Natural Born Fairies ~織田作之助について④~

九芽 英

エセー

4,746文字

70年の時を経て、オダサクは火の鳥の如く復活を遂げようしています。「文豪ストレイドッグス」、「文豪とアルケミスト」でその名前が知られ、電子書籍によって作品が身近になりました。これは本当に10年前では考えられないことです。僕の個人的な感覚ではなく、瀬名秀明の文章を見てもそれはお分かり頂けると思います。今は大きなチャンスと言えるでしょう。あとはあなたが作品を読むだけです。

【織田作之助の戦後】

既に述べたように織田作之助の戦後の活躍は太宰治に匹敵するか、あるいはそれ以上にもてはやされたなどと、現状を見れば全く想像できないものであったようだ。もう少し詳しく見てみる必要があるだろう。

 

伴悦氏が「織田作之助論」で、

 

「いわゆる切り死のような死を死んでいった織田作之助にかぎっても、「無頼派」の中でも一番手であり、その点からすれば戦後にのこされた活動期はたったの丸一年七ヵ月に過ぎない、まことに短いものであった。しかしこの短時期にかれの作品の約半分が、かかれていたのである。その質においても、必ずしも戦前の作品と一様に論ぜられないものがあったはずである。」

 

と指摘しているように、戦後の織田作之助はとにかく多作、矢島氏が言うには、昭和二十一年の作品数を比べると織田作之助は太宰治の三倍くらい書いている、というほどだから実に恐ろしい。まずは数の上で圧巻であるが、その作品の質はどうだったのか。

 

前出した稲垣氏の著書には、

 

 「その年(昭和二十一年)の三月、彼は、戦後発刊された新雑誌の中でもずいぶん目立った登場の仕方をした『新生』に短編「六白金星」を発表し、その好評もあって、太宰治や坂口安吾に伍して花形作家への階段を登りつめて行く。四月下旬からは『京都日日新聞』に「それでも私は行く」を連載し、次いで五月下旬からは『大阪日日新聞』に「夜光虫」を連載するなど、目まぐるしい多忙な日々が続く。」

 

とあり、さらに同氏によると、なんでも、闇米が一キロ五十円、公定価格で二円五十銭、中堅サラリーマンの月給が千円見当の時代に、『それでも私は行く』の稿料は当時破格の一枚七十円で、一回四枚分として一回二百八十円、一ヵ月で八千円あまり。さらに、『新生』の編集者は、永井荷風日記が掲載できるなら一枚七十円の稿料を出すが、織田にはもっと高い稿料を払う、とも言ったそうだ。

 

稿料、すなわち商品価値をしても、当時のオダサクはまさに超一級品である。主だった作品を挙げてみるだけでも、『アド・バルーン』、『世相』、『競馬』。これらの短編は、戦中の作風の延長線上にある作品と考えられるが、このような短編で人気を博し、圧巻なのが『それでも私は行く』、『夜の構図』、『夜光虫』、『冴子の外泊』、『恐るべき女』、『土曜夫人』といった、新聞、雑誌連載小説群である。一日何枚書いているのか分からないくらい多数の連載を抱えながら、これだけの作品を一年半、いや、昭和二十年はあまり活動的でなかったことを考えれば一年に満たない期間に書いたのである。しかし、これらの作品のタイトルを聞いてピンと来る人が、世の中にどれだけいるだろうか。現状を憂うのは特にこの点にある。

 

 まさに「一身にして二世」というように、織田作之助は二人いたのだ。一人は、既成の文学を追従する事を強制され、酷評の嵐を受けてジレンマに陥り、既成の文学に対するアンチテエゼを抱きながら、作品を書いては叩かれ続けた、言わば飛び立ちたいと思いながらも、どうすれば良いか分からず、カゴの中で虐待され続けたオダサク。汚らしいと評判のその鳥は、『夫婦善哉』と名付けられた。

 

もう一人は、時代の変化と読者という二つの味方をつける事で圧迫から解放され、今までの人生を取り戻すかのように、世のあらゆる人の目にも触れるほど自由に飛びまわったオダサク。人々はその羽に破格の値をつけたが、長期に渡って過酷な生活を強いられたその体で、誰よりも高く飛びすぎたが故に、イカロスの如くやがて死んでしまった。墓には『夫婦善哉』と刻まれ、今ではもう誰も覚えていない。仮に、二匹の鳥の飛んだ距離が同じだとしても、我々はどちらの飛翔を重んじるべきか。

 

太宰や坂口と同じ大地に立つことが出来たのも、その原稿に破格の値が付けられたのも、戦後の活躍があってこそ。それどころか、カゴを飛び出したオダサクは、例え短い期間といえども太宰や安吾よりも高く飛んでいたのだ。そんなオダサクにとって、芥川賞候補や文芸推薦にどれだけの価値があると言うのか。この二つの看板だけで、人々の記憶に残ることが出来たかどうか。自由に羽ばたいた時期があるからこそ、今でも思い出す人がわずかに残っているのではないか。

 

名前を付けたのはいったい誰なのだろう。かごを飛び出した瞬間から、オダサクは野生、あらゆる読者のものであり、銘々が好きなように呼べば良いではないか。そうなれば、戦後の作品群が代表作になることは目に見えている。例え名付け親にとって、分かりやすい名前だとしても、名づけた鳥は他にいくらでもいるわけで、いつまでもこの鳥は『夫婦善哉』だと主張し続けるのは如何なものか。昔も今も誰もそんな名前には大して興味がないのだから。それよりも、人々を魅了した一瞬の飛翔を伝え続ける方が、名前のない墓に人を呼び寄せる事にもなろう。私が墓参りをしたのは随分と遅かったようである。

 

しかし、何度も言う通り、戦後の作品を読むためには図書館の倉庫の隅に追いやられた全集に当たるか、国会図書館に出向き初出の雑誌を取り寄せるしかない。あるいは神保町に寄れば単行本がまだ手に入るかもしれない。僕は絶筆となった『土曜婦人』の初版本だけは持っている。そういう状況を考えれば、『木の都』ですら出会えたことは奇跡とも言えるだろう。

 

とはいえ、『虹の天象儀』から時代は進み、今は違う。そう、電子書籍の登場だ。オダサクの岩波文庫なんて書店では見たこともないが、電子書籍でなら太宰治の『トカトントン』と同じようにいつでも手に入れることが可能だ。そして、新聞・雑誌連載の作品も全てではないが「青空文庫」で読むことができる。僕の大学時代には全集からコピーするしかなかった『それでも私は行く』、『夜の構図』、『夜光虫』、『土曜婦人』が、今では誰でもタダで読むことができるのだ。もはや、『夫婦善哉』という看板は必要ない。技術の進歩によって、オダサクは電子の世界を駆け巡り、大きなチャンスを得たのだ。70年という時がオダサクを蘇らせたのだ。あとは銘々が好きな名前を付けて、伝えていくだけである。

 

瀬名秀明の、

 

「だが実際に読んでみて、初期の短編は面白いと私は思った。(中略)終戦後は新聞や雑誌の連載を何本の抱え、太宰治や坂口安吾を凌ぐ勢いの人気を誇ったということも後で知った」

「その連載小説を、私は以前に全集を借りて読んだことがある。「夫婦善哉」とは似ても似つかない、ただのつまらないメロドラマだった。行き当たりばったりで、完結しても到底歴史に残るような作品にはなりえないと感じた。「土曜婦人」だけではない。終戦から喀血で倒れるまでの間に書かれた小説は、ほとんどがただ勢いだけの、自分の経験を適当にフィクションに脚色するだけの荒れた代物だった。」

という文章も大事な意見として章の末尾に伝えておこうと思う。

【織田作之助の小説】

 では次に何故、織田作之助が戦後、誰よりも早く、これほどまでに活躍する事ができたか。敗戦を境として、彼にどのような変化があったのか。

 

簡単に言えば表現の自由。何でも自由に書くことが出来るようになったということだろう。しかし、これは特別に彼だけが自由に書けるようになったわけではなく、どの作家にとっても同じ条件であったはずである。だが、その中でも織田作之助は特に思い入れのない『夫婦善哉』によって決して歓迎されない看板を立てられ、このまま文学史に名前を残すことなく消えてしまうのではないかという状態から、あっという間に太宰や坂口と盃を交わすほどの存在になったのである。織田作之助という人間ほど、この自由を歓迎し、それこそ真の意味で命をかけてまで謳歌した作家はいないはずである。

 

「七千四百万の人間が今や七千四百万の口を、各自取り戻した。即ち、言論の自由だ。七千四百万の口は、こと食糧に関する限り、不自由をかこつことになるが、しかし、こと言論に関する限り、もはや些かの不自由もない。(中略)いわば、今日ほど、独自の意見というものにとって、恵まれた、自宣に適った時代はないのである。しかるに、われわれが現代の日本に見るのは、独自の意見の、実に呆れ果てた貧困さである。言論に関する限り、独創は今や地を這い、個性は埋没してしまっている。」(『最近の日本文学』)

 

これは名文だ。今や日本は一億二千七百万の口が、食糧に不自由することなく生まれながらにして当たり前のように表現の自由を有しているが、オダサクの危惧は現代にも通用するものでもあるだろう。僕達は70年間オダサクの言葉を伝えることができなかったのだから。

 

 森安理文氏が、「自分の小説の手の内を、あけすけに語った作家はあまりないが、私の知る限りにおいては、織田と堀辰雄ぐらいである。」と指摘するように、オダサクは文学についてよく語る人であった。その量は、本来なら語られる立場の作家でありながら「近代文藝評論叢書」のラインナップに彼の名前が並んでしまうほどであり、「定本織田作之助全集第八巻」に至っては、もはや丸々一冊「織田作之助文学論集」と言ってしまって差し支えないほど。織田作之助を調べるうえで、これはとても幸運なことであり、注目しない理由はない。

 

しかし、作品を発表するたびに「げす、悪達者、下品、職人根性、町人魂、俗悪、エロ、発疹チブス、害毒、人間冒涜、軽佻浮薄などという忌まわしい言葉で罵倒され」続けて来たオダサクが、どれだけ文学論を振りかざしたところで「いやみな自己弁護」と思われてしまうのであろうか、『可能性の文学』以外は、大作『西鶴新論』や、『可能性の文学』の前書きにあたる『二流文楽論』がわずかに話題に上がる程度で、それ以外の数多くの評論は話の種にすらなっていない。オダサクが戦後の活躍に至るまでの「叫び」を全く無視するとは、なんとももったいない話ではないか。

 

 確かに『可能性の文学』という評論は、彼が書いた数多くの文学論のうち最後に書かれたもの、というだけでも特別な位置にある。さらに言えば、織田作之助という当時の大流行作家による文壇批判と新しい決意という衝撃的な内容を含み、その命と引き換えに日の目を見ることになった作品ということになるわけだ。例えるならば、民衆の支持を得た英雄が旧体制に切りかかって見事に散ったようなものであり、その当時文学に携わっていた者からしてみれば『可能性の文学』は、無視することの出来ない内容である以前に、ひとつの「事件」であったと言ったほうが良いのであろう。興味があろうとなかろうと何かしら書かざるを得ないことは、容易に想像できるかと思う。その衝撃は我先にと発表された『可能性の文学』に言及する論文の、雨後の筍ぶりからも明らかである。

 

すなわち「可能性の文学」という言葉は、生みの親の輝かしい活躍や、その突然で劇的な死という要素を吸収して、織田作之助の文学すなわち『可能性の文学』と言ってしまっても過言ではないほど、巨大な最後の一花を咲かせてしまっているのである。その一方で、生まれた当初から執拗なネグレクトを受け、ろくな栄養を与えられなかった他の文学論が、芽を出すどころか埋もれたままの姿で、もはや目に入りすらしないのも、無理のない話であるかもしれない。

 

織田作之助の戦後の活躍の秘密を探る前に、次は『可能性の文学』の正体を明らかにする必要がありそうだ。

2017年1月17日公開

© 2017 九芽 英

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