかかわらず、美沢には相川さんの恐るべき実力が手に取るように分かった。美沢自身、世界中のボールプレイヤーの動作を研究し、しなやかな動きと瞬時のパワーの入れ具合について知悉していたからだ。美沢の目には、相川さんの流れるような手の動作はメジャー十年を超えたベテランプレイヤーのそれのように映じた。とはいえ、相川さんの見苦しいルックスには厳しい見方だったが。

相川さんは印刷の色の配合や具合について、たびたび上司と衝突した。上司はでっぷり太った中年男で、何の魅力もなさそうな男だったが、家族がある上に、実は愛人が三人もいた。愛人のことはともかく、上司の中年男はこの工場の業務と人間が嫌でたまらないという素振りを平気で見せていた。「俺はいつか、こんな職場を辞めて自分の人生を取り戻したいんだ」工場の上司は、意味不明な笑みを浮かべてバイトの美沢に言ったことがある。美沢のことを誘っているつもりかもしれなかったが、本気で言っていたのだろう。

そんなモチベーション・ゼロの上司だったが、正社員ではあるので、この中年男を通さないと工場の問題は一切解決しなかった。相川さんは印刷が気に入らないと、生産ライン全体を止めて、青の色が出ていないとか赤が濃すぎるとか、堅物の映画監督ばりのこだわりを見せてクレームを入れた。

ラインが中断すると、美沢も休憩になるのでありがたかったが、それよりももっと給料を上げてほしかった。将来メジャー・プロでの活躍を策謀する男、美沢としてはなんとしても金が欲しかったのだ。美沢は金の亡者ではないとしても、金が仕事へのモチベーションのほとんど全てだった。時給さえもらえれば、会社内部の腐敗や不正には簡単に目をつぶるつもりだったし、他人がひどい目にあっていても関係がない。美沢はその意味で非情であり、冷酷だった。欧米の契約社会では、それが当り前なのだ。金さえもらえればモラルなんて関係ない。美沢は若者らしい、極端な考えに傾きやすいタイプの人間だった。それゆえ、今生産している箱も、色味なんかにこだわることが馬鹿馬鹿しくてたまらなかった。不良品を混ぜて納品したって構わない。ようするに、数をこなせればいいんだよ。相手だって、こんなひどいデザインの箱が売れるなんて考えちゃいないよ。

人一倍仕事にこだわりを持つ相川さんが聞いたら、さぞ嘆き悲しむだろうと思われる言葉を美沢は平気で思っていた。相川さんがキレるのが恐いので、声には出さなかったが。それが彼のほとんど唯一のストレスのはけ口でもあった。

相川さんはまた、強制的にストップさせるボタンを押して機械を止めてしまった。上司のいる部屋にいって、しばらくして怒鳴り合う声が聞こえてきた。会社の人から聞いた話では、相川さんは乱暴者として知れ渡った人物だった。以前、工場には陽気なセネガルの留学生がいたのだが、あんまり女子事務員の所に入り浸りだったので、相川さんと喧嘩になったことがあった。セネガルの若者は二メートルもある大男だったが、相川さんはそいつを拳一つで殴り倒し、自分の気のすむまで執拗に殴り続けた。セネガルの若者は殴られながら、フランス語で悲痛な言葉を漏らして許しを請うたが、相川さんは誰の邪魔も入らない便所で相手を血だるまにした。

「恐ろしいことだが、こんな非人間的な職場に勤めていると、血も涙もない人間になってしまうもんだな」

相川さんはまるで、他人事みたいに明るい表情でこう弁解したが、全然反省はしなかった。

セネガルの若者は相川さんばかりか、日本人全体への怒りと憎しみをもって自分の国に帰っていった。今では中国資本で作られた最新の工場に勤めて、ジャパニーズ・サムライの野蛮さと恐ろしさを周囲に語って聞かせた。そして、今の職場がどれだけ民主的で快適であるかをことあるごとに話して聞かせた。もちろん、工場の社長はそんな彼を出世させて工場長にした。日本から逃げ帰ったその若者にも美沢同様、野心めいたものがあった。それは、もう一度日本に行って、AV男優で成功し日本人への仕返しに、姦りまくって純粋な日本人をトキ同様絶滅させてやろうという壮大な野心だった。

そうとは知らない相川さんは、美沢のところまで来て、

「おい、メシの時間だから上がるぞ」

と言い、印刷がすっかりずれてしまった大量の不良品をそのままにして、美沢とともに現場を離れた。

 

 

狭いエレベーターに二人きりになると、美沢はひどく緊張した。

エレベーターの箱の中には、男臭いにおいがたちこめていた。会社の食堂は建物の四階にあるので、相川さんと一緒に美沢は上りのエレベーターに乗っていた。

美沢は深夜労働者特有の、臓物が腐ったような濃厚な口臭とエレベーターの狭さに、ひどい圧迫感を覚えていた。美沢は閉所恐怖症だった。あまりにも緊張がひどく汗をかくようなので、美沢は気分を紛らわすために、さっきまで関わっていた箱に描かれたファンシーなキャラクターについて考えることにした。

印刷された箱は、地ビールとハムの詰め合わせ用だった。箱の全面には、生産地らしき緑あふれる牧草地と工場らしき建物が描かれていた。木造の、まるで昭和の民家みたいな工場が緑の丘に建っている風景。それはいかにも安全、安心な食品を扱う工場にふさわしいたたずまいと印象を与えるものだった。箱の隅には、小さな写真の画像が刷り込まれていて、画像にはいかにも純朴そうな従業員たちが肩を並べて微笑んでいた。それらはどれも、保守的で安心・安全をアピールするものだったが、それらの努力の全てをぶち壊しにするように、箱の真ん中に不気味な熊らしき下手糞なイラストが描かれていた。

まるで酒に酔って泥酔したかのような、充血し切った赤い目をした熊は、商品を手にした人間を睨み返すように目を怒らしていた。両足を前に投げ出し、ぬいぐるみによくあるポーズを取ってはいるのだが、その異様な風体からはどうみても可愛らしさや愛らしさを感じ取れなかった。むしろ、正体もなく酔いつぶれた駅の酔っ払いを彷彿させる代物だった。

こんなキャラクターを商品の外箱に描いたら、大事な商品の清潔感や安心安全のイメージやブランドに傷がつく、そうアドバイスする者が一人でもいなかったのだろうか。素朴な疑問が、美沢を一時、エレベーターの閉所の恐怖をやわらげてくれた。美沢は意識をもっとそちらに向けようと、考えを進めた。どうしてあんなイラストを商品の顔に採用したのか。ああいうのは、下手うまとかいって世間がちやほやするとか、そういう巧妙な打算とか膨大なデータから会社がマーケティングして生み出したものなんだろうか。美沢は最初そうも考えてみたが、消費者の視点から言ってそれには無理があるようだった。

だとすれば、あのイラストの作者本人が会社の重役や広報担当者に特殊なコネがあるに違いない。美沢はイラストを描いた作者のことに意識を集中した。それによって、目の前の現実──中年男の腐ったような体臭と口臭、それに狭さからくるどうにも我慢がならない恐怖を紛らわせたかった。そうは言っても、想像力の大してたくましくもない美沢には作者が会社の社長や重役と趣味によってつながりがあるとか、そんなくらいのことしか思い浮かばなかった。とにかくひどいイラストで、キャラクターの目つきがひどくすさんでいて、いかにもタチの悪そうな印象ばかりを与えるような代物だった。子供が一目見れば、きっとぐずったり泣き出すとか、とにかく悪い影響しか与えないだろう、美沢は苦しそうにそう結論付けた。

小さな子供に恐怖を植え付けそうな熊のキャラクターをデザインしたのは、実は著名なプロの女流アーティストだった。新人女流画家・時代の先端を行くアーティスト。これが彼女──真梨江に対して、マスコミがつけた宣伝文句だった。真梨江は数年前には、マスコミにもてはやされた時代の寵児だった。可愛すぎる、ギャル全盛時代に舞い降りた天使──そんなルックスに関するブログやホームページでの書き込みは毎日数万件に及んだほどだった。彼女の清楚で美しい容貌やエキゾチックな目鼻立ちは、あらゆる男性の心を虜にしたし、各種メディアに大々的に取り上げられテレビ番組にも多数出演した。アートという、これまではあまり顔の良くない気難しそうな連中が独占してきた領域に、突然真梨江のような美人が登場したのだから、マスコミや世間はほってはおかなかった。しかも、彼女はいわゆる巨乳だった。

それゆえ、しばらくするとスキャンダルにも巻き込まれた。イケメンの俳優とか青年実業家とか、そういう話題にしやすい連中と恋仲にあるとか、結婚間近とか、いいように書かれたこともあった。しかし、名前の挙がった連中のほとんどは面識もなく、実際にはどこの馬の骨か分からないようないい加減な連中ばかりだった。おそらく、真梨江のマスコミでの知名度を利用しようとした連中だったのだろう、そうした噂は生まれては消えていった。

マスコミや世間の熱狂とは裏腹に、当の真梨江は冷静なものだった。外野の騒ぎをよそに、作品の製作ペースも、生活ぶりも変えなかった。自分が多くの人々に感動を与える作品を造れるのは、ひとえに芸術の神やミューズの祝福があってのことであり、形而上学的な存在への敬虔な感謝が彼女の唯一の拠り所だった。

そんな真梨江だったが、いつからか作品創作のインスピレーションがぼんやりし出し、まったく作品が描けなくなってしまった。最初のうちは、これは度重なるマスコミの取材や過剰なストレスが生活のリズムを乱し、いわゆるスランプに一時的に陥ったのだと思われた。そのため彼女は取材やインタビューを制限し、結果としてマスコミへの露出が著しく減少した。それがむしろ、彼女の存在にミステリアスな印象を付加し、その作品の稀少性を高めることにもつながった。若くして、巨匠的な風格さえ漂う、気鋭のアーティスト。真梨江に対する世間の評判と評価は鰻上りになっていった。

世評はともかく、真梨江本人のインスピレーションは相変わらず不調のままだった。作品のインスピレーションが湧かぬまま、彼女はかつての作品を焼き直したり、世間受けしそうなものを意図的に製作するようになった。真梨江は思うような作品が造れず苦しんだが、世評は相変わらずだった。

そんな世間の評価に、真梨江はやがて戸惑いのようなものを覚えるようになっていった。これまでは自分の造った作品が、外部と自分のつながりを維持する手段だったのだが、それが突然失われたのだ。彼女は初めて、他人には知れない精神的な苦悩をはっきりと自覚した。そのせいなのか、彼女はたびたび生き別れになった父親の幻覚を見るようになった。真梨江の父親はひどい酒乱で、家族に暴力を振るうこともたびたびあった。一日のほとんどを酒による酩酊状態ですごし、全身から内臓が腐ったようなひどい悪臭を発していた。飲みすぎで足腰が立たず、壁を背にして一日を過ごすようなこともしばしばだった。

ある日、真梨江はその父親のイメージからいくつかの作品をデザインし製作してみた。そうして造られた作品の数々は、見るものに恐怖や不安、不快感を与えるものだった。作品を見たものは、家に帰ってからも生理的な不快感──胃のむかつきから、内臓や自律神経の不調、突然の動悸や発汗、下痢や吐き気──に悩まされた。作品には、それまでの真梨江の華麗な筆致やテクニックが失われ、全体からにじみ出すようなペーソスや情感がまったく感じられなかった。世間の人々や批評家たちは、彼女の才能も最早枯渇したとか、彼女は終わったとか勝手な文句を述べたてるようになった。ある評論家はテレビ番組で、オネエ言葉を使って「真梨江ちゃんはもう生きてないのぉ。可哀想に、作品を造る才能が死んぢゃってもう、世間には出てこられなくなったのよ、オホホホホホ」と勝ち誇ったみたいに宣言した。

そんな世評とは関わりなく、真梨江は泥酔したような熊をモチーフにした作品の製作を続けた。他人にとって不快と不安をもたらす作品は、作者の真梨江にこれまで感じたことのないような満足と充溢感を与えていた。

真梨江は描き続けた一連の作品群に「絶対的な断絶の中の連続性という複雑な観念」という題名をつけて展覧会にたびたび出品したが、いずれも散々な評価だった。相変わらずの美貌と巨乳のルックスを維持していたが、作品が売れなくなるとメディアは彼女からあっさり離れるか、彼女をアーティストでもあった過去の芸能人としか扱ってくれなくなった。生活のため、タレントまがいの活動もしたが、一年ほどで飽きられてしまい声も掛からなくなった。生活は苦しくなったが、それでも作品を造る意欲は一向に衰えなかった。作品の製作を続けるために、真梨江は生活費のあまりかからない地方で暮らすことに決めた。

しばらくして生活が落ち着くと、真梨江は地方の公民館で地元の素人芸術家たちに混じって自分の作品を展示した。町の職員は子供が気まぐれに描いた絵と勘違いして、子供の部に作品は展示された。

その展示会は、地元の食材メーカーが協賛して行われていた。町おこしの一環として創業された会社は、地ビールと地元原産の豚肉をスモークした本格燻製ハムで全国的な成功を収めていた。会社は地元の活性化のため、芸術や福祉に多額の寄付や協賛を行っていた。その会社の会長が、ある日公民館で真梨江の作品に目を止めた。

「おやおや、これは。この作品の作者はもしや、あの有名な真梨江氏ではないだろうか」

かつては芸術家も志したという、会長はすぐに売れっ子アーティスト真梨江の名前に気付き、どうしても直接会ってみたくなった。会長はこの地方に本当に真梨江が住んでいることを知ると、真梨江本人に商品パッケージのデザインを依頼した。真梨江は芸術家で、デザイナーではないと固辞しようとしたが、それならば公民館に展示した作品をパッケージに使用させてはもらえないだろうか、と会長は申し出た。

「あれは熊ですかな……よく分かりませんが、そんなことはどうでもいい。あなたの芸術作品が商品に花を添えれば、我が社の格もだいぶ上がる」

会長は真梨江を前に、いやらしい話をするように興奮して言った。

「でも、あの作品の具象化されたキャラクターや雰囲気、マチエールは私個人のものではないと思うんです。あれは生き別れの父と芸術の神が私を通して具現化したものなんですから」

真梨江はあいまいに固辞しようとしたが、会長は引かなかった。会長の根気強い説得に、真梨江は作品の一部を商品のイメージデザインに使うことを了承した。作品が広く世に出ることに、なんらかの意義があると考えたのだ。

デザイン使用が決まると、会長は喜んだが、社員の大半はそのデザインサンプルを見せられて商品のパッケージに使うことを反対した。目を血走らせて泥酔した熊なんて、商品イメージを悪くするだけだし、あの不気味な配色は吐き気を催させる、という重役を始めとした社員からパートまでの一致した意見を会長は完全に無視した。

真梨江本人が色調の具合や細部を監修し、泥酔したような熊を印刷する箱全体のデザインも一新することにした。さらに中身の商品も、三十パーセントほど増量したが、新パッケージの商品は不評で贈答用も含めて売り上げは著しい不振に陥った。

美沢は四階の食堂でエレベーターを降りた。食堂には悪臭対策なのか、黒いガスマスクをずらせてお茶を飲む社員もいて、そいつがじっと美沢の方を見ていた。美沢はガスマスクをした人物の不気味な視線を感じたが、無視した。こんなところでトラブルになっても何の得にもならない。

美沢は泥酔した熊のデザインのことなんてすっかり忘れて、夜食のサバの味噌煮定食をたいらげた。

 

 

澱んだ河べりの対岸は商店街になっていた。

元々陰気な町だったが、昔はサラリーマン家族や会社の寮もあって、そこそこ賑やかな商店街だった。しかし、交通の良い駅の反対側が再開発され学校や塾がそちらに移転すると、所帯持ちのほとんどがそちらに近い新興住宅地に移住し、社員寮も会社のリストラ策で閉鎖となった。町に残された住人たちは陰気な連中ばかりで、学校や行政の出先機関の移転に対しても苦情も陳情もせず、町がさびれるままにまかせていた。

元は会社の寮だった場所も建物が壊され更地にされた。以前に、IT関連の会社が建物を研修施設として活用するという計画もあったが、建物の老朽化と会社本体の業績不振で取りやめてしまった。

そんな事情で、河べりの向こうから駅前までの商店街はもはや瀕死の状態だった。シャッターが閉まったままで人通りもなく、ほとんどゴーストタウンと化していた。ゴーストタウンとなった町に追い討ちをかけるように、商店街の路地で一家が皆殺しにされるという陰惨な事件が起こった。血塗られた事件は、もうすぐ時効を迎えるというのに、犯人の目星も有力な手がかりも得られないままだった。

凶悪な犯罪が解決されないということで、マスコミや国民は警察の捜査や対応を容赦なく叩いた。たとえば、初動捜査になんらかの問題がなかったかという検証。河べり周辺は警察の管轄区域が複雑に入り組み、かつ警察署同士の縄張り争いが激しかった。世間の耳目を集めるこの事件では、証拠品や遺留品が戦利品のように持ち出されて一箇所に集まることがなく、捜査の進展を著しく遅らせたし、管理も杜撰だった。

事件に関して唯一の有力な目撃証言は、当日の現場近くを不気味なガスマスクをつけた人物がうろついていたというものだった。しかし、この河べりの近くには悪臭を出し続ける印刷工場があって、そこの社員や近所の人々はよくガスマスクをつけて出歩いていたため、犯人の特定には到らなかった。

警察の失態と重大犯罪事件という取り合わせは、マスコミと世間の関心を煽ったが、あまりに町の雰囲気が暗く、住民もろくに取材に応じてくれないので、世間の関心が薄れるとマスコミも取材や調査を放棄してしまった。

そんな河向こうの風景を視野に入れながら、園部と田中は携帯の出会い系サイトに熱中していた。

メールをよこした相手の女性は肉付きのいい中年女だった。ハンドルネームをヤスエというその女は、いきなりセックスを匂わす書き込みをしてきた淫乱女だった。「淫乱の熟女」という言葉に、田中はともかく園部はひどく興奮している様子だった。

「この年代の男の子は、サカリのついた種馬だ」

田中は内心で、園部を軽蔑して思った。ヤスエは有閑マダムらしく、やりたくて仕方がないとメールしてきた。こちらがまだ中学生だとバレると、交渉をやめてしまうかもしれないと思い、二人とも年齢を伏せていた。

携帯のモニターに熱中する二人と茂みを隔てて、相川はゴルフに興じていた。何度もボールを打つうちに、相川は雑草の茂るブッシュにボールを打ち込んでしまった。

あらゆるトラブルに備えておくことがコース攻略の決め手になる、というスペイン人のプロゴルファーの箴言を思い出しながら、相川はゆっくりと歩測して飛距離を計った。歩きながらも「目的意識もなく素振りをダラダラ何百回やってもダメだ!気合を入れて十本きっちり振ったほうが身につく」という武術家ばりのプロの言葉を反芻するように口の中で繰り返しながら、クラブを雑草の中で振り回して落ちたボールを探した。

打ち込んだボールはなかなか見つからなかった。相川は自分のボールに、凶暴そうな熊をデザインしたシールを貼っていた。充血した目で睨みつけている熊のデザイン。それは相川が河川敷でプレイの最中に突然ひらめいたものだった。自分で描いたものを見ても不快感とむかつきを覚えるような忌まわしいデザインで、誰も好き好んでこんなシールのついたボールをネコババしようとは思わないだろうと、相川は考えたのだ。

相川は雑草の生い茂るブッシュを探りながら、いつしか自分自身が凶暴な動物と化していくような錯覚に陥っていった。いつからか、相川は空手家の発するような、凶暴化した野生動物が威嚇のために出すような、シッシッシッシッシッシッ……という気合のような鋭い息をまるで独り言のように発して、自分が自分でなくなるような妙な気分に陥って行った。雑草とススキが生い茂る藪を探しながら、性欲が高まったわけでもないのに、若い男性を毎朝困らせる朝勃ちみたいにペニスがギンギンに硬くなっていた。相川は歩き回りながら、硬くなったペニスがぴったりしたブリーフの布とこすれる甘美な快感に陶然とした。

土手の上を台車を押してよろよろ歩っていくガスマスクをした老人と、相川は目が合った。相川は老人の方に顔を向けながらも相変わらず、シッシッシッシッ……という気合を吐き続けた。台車を押すガスマスクの老人は相川に顔を向けたまま、そのまま歩き過ぎていった。相川はふと、河向こうの繁華街で陰惨な殺人事件があったことを思い出した。事件の当日はひどい雨で、老人のようにガスマスクをつけた男が現場をうろついていたという。あの当時、俺はまだ学生だった。あの日の雨で、土手の堤防が決壊しかけ学校は休みになった。学校は休みだったが、家では大変だった。飲んだくれの親父が突然家に帰ってきて、家にいた彼をいきなり殴った。あの出来事は、俺にとってトラウマになった、夢の中で俺は親父を何度も殴ったり刺したりして殺してやった。もう、あんな悲惨な家族とはかかわりたくないものだ。相川は独り言のように、シッシッシッと声に出しながらボールのありそうな場所を探った。

出会い系サイトで有閑マダムと連絡していた園部と田中は、相手が送ってきた画像ファイルを開いてげんなりした気分になった。ファイルを開くと、猥褻で欲情を煽るような画像の代わりに、ローションバーグやモンドリアンを連想させるような、ポップなアート作品が映されていた。有閑マダムと自称していたヤスエという女は、きっと頭の悪い美大生か何かなんだろう。園部はすっかり落胆したのか、ひどく無表情な顔つきになった。田中はそんな園部のことを「こいつはやっぱり馬鹿だ、とても俺の高尚な猥談にはついては来られない」とますます軽蔑したい気になった。

「作品のタイトルは『欲望の働くところには、想像界の場所はもはや存在しない』だと。馬鹿にしてやがる」

田中は声に出して不快感と軽蔑を表明した。

「まあ、待ってくれよ。俺は性欲の満足だけではない、真のパートナーを必要としているんだ。それが今、このアートチックな画像を見て分かったんだよ」

園部がまともそうな顔をして、真顔でそう言った。田中は、もう勘弁してくれ、という思いで言った、

「いいかよ、男と女が出会ってすることはみんな同じなんだ。男女を結びつけるのも、それだ。セックス。これ以外に男女の話題ってのはないんだよ、特に思春期の学生時代にはな」

園部は真剣な表情で反論した。

「だって、いつかは恋愛して結婚するわけだろ。結婚して長い間生活する中にはセックス以外のこともあるじゃねえか。俺を馬鹿にするの、やめろよ。お前こそ分かってないよ」

「その時はその時なんだよ。お前こそ分かってないよ、いいか、大人は結婚した相手に飽きると新しい相手を見つけて姦りまくるんだ。さかりのついた動物なんだよ、大人ってのは。みんなおんなじだ」

田中は草叢から立ち上がって言った。立ち上がらないと、背の小さい田中は園部を見下せなかった。

不意に立ち上がった田中に、衝撃が走った。

茂みの中でボールを探っていた相川が雑草もろとも、田中の頭をクラブで薙ぎ払ったのだ。

 

 

湿って黒い路上には、殴り倒された加瀬がそのままの状態で倒れていた。

舗装された道路は、昨夜の冷たい雨によって黒く濡れたままになっている。道を行き交う人の影がそこで交錯すると、路面には陰鬱な暗さが浮かび上がった。

交通量調査のバイトをしていた藪は、さっきから倒れたままの加瀬のことが気になって仕方がなかった。あの倒れている男が起き上がって向こうに行けば問題ないが、こっちにくればカウンターを一回余計に押さなけりゃならない。めんどくさいから、向こうに行ってくれるか、このまま永遠に倒れていてくれないかな。そう、藪は考えていた。

藪は態度を明瞭にしてくれなさそうな相手に対して、不意に記憶と感情のマグマが噴き出してくるのを感じた。藪はそのせいで、駅の反対側の陰鬱な町での忌まわしい出来事さえ思い出してしまった。町で一家皆殺しが起こったのは、彼がまだ子供の頃だった。あの日、藪は家の中で怒鳴り合っている声か、叫び声のようなものを聞きつけた。藪はまだ大人の行為に好奇心一杯の、よちよち歩きの幼児だった。その日、藪は不細工な熊のキャラクターがデザインされた赤い長靴をはいて外に出た。本当はテレビヒーローのキャラクターがデザインされた格好いいのが良かったのだが、親はバーゲンで安いそれを彼に選ばせたのだ。藪は長靴をはいて、声のする方にふらふらした足取りで向かっていった。

猫の額ほどの狭い庭には、たくさんの鉢植えが並んでいた。この家の主はあちこちから鉢植えを集めてくるくせにまったく世話をしなかった。そのためたいていの鉢植えは枯れてしまっていた。大量の不燃ごみと化した鉢植えのそばには、石ころがいくつも並んでいた。芸術家気取りの家の主人が勝手に集めてきたであろう石ころは、何か意味があるようなないような妙な具合に配置されていた。

「私は、身近にありふれたものから高尚な芸術作品を生み出しておるのです。すごいでしょう」

子供ながら、藪はこのご近所さんが大嫌いだった。大した資産家というわけでもないのに、高尚なことやアートチックな振舞をして独りよがりに満足している馬鹿野郎・豚野郎。藪はテレビや親の影響で、子供のくせに人を罵倒したり小馬鹿にする言葉をたくさん知っていた。隣のみよちゃんは寝小便たれ、かずくんはうんこたれ……、藪はそんなふざけた歌を自作して一日中、笑い転げたこともあった。そのくらい、悪い言葉が大好きだったのだ。

人にはそれぞれ、好きなものや趣味があるものだ。藪の場合、他人を罵倒する言葉だったわけだが、殺されたご近所さんは鉢植えと石ころの収集だった。だから、近所や役所がごみの整理をしろと注意や勧告を申し入れても、収集をやめようとはしなかった。ものを集めることが人になんらかの安心感を与えるのだ。だから、生きている限り人はやめることなどできないのかもしれない。むしろ、それは人生の目的とか、そういう哲学的な意味を持った行為なのかもしれない、と藪は今にして思う。

あの頃はまだ、あの町にも活気のようなものがあったな、と藪は思い返していた。あの皆殺しにされた家の者たちは、自分たちの家全体に「夢の機械的系統にもとづく多形的倒錯」などという、スノッブそのもののような命名までして自らを誇っていた。彼らが収集し、芸術的かつ哲学的な意味を与えていた「オブジェ」様のものは、縄張り争いに終始した警察の手によって完全に解体され持ち去られてしまったが。

子供の藪があの事件当日、一体何を目撃したのか。前後の脈絡がはっきりしないが、藪が覚えているのは、多くの人々があのいやらしい家から出てくる光景だ。出てきた人々は皆血生臭く、中には返り血をあびたような人もいた。人々はいずれも、ご近所の顔見知りで、よく見ると藪の家族も混じっていた。みんなひどく興奮している様子で、なかには意味不明の忍び笑いをしている連中さえいた。そういえば、町内会長をしていたカイゼル髭の老人も全身に返り血をあびていたっけ。藪はぼんやり思い出した。

そうした光景の記憶が、一体何を意味しているのか、藪は今になってもよく理解ができなかった。ただ、あの場面を思い出すたびに藪はストレスを覚えてイライラし、誰彼かまわず暴行を加えたくなる。あの光景がなんらかの刺激となって、彼を暴力の衝動に導くのか、それともまったく別の理由があるのか、彼自身よく分かっていなかった。

あの事件以来、俺は他人を信じることをやめてしまい、動物的な攻撃衝動を抑えるのが下手になってしまった。あんなくだらないガラクタ屋敷を芸術だ、などと言っていた一家が全員死んだと聞かされたとき、俺は恐怖や不安よりも喜びとすっきりした爽快感を覚えたものだ。俺はひどいやつなんだろうか、非情な獣か何かなんだろうか。親や近所の大人はあれっきり、すっかり大人しく陰気になってしまった。あの家族が殺されたとき、大人たちはあんなに団結し充実したような顔つきだったのに。町そのものも、あの事件以来、すっかりさびれ陰鬱な雰囲気に包まれるようになってしまった。悪臭を放つ印刷工場だけが昔とまるで変わっていない。……

事件は今も犯人が見つかっていなかった。藪の目撃した情報は、警察組織の網の目のどこかに引っかかって、結局捜査本部にまでは届かなかった。藪の家族やご近所の大半も、あの事件があって町から引っ越し、事件当時の記憶はすっかり失われてしまった。

藪は交通量調査のカウンターを折りたたみ椅子に置いて立ち上がった。倒れている加瀬に近づくと、藪は己の衝動を抑えることなく、唾を吐きかけ永遠にこっちに来ないように呪いの言葉をつぶやいた。

 

 

俺は溺れているような自らの感覚に目を覚ました。どうやら、しばらく寝てしまっていたらしい。

そういえば、宇宙飛行士は無重力の訓練のために水中で動き回るトレーニングを積むらしい。NASAの訓練所にも、巨大なプールが設置されているという話だ。俺は小さい頃、どうしても宇宙飛行士になりたいという夢を持っていた。高空から見る、地球の青い大気の層はどこまでも広がっていて、暗い宇宙との境界がぼんやりかすんで見える。俺は地上に暮らす人々にあいさつし、祝福を与えてやる。俺はまるで神のようだった、神の視点を手にしている。地上にうごめき蔓延る悪事の全てが手に取るように見えていた。どんな悪行も俺の目を逃れることはできなかった、俺は悪人どもに対してウィンナーのようなペニスからほとばしる小便、いや神の雷を落としてやるのだ。……

全て、子供の頃の勝手な夢想だった。しかし、あの頃の自分がどうしてあんなに宇宙に夢中になっていたのかがよく理解できない。あらゆる悪行や暴力には、それなりに背景となる事情があり、単純に裁くことなどできはしない、俺本人が悪人でない保証などどこにもない、そんな大人の知恵を俺は身につけ、いつの間にかあの素朴だった子供の魂を失ってしまったのかもしれない。

俺はぼんやりした頭のまま、先ほどの溺れて水の中をめちゃくちゃに足掻いた感覚を思い出した。あれは本当に必死の足掻きだった。手足に何の手応えもなく、ひどく息苦しかった。俺は自分の足掻く姿を想像して、いつしかそこにアートな印象、現代舞踊とかに通じるようなものを見出していた。身体表象の戯れだとかオルタナティブなマトリックス=鋳型だとか、アーチスティックな言葉がいくつか浮かんだ。俺はまるで、マトリックスに囚われた赤子のようだった。溺れつつも、回帰的な安逸を貪る俺。……

俺はぼんやり、意味不明な妄想に浸りながら、ペニスが勝手に勃起しているのに気付いた。地下にある、この暗い部屋には障子の戸もヴァギナもなかった。俺はスプリングの弱った沈みすぎるソファの中で、手足をばたつかせて暴れてみた。そうしても、俺には何の衝動も感情も浮かばなかった。俺はつまり、無だった。魂が今にも肉体から離脱するような、そんな不安定な気分が俺を襲った。

俺の腰に生えたようなペニスは、まるで棒か金属のように硬くいきり立っていた。アートとか哲学とか、性欲を抑制するような言葉やイメージを散々浮かべたが、ペニスは硬いままだった。俺は暗闇の中で携帯電話を見つけ出し、出張風俗店に電話を入れた。

「ご利用ありがとうございます。こちらお馴染み、ペディグリー・ハニーでございます。女の子のご要望はございますでしょうか?」

俺は馴染みの嬢を指名することにした。指名料金がキャッシュバックされるキャンペーンがどうだとか、支払い方法がなんだとか、交通費がどうしたとか、店員はサービスや料金についてくどくどしたことを言ったが、俺は無視した。

「……〈自己(セルフ)〉など存在しない。有るのは連続的な感覚の流れだけだ。……」

べらべらと店内規則をしゃべっていたはずの店員が、俺の耳元でささやくように言った。俺は黙って電話を切った。俺のペニスはぐんにゃりしていた。俺の内に再び、訳の分からぬ憎悪と暴虐への衝動が渦巻いていった。

俺は暗い地下室をめちゃくちゃにしたが、嬢はいつまで待っても来なかった。俺は疲れてソファで眠り込み、意味不明な夢を見た。俺が洪水になって、何もかも呑み込んでしまう、そんな夢だった。……

 

 

暗い会議室には、老人たちが集まっていた。明るい昼間なら、老人たちの顔や腕に彫ってある不気味な刺青を見分けることができただろう。

外はしばらく前から、どしゃぶりの雨が続いていた。時折、稲光が差すと、老人たちに刻まれた深い皺と刺青が見える。会議室は工事用のプレハブ小屋だった。老人たちは全員、四角くくっつけた長机を前に腰掛けていた。

老人のうち、一人がぼんやりと目を上げた。そちらには、工事のスケジュールや担当者を書き込んだホワイトボードが立っていた。老人たちとボードの氏名や用件はなんの関係もなかった。

やがて、うつむいた別の老人が、はあぁぁぁぁぁぁ……という、長い長いため息を漏らした。ため息はあまりに長く、どう考えても老人の心肺機能のレベルを超えていた。

老人たちは近所のフットボール・スタジアムから戻ってきたところだった。プレハブ小屋は国の護岸改修工事のためのものだったが、予算が失効してからそのままに放置されていた。先ほど老人の顔に刺青と見えたのは、応援用のボディペイントだった。彼らは、スタジアムでファンの振りをして観客に近づき置き引きを繰り返す、老人の窃盗団だった。

大勢の人の集まるスタジアムで窃盗行為を繰り返す、という独創的アイデア。彼らはただの無気力な年寄りではなかった。むしろ、老人である見た目を最大限利用し、スタジアムのガードマンを抱きこみ、金のありそうな金持ち女性や弱い子供ばかりを狙う悪質な集団だった。

「ここ一週間、ずっと雨が降り続いているね」

老人の一人がつぶやくように言った。ひどいどしゃ降りだったが、フットボールの試合は行われていた。試合があるので、とりあえず彼らはスタジアムに行ってはみるのだが、客の入りはガラガラで、カモになりそうな連中はほとんど見当たらなかった。客が少ないので、気付かれずに近づくのも大変だった。

「もう、三日も食べてない。そろそろ施設に戻りたい……」

消え入りそうな声で弱音を吐く老人もいた。彼らも以前は、介護付きの老人ホームで暮らしていた。ホームでは、彼らはほとんど人間扱いされなかった。これまで、大なり小なり社会に貢献し、現在の社会を建設してきたというのに、若い世代は彼らに侮辱と軽蔑でしか報いてくれなかった。

一時弱気にはなったが、施設での仕打ちを思うとむしろ、結束は固くなった。

「俺たちから希望や生きがいを奪った社会に、なんとしても仕返ししてやるんだ」

机を叩いて、リーダー格の老人が全員を鼓舞するように怒鳴った。

老人たちは雨に濡れた身体を縮こめるようにして、なるべく腹が減らないようにじっとしていた。しばらくして、老人の幾人かが周囲の異変に気付いた。

ゴゴゴゴゴゴ……と、まるで地面そのものが鳴動するかのような不気味なうなりが四方上下から伝わってきた。

老人たちがプレハブ小屋の出入口に殺到した時には、すでに遅かった。増水した河から溢れ出した大量の土砂と水が、プレハブ小屋もろとも老人たちを呑み込んだ。

溢れ返った土砂と水は、加瀬が熱心に読んでいたエロチックな記事を掲載した新聞紙とともに、老人たちを押し流していった。

 

 

「まったく。こんな雨にバイトなんてやれるわけがない」

電話を終えて、藪は自分の部屋でつぶやいた。藪は会社に仮病の電話を入れたところだった。電話をしてしばらくぼんやりしていると、思い出めいたものが浮かんできた。

ちょうど、こんな長雨の季節だった。将来の見通しも立たない高校生だった藪は、当時激しい破壊と暴力の衝動に悩まされていた。なんとなく聞いた「卒業」に触発され、藪は学校に単身で乗り込み、野球部員のバットで校舎のガラスを一枚残らずぶち割って回った。

雨が建物や地面を打つ、単調な音を聞いていると、あの頃の妙に生々しい感触が甦ってくるようだった。ガラスをがちゃんがちゃん割っている間はよかったが、やり終えた時に虚しさだけが残った。もう、学校だの体制だのいうのはおしまいなんだ。藪は世界一グレイトなロッカーが引退した時のような虚脱感に包まれた。

十代の頃のような、無目的な破壊衝動。現在の藪はそれをぶつけるのにうってつけのネットゲームに興じていた。世界中でヒットし、あまりの残酷さに禁止になった国もある有名なゲームだった。ゲームのルールは単純で、血走った目をした凶暴な熊のキャラクターを操作してプレイヤーは町を襲い、罪のない老人や女子供を残虐に殺して回ればいいだけだった。

藪はゲームで無垢でか弱そうな相手を惨殺しながら、虚しさなんてない至福の瞬間を満喫していた。

 

 

河面を照らす日差しが妙に眩しかった。

プロのベースボーラーになると宣言した美沢は、目の下に隈を作って欲求不満そうな園部と河べりにやってきた。

「学校の窓ガラスぜんぶ、バットで割られていただろ」美沢は何気なく園部に言った。

「そうだな」園部はひどくつまらなそうに答えた。

「あれは俺の仕業だよ」

美沢は少し得意気に話してやった。園部は美沢の言うことなんて大して気にも留めず、河べりに何かとんでもなくエロチックなものでも流れついていないかと目で探していた。

「田中のやつはしばらく入院だ。頭蓋骨が割れたんだと」

園部はふと思い出して、やはりつまらなそうに言った。田中を殴ったやつは、今も全国を逃げ回っているらしい。整形でもして逃げているのか、警察がただ間抜けなだけなのか、とにかくまだ捕まっていなかった。

「ひどいやつがいるんだな」

美沢は特に興味もないように、つぶやいた。「野蛮なベースボールなんて、もうやめだ」美沢はぼんやりと言い足した。園部はまだ、河の辺りを目で探していた。

河べりは昨夜の鉄砲水になぎ払われ、雑草も何もかも蹂躙されたように倒されてしまっていた。洪水になるとこの河は手をつけられなくなる、と園部はうんざりしながら思って探すのをやめてしまった。

2010年11月13日公開

© 2010 宇治茶

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