年越しを迎えようという大晦日、診口さんは今年もどやどやと我が家へ押しかけてきた。
母への挨拶がてらお土産を渡し、追従の笑いなど浮かべるところを見ると、どうやら変わらず達者なようで、安心した。
彼とは、知り合った当時から共鳴し、何かにつけ我が家で共に時間を過ごすことが多くなり、やがて私の家でも彼を歓迎するようになった。私の家は普段はいつも静かに、ひっそりとしているが、口達者な診口さんの来訪があると、電球を付けたように、明るくなった。
二人顔を合わせるとよく小難しい話などしたものだが、診口さんは今年学校を落第し、それを機に塞ぎこんでいたようで、あまり顔を見せなくなっていた。
激励の意味も込め、どっさりと料理やらお酒やら抱え客間へ入ると、先に上がっていた診口さんは既に持参のお酒を煽っていた。
年の、終わりである。
ぼそぼそと、生活の話などをし、酒も尽き、一息ついた頃、時刻はそろそろと今年を終わらせようとしていた。
「折角の年越しなのだしね、何かこう、派手にやらかそうじゃないか。パアっとさ、パアっと」
この人は、或いは、またぞろご馳走のような類でも期待しているのではないかと思われた。
生憎、そのような持ち合わせは私の家には無かったので、何か無いものか思案した結果、酔狂な一案を講じた。
「ここに、蜜柑があります」
一時、期待しかけた診口さんであったが、それを視認するなり顔をしかめた。
「きみ、本当に、蜜柑かね、それは。やけに、黒いじゃないか。でかい陰嚢みたいだよ」
「一年間ずっと、そこのところの窓際に放置してありました。カアテンの外側に隠れていて見えなかったわけですね。まあ、腐って、ますね」
ますます顔をしかめた。
「きみは、一体、」
と言いかけ、止めた。私も、何故そのような処置を施したのかと問われれば応え辛いのである。
とにもかくにもそれを床に置き、二人して向き合うように座し、その異物をしげしげと眺めた。
「しかし、この部屋にずっとあったのか。気が付かなかった。持っても、平気かな?」
「ええ」
「やけに、軽いな。そして、硬い」
「日差しに、ずっと当たっていましたので。からっからに、萎びちゃっているのですね」
「しかしまあ、色も、随分と黒ずんで……酷いなあ。実に見苦しい。熟れた果実の、面影も無いじゃないか。眼を背けたくなる程の、醜態だよ。同情だよ。こっちまで、嫌になってくる」
散々な罵倒を浴びせながら、診口さんはそれを鼻先に掲げた。
「しかし、腐っていながらにしてまったくの無臭とは恐れ入った。人間も、本当に腐っているものは、こんな風に乾燥しきって、黒ずんで、そして、無臭なのだろうね」
「切って、みますか」
私がそう提案すると、診口さんは無邪気に顔を綻ばせた。
「でかした。名案だぞ」
「何が出るか知れませんから、下に何か敷きましょうか。新聞紙でどうです」
「いいね、嬉しいね。このように、一年を締め括るには、儀式が必要なのさ。通過儀礼とでも言うのかしら」
まさか腐った蜜柑を切る儀礼などあろうはずもないが、しかし、一ヵ年たっぷりと腐らせたそれは事実、切開するに相応しい、変な魅力を放っていた。異物を破壊するという行為も、また、良かった。
大いに息巻いて、机からナイフを持参し、
「さあさあ、やりましょう。大いにやりましょう」
腐った蜜柑にひたとナイフを当てると、診口さんはしかし慌てた。案外、臆病なところを見せるのである。
「まさか、きみ、しかし、虫なんか居たら、堪らないな。嘔吐しちゃうよ」
「はあ」
「虫で収まれば、良いのですが」
ぐっと、力を入れる。皮が硬い為、めきめき、と、下卑た音を立てながら、貫き、二分した。
覗くと、空。
「中身が無くなっていますね。皮だけの感じです」やや、興醒めである。
「希望も絶望も無い、パンドラの函」気取ってしまった。
「そりゃあ、そうだよ。僕等は、ドラマじゃ、ないのだから」
「しかし、きみ、思うのだが、これは一体、何かね」
「蜜柑、ではないでしょうか。」
「蜜柑とは、とどのつまり、食べるためのものだろう? 皮を剥いて、じゅるじゅると果汁と果肉を啜って、食べる為のものだろう。しかし、これはもう腐って、乾ききって、もう、食べられないじゃないか。もう既に、食べる為のものじゃ、ないね」
「確かに。では、これは一体何なのでしょう。何と云うものなのでしょう」
「それが分からない。蜜柑だけど、蜜柑じゃあ、ない。種でもあれば、まあ、或いは救いがあるかもしれないが」
「種も、無い、です」
「おしまいだ。食えないし、種も無い」
手で弄ぶ。
「こいつは、もう何でも、ない」
蔑視しながら、愛撫している。物欲しそうな、悲しそうな顔。
儀礼の終わりとして、その骸は埋葬する事となった。
外は静かで、黒くて、寒かった。
雪の中に埋めると、診口さんは一人で頷いた。
その様が、何とも物悲しく見え、何か励ましの言葉でもかけたくなったが、照れくさくて敵わず、
「もう今は、新しい年でしょうか。やけに静かなものですね」
そんなよそよそしい事を言った。
振り返る診口さんの顔は、案外と晴れていた。
「きみ、今年は、或いは、良い年かも知れんぞ。」
息が、白かった。前向きに、生きられると、良いと思った。
後日、診口さんより「臥床新年」としたためられた年賀状が届いた。
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