素御(すみあ)は、寝台にいた。眠っているようで眠っていないような、そんな作法を素御は持っていた。素御は夢を見ていた。
白い角を持った鹿の胎内にいる夢を。そこには、牡丹が落ちていて、葉は緑に繁っていた。牡丹一つだけが白く輝いていた。素御は鹿の胎内でそれを取り上げると、ランプ代わりにして、鹿の胎内を廻った。胃には牡丹が落ちて、葉が生い茂っていたが、肝臓に入るとそこは真暗闇であった。真暗闇の中にも何かある。牡丹であった。一つずつ続いていく。牡丹が行く先を照らし出してくれているのだ。素御は持っていた牡丹を肝臓の床に置き、歩き出した。
肝臓を歩いてゆくと、その先にはまた草木が生い茂った場所が見えた。少し明りが見えてきたと思ったら、それは小腸の方からであった。小腸には未だたどり着かないが、灯りだけが見えた。草木をかき分けると蜜柑がなっていた。素御は喜んでそれを食べた。透き通った味がして。素御の髪は長く黒い艶を出した。
小腸から差してくる光の方へ行くと、突然睡魔が素御を襲った。素御は小腸の始まりの柔らかな襞の中で眠った。素御は眠りの中でも眠る。
目が覚めると小腸から漂ってくる甘いパンの香りに食欲を絆された。
鹿の小腸では熊がパン屋をやっていた。素御は「固いパンを」と言った。熊は困った顔をして、
「ここには固いパンしか置いてないんだ」と言った。
素御は「その中でも固いパンを」と言った。
「じゃあこれだね」熊はそう言って、灰色のパンらしきものを取り出した。香りは間違いなくパンだった。素御は握り拳程度のそれを熊から受け取ると、大きく口を開けて、それを前歯で受け止め、犬歯で噛み砕いた。それは例えようもなく甘いパンだった。熊のパン屋は「今日はもうしめえだよ」と言って、素御の頭をポンポンと優しく叩いた。素御はそれに応えるように熊の爪を甘噛みした。熊は「よしよし」と言うと、腎臓の方へ消えて行った。
素御は小腸から大腸の方へ向かった。小腸の明りは小腸の終わりに向かってどんどん大きくなっていった。やがて一面が明りに満ちた。
大腸の入り口まで来たのだ。大腸の入り口は太陽のように明るかった。
大腸に入るとそこは柔らかい土があって、その上で兎たちがダンスをしていた。
素御は兎たちのもとに駆け寄った。
一羽の兎がステップを踏んでみせて、素御に「これを、こう」と手取り足取り教えた。
素御は兎の白い毛が眩しくなってきて、目を閉じた。手と足だけが動いていた。
次第に素御は眠くなってきた。
「ワンツ、ワンツー、ワンツー……」
兎の声だけが遠くに聞こえていた。素御は踊りながら眠ってしまった。そして素御は踊りながら夢を見た。眠りながら夢を見ると云うこともあるのだ。
夢の中で素御は僕と一緒にいた。素御は僕の前で手で円を描いてみせて、莞爾として笑った。僕は素御が描いた宙の円の中に手を差し出して掌を開いて、赤いパンジーの花弁を素御に見せた。
「ほら、これが宇宙の欠片だよ」と僕は言った。
素御は少しためらった後、宙でぶらついていた手を僕の掌の上のパンジーの一点に定めて動かして行った。やがて両手の焦点が赤いパンジーの一点に集って、僕の掌の上に素御の両手が置かれた。素御は赤いパンジーを包み込むようにして手に取った。赤いパンジーの花弁は素御の手の中に移った瞬間に弾け、バラバラになった。赤い花弁が素御が広げた両の手の中で解けた。
素御は「あら……」と言ったきり口を噤んでしまった。僕は白けるのは不味いと思ったので猫の物語を話すことにした。
「ある所に一匹の貧しい猫がいました。食べ物はいたるところにあるのに、お金がないのでそれらが買えないのでした。猫は鼠にすらからかわれました。猫はますます痩せ細っていきました。しかし、ある雨の日に鶲(ひたき)にからかわれた時には、さすがの猫もイラっとして、自分で魚を採りに行くことにしました。魚を採るのは簡単なことではありません。まず猫は水に濡れることが苦手です。だからまずは水に慣れることからしなくてはなりません。猫は着ていた服を脱ぎ、ひと思いに川の水に飛び込みました。川の水は綺麗で澄み切っていました。全身が濡れてしまったので猫にはもう怖いものはありませんでした。手近にあった小石を拾い上げて、こっちに向かって泳いできた魚に向かってぶつけました。魚は死んだふりをして川の底に横たわりました。猫は狂喜して魚を河原まで引き上げました。そうして猫は魚を焼くための薪を探しに森へ行きました。その間にさきほどまで死んだふりをしていた魚は尾鰭をばたつかせて河原から川に飛び込みました。猫が戻ってくるとそこには何も居ないのでした。猫は悲しくなって夜空を見上げました。夜空には星が瞬いて、猫は涙を流しました。すると同時に流れ星が夜空を流れてゆきました。猫はこう願いました。「明日は魚が採れますように。」その願いを聞き届けたかのように、星は消える間際に強く光りました。猫は感謝の念に震えながら、また、泣きました。猫は眠りました。猫は焼きたての魚を食べる夢を見ました。目が覚めて起きると、お腹の中に魚がいるのが分かりました。猫は咀嚼できなかったことが残念でなりませんでした。猫は大きく欠伸をして、お腹の中にいる魚に話しかけました。
「君はどうやってここまできたのかい?」
魚は答えました。
「天使が弓矢を放って、それが僕に刺さったんだよ。天使は僕を貫いた矢を抜きながら言ったんだよ、あなたはあの猫の胎内に入るんだって」
猫は考えを新たにし、天を仰ぎながら舌をべろんと出しました。」
素御は僕の方を見て、舌を出して見せました。僕は素御の舌を人差し指と親指で挟んで───
素御は夢から覚めました。
目を開けると素御はまさにダンスをしているところなのです。兎たちと一緒になって輪になって踊っていました。
「ワンツー、ワンツー、ワンツー」
「ワンツー、ワンツー、ワンツー」
「ワンツー、ワンツー、ワンツー」
素御は陽が暮れるまで、そこで踊りあかすことにしました。大腸の光は未だ太陽の様に明るかったから、当分陽が暮れることはないように思いました。
素御はしばらく踊った後、少し疲れてきて、ふと不思議になって兎たちにこう問いかけました。
「ワンツー、ワンツー、この世界の太陽は沈むことがあるの?」
すると一緒に踊っていた兎の一羽が答えました。
「ワンツー、ワンツー、太陽が沈むことはないよ、夜が来ることはあるけどね」
「ワンツー、ワンツー、それはどう云うことなの?」
もう一羽の兎が答えました。
「じきにわかることさ、ワンツー、ワンツー……」
その後も素御は兎たちと輪になって踊り続けました。
「ワンツー、ワンツー、ワンツー」
「ワンツー、ワンツー、ワンツー」
「ワンツー、ワンツー、ワンツー……」
一羽の兎が突然叫びました。
「スリー!」
すると他の兎たちも踊るのを止めて騒ぎ出し始めました。
「夜がくるぞ」「くるぞ」「夜がくるぞ!」
夜がきました。太陽は確かに沈みませんでした。夜が厳かにやってきたのです。
兎たちは柔らかな土の上に横たわりました。そしてすやすやと寝息をたてて眠り込みました。
真暗になって素御は困り果てました。暗闇は塊でした。それがどんどん空を覆っていくのです。素御のところまでその塊が迫ってきました。素音はあわてて小腸の明りが見えるところに向かって逃げました。柔らかい土に足をとられながらもやっとのことで素御は小腸まで辿り着きました。
小腸に入ると熊がパンを並べていました。素御は息を切らして熊に言いました。
「夜が、夜が、来たのよ……」
熊は平然としてこう言いました。
「夜はどこにだってくるものだよ。それに、夜になったから俺は店を始めたんだ。それにまだここには来ないだろうよ」
熊は「ちょっと待ってな」と言うと懐からコーヒー豆を取り出して鍋でコーヒーを煎れると、「ほら」と言って素御にコーヒーを手渡しました。
「これでも飲んで落ち着きなよ」
素御は陶器のマグカップを受け取ると、コーヒーを一口飲みました。コーヒーはほど良い苦みがあって上質な食パンのような甘みがしました。熊はコーヒーを自分のマグカップにもついで一口飲むと、こう語りだしました。
「さっきも言ったけどさ、夜はどこにだってくるものなんだよ。もっと言えば誰の上にだって来るって云うかな。だから夜を怖がる必要はないし、それに夜が来たら兎たちみたいに眠っちまえば良いのさ。もっとも俺は夜になったら商売を始めるんだけどな。俺が夜になってから商売を始めるのは、あんたみたいのが必ず夜になると現れるからさ。夜がここまで来たら店を違う場所に移さなきゃいけないが、映るとしたら胃だろうな。ここは明るくってあんたみたいのも見つけやすくって良かったんだがな。まあ要するに対価はきっちり払ってもらうってことよ」
素御は恐る々々尋ねました。
「対価って……何を?」
熊は当然と言わんばかりにこう答えました。
「そりゃあんた『眠り』に決まってるじゃないか」
「眠り?」と素御は聞き返した。
熊は答えました。
「そうだよ眠りさ。俺たちは君らにパンを供給する代わりに眠りをいただくってわけさ」
熊は片手をぎゅっと前に出すともう片方の手で、自分の顔を指し示してみせました。
熊は舌をべえっと出しました。素御は一瞬戸惑いましたが、自分もそうすれば好いのかと思い、舌をべえっと出しました。熊は片方の突き出した方の手で素御の舌を掴むとそのまま引っこ抜きました───
素御は寝台の上で目を覚ましました。シーツは綺麗なものでした。僕は傍らにいて
「素御、うなされていたみたいだったけど大丈夫?」と訊きました。
素御は平静を装った格好で、
「大丈夫よ、うん、なんともない」
と答えました。素御は白いシャツに紺色のジーンズを履いていました。
僕は素御のそばに寄って囁きかけました。
「外を見てごらん。草原が一面に広がっているよ。白い馬もいる。彼らがこの世界の欠片なんだ。」
素御は遠い目をして草原を眺めました。素御はある一点に目を定めると、こう言いました。
「私、あの白い馬に乗ってみたい。」
僕はすぐに首肯して、
「好い、好い、とっても好い思い付きだよ、素御。すぐに乗りに行こうね」
と言いました。
僕は伏していた素御の肩を抱きかかえると持ち上げて座らせました。
そこにあるものは何でも白かった。壁も白かったし、床も白かったし、シーツも白かった。全てが清潔だった。ただ窓だけが透明だった。素御のジーンズの紺色だけが際立って見えました。素御はシャツのボタンを上から三つまで外して
「暑いわ、暑いわ」と言いながら、手で胸元を扇ぎました。
僕は「暑いね、暑いね」と言うと、一緒に素御の胸元を扇ぎました。
素御の鎖骨のくぼみにはつぶつぶの汗が溜まっていました。溜まっていた汗の一粒が鎖骨のくぼみから溢れ出して素御の胸元に落ちてゆきました。
素御は「あ、」と言った切り口を噤みました。
僕が「白い馬のところに行こうよ」と言うと、素御は我に返ったように居住まいを直し、
「暑いわね」
と一言呟きました。僕はその一言にはっとして素御の人差し指を撫でました。素御は指先を人魚の様に軽やかに伸ばすと、小さく欠伸をしました。
僕と素御は白い戸を開けて、白い馬に近づいていった。白い馬は僕らから逃げるようにカタコトと蹄を鳴らして二、三歩後ずさりをした。僕は白いワンピースを着ていた。僕と素御は白い馬を追ってゆきました。僕と素御が一歩ずつ白い馬を追うごとに、白い馬は一歩ずつ後ずさりをしてゆく。
するとそこに草原の奥の方から白い角を持った鹿が走ってきた。白い角を持った鹿が白い馬に近寄ると、白い角を持った鹿と白い馬は互いを愛撫するようにからだを擦り付けあった。
素御はただ一言「綺麗ね」と言った。
僕は素御の手をとって、白い角を持った鹿と白い馬の方へ歩いて行った。僕と素御が近づいてくるのに気が付くと、白い角を持った鹿と白い馬は互いを愛撫するのをやめて、じっとこちらを見つめてきた。僕と素御は草原の十センチほどの草を足でかき分けて白い角を持った鹿と白い馬の方へにじり寄った。その刹那、素御の頬から一滴の汗が流れ落ち、草原にポトンと弾ける音がしじまの中に響いた。風の音すらしなかった。時がそこで止まった。白い角を持った鹿と白い馬は、動きを止めて、僕の心臓の鼓動と素御の呼吸の音だけが聞こえていた。
止まった時の中に何か動くものがいた。白い角を持った鹿の眼(まなこ)である。その眼(まなこ)は光を放っていた。素御の汗───一粒の汗───に光が差し込んでいって、それから時が動き始めた。
白い角を持った鹿の腸のあたりが膨らみ始めた。草原の中でそれは異様な光景であった。白い馬は、懊悩して、愛撫するのをやめた。素御に目をやると、素御は目を大きく見開いて血を吐いた。
「どうしたんだ!」と僕は叫ぶと素御の方へ駆け寄った。
それと同時に白い角を持った鹿の体が破裂した。素御は血を掌に溜めて眺めていた。
「綺麗ね」
白い角を持った鹿は肉片となった。白い馬はその肉片の周りを喪に服すように歩いていた。
僕は素御の腕をつかんだ。
「嫌!嫌!」
素御は叫んだ。
「嫌!嫌!」
僕は途方に暮れて、
「何がそんなに嫌なんだい」と訊いた。
「あなたはこの綺麗な血を川で流してしまえと言うのでしょう。私はそれが嫌なのよ!」
僕は応えた、
「そうでもしないと、君の血は拭えないじゃないか」
白い馬がこちらにやってきて、素御の肩を鼻でつんと突いた。素御は振り返ると、白い馬に両手を差し出した。白い馬は素御の掌の血を舐めて飲んだ。素御はされるがままになっていた。白い馬は素御の血を舐め終えると、満足そうにヒヒーンと鳴いた。素御は、よくやった、と云うように、馬の鬣(たてがみ)を血で濡れた手で撫でた。白い馬の鬣(たてがみ)は赤く染まった。
僕は言った。
「ね、素御、行こう、川へ行こう」
素御は頷くとこう言った。
「私、手を洗うわ。川に行きましょう」
僕と素御は白い馬に乗って草原を駆けた。素御は僕の後ろに座って僕の肩にしがみついていた。途中で白い羊に会った。白い馬は白い羊の前で立ち止まった。素御は白い馬から降りると白い羊を撫でた。白い羊の毛は赤く染まった。
僕の白いワンピースも肩のところが赤く染まっていた。
赤く染まった白い羊は素御に撫でられるままになっていると、「メェ」と鳴いた。素御もかがんで「メェ」と返した。僕は白い馬を降り、素御の横に胡坐をかいて座り、「メゥ」と言った。すると白い羊は怒ったように口を開けて「メェ!」と鳴いた。僕は羊の頭を撫でると、
心臓から魂を取り出しました。僕は空虚になりました。僕は虚ろな瞳で魂を素御に手渡すと、また「メゥ……」と呟きました。羊の頭部が眼前に迫った刹那、羊の口が開くのが見えました。
僕の目の前はすっかり真暗闇に包まれました。僕は自分が眠りに落ちたのを悟りました。
僕は白い羊の胎内の開いた部屋に入りました。開いた部屋はほとんど空洞の様でした。僕はここはどこか知らんと思いました。たぶん胃の中だろうと思いました。羊が食べた草原の草が入っていたからです。
僕は羊の胃の中の草原に横たわりました。僕は「世界の終わりが来たんだな」と独り言ちました。僕がしばらくそうしていると、真白に輝いた何かが近づいてきました。何かな、と思って、よく見てみるとそれは羊でした。真白に輝いた羊がこちらに近づいてくるのです。ゆっくりと。しかし確かに近づいてきます。あと一メートルと云ったところで真白に輝く羊は立ち止まって、
「そんなところで何をやっているんだい」と僕に訊きました。
僕は「世界の終わりが来るのを待っているのさ」と答えました。
羊は、「そんなところに寝転がってたって世界の終わりは来やしないよ」と言いました。
「じゃあ、どこに行けば世界の終わりが来るんだい」と僕は尋ねました。
羊は、「君が眠りから覚めたときさ」と答えました。
「眠りから覚めたとき?それは一体いつ、どこで来るんだい」と僕は尋ねました。
「さあね、そこまでは分からないよ、ひとまず君は一服すべきだね」と言って、羊は手に持った五センチ四方の紙で草原の草を丸めだしました。
「マッチもあるから、ほらよ」と言って真白に輝く羊は背中の毛の中からマッチを取り出して、僕に渡しました。僕はそのマッチを使って羊が巻いた煙草に火をつけました。煙草は甘い香(か)がしました。これはちょうど白い薔薇の香りのようでした。
「甘い……嬉しいなこれは」と僕は再び独り言ちました。
「この葉では紅茶も淹れられるんだ」と羊は言って、腹の毛の中からポットとマグカップを取り出しました。羊はポットに葉を入れてマグカップの中の水を注ぐと草原の葉にマッチで火をつけて、その上にポットを浮かせました。
真白に輝く羊はポットに火を翳している間、次の様な話を聞かせてくれました。
「昔な、すごく早起きの猫がいたんだよ。そいつは団地の隅に住んでいてな、誰よりも早く起きては───午前三時くらいだぜ。春も夏も秋も冬もな───皆を叩き起こして回るんだ。一階から十階の家(うち)ぜんぶをな。尖った爪で鍵を抉じ開けるんだ。お陰様で四年経った頃にはぜんぶの家(うち)の扉に板張りがされたって始末さ。住人たちは皆、家(うち)の外側の窓から外に出ていくのさ。四階くらいの連中はまだ良い方だよ。梯子をかければ良いんだからな。問題は十階とか九階の住人さ。そこら辺の住人は、四階とか五階まで梯子をかけて、窓を叩いて言うんだ。コンコン、どなたかいらっしゃいませんか?梯子をもう一個かけて欲しいんですってな。いなかった時には、そりゃまあ大惨事だよ。何せ宙ぶらりんの状態で笑ってなきゃならないんだからな。そりゃもう笑ってなきゃやってらんないよ。何せ宙ぶらりんだからな。猫はその様子を見て大笑いさ。住人も笑って猫も笑って平和なこったね。え?その後猫がどうしたかって?そりゃ決まってるだろう。十階まで届くように、竹で昇りを拵えたんだよ。それでな、今度は家(うち)の外の窓から出入りができるようになったってんで、団地の隅から隅まで掌握しちまって、ぜんぶの住人を午前三時から叩き起こして回ったんだよ。え?それでどうしたって?そりゃまあ住人は皆団地から出て行ったよ。どう云う訳か引越しの日にゃあ、住人総出で大笑いさ。まあそんな笑いも月日が経つごとに小さくなっていってなあ、結局最後の一家が団地から出て行って、猫は独りぼっちになっちまったわけ。そんときの猫の顔と云ったらなかったな。キャベツ萎びたような面していやがったぜ。最後の一家は老夫婦とその孫でなあ。佳一君と云ったかな、早くに両親を病気でなくして、可哀相な子だったが、最後に猫が見たのは佳一君の笑顔だったと思うぜ。おっとポットが茹で上がっちまった」
そう言って羊はポットを火の上から退けると、マグカップに紅茶を注いで僕に渡した。僕はそれにふうふうと息を吹きかけては飲んだ。
「渋い……何だこれは」と僕が言うと
羊は得意そうに、
「良薬口に苦しってやつさ」と言った。
「なるほど、で、佳一君はどうして笑ったんだい」と僕は尋ねました。
「そりゃあ、さ、最後に出るときにポストを見たときにさ、広告が挟まっていてさ、その広告がある物件の広告だったんだよ。その間取りがさ、ひょろ長かったのよ。佳一君は建築を学んでいたからさ、それがどうにも可笑しくて笑ったんだよ。
「何だ、そんなことか」と僕は呟いた。
なんだか目が回ってきた、と僕は考えながら、羊に、
「お前これに何入れたんだ」と訊いた。
羊は「さっきお前が吸った煙草と同じもんだよ」と囁いた。
目が回る、回る、回る。視界の奥に閃光が迸る。水の下を詩が走る。側を猫が走る。あっ、独りぼっちの猫だ。フリップクロックのタイルがパラパラ捲れる。インク壺から真黒なインクがこぼれる。電流が血の色になって壁から垂れる。その電流を伝って蔓が昇ってくる。黄金の精液がその蔓に絡みつく。眠りが素御の勃起を鎮める。泥の様な朝が西から昇ってくる。視界の隅で真白に輝く羊がライターを持っているのが見える。何だ、あいつはライターを持っていやがったのかと僕は頭の中で呻く。また真白に輝く羊が僕の視界の窓を通り過ぎる。美味しそうにマグカップに入れた紅茶を飲んでいる。彼の身体には何の変化も起きないらしい。再び非現実の床に跪かされる。青い糸がアスファルトの上を蠕動している。カーステレオがタイプライターの音を鳴らす。その音の上を蛙が滑る。胃痛が肉の欲を掻き鳴らす。再び水の下を詩が通る。その詩にはこう書いてある。
「汝が永遠の眠りから覚めんとするとき、その日は世界の終わりの日だ。故に汝は目覚めてはならぬ云々……」
古い焦げ茶のボストンバッグが白い部屋に置き忘れられている。あの白い部屋は今朝僕と素御が居た部屋だ。あの真白い部屋に焦げ茶のボストンバッグなどあっただろうか。僕は思い返してみるが無い。扉が開き黒ずくめの男が入ってくる。黒ずくめの男はボストンバッグを取って扉の外へ出て行く。これはあの真白な部屋の記憶だ。ストロボが焚かれて僕は再び非現実の王国に引き戻される。弓から矢が放たれて白髪の老婆に当たる。一本の白髪がはらりと落ちて粉々に砕ける。ライオンの二つの眼球の内の一つが落ち、キャッサバの木が青く燃える。そこに彼(あ)の人マッチ箱を放り投げる。ぼう、と云う音をたてて、キャッサバの火が高く燃え広がる。
クエン酸が分子崩壊をして海の中に拡がる。僕は呟く。
「あれが宇宙の欠片だよ」
僕はミートソースを飲み込む。坂を自転車が後ろ向きのまま下っていく。独りぼっちの猫が僕を見つめている。ランプから光が漏れ、その光が煙を透かして、独りぼっちの猫を照らす。独りぼっちの猫の側には佳一君がいる。何で僕は彼を佳一君と分かったのだろう。そうか。これは夢なんだ。夢だから佳一君が分かったのだ。独りぼっちだった猫は独りぼっちじゃなくなった。佳一君は呟いた。
「おやすみ。」
目が覚めると素御が僕の魂を持って立っていた。僕の魂は妖しく光って血染めの素御の手を照らしだしていた。白い羊が背中を赤く染めたまま僕の方に近づいてきて「メゥ」と呟いた。僕の白いワンピースは赤く染まったままだった。白い馬が近づいてきて、僕の魂を素御の手からとって食べた。
素御が「さあ」と言って虚ろな瞳の僕を白い羊の前に誘(いざな)った。白い羊が舌をベロンと出し、僕も舌をベロンと出した。いつの間にか森の奥深くに来ていたんだなと僕は気づいた。白い羊の舌と僕の舌を重ね合わせると、
白い馬が僕の舌と白い羊の舌を噛み切りました。僕と羊の舌からは血が溢れだし、草原を夥しく濡らしました。僕と羊は声が出せなくなりました。素御だけが声を発していました。
「ここにいるのは宇宙の欠片、魂のない者たち……」
僕は呆然と立ち尽くしていました。森の木の葉が薄暗く見えました。夕暮れがやってきたのだな、と思いました。素御は続けました。
「今にも倒れようとしている者たちよ……」
羊はすでに絶命していました。僕はかろうじて意識を留めていました。真白な羊が草原に横臥しているのが見えました。素御は続けました。
「魚を丸呑みにした猫にひれ伏せ。あの猫は昔独りぼっちだったのだ。しかし、佳一と云う友を得て独りではなくなった。だが佳一は引っ越しで生き別れ、猫は再び独りぼっちになった。誰もいなくなった団地から出た後はあちこちを転々とした。身なりも貧しくなった。だが、天に願いをかけて心を新たにしてからは、胎内に魚と云う友を得たのだ。さあ、皆の者、あの猫にひれ伏せ」
僕はすでに微睡み、草原に這い蹲っていました。空は赤く染まり、星々が輝きだしました。僕は途中で切れた舌をべろんと出しました。
素御は「手を洗いに川へ行ってくるわ」と言うと、赤い鬣(たてがみ)の白い馬に乗って、森のさらに奥へ駆け出しました。僕は閉じかけた目を遠ざかってゆく素御はの方に向け、やがて素御が見えなくなると、草原に寝ころびました。赤い空には星々が瞬き、僕はそっと目を閉じました。その刹那、空に流れ星が燦然と流れているのが見えました。
僕はこう願った。
「素御の手が清められ、世界の終わりが確かに来ますように」と。
僕は夢から覚めた。そこは真白な寝台の上だった。素御が白いワンピースを着て傍らに立っていた。
「佳一君、佳一君、と言ってうなされていたけれど、何か悪い夢でも見たの?」と素御は僕に訊いた。僕は何も答えなかった。答えたくなかった。僕はもう二度とどんな問いにも答えまいと自分に誓った。
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