今日の一日のこと。
朝、出勤。
気付けば、私はバス停でバスを待っていた。不思議な事に、朝起きてから、ここまでの記憶が無い。私は確かに、いつものように、起床後、顔を洗いスーツに着替え、家を出て、このバス停留所まで歩いてきた筈である。しかし覚えていない。ははあ、人間の頭は、必要の無い情報は自動的に消去するように出来ているのだな。
バスが来たので、乗り込む。バスは今日も閑散としている。
となると、私の一日の大半は空白のはずだ。こうして通勤バスに揺られている間のこの自我も、意味は無いのだから空白であっても良さそうなものなのに。
バスが停車した。ここでは沢山の人が乗り込んでくるので、参るのである。終点はもうすぐそこまで来ているのだから、この程度の距離、歩けばいいのに。
それにしても人が、次々乗り込んでくる。どこまで乗る気だろう。既に、車内は入り口までぎゅうぎゅう詰めである。それでも押し合いへし合いしながら、人は無理にでもバスに乗ろうとしている。その異様な光景が、段々面白くなってきた。ふいに、入り口のドアが強行的に閉められ、ぎゃっという情けない悲鳴が上がった。私は愉快で堪らなく、押し殺した甲高い声を上げながらしばらく笑い続けた。
気付けば、私は電車の中にいた。
つり革につかまりながら、ガラスに映る自分の顔をしげしげと見つめていた。
視線を落とすと、目の前に、中年の男性が座っている。とても苦しそうな表情をしている。必死に、何かに耐えているような顔。何に、耐えているのだろう。何が、苦しいのだろう。
誰も、気付いていない。この男性はこんなに苦しそうな表情をしているのに、その事に気付いているのは、私だけ。少し、おかしい。
ふと、ガラスの自分の顔を見ると、私もまた同じように苦しい顔をしていた。
夕方、帰り道。
気付けば、私は片手に鯛焼きを持っていた。駅前で、買ってきたのであろう。最近のお気に入りが、鯛焼きだ。私は甘いものが大好き。
どこか落ち着いた場所で食べたいと思い、公園に寄る事にした。しかしそこにはベンチどころか遊具一つ無かったので、私はそのだだっ広い公園の真ん中へ歩いて行き、立ったまま鯛焼きを一口食べた。
ふと、鯛焼きが生き物に見えた。何故、鯛の形にして焼いてあるのだろう。とても趣味の悪い食べ物だ。鯛に対する悪意すら感じられる。もう一口食べて、このアンコが、内臓、と考えるとグロテスクで気持ち悪くなり、堪らずおえっと吐き出してしまった。
地面に落ちた黒と茶色の塊に、ごめんなさい、ごめんなさい。頭を欠いた鯛焼きさんに、謝った。
夕暮れ、帰宅。
気付けば、私は玄関で靴を脱いでいた。スーツも脱ぎ、部屋着に着替えるや否や、私はすぐにベッドへ倒れ込む。疲れるような事は何もしていない筈なのだが、家に帰ると何故か私はくたくたに疲れ果てており、何もする気力が無いのである。そのまま、眠るでもなく起きるでもなく、ただ黙って静かに過ごす。宙ぶらりんな自我。
私は横たわりながら、部屋の窓を見る。開け放たれた窓の外から、大きくて黒い虫が部屋の中に入り込んでくるような、そんな気がする。とても大きい、人間の子供くらいの大きさの巨大な虫が、黒々とした羽を小刻みに動かしながら、ぶぶぶぶぶ、と低い音立てて入ってくるかもしれない。そしたら、とても怖いし、困る。私は、虫が大嫌いだ。
布団を頭から被って、別の事を考えるようにした。ただ、性的な事を。
夜、外出。
気付けば、私は家を出て夜の街を歩いていた。体がだるくて、頭がぼーっとする。
性欲があるから、私は生活できるのだ、と自覚した。それが一時的に解消された今は、もぬけの殻。何にも、無い気がする。
ふらふらとした足取りで私はファーストフード店に入った。店内は割りと混雑しており、話し声や奇声が絶えず、騒然としていた。
ぎとぎとのフライドポテトは、一口食べて、美味しかった。二口食べて、不味かった。
食べ終えて、タバコに火を着けて一口吸ってから、灰皿がテーブルの上に無い事に気が付いた。飲みかけのコーラに灰を落とす。皿でもコップでも、そこに灰を落としてしまえばそれは灰皿になる。
それにしても、ここに居る客は、何故ここに居るのだろう。食べ終えたら帰ればいいのに。帰るべき場所が、無いのだろうか。私の帰るべき場所は、どこだろう。
視線を上げると、空中に人の顔が浮かんでいた。見覚えがあるような気がしたが、誰だか思い出せない。どうにかして思い出そうとしたが、出てこない。虚無な気持ち。
近くのテーブルで、二人の女子学生が向かい合って勉強をしている。
会話が、聞こえる。
「ポジティブは?」「プラス」「ネガティブは?」「マイナス」
"エス"へのコメント 0件